デリヘル呼んだら千冬が来た/千冬視点① 自分にとって羽宮一虎が何なのかと聞かれたら、千冬は『お守りみたいなもの』だと答えただろう。
別に彼に何らかの御利益があるだなんて思っていないし、守って欲しいとも思っていないのだが、他にうまく言い表せる言葉がなかった。いや、どちらかというと横断幕か。目指せ甲子園とか、闘志なきものは去れとか、高校時代のグラウンドや体育館にそんな言葉がでかでか綴られた布が飾ってあったのを思い出したら、そっちの方が近かったかもしれない。
全然親しくもないし大して知りもしない相手なのに一途にそう思い込んで十年以上を過ごしたのは、千冬だって、そうしなければやっていけない心持ちだったからだ。
『場地さんに変わって、オレが一虎君を支えてあげなくちゃ』
という、後で思えば甚だ一方的な思い込みのようなものがあったからこそ、あの人がいなくなってからの人生を何とか前を向いたまま過ごしてこられた。
挫けそうな時はたびたびあった。東卍が解散したのとかは、まあ、いい。あの総長が軽々しく言い出したわけでも副総長をはじめ先輩たちがあっさり受け入れたわけではないとわかっていて、千冬にとってもとても重大だからこそ、真っ直ぐな気持ちで受け入れることができた。
だからもっとくだらない日常の些細なこと、寝坊してムカつく教師に嫌味を浴びせられた時とか、テストの結果が散々だった時とか――やたらと変な男に好かれてつきまとわれてうんざりした時とかに、『でもこんなことでヤケクソになったら、一虎君の力になるどころじゃない』という一心で、教師を殴り飛ばしたり解答用紙を破り捨てたり変な男を蹴り殺したりしなくてすんだのだ。
実際のところ、羽宮一虎という一個人というよりも、場地圭介が大事にしていた宝、つまりは自分だって無下にはできない存在の象徴として、ずっと胸の中にあったのだと思う。だからお守り。自分を鼓舞するための、クサいけど真摯な標語が書かれた横断幕。
それがもうちょっと具体的に、現実の人間として意識し始めたのは、彼の出所が近いと耳にした時だ。身元引受人がいなくてなかなか仮釈放の許可が下りないだとか、そういうのは、『被害者遺族』の方面から聞いた。悔恨や謝罪の手紙を出し続けていたことも知っている。
誰も迎えに行かないならオレが行ってやろう。そう決意するのに一秒もかからなかった。
そしてその日を指折り数えつつ、一虎が出所したらどう対応するか、どう面倒見るかも、千冬なりに真面目に考えた。
そんな中、地道に働いていたアルバイト先で、変な男に当たった。まただ。人生何度目だ。別に気を持たせるようなことをした覚えはまったくない、むしろ妙な愛想を振りまけるような性格でもないし、どっちかと言えばぶっきらぼうに対応していたつもりなのに、気づけば相手の距離がやたら近い。一応は警戒して素っ気なくしていたつもりだったのに、なぜか当然のように家に連れ込もうとするのが気持ち悪くて無理すぎて、ついついまた手が出て、すったもんだの挙句、割のいいバイトだったのに辞めなくてはならなくなった。
(――一虎君は、大丈夫か?)
だからふと、そんな心配が千冬の中で頭を擡げたのは、無理からぬことだった。
(男ばっかの環境に長年いたわけだし……)
誰も彼もがそういうクソ野郎ばっかりではないことはわかっているが、ストーカーじみた変態以外にも、自分が妙に同性に好かれる自覚は持っている。しかも嫁がいるとか彼女がいるとかでも安心できない。「君が悪いんだ」というセリフを人生で何回聞いただろう。
(一虎君にも、惚れられちゃったらどうしよう)
しかも一虎に対しては、親身になって面倒を見る覚悟だった。だって場地さんならそうする。家族同様に世話をして、寄り添ってやる。
そんなふうに接したら、向こうは誤解してしまうかもしれない。
(ちゃんとある程度の距離は保ちつつ……でもいつもだって他人にそうそう愛想よくしてるわけでもねえのに、変な気起こされちまうんだよなあ)
十年も辛いムショ生活をしているところに親切にすれば、思いを寄せられる危険は高い気がする。
(いや、でも、それでもオレだけは絶対に一虎君を見捨てないぞ)
そう決心をつけ、場合によっては一発二発入れるつもりで、千冬は一虎の出所当日、彼を迎えに行った。
◇◇◇
(え――あれが、一虎君?)
道の端に停車したフロントガラス越しに、塀の向こうから現れた男を見て、千冬は思わず目を見開いた。
記憶の中の羽宮一虎と、まったく違う。中学生時代にギラついた目で、敵はすべて殺してやるのだという顔で、「英雄になる」だの何だの言ってた相手しか、千冬は知らないのに。
十年の歳月が、きっと様々なことを想い、悔やみ、考え続けていたであろう心持ちが、一虎の面差しも雰囲気もまったく様変わりさせて――でもムカつくくらい整った顔立ちは変わらず、とにかく、
(……すげぇ、かっこいい……?)
声をかけようと近づく前に、ついつい足が止まってしまうほどには、一虎の容姿も佇まいも異様に千冬の目と心を捉えた。
(てか、前にドラケン君に見せてもらった東卍創設頃の場地さんの髪型にそっくりだ……)
そこで千冬には、一虎がどんな気持ちでこれまで過ごしてきたのかが、言葉にはできないけれど、わかった。わかってしまった。
(オレと同じなんだ)
一虎は場地を忘れていない。それどころか心の一番奥のところに根づいている。
そう理解して、千冬は胸が震えるような気分を味わった。この人なら。一虎なら。きっと一緒に、場地の夢を叶えてくれる。待ち続けた甲斐があった。
だから歩き出す一虎の横に車をつけながら、千冬は感慨無量で、声まで震えそうになって、でもさすがに顔を合わせるなり泣き出すのはキモいよなと堪えて、運転席のパワーウインドウを開くと、胸の裡を押し殺しながらただ軽い笑みを作った。
「お久しぶりです、一虎君」
一虎はすぐには千冬のことがわからなかったようで、ひどく面喰らったような顔をしていた。
「松野です。アンタを迎えに来ました。行くところもないだろうし、オレと一緒に働きませんか」
足を止めて千冬を見下ろす一虎は、ただ無言だった。
「住むところも世話しますよ。だから――」
だから一緒に、場地さんの夢を叶えましょう。
千冬はそう続けるつもりだったが。
「いや、いいです」
十年ぶりに聞いた一虎の声が告げた言葉の意味が、千冬には一瞬わからなかった。
「え?」
問い返そうとした時には、一虎は千冬に背を向け、一目散というのがぴったりな様子で、駆け出した後だった。
◇◇◇
つまり一虎を支えたいなんて考えていたのはまったくただの、一方的な千冬の思い込みで、当の一虎は、そんなもの必要としていなかったのだ。
一虎を追いかける気も起きず、呆然としたまま、借りた車をD&Dまで返しにいった。ちょうどドラケンはいなくて、イヌピーが声をかけてきた。
「何だ。羽宮っての、迎えに行ったんじゃなかったのか」
一虎の世話をするなら、佐野真一郎と縁のあった人にも話を通しておくのが筋だろう。そう思って、一虎はあらかじめイヌピーにもその旨伝えてあった。
「……いや……」
千冬は何とも答えられず言葉を濁しただけだが、イヌピーはそれですぐに、察したようだった。
「まあ、そりゃそうだろ。年少出た時にオレが『真一郎君に世話になったもんだけど』ってそいつ迎えに行ってたら、こっちにその気はなくても、向こうは走って逃げただろうと思うぜ」
「……走って逃げるようなタイプだとも思わなかったんすけどね……」
イヌピーの言ったことも自分の返答も、今の気分とはどうもズレているような気がしたが、とにかく千冬はイヌピーに車の鍵を帰して、自分のアパートに戻った。
そしてベッドで頭から布団を被ると、自分でも意味のわからない呻き声を漏らし続けた。
(何が惚れられちゃったらどうしよう、だ)
惚れるどころかビビられ、あるいは厭われ、逃げられた。
自分の思い違いに、思い上がりに、千冬は随分と打ちのめされた。空回り。独り相撲。そんな言葉が頭の中に湧いて出ては、恥ずかしいわ情けないわでちょっと泣いた。
だが夜にはクラブのアルバイトの面接があったから、どうにか気分を立て直して店に出向いてみたのに、オーナーに上から下までじろじろと値踏みするような視線を向けられ、「君、目つき悪いねえ」と一刀両断。
「ウチは和やかな雰囲気で売ってるから。君みたいなタイプは、もっと別の店の方が合ってるんじゃない?」
この場だけでもと精一杯愛想よくしてみたのに、荒んだ気分を見抜かれたのだろうか。それとも単純に、目つきの悪さが気に喰わなかったのだろうか。そんなのは生まれつきなのにどうしろと言うのか。
(――もういい。どこ行ってもうまくいかねえなら、いっそ高い金手に入るところに行ってやる)
クラブからの帰り道、千冬はそう腹を決めた。あとで考えれば根性を据えたというよりは捨て鉢になったという方がしっくりくる気分だっただろうが。
その足で再びD&Dに押しかけた。店舗兼住居になっているので、ガンガン呼び鈴を鳴らしたら「うるせぇな、イヌピーが起きるだろ!」と半ばキレかけたドラケンが出きて、千冬の顔を見るなりぎょっとしたように目を瞠った。
部屋の中に入れてもらって、ドラケン君の伝手で風俗紹介してくれませんかと頼んだら、まったくいい顔をされなかった。そこを無理矢理、強引に、土下座する勢いで頭を下げて、ようやく溜息交じりに「なるべく信用できそうな店当たってみる」と諦めたように頷いてもらえた。詳しい事情というか、なぜそう思い詰めたのかまでは問われなかったから、多分ドラケンは昼間のことをイヌピーから聞いていたのだろう。そこもまた千冬を居たたまれない気分に、そしてヤケクソにさせた。
ほどなくしてドラケンから連絡があり、危ないことはないし、万が一にも意に沿わないことを強いられるようなことがあればすぐにでもオレを呼べよと約束させられた上で、男相手のデリヘルを紹介してもらった。オーナーからひととおりのレクチャーを受け、まあまあの地獄だなと思いつつも、金になると割り切ればやれないこともなさそうなので、その日のうちに初めての客を取った。予想していたような抵抗感はさほどなく、好きでもない男相手にキスだの手コキだのオーラルだの乳首攻めだのを淡々とこなした。好きでもないから、仕事だから、余分な感慨もなくこなせたのだろうとも思う。相手は客。金を貰ってその場だけで終われる関係。きっちり時間制で、悪辣なピンハネもなく、衛生面は神経質なくらいちゃんとしている店で、さすがドラケン君の紹介だと感謝した。
淡々と、と言いつつ自分なりにプロ意識を持って相手に接していたつもりなのに、『タロウ』の評判は芳しくないらしかった。お茶を引く日も多くてやってられない。覚悟の無駄遣いだ――などと思っていた時。
ハネミヤという名前のフリー客のところへ行くよう指示されて、笑った。
笑うしかなかった。笑いながら、ぶち切れた。
(ああ、そう。アンタはそうやって、風俗で遊んでるわけね)
別にそんなのは自由だ。千冬が咎める権利もない。失望する理由もない。一虎に対して抱いてきた様々な、複雑な気分は、千冬が勝手に持っていたものでしかなくて、その責任を一虎が取る必要なんてひとつもない。
ないのだが、それでも腹の底から湧き出るような怒りはどうしようもなく。
(……じゃあせいぜい、色恋で堕としてテメェから金引っ張って、オレと場地さんの夢の養分にさせてやるよ)
我ながら根暗だとは思ったが、そんな気分で、一虎に対する最初の仕事へと千冬は向かったのだった。