八杉8 口にしてしまえば。声に出してしまえば楽になることって、たくさんある。
世の中には、認めてすんなりと受け入れられるようになって、地に足がつくことの方が圧倒的に多い──なんて、よく思うようになった。
少し前までの僕なら考えられないことだ。
抱え込んでいる八神さんへの憤りや蟠りが八神さん自身によって取り払われてしまったら。
そう思うと落ち着かないからこんなこと考えるんだと思う。不安に足を取られそうになる。
僕の中に残るものはなんだろう。
何も残らなかったらどうすればいいの。どうしたらいいの。そればっかり。
憎んでいるはずの相手に寄りかかって生きている現実を突きつけられて、もうどこにもいけなくなりそう。
そう思って、前にも進めずにいて、後ろにも逃げられない。
「よくこんなところで眠れるよね……」
悶々としながら事務所に戻ったら、予想通り八神さんはソファで眠っていた。
体を伸ばしきれないで窮屈そうに縮められた手足。あまり快眠できていないことがわかる、眉間に寄った皺。
暖房がかかっていたって、十二月の気温に対してライダースジャケット一枚なんて寒いに決まってる。
もう、と溜息をつきながら部屋の片隅にしまわれていた毛布を引っ張り出した。
肩までかけると、八神さんがん、と声を漏らして身じろぐ。
起こしてしまったかもしれないことよりも、近付いた状態で八神さんが目を覚ますかもしれないことに動揺する。
眠りが浅い人だってことを忘れていた。
「……す、ぎ…うら……?」
起きないで、と願う想いはあっさりと裏切られて、八神さんは薄く目を開いた。
室内の灯りにひどく眩しそうにすると、片腕で顔を隠す。
「調べものが済んだから事務所に寄ったの。こんな寝方してたら風邪ひいちゃうし体壊すよ、八神さん」
うまく隠せているかな。
そればっかりを考えて、呆れたふうを装って八神さんに言う。
声が震えてなければいいな。
あー、とところどころ跳ねた髪を掻きながらソファから起き上がった八神さんから、さっきまでのまどろみが緩やかに去ろうとしていた。
緩慢な仕草で毛布を脇に退かして、座れよ、って僕の手を握る。
八神さんはもともと高めの体温だけど、寝ていたことでその手はもっと熱くなっていた。
言葉の柔らかさに反するようにしっかりと握られた手からじわりと体温が伝わる。
断る理由もなければじゃあ僕はこれで、と逃げるタイミングも見失って、促されるままに一つ空けて隣に座った。
間髪入れずに「なんで?」と言われて「えっなにが?」と返すと、八神さんはいや、うん、と歯切れ悪く呟く。
座ったところで僕から話すことはなくて。
何か当たり障りない話でもしたほうがいい?と考えあぐねていると、ぎし、とソファが軋んだ。
空けたはずの場所に八神さんが移った音だった。
距離を詰められたことを認識してすぐに、抱き寄せられる。
「……お前のほうが冷えてるよ」
ずっと外にいたから、髪は確かに冷えていたかもしれない。
けど今、そんなことを考えられないでいた。
香りに明るくない僕には何をつけてるかまではわからないけど、八神さんのにおいに包まれていることはわかる。
まだ眠そうな声だなと思っていたから、寝ぼけてたってことに無理矢理でも理由付けしたかった。
でなきゃ、僕を抱き寄せる理由はなに?
「……っ、やがみさん、」
「ちょっと待ってて」
逡巡した末に、八神さんから離れなきゃ、と思ったタイミングで毛布が僕にかけられる。
簡易キッチンへ向かう八神さんを見上げると目が合った。柔らかく微笑んで、優しくくしゃりと僕の髪を撫でる。
いまどうしてそんなことしたの八神さん。そう詰ってしまいたくなって、顔を覆って俯いた。
頭がどうにかなりそう。
それにね、僕はコーヒー飲めないよ。苦いのは苦手だから。覚えてないでしょ。
「杉浦はカフェオレでいいよな」
尋ねるというよりは確認のような言葉に、うん、と返す。
それでも、甘くないと無理だよ。
「砂糖は二つでよかった?」
重ねて向けられた言葉に僕はまた頷いて──、
「八神さんが好き。だいすき」
それまで音にしないで呟いていた言葉を、初めて声に出した。
八神さんに聞こえませんように。
そう、祈りながら。