八杉 39 抑えきれない期待や悦びで足速だったくせに、僕の足はぴたりと歩みを止めた。
週の始めだからか人もまばらな、たくさんの店が並ぶ繁華街の一角。そこに視線が釘付けになったまま。
一見、居酒屋には見えないような落ち着いた装飾の軒先で煙草を吸っているのは、よく見知った人で、今日約束している相手。
最初に出会ってから六年も経って、背中を追うと決めてからもう三年もそばにいて。
その間に深い仲になった、僕の大切な人。
いつも僕に柔らかな表情を向けてくれる八神さんが、春の夕暮れのぬるい風を受けながら空を見上げてる。
何だか寂しげに見えて、けれど、どこか艶があって。
付き合いはそこそこ長いけど、見たことのないその横顔に、僕の心臓は落ち着かなくなってしまった。
居酒屋で予約が取れたからと、書類作成中の僕のスマホに連絡が入ったのは一時間ほど前のことだ。
新しくオープンしたばかりの時に「ここ、気になってるんだよね」とお店の情報を見せたのを覚えててくれたみたいで。
「僕、まだ給料日前なんだけどな〜」
「知ってて誘ってるんだよ」
「やったー!八神さん大好き!」
「はいはい」
簡単な電話のやりとりだったけど、僕は三週間ぶりのデートのお誘いに浮かれまくってた。
先に向かうから来られそうな時間をメールしてくれ、ってメッセージと共に添付されてきた地図を何度も開いてたからか、「杉浦氏、今日は早上がりで大丈夫ですぞ」ってにこにこされたくらいには。
自分がどんなにソワソワしてたかを指摘されたようで、めちゃくちゃ恥ずかしい。
九十九くんにひたすら謝りながら事務所を飛び出して、信号待ちすらももどかしいくらいはやくはやく、って、遊びに行く前の子供のようなドキドキ感で満たされていた。
なのに。
久しぶりに八神さんを見たら、一気にぶわりと体温が上がって、呼吸がはやくなって。明け透けに言うなら、僕はいま、八神さんに欲情してるんだと思う。
ひどくゆっくりにはなったけど、抑えきれない衝動は無遠慮に背中をぐいぐい押す。まだアルコールも入れてないのにふらふらした足取りで、まるで引き寄せられるように、八神さんのもとへ。
さすが探偵、って言うべきなのかはわからない。けど、まだ僕との距離は結構ある地点でふとこっちに視線を向けた。
紫煙を燻らせている最中は細めていた目を丸くして、それから眉尻を下げてふわりと笑みを浮かべる。
それは、溶け合ったみたいに境界線がわからなくなるくらいの熱を共有した翌朝、目覚めた僕を見ている時の眼差しと変わらない。
だから、一瞬で蕩けてしまいそうな甘い痺れが、体を支配した。
僕はひといきに距離を縮め、八神さんの首にかじりつくように抱きつく。
「お、っと、あぶね」
勢いでタックルみたいになったけど、ふらつきながらもしっかりと僕を抱き留めてくれた。
子供か、って笑う八神さんの頬を両手で包んで引き寄せて、煙草を外したばかりの唇を奪う。
愛煙してるセブンスターは苦い味がするらしいんだけど、キスの時にそう感じたことは一度もなかった。
むしろ、まだ唇を離したくないと思えるくらい、ひどく甘く感じる。
勢い任せのキスはあとから思い返すと恥ずかしくなるんだけど、とにかく今は、八神さんのくちのなかを味わうことに夢中になることに決めた。