イケナイ薬を飲まされた(意訳)刹那の話 横面へ一発貰ったと同時に、鼻先から垂れ落ちたそれがコンクリの床へ点々と赤を咲かせる。
「まだ死んでねえのかよ、気味が悪いぜ」
「それならミュールにしちまえばいい。ちょうど昨日、一匹潰れたところだったんだ」
もう何度目になるか解らない打撃で視界は霞んでいるし、よく聞こえなくなっている耳に男達の声はわんわんと反響するばかりだ。
不味いと思うものの、間髪入れず鳩尾へ減り込んだ前膝に、とうとう足から頽れてしまった。
「おい見ろよ、綺麗な面してるじゃねえか。勿体ねえ!」
失神寸前で、緩んでしまった口端に節くれ立った指が強引に割って入って来る。ざらついた指の腹が粘膜を引っ掛けていく感触に、吐き気が湧いた。
「もっと上向かせろ。…喉の奥まで入れてやるからな」
別の方向から伸びて来た、何かを抓んだ指先が宣言の通り、強制的に開かれた口腔の奥深くにまで突っ込まれた。嘔吐反射に引く付く咽頭が、抓まれていた塊体を押し込まれた事で更に激しい痙攣を起こす。
「上物なんだ、吐くんじゃねえぞ」
無骨な掌に鼻と口を覆われた刹那の、細い喉が観念したように一度だけ、ごくりと上下した。
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同僚のミッション失敗・撤退の第一報を聞いたライルは心配やら怒りよりも、嘘だろ?とその事実を疑って掛かる気持ちが先立った。さぞ酷薄な反応に見える事だろうがそれが、ハイスペックな同僚の普段を知るライルの、率直な所感だった。
「すまない、油断した」
と或る州都にある国際空港から一番近い病院の一室を融通してもらって運び込まれた、顔やら腕やらの彼方此方に傷を拵えた年下の先輩は、ライルを見るなり開口一番そう詫びた。
油断。確かに、それ以外の何ものでもなかったのだろう。
彼はここ数日メソアメリカの北限で(二四世紀を以て未だに数多く形成されている)麻薬カルテルの中の一つに張り付いていた。目的はギャングそのものではなく、その資金を吸い上げている上の存在をリサーチする為に、その末端を追尾していたのだが――。
”ホメロスだって偶には居眠りする事もある”
複数に囲まれて気絶するまで殴られれば如何な革新者と言えど、打つ手も足も無い。小遣い稼ぎが目的で嗅ぎまわる若造にでも見えたのだろうか、正体こそ看破されなかったが、それ故に使い捨ての運び屋に選ばれてしまった。
視線を向けた先にあるレントゲン写真には、ACP弾によく似た大きさとフォルムのシルエットが三つ、彼の腹腔下部に映り込んでいる。
投入されてから約12時間後に溶解するよう造られたカプセルに包まれた塩酸塩――有体に言えばコカインだ。
ボディパッキング自体は珍しい手法でも無いが、強制的と言うのは初耳だった。恐らく、傍に控えていた医療班も同じだったのだろう、怪訝な表情でそれを睨めている。
今日日、不運で迂闊な堅気者を運び屋へ仕立て上げるのに、家族や恋人と言った人質を用意する必要もなくなったと言う事らしい。
『死にたくなかったら、大人しく腹の中のモンを運ぶことだな。逃げても無駄だぞ、お前は常に見張られてるんだ』。
凡そ1グラムが致死量であるのに対して彼の胃に押し込まれているのはその9倍程度、それが破裂して一気に粘膜吸収なんぞされたらひとたまりも無い。
『心配すんなって、向こうへ着いたらすぐに取り出してやるからよ』。
質に取られたのは己の生死、ボディパッカーはその言葉を信じて飛行機へ乗り込み、そして現地で約束通りに腹を裂かれて荷物を取り出されて、その役目を終える。
「それで…どうするんだ?」
御存じの通り、不運でも迂闊でも堅気者でも無かったこの青年の肚中にあるカプセルはタイムリミット前で、型崩れもしていない。排出方法を何方とも無く尋ねれば「全腸管洗浄を行います」とスタッフが答える。幾つかの錠剤を手渡されている刹那の様子を見守っていたライルと、彼の視線が搗ち合った。
世にも珍しい、しかし死を招き掛けた失態に、苦言の一つでも呈した方が良いだろうかとも思ったライルの考えは、しかし直ぐに萎んでしまった。
いつもの鉄面皮が心做しか気まずそうに歪んでいる。
年相応の、ガキみたいな表情だ。
不首尾を悔いているのか、思い出したくない過去の事でも思い出してしまったのか。
「下剤で全て出し切れなかった場合は、これを挿管しての処理になりますね」
スタッフが手に取った胃管カテーテルを見遣る目尻が、一度だけ明確に、ぴくりと引き攣った。気の毒な事に、追い打ちだったらしい。
「アンタ、医者嫌いだったんだな?まあ精々、気張って来いよ」
他の連中には内緒にしておいてやるからさ。これまた珍しくしょぼくれた先輩への、偶の気遣いのつもりでそう笑い飛ばしてみたのだが、その目尻が更に下がったのを見て、失敗したらしい、とライルは頭を掻いた。
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オマケ(ライ刹)
「血は止まってるけど……瘤になってる。寝る時に苦労するぜ、コレ」
独り言みたいな調子で話し掛けながら、いつもより強ついた黒髪を混ぜ返す。碌に返事が返って来ないのも慣れたものだ。
凡その治療は済んでいたが、目立たない傷を隠す癖のある相棒を無人の処置室へ引っ張り込んだのは少し前の事。
腹の中にあった薬物と一緒に暗い澱も出て行ったのか、少しはマシな顔色になった言葉少なな青年の、鼻先にこびり付いた鼻血の痕を拭ってやりながら、今度は顔の傷を検める。
「こっちも男前に仕上がってるな」
グルーミングを受ける獣の仔のように大人しかった青年の片眉が、鬱血した頬を一撫でした瞬間にぴくりと上がったのを見て、ライルは「口、開けてみろよ」と催促した。催促に、血管が幾らか破裂したのだろう白目の縁を赤く濁らせた眸が少しだけ見開かれたが結局、逡巡の後に素直に開口した。
「口の中もざっくりいってるわ。……ツイてなかったな、今日は」
下の歯を指で抑え付けながら覗き込んだ口の中、見つけた大きな噛み傷が心底痛ましく映った所為か、思いの外、穏やかな声が出た。
さっきは不発に終わった気遣いの埋め合わせでは無いが、このすっかり傷だらけになった相棒を、もうさっさっと寝かせてやりたくなった。
「オニノカクラン?ちょっと違うか。まあ、こんな事も偶にはあるだろうさ。流石に草臥れただろ?後はやっとくから、今日はもう上がっちまえよ」
いいや、と言おうとして口の中の指を思い出したのだろう、動き掛けた唇を止めて、刹那は二回、素早く瞬きをした。
NO。否定のジェスチャー、平気だ、この程度のことは何の問題もない、と言ったところだろうか。
この、細やかな慰めも憐憫も必要としない、相変わらずの鉄心はいつだって、ライルに感心と諦観を抱かせ、羨望と言う刺を突き付けていた。
肩を竦めて、「そうかい」と応える傍らで、その刺に刺された頭が不意に、余分な事を思い出した。
——彼がここまで派手に顔を腫らしているのを見るのはこれで二度目だ、と。
「ん、うっ…?!」
気付いた瞬間に、真っ赤な空洞の中の(きっと明日辺りには綺麗に消えてしまう)咬傷へ、指の腹を思い切り擦り付けていた。
痛みにがくりと下がった顎、開きっぱなしだった所為で舌下に溜まっていた涎が溢れ、そこを伝って零れ落ちていく。
「ラっ、ィ…ル…!っん、っ……」
喉奥にも滑り落ちた唾液で咽っているにも関わらず、口の中の指を噛み締めないよう、舌で押し返そうとしてるのが、何ともいじましく、痛々しい。
「まぁそうだよな。腹の中に詰め込まれるの、好きそうだもんな?」
今日二度目の失敗にライルは眼を眇めた。
(優しくしようと思った先から、これだ。)