予定より、少し早くに東京についた。
そろそろ着くと連絡は入れたものの珍しく既読もつかないものだから、少々不審に思いつつ、忙しいのだろうと諦めて、一先ず挨拶だけでも済ませておこうと学長の元へ向かって廊下を歩いていた。
そこでふと、馴染みの呪力の気配を感じた。
続けていっそ腹立たしいくらいに聞き覚えのある低い声がお愛想笑いを零すのを聞いて振り返ると、来客用のスペースで、若い女性と対面し、不自然なくらい爽やかに隙なく微笑む、サングラスをかけた綺麗な男の姿が目に入った。
五条だ。
相手は、依頼人か何かだろうか。品のいい衣装で武装して、華やかな香水を漂わせる彼女は己の窮状を切々と訴えながらも、潤んだ目元にじわりと熱を滲ませていた。
「────っ、……」
思わず声をあげそうになって、しかし、慌てて口を噤む。見るからに接客中だ。邪魔してはならない。
ただ、少しだけ、胸のほんの片隅に黒く滲みが滲むのがわかって動揺する。
どちらにしてもあの調子では、約束通り一緒にランチとはいかないだろう。もしかしたら、送ったメッセージも見ていないかもしれない。
立ち聞きなんて行儀が悪いし、ここで突っ立って待っていたところで仕方ない。それ以上見ていられなかったのもあり、慌てて踵を返す。
足早に来た道を戻りながら、そんなことよりも会議まで余った時間をどうしたものかと思案していた、その時である。
「────歌姫」
「!」
「もう来てたんだ。さっすが、早いね」
「ご、五条……どうして」
ぐっと手首を掴まれて、引き寄せられ、狼狽するあまりに声が上擦る。
五条は私を背中から抱き締めて、ちょっと不満そうに口を尖らせた。
「さっき、こっち見てたでしょ。なんで声かけてくんないの?」
「だってあんた、来客中だったじゃない……」
「上得意の娘だから、仕方なぁく、相手してただけ。こっちのが優先」
そう言って、私の頸に鼻先を擦り寄せる。
高い鼻梁と柔らかく濡れた息が首筋を擽って、私は思わず身を捩った。
「ばか、こんなとこで何して……ッ」
「ん、ちょっとだけ補充。すーっ、はあ……あー、生き返る。本物の歌姫だ。何日ぶりだろ」
「に、匂いを、嗅ぐなぁ!」
「えー? じゃあ、早く行こ。僕もう腹ぺこ」
五条は顔を上げて、ぺろりと舌舐めずりをする。
サングラス越しに覗く青い瞳が、ぎらぎらと、熱気を孕んで陽炎のように揺れる。
間近にその熱を受けて、思わずこくりと喉が鳴った。飢えた獣の仕草。物欲しそうに射竦められて、逞しい腕の中、まるで身動きが取れない。
全身を強張らせて固唾を飲むと、それを見た五条はうっそりと笑って、私を適当な空き部屋に引き摺り込んだ。
古びた紙と埃の匂いに、くしゅ、と小さくくしゃみを漏らす。
「寒いの?」
「違うけど……あ、待って、五条」
「やだ。あっためてあげる」
毎度のことながらこの男、全く人の話を聞く気がない。
窮屈に立ち並ぶ書棚の中央に、どん、と据え置かれた作業台の上に押し倒される。あまり使われていないのだろう、掃除が行き届いていないのか、身動ぎする度に埃が舞った。小さな窓から差し込む陽光が細かな粒子を反射して、場違いにも感傷的な心地にさせられる。
顔のあちこちに唇を振らせていた五条が、着物の襟を左右に開きながら頸に吸い付いた。和装で隠れるかどうかの微妙な位置。ちりりとした痛みに、普段であればそんなところに痕をつけるなと怒鳴るところだが、今日に限っては声が出ない。
しゅる、と袴の結びを解かれる音を聞いた。
これには流石にはっと我に返った。一体、何をどこまでどのように致すつもりなのだ、この男。
「五条っ、やりすぎっ」
「だって邪魔だし。汚れる方が困るでしょ?」
「それはそうだけどそういうことじゃ──ぁ、んっ」
「平気だって。着付け、僕も手伝うし。すぐ済むよ」
腰浮かせて、と強請るように囁いてくびれから臀部までを撫でられる。直接に触れられたわけでもないのに、ぞわり、と背筋が震えて腹の奥がきゅうんと蕩けた。
期待、してしまっている。
いつからこんなにもはしたなくなったのかと恥じ入る間もなく、勝手に跳ねて反った腰の隙間に五条が手を差し込んだ。ぐ、と紐を引っ張られる感覚に慌て黒い上着の袖に指を引っ掛けて掴んだ。
そして、
────ぶーっ、ぶーっ。ぶーっ。
「……」
「……」
「…………出なさい、よ」
五条の尻ポケットから、自己主張の高い振動音が響いた。
電話である。
どう考えても明らかに、着信音である。
一瞬固まったものの、呼び出し音など聞こえませんとばかりに何食わぬ顔で人の袴を脱がしにかかる男をじろりと睨めば、五条はぶうたれながらも渋々体を起こした。
スマートフォンを取り出し、画面を見て、ぐしゃっと不機嫌に顔を歪めた後で迷いなく画面を一度タップする。
「切れた」
「切ってんじゃないの!」
「いいよ。どうせ、大した用じゃないって。どうしても急ぎならまた掛かって──」
と、台詞も言い切らないうちに、節くれた男の手の中で、再びスマホが震え出す。
お互い、再び黙り込んだ。
五条は画面を睨んだまま鬼のような形相をしていたが、私の方へちらりと一瞥をくれると渋々スワイプで電話を取った。
「ちッ──休憩中に何の用だよ、僕今すげーいいとこなんだけど? 邪魔したからにはさぞかし特大の案件なんだろうなあ──、…………。……は? んなもん知るかっての、テキトー言って待たせとけよ。…………、…………。…………………………。ちッ」
二回も舌打ちした。チンピラのような電話応対だ。柄が悪いにも程がある。
苛々と通話を終了した五条は、髪を掻き上げて深く溜息を吐いた。
「……ごめん、歌姫。僕ちょっと戻らなきゃいけな──」
そこで、ぶつん、と不自然に言葉が途切れる。
青い目がぎょっと見開かれて、食い入るように、私を見詰めた。
私は、まともに視線を受けられなくて、目を逸らす。
「………………戻る、の? さっきの、女性(ひと)のとこ……」
「歌姫」
「わ、わかってる。あんたにも、付き合い、あるものね……わかってるん、だけど」
くい、と五条の上着を強く引く。引き留めてはいけない。離さなくてはと思うのに、かえって指先に力がこもった。
────嫌だな、と思ってしまったのだ。
綺麗な子だった。私よりも若い。ほんのりと上気した頬が、淡い恋心を主張していて。
別に疑うわけではないけれど、それでも、嫌だなと思うのだ。
「ごめん……」
「謝んないでよ」
こっち向いて、と甘やかすように誘われて、さらに深く俯いた。到底人様に見せられるような代物ではない。ましてや五条相手になんてごめんだ。これをネタに、今後何を言われるかわかったものじゃない。
けれども抵抗虚しく両手で顔を掬われて、無理矢理に上を向かされてしまう。
私は、歯を食い縛った。
それを見て五条は、可笑しそうに声を上げる。
「ふはっ。すっげえぶさいく」
「わるい、かっ……!」
「うん。ダメ。これはほんと、駄目なやつ。よくない」
「ッ」
「……だから、僕にだけ。ね?」
他の誰にも見せないで。
そう言って、私の肩に額を押し付けた。
五条が呼び出されてしまったので、結局小一時間ほどがまるまる暇になってしまった。
会議前に軽く昼食でも取るべきなのだが、そんな気分にもなれず、頭を冷やすつもりで外へ出るとベンチに腰掛けてぼんやり空を見上げていた。
「先輩……?」
「あ、硝子」
怪訝そうな声に振り返ると、白衣姿の後輩がきょとんとした様子で佇んでいた。相変わらず忙しいのだろう、胡乱な視線を投げかける目元は隈が酷く、口にはシルバーのパッケージに総合栄養食と記載されたゼリーを咥えている。
「歩きながらなんて行儀が悪いわよ。しかもまた、そんなもの食べて」
ちゃんとごはん食べなきゃ駄目じゃない、と言うと硝子は「今日はたまたまですよ」と肩を竦め、隣に腰掛けた。
「こんなところに一人きりで、どうしたんです? 会議前、五条とデートじゃありませんでしたっけ」
「でっ……、……。いや、まあ、約束はしてたけど……何で知ってるの?」
「そりゃあもう、浮かれた五条が自慢げに話してましたから」
「……」
「それで、肝心の五条は」
きょろきょろと辺りに視線を巡らせる硝子に、私はそっと膝の上に視線を落とした。
「……来客応対中よ。会ったけど、すぐに呼び出されて戻ったの」
「そうですか。珍しいですね」
余程の相手ですかと言うので、そうなのよと苦笑した。
「お陰で時間、余っちゃって。することもないから、ぼーっとしてるとこ」
油断すると肩からずり落ちそうになる大きな上着を手繰り寄せて、胸の前に寄せたそれに鼻先を埋めた。五条の匂いが、する。糖分ばかり摂取している所為か、匂いまで甘い。本来それは苦手とするものであるはずが、今は、ここにはない温もりを感じるようでほっとした。
────おまじない、そう言って、悪戯っぽく笑った顔をふと思い出した。
「……」
「……先輩? 首、どうかしたんです?」
「っな、何でもない、わよ?」
無意識に頸に触れていたらしい。首を手で押さえたまま、慌てて笑顔を取り繕う。
しかし硝子はますます不審に思ったようで、小さく眉間に皺を寄せた。
「でも、顔が赤いですよ。もしかして、寒気がするんですか? その上着、五条のですよね?」
「き、気のせいよ、心配しないで。寒気なんて大袈裟なものじゃないし。上着は……その、うっかりくしゃみしたら、貸してくれて」
あいつも案外心配性よねえ、なんて乾いた声で笑う。
明らかに引き攣った笑顔だと我ながら思ったもののそれがかえって体調不良の疑念を払拭してくれたようで、硝子は何とも言えない顔つきながらもあっさり引き下がった。まったく、いいのか悪いのか。追及が止んだのは喜ばしいが、さっきよりも、こちらを向く視線が生温い。
「…………なら、いい、ですけど。でも、本当に困った時は言ってくださいね。出来る範囲で何とかします」
「もー、いやあね硝子。何でもないってば」
引っ込みがつかず下手な芝居を続ける私に察しの良い後輩は一旦口を噤んで、小首を傾げ、話題を変えてくれた。
「ところで先輩、お昼、済ませました?」
「ああ、まだなのよ……どうしようかなと思って」
「じゃあ、一緒に食堂行きませんか? 今ならまだ開いてますし、頼めば何か出してもらえるかも」
「そうね。……でも、いいの? 忙しいんでしょ?」
「先輩とご飯行く時間くらい、どうにかしますよ」
それに、と硝子が立ち上がって、私を振り返る。
「五条と付き合い始めてから、以前に増して、一緒に遊びに行かなくなったじゃないですか。たまには、私に構って貰わないと」
「硝子……」
「早く行きましょ、先輩。時間、ありませんから」
「……ふふ。それもそうね」
差し出された手を握って立ち上がると、硝子と二人、並んで石畳を歩いた。
僕が白い喉に唇を寄せて、耳の後ろ、生え際の辺りにきつく歯を立てて吸い付くと歌姫はぎゃんと痛みに吠えた。
「な────だっ、だから! そんなとこに、痕付けないでってば!!」
「いてっ。もう、殴るなよ」
短気だなあと口先では文句を言いつつ、想像通りの反応過ぎて笑ってしまった。さっきまで、今にも泣きそうな顔をしていたくせに。
清い彼女がほんの小さな悋気で心乱された様子はそれはもう可愛らしいものだったのだけれど、こうして見れば、やっぱり怒っている時の顔も捨て難い。
「────おまじない。元気出たでしょ?」
「はぁ!?」
「ほら、歌姫もやって。どうせなら、よく見えるところにしてね。変な虫、寄ってこないようにさ」
「……」
一瞬涙の引っ込んでいた瞳が、僕を見上げて、潤んで揺れた。迷っている。いつもならばこんなお誘い、「するか馬鹿」の一刀両断なのだが。
暫くして、細い指が、躊躇いがちに襟を引っ張った。
僕が首を横に倒すと、無防備に曝された頸に、花の色をした唇が遠慮がちに忍び寄る。
耳元で、蚊の鳴くような声がした。
「…………後で、困っても……知らないんだからっ……」
「いいよ。大歓迎」
僕の即答に一拍遅れ、ちゅう、と濡れた音が可愛らしく響く。もっと烈しいのをくれたって全然構わなかったのに、その気になればシャツで隠せる位置にちまっと赤い鬱血を落としていくあたり、やはり、歌姫は歌姫でしかなかった。
まあ、いいけど。
礼儀作法だの何だのと喧しいあの歌姫が、僕に、ここまでしてくれたのだ。大きな進展である。小さくても偉大な一歩だ。何と目出度い。赤飯を炊きたいくらいだ。
────とはいえ、本音のところ、早く自覚してくれないものかなあとは思う。
頭の天辺から足の爪先、髪の毛一本に至るまで君が僕のものであるのと同様に、僕自身、身も心も君の虜であるのだから。
「……あの、それ……」
「ああ、これ? ────ふふ」
わざと大きく開いた襟の奥、愛しい彼女の所有印を目敏くも見咎めた目の前の女に、僕は、御満悦で微笑んで見せた。
「何でもありません。ちょっとした、おまじないですよ」
「……」
「では、改めて依頼内容の確認を」
机の上に広げた書類を示しながら、手早く事務的に応対を進める。
顔を赤らめ呆けた女には、僕の言葉などもう聞こえてもいないようだった。
「────せっかく、急いで片付けてきたのに! まさか! 硝子と! 浮気とか!!」
「人聞きの悪いこと言わないでよ……あんたいつ戻るかわかんなかったし、たまたま会えたから、お昼ついでにちょっと話してただけじゃない。大体、もう遅いわよ。あと少しで会議の時間だし」
「そうそう。それに、いつもそっちに譲ってるんだから、偶にはいいじゃないか」
「ぜんっぜん、よくない! 埋め合わせを要求する!」
「何であんたが被害者ヅラしてんのよ……それ普通、私の台詞じゃない?」
高専の食堂で緑茶片手に女子会中の歌姫と硝子の間に割り込んで大声でごねたところ、呆れ顔の歌姫が、仕方ないわねと夜泊まって行くことになった。