いつものジントニックを【双i黒→国】 大人の男というものは、行き付けのバーのひとつやふたつはあるものだ。
このバーは最近開拓し、主にプライベート用として通っている。
照明を落としたウッド調の店内は、カウンターと二人掛けの小さなテーブル席が幾つか並び、その殆どが客で埋まっていた。静かにジャズが流れる落ち着いた雰囲気の中で、客達は酒と瀟洒な空気に酔い痴れている。
しかしながら、今日はやけに女性客が目に付く。恐らく、あの新入りバーテンダーがシフトに入っているのだろう。
そう思っていると、「きゃー」という女性客の黄色い声が耳に届いた。
カウンターの向こうで、件のバーテンダーが女性客に向って手を振っていたのだ。
俳優かモデルを思わせる甘いマスク。蓬髪の髪型すらも不潔に思わせないのは、顔がいい奴の特権なのだろうか。
「お騒がせして申し訳ございません」
謝罪の言葉に、心の声が出ていたのかと、慌てて顔を上げた。
そして、ささくれていた気持ちがホッと解れていくのを感じた。
「やぁ。君か……」
私は破顔一笑させる。このバーに通い始めた最大の理由は、なんと言ってもこのバーテンダーの存在だった。
直立不動の姿勢に掛けられた眼鏡は生真面目そのものであり、そのくせ金色にも見える髪は長く揺れている。
夜の街特有の婬靡さと反するような潔癖な雰囲気が、逆に目を惹いてしまう。
穢れも知らぬようなこの顔を、私の手で穢してみたら、その真面目な顔はどんな風に歪むのか、想像するだに涎が……
「ご注文は何に致しましょうか?」
バーテンダーの身包みを剥がしかけた所で想像を中断させる。誤魔化すように咳払いをひとつ。
「では、いつものジントニックを」
「……かしこまりました」
バーテンダーに緊張が走ったのがわかった。ジントニックとは、作る人間によって味に特徴が出る為、ジントニックを飲めばバーテンダーの力量がわかると言われているのだ。
私がここに通い出した時から一杯目はいつもジントニックを注文していた。
「お待たせしました」
炭酸弾ける透明な液体の中で、氷とライムが踊っている。
私が口を付け嚥下するのを、バーテンダーは固唾を呑んで見守っている。
「うん。最初の頃よりも腕を上げたね。ジンとトニックウォーターとのバランスが実に私好みだ」
「ありがとうございます」
バーテンダーの口元に、仄かに喜びが浮かんだように見えた。
「君が新人だった頃は、メジャーカップできっちり計っていたというのに、今では客を見て目分量で作れるようになった。こうして独立も果たして、あの頃とは別人のようだね」
「お客様を始めとして、諸先輩方が暖かくご指導下さるお陰です」
「ところで、君……。この間、何処ぞかの社長に口説かれてやしなかったかい?」
「口説……、いえ、二号店を出すなら出資するからホテルで詳しい話をしないかと」
それを口説くというんだ! と、喉元まで迫り上がった台詞を飲み込む。
私はカウンターに置かれていたバーテンダーの手に、己の手を重ねた。
水仕事もしてるだろうに、荒れていないその手は男らしく骨太だが、美しい。
「あんな男よりも私の方が君をわかっている。一度プライベートで、私の為にオリジナルカクテルを作ってくれないか?」
「それはご自宅へ出張するという事でしょうか?」
小首を傾げるバーテンダーの手を、私は思い切って両手で握り締めた。
「自宅だろうとホテルだろうと、ぜひ二人っきりで……」
興奮で小鼻が膨らむ。カウンターにのめり込む勢いで迫っていると、「痛たたたっ」右手首に激痛が走った。
「申し訳ありません。お客様ぁ。この店は生憎と、その手のサービスはしてないんですよぉ」
「ちゅ、中也?」
いつの間に現れたのか、チビ───もとい小柄なバーテンダーが私の右手首を捻り、引き剥がしていたのだ。
此奴はたまに手伝いにやってくる男じゃないか。
「困りますねぇ。お触りなんてされては」
「太宰?」
今度は左手首を捻られる。相手は、あの二枚目だ。
「お、おい。お前達。お客様相手に何をしているんだ」
申し訳ありません、と焦るバーテンダーに対し、私の両脇を固める男二人は憮然としている。
「こんな男、客でも何でもねぇよ。ちったぁ警戒しろって、この間も言っただろ? お前がいて何やってんだよ。太宰」
「後からノコノコ来た中也に言われたくないですぅ」
「だから、お前達。早くお客様を離さないか!」
バーテンダーは必死に訴えるが、二人は聞く耳を持つどころか、私をスツールから引き摺り下ろした。
「お客様。少々、私達とお話致しましょうか?」
「勿論、店の奥でな?」
「へ? いや、わ、私は……」
小柄と二枚目の力は見た目以上に力強く、両脇からガッチリ掴まれた私は、逃げ出す事は出来なかった。奥の従業員専用の入口へと引き摺られて行く。
「全く、なんだって彼奴は、こんな親父にばっか好かれンだよ」
「それは同感だね。しかも、本人は無自覚なんだから始末に負えないよ」
「俺達の身にもなれってんだ」
「気が気じゃないったら」
「まさか、お前達も狙って……」
最後まで言わせずに、小柄なバーテンダーが私の口を塞いだ。
「手前ぇは黙ってな」
「知る必要はないよ」
奥の部屋に連れ込まれた瞬間に、目の前が暗くなった。
次に目が覚めた時、私はどうなっているのだろうか?
否────
そもそも、次はあるのだろうか?