「ジャズ」
そっと頬に触れ呼びかけると、私の胸元のボタンをガチャガチャと弄んでいた音が止む。頬に当てた手を滑らせて髪を掻き上げてやると、手の動きに合わせるようにゆっくりと彼が顔を上げる。不安げに揺れる赤い瞳が私を捕らえる。
「なに、アズアズ」
「……いや、何でも」
自分で呼んでおきながら、次に投げかける言葉が思い浮かばず、私は彼から顔を背けた。
別に、何かを伝えたかった訳ではない。ただ、少々意外だったのだ。いつもは飄々としている彼が、今、少し強張った表情と震える指で私に触れようとしていることが。
彼との付き合いも、もう随分と長くなってきた。だから私は、このアンドロ・M・ジャズという悪魔について、彼を囲むそこらの有象無象の女どもと比べればずっと詳しいと自負している。私だけが知っている顔だってある。だから、歳のわりに大人びた色気と悪い男の空気を纏う彼が、存外に照れ屋であることも、思ったことがすぐに顔や仕草に出てしまうことも知っている。
だが、まさか今、この状況で、彼のそんな年相応に幼い部分に触れるとは思っていなかったのだ。
彼の指が、再び私のボタンに触れる。金属音を奏でながらやっと1つ外して、辿々しい手つきのまま2つめのボタンに指がかかる。普段ならばあのカルエゴ卿からでさえも物を盗んでみせるほど器用な癖に、今はボタンごときにこんなにも翻弄されている。そして、彼をそんな風にしてしまったのは、きっと他でもない私なのだ。
「……お前は、もっとこういった事に慣れているのだと思っていた」
私が呟いたのと同時に2つめのボタンが外れ、ジャズが再びこちらに目を向ける。赤い瞳からは先程の不安の色は消えて、まんまるに身開かれている。
「え……なんで?」
ジャズは本当に心当たりがないようで、不思議そうに首を傾げている。
「何故って……お前、女子にかなり人気があるだろう。サバトに誘われているのだって何回も見たぞ」
「……あぁ」
納得したようにジャズが小さく頷く。私からの言いがかりを否定しないのは、自分の人気を自覚しているからか。
パチリ、と3つめのボタンが外れる。手が慣れてきたのか、すぐに次のボタンも外される。先程までのもたつきが嘘のようにスルスルと服を剥がされていく。だが、まだ本調子ではないようで、指輪のぶつかる小さな金属音が繰り返し聞こえてくる。
「ねぇ、アズアズ」
私の名前を呼びながら、彼がおもむろに私の横腹を撫でた。肌に直接触れる手の感触で、上半身に纏っていたものが全て床に落とされてしまっていたことを知る。彼はそのまま手を下に滑らせて、私の腿を撫でながら言葉を続けた。
「もし、もっとスマートにこなせる男を期待してたなら……ごめんね」
その少し哀しげな声色に、ハッとして顔を上げる。
眉をふにゃりと下げて自嘲気味に微笑む彼の姿に何だか胸がキュッと締め付けられて、私は思わず彼を強く抱きしめた。
ジャズは、私が経験豊富な男に抱いてもらえると期待していたと思ったのか。そして、本当はそうではないと知られて、私をガッカリさせたと思ったのだろうか。だとしたら、私はきっと彼の心を深く傷つけてしまったのだろう。
だが、私が抱いた感情は失望などではない。そういうことではなくて、本当に身勝手な話だと自覚しているが、私は。
「……安心、したのだ」
「え?」
ジャズの肩が、ピクリと小さく揺れる。抱きしめたままでは顔が見えないが、きっと驚いた表情をしているのだろう。私はそのまま言葉を続ける。
「一度お前に抱かれてしまえば、私はお前が抱いた数多のうちの1人になってしまうと……きっと、お前にとって取るに足らないものの1つになってしまうと思っていたのだ」
淡々と言葉を繋ごうとするが、どうしても端々が震えてしまう。今まで胸の中に抱え続けてきた不安が、やっと出口を見つけたとばかりに押し寄せているようだ。
「アズアズ、ずっとそんなこと考えてたの?言ってくれたら、すぐに誤解を解いたのに」
「そうだな……だが、私には……イルマ様を1番にお慕いする私には、お前にそんな事を言う権利なんてないだろう」
言葉にして、思わず涙が溢れた。
バビルス入学以来ずっと、私にとってイルマ様は全てだった。イルマ様をお守りしたくて、力になりたくて、誰よりも幸せになっていただきたかった。
だが、ある時、そんな私の心にスルリと黒い蛇が入り込んできた。
その存在は私の心の中でどんどん大きくなっていき、時にとてつもない幸福感を私に与え、時折途方もない淋しさと胸の痛みも与えた。
どうしようもなく泣きたくなる夜があって、かと思えばその日の出来事を何度も頭に思い浮かべては胸がじんわりと暖かくなる夜もあった。
そんな日々を何度も越えて、私は、これが所謂「恋」というものだと自覚したのだ。
しかし、やはりそれでも私にとってイルマ様が1番であることに変わりはなかった。
イルマ様のお側に居られることが私にとっての幸せで、きっとそれは未来永劫変わらないのだと思う。
そんな相反するようで、だけど確かに私の心の中で共存する気持ちが、私の中でずっと枷になっていた。
ジャズを1番に思えない私では、彼に遊びで抱かれたって、関係を持った後に飽きて捨てられたって仕方がないと、ずっとそう思っていたのだ。
本当はそんなことは死んでも嫌だけれど、それでも、たった一度でもいいから彼を身体に刻み付けても欲しかったのだ。
「……アズアズは、俺の特別になりたいの?」
私の背に回す腕にグッと力をこめて、彼が問いかける。
彼の肩口はすっかり私の涙でグショグショに濡れてしまっていた。
「……そう、なのかもしれない……」
きっと、ずっと、そうだったのだ。私は、彼の1番になりたくて仕方がなかった。自分は彼を私の中の1番にはしてやらないくせに、何と傲慢なのだろうか。だが、それでも。
「私は、ジャズの、特別になりたい……」
彼の肩に顔を擦り付けて小さく呟くと、彼の大きな手が私の頭を優しく撫でた。私の目から溢れた水滴が、彼の背を伝ってシーツに染み込んでいく。
「……そんなの、もう、とっくにアズアズは俺の特別だよ」
ジャズの言葉に、私の胸の奥がじわりと温かくなる。
「アズアズにとって、イルマくんが特別なのは知ってるよ。だけど、俺も……イルマくんとは別のとこでいいから、アズアズの、特別にして……」
絞り出すような彼の声が耳に流れ込んでくる。私の肩口にも温かな雫が2、3滴落ちてきたのを感じた。
きっと私たちは、ずっと互いに、互いの中の自分の立ち位置が分からなくて傷付き合っていたのだろう。
「それこそ今更だ。私は確かにイルマ様を敬愛しているが……」
伝えたい言葉があまりに気恥ずかしくて、言葉に詰まる。だが、私は今、彼にちゃんと伝えなければならない。だから私は、心を落ち着けるように大きく息を吸い、言葉を続けた。
「私が、恋、をしているのは……お前だけだ、ジャズ」
言い終えた瞬間、私を抱きしめていた腕の力が緩むのを感じた。そして気付いた時には、背に回っていたはずの両手が私の頬を包み込んでいて、柔らかな感触が唇に押し当てられていた。
突然の感触に、反射的にキュッと唇を結んでしまう。だが、啄むように繰り返し唇を喰まれて、少しずつ唇に込めた力が抜けていく。そんな隙を彼が見逃すはずもなく、ほんの少し開いた唇の隙間からヌルリとした感触が入り込んできた。
ジャズの舌が、私の口内を蹂躙していく。ディープキスは、相手の舌遣いが上手いと腰が砕けるほどに気持ちが良いと聞いていたが、少し荒々しくも感じるジャズの舌の動きに辿々しく応えるのが精一杯で快感を拾う余裕はなかった。
だが、こうして柔らかな部分を絡め合って、お互いの境目が分からなくなるような初めての感覚に陥って、私の鼓動はどうしようもなく加速していく。
互いに貪り合うように舌を絡め合って、次第に息継ぎが上手く出来なくなっていく。酸素が恋しくなってきた頃、ようやくジャズの唇が離れて、再び強く抱きしめられた。
「俺、アズアズのこと一生大切にする……」
その言葉で、自分の頬が更に熱を帯びたのを感じる。こんな風に私を想ってくれる悪魔には、この先どれだけ出会えるだろうか。きっともう、二度と出会えないのではないだろうか。
「私も……大切に、する……」
言葉にするのは恥ずかしくて、でも、彼の言葉にはきちんと応えたくて、私は声を絞り出した。
それを聞いて、ジャズの腕に一層力がこもる。
きっと私は、今、魔界で1番幸せな悪魔だ。
彼の腕の強さから、聞こえる心音から、触れ合った肌の体温から、私への想いが流れ込んでくる。
そしてそれと同じ想いが、きっと私から彼に向けてもとめどなく流れ込んでいるのだろう。
彼の唇が、再び私の唇に触れる。
先程の余裕のない強引さは消えて、優しく溶かすようなキスが落とされる。ねっとりと舌を絡め取られて、私は全身から力が抜けていくのを感じた。触れ合った場所から身体がじんわりと熱く湿っていく。もうそれがどちらの熱なのかもわからない。
「好き」
「好きだ」
どちらからともなく囁き合って、私たちはまた唇を重ねた。何度も、何度も繰り返し唇を喰んで、舌を絡めて、歯茎をなぞった。
「……アズアズ、いい……?」
彼の手が、私のズボンのベルトにかかる。
ぐり、と固く熱い感触が腿の内側を擦り、その熱の正体に気付いて更に鼓動が速くなる。胸がギュッと締め付けられて苦しい。だが、不思議とその苦しさが心地良い。
返事は緊張で上手く声にならなくて、私は代わりに小さく頷いた。
そんな私に、彼は耳元で「優しくするから」と常套句のような囁いた。
怖くないと言えば、嘘になる。こんなことは初めてだから……いや、本当は少しだけ自分で準備もしていたのだが、怖いものは怖いのだ。
それでも私はこのまま彼を、今日という日を、私の身体に刻み付けたいと思った。
彼が私の首筋に、胸元に、横腹に、ゆっくりと辿るようにキスを落としていく。その感触で、緊張で強張っていた私の身体から少しずつ力が抜けていく。
身体中で彼を感じながら溶かされて、そのまま私は心も身体も、全てを彼に明け渡した。