雨 日が傾くにつれ勢いが増す雨音に混じって、外岡の吐息が聞こえる。
カーテンを開いた窓に彼は顔を寄せていた。ガラスに額が触れるほど近づいて外を眺めているようだった。
結露に指で書いた文字は、伝い落ちる水滴のせいで形が崩れてとうに読めなくなっていた。曇りが薄れたそこに二人ぶんの影が映っている。
ただの雨なのに外岡があまりに珍しそうにするものだから、神田は背後から近づいて彼の背中越しに外を覗きこんだ。目に入ったのは見慣れた庭、いつも通っている道、それだけ。雨が降っていること以外は普段と何も変わりない。
「なにかあるのか?」
外岡が振り返る。トレードマークのアップバングは少し乱れていて、細い一房が額に落ちていた。それを元に戻すように撫で上げてやると、気持ちよさそうに目を細める。
「雨って珍しいなと思って」
「いや、二、三日前も降ってただろ」
「……ああ、それは……」
しまったというような小さな動揺が滲んだ声。ごくごく短い時間流れた気まずい沈黙をごまかすように外岡は神田の手を取った。水滴で濡れた冷たい指先が神田の指に絡みついて力が込められる。
狙撃銃を器用に操る指が神田の手の甲をさらりと撫でていく。性欲を呼び起こすような仕草ではないが、胸にじわりと小さな官能がともる。
神田は溜め息を落として、空いたほうの手で彼の額を弾いた。いたい、と間の抜けた声が聞こえたがそれで許すつもりはない。じっと彼の目を見つめると、堪忍したように口を開いた。
「本部ん中にいたら雨は見えないし音も聞こえないっしょ。春休みに入ってからはその日の天気を知らないことが結構あったなぁと思ったら、雨がちょっと懐かしく感じたんスよ」
ボーダー本部基地は防衛の都合上窓が少ない。作戦室に窓はないし、住居区の外岡の部屋もそうだ。
夏も冬も関係なく白い外岡の肌を見る。人付き合いはいいが、放っておけば部屋にこもりがちな性格の彼。基地の中にいれば生活に必要なものはだいたい手に入るからなおさら出不精が加速してしまいそうだ。ボーダーを除隊して市井の人となった神田から見ると、彼の生活はずいぶん浮世離れしている。
外岡のシャツのよれた首回りを引っぱると、うなじや背中に赤黒い鬱血が点々と散っていた。肌に鼻を近づけると汗のにおいが嗅覚を刺激した。舌を這わせるとほんのり塩気を感じる。しかし情交の残り香はそれだけ。もともと体臭が薄い彼に残るものはそう多くない。
彼は今月の中旬から遠征選抜の試験を受けるのだという。約一週間彼と連絡がつかないということしか部外者の神田は教えられていない。その組織に所属していた者として内部の事情は想像できるから、別にそのことを問いただす気もないが。
ざらりとやすりで肌を撫でられたような不快感がよぎった。無意識に胸へと伸ばした手を下ろして拳を握ると掌は少し汗ばんでいた。
自分の知らないところに行かないでほしいなどという子供じみた独占欲。大事なときこと彼に寄り添うべきなのにそれができない無力感。
ボーダーを離れてから隊員が背負う責任の大きさに気づいたところで今さら神田が外岡に対してしてやれることなどない。
既に生活感を失いつつある彼がこの先どうなるかは神田には知ることができない。外岡を残して三門を発つ神田に関与する資格もない。
「試験が始まる前にご家族に顔見せに帰れよ」
「……んな大袈裟な。一週間くらい家族の顔見ないなんてざらなのに」
「なにもなくてただ帰らないだけの一週間と、強制的に閉じ込められる一週間は違うんだよ」
「そんなもんスかねぇ……」
まるで興味がないといったふうに神田から視線を逸らした外岡は再び窓に向かった。必要な肉も削がれてしまったような輪郭は痩せこけた子供のようで、大人びた雰囲気に随分と不釣り合いだ。
額が濡れるのも構わず外岡は窓に額をくっつけていた。何かに聞き入るように目を閉じて黙りこくっている。
「……雨の音も聞いて、毎日外に出て日の光も浴びて、ちゃんと生活しろよ」
「先生みたいなこと言わないでください」
神田の心に反して、微かな笑いの気配が静寂を乱した。本心を悟られないように外岡の後ろに立った神田は、棘突起の目立つうなじをただ眺めていた。
<了>