アレキシサイミア2-A オマケ——美しいダブリンの街、可愛いモリーマローン、新鮮なムール貝、熱病、幽霊。
低い小さな声が歌を口遊んでいる。
目を覚ましたベッドの上、首だけを動かして向かいのベッドを見遣ると、ライルは反対側を向いて寝転んでいた。
不可思議な歌詞の異国の歌謡に、刹那は何故か覚えがあった。
数時間前よりは幾分明瞭になった頭で思い出そうとするが中々出てこない。
しかし、不意に鼻を擽った微かな煙草の匂いに、その解答が頭の中で忽然と閃いた。
何度も脚を運んだパブで気持ちよく酩酊した酔っ払い達が、ギターの旋律に合わせてがなるように歌っていたのだ。陽気な濁声は同じフレーズを何度も繰り返していた。
――Alive、alive、oh。
一時、ほんの数回聞いただけだったがその一節は今でも耳に残っている。
刹那の視線は、鳶色の髪が一房垂れている彼の背中からすっかり動かなくなっていた。
彼を見極める為に、或いは己の心のけじめを付ける為に訪ねた其処で幾度か遭遇した光景。喧噪、アルコールとタールの臭い、赤らんだ白い頬、鷹揚そうに細められた緑色の瞳。
断片的な記憶の奔流を、過去から現在へ順繰りに整理をしていくにつれて、彼を見詰めている事が不意に後ろめたくなった。
彼を直接的にこちら側へ導いたのは自分の癖に、その自らの失態の後始末をさせてしまっている事実が刹那の胸へ重石を落とす。少し呼吸が不自由になった。
こんな事をさせる為に連れて来た訳では、する為に来た訳では、無いのに、無いだろうに。
ぎし、と隣のスプリングが鳴る。寝返りを打った緑の鷹目と、視線が合ってしまった。
「起きてたのかよ」
寝転んだまま、少しばかり気怠そうな声がそう言う。目を覚ますのを待っていたのかと、刹那は慌てて半身を起こした。
「すまない。もう動くのに支障はない、直ぐに」
「いいから、もう少し寝とけって」
食い気味に、出発を却下された。少し、ほんの少しばかり反感を覚えて首を振ろうとすると、相手も首を振って腰強に牽制してみせた。
「俺が疲れてるの」
解るか?と念を押されて閉口する。さっき、服が水に濡れるのを馬鹿みたいに心配した刹那を窘めて来た時と全く同じ調子だった。少し前に見た憤慨をもうすっかり何処かへやった、打って変わったシニカルな(時として偽悪的にすら見える)言い様と表情に、彼がいつも通りにしようとしているのだと理解した。
今のは、中々に察しが早かったのではなかろうか、及第点は得られた筈だ。
子供染みた思考がふわふわと散らばり始める。成程、確かに本調子には未だ程遠いらしい。刹那は彼の言う通り、もう少しだけ眠る事にした。