僕が聞いたことのある『それ』は、少し苦い時もあるけど、その苦さもやがては甘さへと変わるもの。
いつもそう聞いていた。
当時の僕にはよくわからなかったけど、彼女がそれをとても大切にしていたのを知ってる。
だってその話をする時は、彼女はいつも優しい表情を浮かべていたし、とても美しかった。
こんなにも彼女を強く綺麗にしたものに、いつかは僕も出逢うことが出来るのかな、なんて。
少しずつ思うようになっていったんだよ。
彼女には、とてもじゃないけど恥ずかしくてそんなこと言えなかったけど。
だって面映いでしょ。
きょうだいで恋バナなんて。
絵美はいいよ、しようよって笑ってくれたかもしれない。文也とこんなことを話せるなんてね、って言ってくれたかも。
けど、僕にはとても素面でそんなことできなかったと思うし、そもそもあの時の僕にそんな話をするのは到底無理だった。
でも、結局それに出逢うことなんてなくて。
出逢ったのは深くて暗い闇と、目の前が真っ赤に染まるような怒りと苦しみと憎しみだった。
見たことのないものへの淡い憧れなんて、強すぎる感情の前では儚く消えてしまう。
僕の頭の中はあっさりと昏い色で塗り替えられたし、欲しかったものとは似ても似つかない、真逆のものに取り憑かれた。
もう立てない。そう思っていた僕は血の滲む唇を噛んで、ただひたすらに前に向かって走って。
全てを振りきって、意識を研ぎ澄ませる。
その背中に、心臓に、恨みと憎しみと怒りを突き立てることだけを考えて。
そしてようやく掴んだ。
憎み続けた男の化けの皮を剥がしてやる。腐りきった心を抉り出してやる。そう思ってたのに。
「なのにさ、こんなことってないと思わない?」
そう言って、仮面を外した杉浦はあはは、と笑った。
明るいようでいて、ひどく乾いた声だ。
俺を見上げる瞳は月明かりを浴びてきらきらと煌めいている。
強い眼差し。真っ直ぐで、美しい。
「今になってこのタイミングで、ほしいけど諦めたものに出逢うなんて、思わないじゃん」
ねぇ、八神さん。
そう言って、杉浦はくしゃくしゃに顔を歪めた。
泣きそうだと思ってたら顔を伏せて、俺の胸を軽く叩く。
そこは、もしもこの手に刃物が握られているならば、致命傷を負わせることができる場所。
何度も繰り返したことがあるとわかるほどには、杉浦は正確に突いてきた。
物理的な痛みはない。
けど、拳があたるそこから熱と、じくじくとした痛みが広がっていく。
じんわりと心臓を覆い尽くす感覚に眉を寄せた。
もどかしいような、苦しくなるような。
覚えがある気もする。けど、こんな気持ちは初めてだった。
痛々しい叫びが空気を震わせて、俺はいつもより小さく見える体を抱きしめる。
無意識だった。
微かに肩が揺れて緊張したのは一瞬。
俺のジャケットを強く握った杉浦は、されるがままに抱き寄せられた。冷えてしまった髪を撫でる。
あの時だって、本当はこうしてやりたかった。
たとえ拒まれても。
たとえ、もっと嫌われても。
「……困らせて、ごめんね」
嗚咽が途切れた合間に、杉浦がひどく穏やかに言った。ひくひくと鳴る喉を抑えて、真っ直ぐに俺を見つめる。
こんな時でもひたむきで、潔い。
頬を濡らす涙を手の甲で拭ってやると、「優しくされるとつけあがるよ、僕」と涙声で笑って。
「この気持ちを殺すことを諦めて、ごめんね」
少しだけ背伸びして俺の唇を奪った。
初めての口付けは、甘さにはほど遠く。
けれど、恋には一番近いものだった。