心臓が時折ひどく脈打つこと、つきつきとした痛みを示すことをまたもや一織は誰にも言わずに隠して生きていた。
その日も担当患者に説明を終え、(予定より大幅に時間を食ってしまい途中で他の先生がフォローにやってきた)指導医の指摘や今後気を付けることなどを聞き、普段の業務に帰った一織だが、彼が今日不調であることに気づいた人間は一人もいなかった。
(脈も不安定で痛みもあるなんて初めての経験ですね)
涼しい顔をしている一織だったが、ことあるごとに手が心臓へと延びそうになる。こんな風に不調を訴え始めたのは、ちょうどこの科に配属されて一週間がたったころだった。どうにもこの科の空気が一織には合っていないようであった。なんでもできる一織はどの科に行ってもぜひうちの科に、と言われるのだが、この科では殊更であった。寮内にいる先輩医師のいる科にこれまで言ってきていたため、自身の有用性には全く気づいておらず、これまでは寮内の先輩たちが一織や環をあまり強く引き取ろうとすることを禁止していた。それを気付かせないようにしていた、ということにもやっと気づいたのだが、気づいたからといってそれがどうなるということでもなかったのだが。
隠しているわけではないのだが、
「イオーリ!久しぶりではないですか?」
「お疲れ様です、六弥先生」
痛みに耐えていたはずなのに、寮の人間を見るとこんなにも安心するのはなぜだろう。痛みは未だ絶えず一織をさいなむが、それまでの張りつめた空気は霧散した。
「タマキもなかなか帰って来ませんし、イオリも帰ってきてもすぐに部屋に閉じこもってしまいます」
「すみません」
「ノン、謝ってほしいわけではないのですよ」
穏やかに微笑んでこちらを見る彼は、慣れない仕事について明らかに憔悴している最年少二人を心配していながらも見守ることに決めたらしい、大人たちの覚悟が見てとれた。
あぁ、本当にあの寮の大人は。
「イオリもだいぶお疲れのようですね?」
「あぁ、いえ。皆さんのありがたみと優秀さを再認識したところです」
苦笑いする一織を見て心外そうに眉を上げたナギは王子様のように微笑む。
「今更気づいたのですか?」
「ふふ、はい」
「お昼ご一緒しても?」
「ええ。構いませんよ。」
そう言ってともに昼食へ向かう。
時間があるなら、レポートの面倒を見てやろうと言われ、そのままナギの診察室まで着いてきた。ここまで進んだのですが、と振り返るとほぼ同時にぴとりと額に当てられた手に、目を瞬かせる。
「どうしたんですか?」
「いえ。疲れているようでしたので、熱があるのかと思ってしまいました」
にこりと笑って失礼しました、と告げてくるが、彼のこういうところを私は好ましいと思っている。
「いいえ、大丈夫ですよ。すみません、ご心配をおかけしました」
「ですが、イオリ?何か隠していますね?」
「…何の話でしょう?」
お互いににこりと笑って、笑顔の中ゴングが鳴った。
「ミツキに言いつけますよ」
「私が悪かったので黙っていてください」
「わかればよいのです! では、口を割っていただきましょうか」
「わかっているのでもう大丈夫です」
「Hum…そんなにミツキを呼んでほしかったのですね?」
「心臓神経症です!!!!!!」
「検査はしたのですか?」
「していません、」
「では、しましょう」
「今からですか!?」
「ミツキとヤマトに付き添いを頼みますか?」
「今からで構いません」
「イオリは聞き分けが良くて助かります。この後の予定に関してはわたくしに任せてください」
「そうですね。投薬の必要があるのか探りたいので、痛みの程度を教えてください。一番痛かった時、10段階でどれだけでしたか?」
「…5?」
「それほどの痛みを黙っていたのですか?」
ひんやりとした空気がナギから漂ってくる。
「いや、あの、っ」
言い訳しようと口を開いたのに、唐突な痛みに息が詰まる。これまで感じたことのないほどの痛みに、こらえきれず体が前傾姿勢をとる。
「イオリ?」
ナギが驚いているのがわかったが、声も出ないほどの激痛に握りしめた手のひらにジワリと汗をかく。
「ひぃ、ま、まで、心臓が、痛いことなんてなかったので、」
「イオリ、今更隠すことはありません。楽な姿勢を取りましょう。あまりにもひどいなら薬だって出します。ワタシはイオリを苦しめたいわけではないのです。わかってくれますね?」
ゆっくりと背中をさする暖かい手は、そこにあるだけで安心させてくれる。
「ったぃ」
思わず声が漏れ、ひくひくと喉がひきつる。胸元を握りしめているせいで白衣にしわが寄る。
「Hum…。想像以上にひどいですね。あまり大きな発作が起きないようなら黙っていようと思いましたが、これはさすがにワタシ一人で黙っているわけにはいきません」
「ま、って、くださ、っひ、」
しばらく息をつめて、吐き出す。痛みを逃がすように、辛さを隠すように。
「イオリ、息をすることは」
大きくふぅ、と息を吐いて痛みが引いたことを告げる。
「もう、大丈夫です」
「安心しました。こんなにひどい発作が起きて、痛みの段階は5なのですか?」
「ここまで痛いのは初めてです」
「いつ頃から痛みを感じ始めました?」
「…麻酔科に配属されてからです」
「麻酔科での研修はあとどれくらいありますか?」
「もう一週間もありません」
はぁ、とため息をつかれて、一織は肩をびくつかせる。
「ミツキとヤマトを呼びます」
「!?」
「イオリ、一月も問題を先送りにしていたのなら、教育的指導が必要になります。こればかりは、私たち二人で片づけていい問題ではありません」
「ですが、まだ勤務時間ですし、二階堂先生は救急でしょう?」
「えぇ。ですから電話で聞いてみます。イオリはベッドです」
「、」
「反論は許しません。イオリ、まだわかっていませんか? あなたはまだ、医者ではないのです。指導医がいて、その指導医に指導される研修医なのですよ。今この状態で、どちらの立場が上かわかりますね?そのうえで、貴方がとらなければならない行動も」
懇々と諭すように話す彼は、まるで聞き分けのない小さな子に言い聞かせるように話す。
“医者ではない“この言葉が、一織の心をちくりと刺す。
「……はい」
どうやらタイミングの良いことに二人とも開いていたらしく、比較的早く二人はナギの診察室に駆け付けた。
「ナギ? どうしたんだ、何かあったのか? ナギからの呼び出しなんて随分珍しいな」
来るまでは、とレポートやその他の面倒を見てもらっていたために、今の自分がつかの間の猶予をもらっていたことなどすっかり忘れてしまっていた。
「あ」
「ん? イチ? 珍しいな、ナギの診察室にいるなんて。今麻酔科の研修だろ? 何でここに?」
「ヤマト、ステイです。ミツキが来るまでお待ちください」
「ステイ、って、お前なぁ」
「ごめん、遅くなった! 一織がどうしたって!?」
「落ち着いてください、ミツキ。大丈夫です。イオリならそこで不貞腐れています」
「不貞腐れてなんていませんけど!?」
「え、なに俺らイチのことで集められたの?」
「イエス。ふたりに聞いてもらった方がよいことと判断しました」
「なんかあったのか?」
「あった、というか…。」
「イオリは心臓神経症デス。」
「心臓神経症???」
「Oh…」
ナギは小さくつぶやくと机の上に広げられていた図鑑を二人に見せた。
「こういう症例のことです」
「これは…」
「先ほどイオリは発作を起こしました。あまりにもひどいようだったので、お二人にも知らせておくべきと判断しました」
「発作って、どれのことだ?」
「胸痛デス。10段階で8ほどでしょう」
「だ、大丈夫なのか、それ!?」
「ノン。ちゃんと読んでください、ミツキ。精神的なもので、心臓そのものに問題はありません」
「問題はないのに痛みだけがしっかりと出るのか……。原因は? ストレスなんだろ? 心当たりないのか?」
「おそらく麻酔科の連中でしょう。最近モモ氏はあまり医局の方にも帰っていないと聞きます」
「何かされたのか!?」
「ちょ、ちょっと待ってください! そんな誤解を招くような言い方はやめてください!」
「誤解ではないでしょう? ある程度行きたい科を決めていたにもかかわらず大学から指定された科にも回ることになったせいでスカウトが多くて嫌になっている、と先ほどそういったではありませんか」
「それはそうですが、」
「発作が出るくらい、しんどかったのか?」
「言ってくれれば、何とかしたのに……」
「勧誘されるくらい、だったので」
「一織。お前、嘘ついてるだろ」
「はぁ~……。仕方ない、のね。それはわかった。それで? 対処法は?」
「対処法はありません。ですから、フォローのためにお二人に話しました」
「痛み止めとかはないのか!?」
「ストレスが改善されれば次第に落ち着くでしょうし、そんなに重大な病気というわけでもありません。あまり大きな話にしないでください」
「ばか! 大事な弟が病気って言われて心配しない兄貴がいるわけないだろ!!!!!!」
「ば、ばか…」
「そうだなー。時々イチは本当に馬鹿になるよな」
「二人して何なんですか!? 急に人に対して馬鹿だなんて!?」
「あのなぁ、普通に考えてみろ? 急に自寮の研修医のことだって呼び出されたと思ったら」