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    気晴らしに三時間半で殴り書きしたなんか気持ち悪い話
    オルターエゴを通過した経験のあるふたりがぐだぐだしゃべってるだけ

    自問自答「つまりねぇ、人生には不幸か、貧乏か、あるいは病気が必要なんですよ」

    ズ、と。行儀悪く麦茶を啜って、男は投げ出すように言った。
    全身がマッ黒で、ヒラヒラとした和装の上着から除くシャツと肌ばかりが白く、何とも気味の悪い男だった。
    日焼けに色を変えた畳に座布団もなくちょこんと座り、背筋を伸ばして麦茶をちみちみと呑む姿は奇妙に背景から浮いている。
    ジィジィと耳障りな音を立てる蛍光灯に、羽虫がぶつかる音ばかりが奇妙にそらぞらしく鳴いていた。

    アドラが浪岡翠という男に出会ったのははや数ヶ月も前のことである。
    昔馴染みの店で飲んでいたら相席を求められ、相手が酔い潰れた所を店長に押し付けられた。家を聞いてもむにゃむにゃ言うから、仕方なく自宅に連れ帰って寝かせてやって、翌朝ぼんやりしてる所に朝食を与えて家に返した。
    それから数日経ってから礼だと言って菓子なんかを持って幾度か家に訪れるようになり、ある日真っ白な肌を苛烈な夏の日差しに赤く染めふうふう言うのを見兼ねて家に上げ、麦茶を出してやったのが始まりで、それから男は当然の顔をして居座るようになったのだな。

    「自宅だと固定電話がうるさくって。余計に集中できませんよあんなもの。かと言って外で仕事をする気にもならない」
    「固定電話ってまだ絶滅してないんだ……」
    「珍しいとは思いますけれど、当方スマートフォンというものを所持していないので」
    「君そのものが絶滅危惧種じゃないか……」
    「丁重に保護していただければと」

    とまぁ、このように男の面の皮というのは驚く程に分厚く、腹を立てるにもバカバカしい。
    もとより人の良い……と言うより流されやすいところのあるアドラは別に取られて困るものもなし、追い返す方が面倒だと客人が来る度に麦茶を一杯机に置いて、あとはもう仕事をしたり本を読んだり、たまに向かいに座って自分は酒を飲んだりしていた。
    据え置きのやけにかさばるラジオみたいなもんだった。なのでアドラは家族に逃げられ四十年たった爺の如くたまに話し掛けている。ボケ防止だ。

    「なに、苦手なの?」
    「何が」
    「スマートフォン……っていうかテクノロジー?」
    「いいえ?むしろ得意な方だと思います」
    「このご時世にスマホのひとつも持っていないくせに?」
    「実際ね、コンピュータのエンジニアなんかしてたらしいですよ私」
    「らしいって……」
    「いやどうもね、私の人生は病室から始まっていまして」
    「……いやそりゃあ特殊な事情でもなきゃ最近の人類みんなそうだろうけど。何、記憶力の自慢?」
    「逆ですよ逆。私、ほとんど何も覚えてないんです。聞いたところによるとどうやら趣味の登山中に崖から滑落したらしい。目が覚めたら貴方は登山が趣味でコンピュータエンジニアをしていた浪岡翠だと言われたから私は登山が趣味でコンピュータエンジニアの浪岡翠として生きているんです。ぼんやり昔の記憶のようなものが蘇ることもありますがね」
    「ゾっとしない話だな……」
    「他人事として聞けばそれはそうだと思いますけれどね、意外と悪くもありませんよ。前よか人生楽しい気すらしています。あんまり思い出せやしないのですけれどね」
    「正気?」
    「失礼な」
    「だって……だってそんな境遇の人間が何をどうしたら君のようにふてぶてしくなれるって言うんだ」
    「私が私である所以でしょうね」
    「褒めてないよロクデナシ」
    「まァ酷い。だって私が私であることに変わりはありませんでしょう。そも私が一人で山に登り行方不明になっていた浪岡翠本人であるだなんて誰が証明できるんです?もしかしたら滑落死体の皮を剥いで被っている化け物かもしれないし、たまたま同じ日に同じ崖から滑落してたまたま持ち物が混ざってしまった背格好が同じだけの人間かもしれない」
    「……良くもまぁそんな気味の悪いことを考えるな」
    「それでも私が浪岡翠として生きていくなら私は浪岡翠なんです。なろうと思えば何にだってなれた。ほら、現に今の私は元コンピュータエンジニアの癖に携帯電話のひとつも持っていない、しがない作家風情です。私がそうなりたかったからなっただけにすぎません。シンプルな話でしょう」
    「なんていうか。いや何を言うべきかな……とりあえず色々と極端すぎないかい。ヒトとして大事なものが君にはなにか欠けているんじゃ無いだろうか」
    「私には必要じゃあなかったと、ただそれだけですよ。我ながらどうかと思いましたけどね、そういうものなんですよ。我が身に起きてみれば貴方もアッサリ受け入れるんじゃないですか」
    「経験ないからわからないな……」
    「いいや貴方は受け入れますよ」
    「やけに確信を持って言うね」
    「私と貴方、よく似ていますもの」
    「きみはつまらない冗談が上手らしいな」

    とまぁこんな具合で、トコトン人をおちょくるような煙に巻く様なことしか言わない。聞けば、小説家先生なのだという。
    つり上げた口端を持て余すような笑みだった。ニヤニヤとした目が細められると、白い涙袋の下の影がうっすら蒼く濃くなって、醸す空気はさながらサーカス跡地のピエロのように陰鬱で陽気な笑みだった。
    兎にも角にもこのように、気味の悪い影法師のような男は今日も駅から徒歩25分の、マッタク人気のない家賃3万円の日本家屋に足繁く通ってきたというわけである。




    「ツルゲーネフですよ。お好きでしたでしょう」
    「……誰?」
    「春の水、処女地、猟人日記……」
    「日記……スポーツマンズ・スケッチ?」
    「あぁ、ウン、ソレですよ。マ、なんせ発音、まるきり違いますからねぇ。なんて言うんでしたっけ?あなたの言葉で」
    「……Turgenev」
    「ははァ」

    たぁるげにゃあふ、たぁるげにゃあふ、ふんふんなるほど。歯の間に挟まったトウモロコシの髭を気にするような調子で、男はもったりと音を発した。

    「あいたた、舌が痙りました」
    「……それで」
    「ア、エー、なんですっけ、なんのお話をしていのだか」
    「…………」
    「怒らないでくださいよぅ」
    「呆れてるんだよ」

    薄く作ったケチくさいハイボールの入ったグラスを、神経質に整えられた爪先がトントン叩いた。ほとんど肉が赤く透けるほど短く鑢で削られているので音はほとんどしない。
    苛立ちを分かりやすくアピールするためのパフォーマンスを鼻で笑って、浪岡はクッと首を傾げた。ぎょろぎょろとした瞳がマッタク笑わず、ジィとアドラの顔を見つめる。夜道に閑散と並んだ、電灯と電灯の隙間を見てるみたいな漠然とした暗澹。わざとらしく吊り上がり続ける唇が薄く開いた。

    「不幸がないと、人間は思い上がってしまうらしいですよ」
    「はァ」
    「確かに貴方を見てるとそれは正しいんじゃないかと思えてきますね。なるほど思い上がる隙もない」
    「別に不幸を背負った記憶はないんだけど」
    「そりゃあそうですよ。不幸を不幸と認めてしまえばあなたの人生はそれこそ不幸(ふしあわ)せになってしまいますでしょう」
    「……嫌味なやつだな」
    「分かった上でそんなに幸薄そうな顔をしているんです?余程お暇な人生なんですね……」

    酒で鞣されて緩く間延びした音を聞きながら、今度から麦茶の代わりに麺つゆを注いでやろうと思った。醤油は確か140mLからお手軽に人を殺せる。麺つゆなら死にゃせんだろが、三日ほど顔が浮腫んでもとの形に戻らなくなれば良い。

    「それで、アー……なに、その、なんなの君は」
    「仰る意味が分かりませんね。何、とは」
    「いや、だから、さ。さっきから、何が言いたいのかわからないんだって」
    「特には」
    「ハ、はァ?」
    「具体的な結論と答えを提示したらそれは提案になるでしょう」
    「意味がわからない」
    「私は会話がしたいんです」
    「……うん?」
    「私がしたいのは提案ではなくあくまで会話なんですよ。世間話。ですから私の話に結論というものはございません。そも、あなたと私は別々の人間なのですから、私があれそれなにをどうしたから貴方もそうすればよろしいと言うのは違いますでしょう」
    「ア......ソ......さいですか……」
    「ウン、いいでしょ、中身の無いお話。お友達みたいで」
    「トモダチ……?」
    「もしかして初めて聞く言語ですか?」

    ふひ、と。ひきつれたような吐息で男が笑った。気味の悪い声の癖に、顔の半分だけを器用に釣り上げたシニカルな笑みを浮かべている。白っぽい蛍光灯で不健康な頬骨のラインが浮き上がって、憎たらしいほど整っているのだった。
    彫りの深く落窪んだ眼光とツンと高い鼻筋は明らかにこの国に馴染んでいないのに、真っ黒な目と色の濃いくせ毛、それから何を気取っているのか分からない詰襟が古めかしく褪せた畳に映えている。舞台かなにかから抜け出てきたような男だった。秀でた容姿という意味でなく、まるで現実味がないのだ。たまたま上手く行った正月の福笑いみたいな。意味もなく笑えてくるような、けれど幼い子供が本能的に畏れるような奇妙な空気がそこにある。
    ゾワゾワ鳥肌を立てながらアドラはズズっと音を立て、お行儀悪く水6割のハイボール水割りを啜った。真似するように浪岡が唇を湿らせて開く。てらと光る毳だった皮膚がやはり不気味であった。

    「別にね、何かを言おうと思った訳じゃありません。言いましたでしょう、私は貴方と世間話とやらがしてみたかっただけなんですって。いつもいつも黴たパンのようなお顔をしているものだから」
    「笑ってやろうって?」
    「まさか!私の人生がいかに楽しいか自慢してやろうと思っただけ」
    「どの道ドブみたいな性格してるじゃないか……前置きも長すぎる。なァきみ、小説家なんだろ?本当だとしたら三流もいい所だ」
    「哲学書は専門外なんですよ。そも、だいたいあんなものはね、結局のところ言ったもん勝ちなんです。組み替えられた船を本物というか、その前の船を本物と言うか、組み立て直した前の部品を本物というか、そんなものは個人の自由に、好きなように発言すればよろしい。正しく言ったもん勝ちです、あんなもの。好きなように論じていいんだから、総じて長ったらしくもなります。どこまで自分を正当化できるかが勝負ですからね。しかしまァその点ロマンスは簡潔で実によろしい。ひとり男と女がひとり、目と目を合わせれば恋になります。長ったらしく証明するまでもなく、そういうものだとみんながみんな理解している」
    「実体験?」
    「私の場合はてのひらでしたね」
    「あァそう……」

    打てば響く。しかし当てた感じがしない。暖簾相手にボールを投げるのも厄介である。何せ自分の投げた球であるかどうかの判断すらつかぬのだ。産まれがこの国では無いアドラにとって、浪岡は少し詩的が過ぎた。
    言われた言葉の半分ほどの理解を放棄して、当たり障りの無い言葉を探す。
    他国の言語を理解する上で必要なのは不理解の許容と推察力なのだな、結局。どこまで分からない言葉をスルーできるかと、これにかかってくる。だからとりあえず、返ってきたボールが前と同じ色をしてるかどうかは気にかけないでとりあえず打ち返すのだ。

    「会ったこともないのにどうやって手をお繋ぎなすったの。それとも移り気なのかしら」
    「さァ……まァそうだな……実を言うと私自身が彼女に触れたことは無いんですよ。ただやっぱり、手と手を合わせて私は恋に落ちました。多分遺伝子がもうそう言う造りをしている」
    「何ですそれ。やっぱりきみ、どこか頭の病気なんじゃないか。手遅れになる前に医者にかかった方が良い」
    「失敬な……ウウン、なんと言いますか、いや、ね。確かに覚えているんです。けどねェ……なんと表現したら良いのかしら……ウン……強いて言うのなら胎の中ですが……」
    「ウワ」

    アドラはギョッとした顔をした。浪岡がパッと視線を上げる。なんですか、と言いたげな視線だった。素直な視線。だからアドラも思ったことをそのまま言った。

    「いや理屈っぽいロマンチストで電波な上に近親相姦が好みとか笑えな……」

    ガジャン!と。錆びたオルガンの鍵盤を一度でめちゃくちゃに押したような断末魔が上がって、半笑いの声をかき消した。浪岡の手に握られたグラスと、木製の安っぽいテーブルの天板とが同士討ちで果てた音だ。ボタボタと薄茶の水っぽい麦茶が白く骨っぽい手の甲を伝っては裂けた木目に染み込んでいる。

    「モノ考えて言葉にしろよ……」
    「エッ……急にキレる現代の若者怖……エ?普通に弁償してもらっていいですか?次から君に出すグラスがない」
    「イケア?」
    「そう。268円」
    「セール品じゃねェか」

    チ、とひとつ舌を打って、浪岡はソッ……と財布を出し、おもむろに五百円玉を放り出した。半分くらい青錆におおわれて居る。自販機からこういう小銭が出てくると、彼はいつも何となく嫌ァな気分になるのだな。店員さんに渡すのも侘しい気持ちになる。人にされたら嫌なことはしないタイプなのだ。
    けれどアドラはさして気にせず、熟練のディーラーみたいな動きで一枚のコインを回収して、そのままてらてらステッチの浮いたジーンズの尻ポケットにしまう。ヤサグレていた頃、制服のまま通いつめた麻雀荘で身につけたのだった。儲けを長く机の上に置いておくと普通にスられる。
    ちなみにこのガビガビに錆びた桐竹橘は後の2ヶ月後くらいに洗濯機の中から見つかるのだ。
    はァ。重たく、わざとらしいため息を吐いた浪岡がじとりとそれを視線で追った。

    「ケチくさい男だこと。好きなコとか居ないんですか?連れ込むにも食器のフタ揃えもなきゃ困るでしょうに」
    「余計な世話だよ終身栄誉ロマンチスト電波童貞」
    「そもそもねェ、鬱勃起野郎に性癖がなんやかんやと口を出される筋合いはねェんですよ」
    「ハ?お前また人の部屋荒らしたんですか」
    「ハ?カマかけただけですよマジでかお前」
    「ウワ殺しちゃおっかな……」
    「ハ?」
    「ハ?」
    「「ッチ……」」

    グルルル……二人はすわり切った瞳で己が前に座る男を睨みつけた。酔っぱらいの沸点はすこぶる低い。が、アルコールに浸されて萎縮しきった脳では怒りを維持する方も難しかった。やがて能面の如く白く整い無の表情で浪岡がそっと、休戦協定の申し出をした。

    「失敬、過ぎた態度でしたね。が、言葉は選んだ方がよろしいですよ。いつまでもビギナー気取りじゃ恥をかくのもあなたの方です」
    「ニハンゴってほんとう、ムツカシイことばですよね」
    「ところでお役所の方に提出する死因は硝子片による刺殺でいいですか?派手なお葬式がお好みであれば灯油を買ってきますけれど……」
    「話題の方向転換下手くそですか?ペーパードライバーもいいとこだな……」
    「ア……マジでヤっちゃおっかな……」
    「ワ……ちょっとからかいすぎちゃったな……」

    あげた白い旗を握り潰して立ち上がろうとする浪岡の口に、アドラは硬くなり始めていたスルメを突っ込んだ。ストンと高い場所にあった腰が落ちる。ちゃんとある程度のレベルの教育を受けた人間の如く、口に物を入れられると浪岡は途端にお行儀が良くなるのだ。そゆとこが可愛らしいので、アドラのひとりで住むこのボロっちい2LDK井戸付きの日本家屋はいつもギリギリ殺人現場になることが免れている。
    小さな口から巨大なイカの足が飛び出しもにゅもにゅと小さくなっていく。
    自分もスルメを口に入れながらアドラは雑な声を出した。細くなった先っぽが歯茎に刺さって痛かったので、眉をしかめながら。

    「ヤなこと言ってごめんネ」
    「も、ング、じぅんでいっれへぞっとひませんか?」
    「何て?」
    「ン、年増がぶりっ子キツいって」
    「なんでわざわざ悪化させたんだよ」
    「聞こえてんじゃねェですか」

    オッサンみたいに(実際オッサンだけど)歯と歯の間に挟まったイカの名残を爪楊枝でイジイジしながらアドラはいっこ舌打ちをした。
    も一個残ったスルメを尋ねることなくかっさらい、バカの量のマヨネーズを付けながら浪岡がボソボソ呟く。

    「なんかもう、そういうんじゃあないんですよ……」

    ちらりとこちらに向いた視線は水面の月みたいにフラフラ揺れていた。真っ黒なひとみ。真っ黒なのに、どうしてだか月みたいだと思った。
    黒い月はそのままくつくつと笑って、空いた方の手を使い、とびきり度数の高いウィスキーを舐めるような仕草で、ヒビの入ったグラスの底に辛うじて残っていた、五十パック二百円のミネラル麦茶を呑んだ。それがやけに様になっているくせに、鏡を見ているようだった。寂しい男だから。

    「出会える目処は立ってるんですか」
    「さァ全く」
    「気が違ってるとしか思えないな……」
    「今更ァ」

    でろでろのマヨネーズ塊と化したスルメをぽんと口に放り込み、やがて男はぐぷぐぷとあぶくの様な、唸りの様な音を立てた。
    くちびるを開かぬままに笑っているのだと、気がつくのに数秒かかる。ボォとくぐもり、水族館とかの巨大水路を一人で歩いてるみたいな気持ちにさせる音だ。
    おおよそニンゲンの喉から出る音では無い。いよいよゾォッとして、アドラはマッ黒な目のままニコニコぐぷぐぷしている男からじわじわ目を逸らした。たまに男はこういう、説明しがたい挙動をするのだ。今回は一体何が琴線に触れたのか分からない。
    それから自分でつついた薮から出た蛇に噛まれるのが恐ろしくって、話題を転換することにしたのだな。情けないこと。情けないことづくめの人生なのだから今更どうということも無い。

    「そう言えばしばらく気になってたんだけど、きみ、純粋なジャパニーズじゃあないだろ」
    「何故?」
    「舌の巻き方が」
    「ンー……ア、父親がスパニッシュでした」
    「あァ成程……」
    「マ、嘘なんですけどね。私、自分の父親の顔とか知りませんし。生まれも育ちも日本です」
    「そろそろ叩き出すぞお前」
    「キレ方が更年期のそれ」

    男はキャッキャと楽しそうに手を叩いた。
    安っぽい蛍光灯に白い歯がキラキラと光る。
    水を張ったマッ黒い瞳がけたけたと細くなって随分と楽しそうだった。

    「私におやは居ませんよ」
    「驚いたな。君って本物のクリーチャーなの?細胞分裂で生まれたクチ?」
    「言葉に気をつけて話せと言いませんでした?前世はシチメンチョウの丸焼きでいらっしゃる?」
    「キレるポイントわっかんないな……」

    言いながらアドラは煙草を出した。会話を有耶無耶に終わらせるのにいい手段だから。浪岡の出自など、本当に興味がなかったのだ。指の間に一本挟んで、逆のポケットからジッポ。曇りひとつない金色の蓋がチラチラと光を弾き、大切にされているのがひと目でわかる。ぱち、と浪岡が一つ瞬きをした。

    「いい品ですね。ジッポ?あなたのご趣味ですか」
    「父親の」
    「ヘェ、成人祝いか何かで?」
    「形見」
    「あら」
    「ウン十年前に死んだ」
    「あららァ」
    「カッコイイでしょ」
    「ウン」

    浪岡は顔色のひとつも変えずに、ただ眠たげな声で子供っぽい返事をした。それに酷く満足したから、自分の前に置いて時折つまんでいた少しお高いナッツの皿を少しだけ机の真ん中に寄せる。
    カクカクとした真っ白な指先が、僅かにさまよって塩の振られたアーモンドを摘んだ。
    ちなみにアドラはアーモンドが苦手なので、皿の中身は八割アーモンドなのだった。
    エンジニアで小説家という男の指はまるで赤子じみて白い。先に僅かな、取ってつけたように分厚い皮膚があるのが見て取れたが、それだけだった。スラリと長く、白く、酷く痛めつけられたことのない有様。それはどうにも奇妙だった。
    幼少のおり、重たいランドセルに指先をひっかけたことすらないのだろうかと言うほど、奇妙につるりと美しいのだ。
    ぼんやりと薄く光るそれをなんとなしに見つめながらアドラはぼんやり声を出した。
    会話はもはや惰性である。

    「他に家族は」
    「ありません」
    「……誰ひとり?」
    「兄妹が何人かいたような気もしますけれど……」
    「……なに、みんな死んだ?」
    「さァ。今どうしているのかは知りません。ただ、今後永劫会えないことには違いないでしょうね。ア、でも確か一番上の姉さんは優しかったなァ……下のに食事を与えようとして家ごとレンジを爆発させるような人でしたが……」
    「傍迷惑な人種だな……」
    「優しいことに違いはありませんでしたよ。彼女が実家を爆破してくれたお陰で私もこうして独立して恋バナ出来てますし……」
    「…………?アレもしかして僕と君って違う世界線の日本語を学んでたりする?いやはや己の不勉強でお恥ずかしく……」
    「至らなさ自覚するの遅すぎませんか?」
    「ウーンこの時間にやってて患者を引き取ってくれるような訪問診療所あるかな……できれば脳外科……」
    「?どこかお加減が ……ア、すみませんやはりアタマの方に持病を抱えて……」
    「…………お茶のオカワリいかがです」
    「ハ?ア、ウン……ア、じゃ、戴きます……」

    アドラは返事をせずに席を立った。ひったくるように浪岡のグラスを手に取ってスタスタと狭い台所に向かう。やがて手に麦茶色に揺れるそれを持って戻り、ゴトンと落とすように机に置いた。白く入った亀裂に茶色がしみて、ぽたぽたと飴色の木目に溜まる。

    「どぉぞ」
    「ハイ、どうも……」

    妙な顔をしながら、浪岡は普通に手をつけた。唇に冷たい硝子が触れた瞬間、奇妙な既視感を覚えた気がして、けれど彼は気にしなかった。喋りどおしで喉が渇いていたのだ。ニンゲンだから。
    ぐ、と男がグラスを傾ける。麦茶色のそれがするすると薄く開いた唇の隙間に吸い込まれ、そして。
    ぐぶ、と。男の出っぱった喉仏が痙攣して、それから溺れた蛙のような音を立てた。

    「ッヴ。ぐっ、ブ、ッ」
    「ンは」
    「ダッ、、な、な。ッエほっ、」
    「めんつゆ」
    「ふ、ざけ、ッ、ふ、ふふ、」
    「醤油だったら殺せてたかな。140mlでしたっけ」
    「ふ、ふ、ふっふふっ、ふ、げほ、っンふ、」

    男は怒りもせずに笑っていた。白を通り越して蒼い顔を赤く染めて、今にも息絶えそうな呼吸の音だった。カリカリに骨の浮いた首まで綺麗に染めあげてケラケラといっそあどけなく。けれどクッキリと細い眉が頭痛を堪える形にたわんで、笑う度こんな顔をしているのならきっと大層いきづらいのだろうと思わせていた。涙ぐんだ黒目がゆらゆらと不安定に揺れる。反射の加減でやけに大きく見える瞳孔が不気味で、やはり月のような眼だった。白く乱れのないシャツ襟が口端から垂れためんつゆでまだらに染まっていた。

    「汚いな」
    「殴っていいかな……」
    「ハ?嫌ですが……」
    「なんだって私はこんな思いやりの欠如した客人に毒を盛るような男の家にいるんでしょうか」
    「本当になんで君ここに居るんだ?」

    言いながら、アドラは雑な動きでティッシュの箱を引き寄せてやった。だいぶスッキリしていたから、優しくしてやろうと思ったのだ。基本的に一人でリビングは使わないから、いつから置いてあるのか定かでないそれは少し埃っぽい匂いがする。よろよろと手を伸ばして一枚とった浪岡はケンケンとふたつ、乾咳をして、それから涙袋にクッと力を入れてから「ありがとう」と短く言った。
    律儀だな、といつも思う。いただきます、ありがとう、ごめんなさいお邪魔します。実の所、これらはニンゲンの育ちというのを推し量るための指針になる。アドラも幼い頃は日本人だった母から口酸っぱく教えられたものだった。それらの言葉を言うことに、浪岡という男は一切の躊躇いも惰性も見せない。礼儀正しいと言うより、それらを唇に乗せる時の表情は無垢な子供じみていた。
    数百年砂漠をさまよう人の顔で、おさなごのようにありがとうと呟く様は見るものをゾッとさせるチグハグとした違和感があった。
    理解できないものは畏れだ。アドラが気味が悪いと言いつつ問答を重ねているのには、恐れを究明し克服したいと云う本能じみた臆病さが理由にあるのかもしらなかった。

    「怒らないんだもんな、君」
    「私人間が好きなので」
    「その面で博愛主義とか笑える......」
    「他者への敬意の欠落が留まるところを知りませんね貴方」
    「鏡いる?」
    「高度な自虐ですか?」

    言って、男は再びカラカラ笑った。打ち捨てられた墓場に長いこと住む髑髏が奥歯をうちつけながらするみたいなやり方だ。下手くそなマリオネット人形劇だとか、予算ギリギリで造られた着ぐるみだとか、どこかそういう風情を感じる。
    それでも男は楽しそうだった。人口の八割が不幸で悲しいがっているこの国に生まれ落ち育ち上がり、なお男は楽しくて堪らないのだという様に奥歯を鳴らして笑っている。

    「……地獄とは他人のことである、って、よく言ったものだときみをみてると思うよ」
    「出口なし?」
    「そう」
    「あははァ」
    「きみは地獄を見つけたんだ」
    「そうですよ。彼女はとびきり清らかな天国です。わたくしの人生はもはや出口を持ちません」
    「……可哀想に」
    「言うと思った」

    アッハハ、と男はついに声を上げ、いっそ快活に笑った。わざとらしく引き上げられた右眉の下、短いまつげが光を弾いている。鼻の頭にシワが寄る様がじとりとした色気を孕んでいるのだった。どこにも行き場がないくせに、いっそ酷く自由に見える。宙ぶらりんとも言えた。足首を括られて吊るされている。忍耐、奉仕、抑制、着実。羨ましさと痛ましさとがいっぺんに押し寄せるような感覚に、アドラはグッと眉を寄せた。酒に浮つく視界の中で、吊るされた男が逆さまのまま歌うように笑っている。

    「出口の無い地獄はねえ、楽園ですよ」
    「……どこを目指す必要も無いから?」
    「ご明察。やっぱり私たち、気が合うと思いませんか。ほら読書の趣味もぴったりですし」
    「否定はしないけどごめんだな……」

    君のような悪趣味な男。喉奥に詰まっていた空気の塊を放り出すようにしてアドラも笑った。苦く濁って濃いタールを纏う紫煙のような響きだった。浪岡も変わらず右の頬を引き攣ったように釣りあげたまま、吐息だけで微笑んでいる。
    ありもしない希望を諦めきれずに彷徨う薄暗がりと比べれば、確かに絶対的な光を抱いて沈む暗闇は楽園と呼べた。あらゆる命を生み出しては呑み込む温かな海とも似ている。
    そのセンスにどうしようもなく絶望的に共感できて、二人はしばらく共鳴していた。
    やがて、部屋の隅に置き去られた古い鳩時計から流れる軋んだクラシックのような囁き声でアドラが言った。

    「僕ァ楽園なんぞに行きたくない……」
    「何故?」
    「ずぅっといつか取り上げられるような気分でいなけりゃならないだろ」
    「甘ったれたロマンチストだこと」
    「じゃあ君は何」
    「イジワルな継母」
    「……たぶん僕は君のことが嫌いだ」
    「アッハッハッハ!」

    破裂するような声だった。それまでのシニカルさもアンニュイも投げ捨てて、ただ笑いたいから笑ったと、そういう風情で。朗々響いていた声がやがて小刻みになって、そのうちほとんど吐息と変わらなくなる頃、青白い頬が不意に落ちて、ささくれだった木面にひたりと付した。男の吐いた吐息がこうこうと木の目を滑る音がして、あぁこいつも水を含んだ二酸化炭素で呼吸をするのだとおかしなことを考えている。気味の悪い湿気た沈黙を、やがて小さな声が割いて、震えた木材がきしりと僅かな悲鳴をあげた。長い前髪がやなぎの葉のように垂れ下がっていて、その隙間から相も変わらずつり上がった口角が覗いている。不気味なことこの上ないと、何度目かもわからぬ不快感を薄いアルコールで飲み下した。

    「ね、私のこと嫌いなら友達になってくださいよ……」
    「きみのはなしは突拍子も無さすぎる。理解してもらいたいのなら相応に分かりやすく説明する義務があるんじゃないの」
    「嘘ぉ。わかってるくせに」

    ピタ、と。背中にそう言うスイッチがついていますといったような様子で、浪岡が笑うのをやめた。そして不意に首をぐるりと回してこちらを見た。まるで意志の付随していない、乱雑に引き寄せられたマネキンみたいな動きだった。真っ直ぐになった表情筋は廃棄レーンに流されていく知育人形と少し似ている。
    浪岡という男の瞳は馬鹿のようにデカかった。輪郭が細く尖っているくせ、目だけが爛々としているから、真正面から見ると蛇と睨み合ったような気持ちになるのだ。無意識のうちに両の肩が寄っている。黒いのに満月に見えるのは何故かしらとぼんやり思って、そこでマッ黒い彼の瞳に自分のそれが映り込む距離にいたのだと気がついた。不思議とこの男からは、彼自身の色が見いだせないのだ。何かに似ていた。多分、真夏のチカチカしたコンクリートに住んでいる、クッキリとした影法師だった。個性のひとつもないくせ主張だけは猛々しい。アドラは夏が大嫌いだった。夏を構成する全てが。眩い日差しも蒼い空も揺らぐ景色も何もかも。湿気った空気を吸って吐くだけ熱にひしゃげた道路の上、ゆらゆら霞んだ空気の中に笑って手を振る家族を見る。最悪の気分だった。日本に住む叔母の家を訪ねた帰り、空港の近くで借りていたレンタカーを返しに行く真っ直ぐな道。燦々と燃えた太陽と、嫌味ったらしいターコイズに輝く水分量の多い空気の熱が忘れられない。日本の夏は水っぽくって、だから余計に憂鬱になるのだ。いつの間にかわんわんと、鼓膜の奥で鳴いていた蝉の声に低くて冷たい、死人の手みたいな温度の声が楽しげにハーモニーを奏でた。男はアドラの「いやなもの」を煮つめた形をしていて、笑うのをやめたせいでまあるく開いた男の口はまるきり地獄の釜の口だった。

    「私が死んでも悲しくないでしょ」

    パ、と。蝉が泣き止む。ク、と。ふっと煮え立つ血の池が消えて、今度は左の頬も均等に吊り上げた男が再び笑っていた。綺麗な笑みだ。何かのお手本みたいに。嫌なことを聞くな、と思った。心を読まれたようだった。この男、マッスグ立てた中指にイボの着いた指サックを嵌めて、毳だった神経を逆さに撫でるようなことばっかり言う。おそらく、共感力が高いのだな。人にされたら嫌なことがよく分かるから、人の嫌だと思うことが上手にできる。ヒトの心があるから人でなしのフリがうまいのだ。そんでもってアドラは多分、この男のそういうところが嫌いなのだった。

    「……趣味が悪いの、意地が悪いの、それとも性根?」
    「あるいは全て」
    「いっそ死んでくれたらいいのに」

    投げ出すようにアドラは言った。
    幼い頃、自分の手を引く兄がこれだけは他人に言っちゃいけないよ、と教えてくれた言葉のリストの、上から二番目にある言葉を使った。胃の腑がキリキリとして、誤魔化すように酒を煽る。
    氷が解けて、ほとんど味がしなかった。
    眉をしかめる対面でにやにやと影法師が笑っている。

    「残念、あと八十年ほど生きる予定でございまして……」
    「化物かよ」
    「まァ酷い!だって人間の平均年齢は八十とそこらでございますでしょう。私、人生というものを初めてからまだ数年でござい……」
    「あぁそう」

    遮るように言って、アドラはガシガシと髪を掻き回した。頭がおかしくなりそうだったからだ。雑に髪をたばねていたゴムが指先にひっかかって、そのままするりと抜けた。紫紺の髪が舞う。ジンと憂鬱な気分になった。母とよく似た髪色に、父とよく似たうねり方、兄とはそっくりおなじ色だ。動物性のタンパク質が焼ける匂いの中で、簾みたく自分に被さっていた色。首の骨が捻くれると皮膚がどんな色になるのかアドラはとっくに知っていて、何年経っても視界に入ると嫌な気分になるくせに未練がましく伸ばしている。
    そんなアドラに気づいていないのか、はたまた最初から気にしていないのか、浪岡はやけにのんびりとした声を出した。

    「それだけ長く生きる予定となりますとねぇ、やはり友人というものが必要になるでしょう。えぇ、人をニンゲンたらしめるのはまたヒトでございますから」
    「……」
    「宜しいじゃあないですか。ひとつウンと言ってくだされば、それで貴方がどう思っていようが私は納得します」

    駄々をこねるような口調で彼は言った。マッタクもって似合わず、本当に気味が悪いこと。黙ったままのアドラを見て、彼はさらに重ねて言った。くろぐろとしたまつ毛が瞳を隠す。短くて、けれど隙間なく生え揃っているのだ。

    「だって僕はひとりなんだもの……」

    男はまるで幼い子供を慰めるような、自分に言い聞かせたような言い方をした。わざとらしく視線を寄越して哀れっぽく片目を眇めて見せる。く、と寄せられたのはやはり右眉で、左右で非対称な視線は半分きっかりに冷め切っている。揺らされた語尾には意図的な被虐意識が込められていて、少し小馬鹿にされているような感じもした。実際そうなんだろう。お前もそうだろ、と煽られているようにも、お前と自分とは違うのだと突き付けてきているようにも感じた。多分、こちらがどう捉えるのか伺っているのだ。性格も趣味も最悪だ。だからアドラもわざと左眉を寄せて──もともと顔の右側は火傷のせいで動かないのだ──売られた喧嘩を買い叩くことにした。

    「お可哀想だこと」
    「ンは、怒らないでくださいよぅ……」
    「誰が。同情もしてやらない」
    「ふ、ふふ。ふ……」

    そう、と。満足気な声がひとつだけ落ちた。
    初めから期待なぞしていないのだな。それが余計に癪に障る。
    こめかみを隠すような指先が白く、血が行き届いていないのかもしれなかった。
    整えられた風な爪先のまろさすら気に食わずに、アドラは禄でもない男に復縁を迫られた女が横っ面を引っぱたくみたいな語調で言った。

    「大体ね、友人がいようがいまいが私は一人だし貴方も一人のままなんですよ」
    「そうですねぇ」
    「……例え同じ細胞を分けて産まれていたとしても、この世に生まれ落ちた瞬間から僕たちは一人の個人でしかないんです」
    「うん」
    「ひとりで、生きていけるんです」
    「知ってますよ。私もひとりだから」

    でもねぇ、と間延びしたままの声が呟いた。

    「独りで生きてきたわけじゃないでしょう」
    「……だから友達になってやろうって?」
    「逆ですよ。私がひとりになってしまったから」

    そうですよ、と言われたら振り抜く準備をしていた拳をそっと解く。

    「寂しいんだ」
    「人間ですから」
    「そういうものかな」
    「そうですよ。人間って、世界でいちばん孤独ないきものなんです」
    「まるで見てきたように言うね」
    「うん」
    「前世は鯨だったりするんですか」
    「52ヘルツ?」
    「そう」

    クツ、と。あぶくの様な笑い声がひとつ弾ける。真っ黒な水面が揺れている。あぁきっと、この男はいつか人間じゃなかったのかもしれないとふと思った。鯨のような、けれど別の、理解もできないような大きな大きな。
    あてもなく海を漂う生き物。世界中どこにでも行けるのに、ちっぽけな陸には上がれない。可哀想だと思った。羨ましいと思った。大きく力強い身体を棄てて、小さく細く頼りない脚で陸を歩こうとした意思が。
    当てつけのようにアドラは言った。

    「確かに、きみの方がよっぽど寂しそうにみえるね」
    「そうでございましょう、そうでございましょう」

    男はニコニコと繰り返した。

    「お友達になりましょうよ」
    「嫌だね」
    「ツレませんねぇ」

    浪岡は顔を逸らした。チットも残念そうに見えなかった。その顔は相も変わらず、ニコニコと微笑んでいる。
    白い瞼が黒い瞳を隠して、ぼんやりとした蒼い隈ばかりが映えていた。別れ話を切り出される覚悟を決めた男のように曖昧な顔だった。
    それがあんまり可哀想に見えるもんだから──死んでも言わんと思っていた言葉を、アドラはそっと放り出してしまった。
    濃くてむせ返るような煙を吐く音だった。

    「名前をつけるといつか終わるよ」
    「おや」
    「鍵ならいつでも開いているでしょう」

    柳のような細眉をぐいと吊り上げ、浪岡は驚いた顔をした。アドラはもうなんにも言わず、ジッと岩のように座って、とっくに火の消えた煙草のフィルターをもぐもぐとした。
    不用心ですねぇ。弾んだ声が舞う。
    薄煙がシンと低い天井に重く渦巻き、こぼれた麺つゆがキラキラと眩しい夜であった。
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