この関係に、敢えて、名前を付ける必要はないと思っている。
「………………。歌姫」
「何よ、急に来て」
事前に連絡くらいよこしなさいよ、と玄関を開けるなり人の体に覆い被さる大男に眉を顰める。
時刻は零時を過ぎたばかりだった。深夜である。街明かりですらひそりと乏しくなる時分に、奴はふらりとやって来た。
普段の底抜けに明るい軽薄さはどこへやら、暗い顔色で、人形のようにがらんどうな視線を寄越す草臥れた姿に、潰された肺から細く息を吐いた。ぎこちないながらに、私を抱き締める腕の力は馬鹿に強い。背骨を折られそうだ。そこまで、余裕がないか。
私は、抱き返してやることも出来ないで目を伏せた。
不自由な体勢で精一杯目の前の男に寄り添うと、上着の裾をくいくいと引っ張る。
「随分ご無沙汰じゃない。忙しかったの? 多少は眠れてる?」
「…………」
「まあ、だったら、私のところには来ないか」
ほら行くわよ、と寝室の方向へ促す。
すると男は、のそり、と体を起こした。きつい締め付けも緩み、私はほうと息を零しながら、ゆっくりと離れてゆく男の顔を見上げた。
白い髪がさらりと揺れていた。目元は、黒い布に隠れて見えない。邪魔だ。引っ張り下げて、両手で頬を包む。
「五条」
「…………」
「もう遅いわ。早く寝ましょ」
「……………………、うん」
ぱさりと垂れた髪の合間から、澱んだ青がぐしゃりと歪んで私を映した。
以前は無かった目の下の隈を親指の腹でそろりと撫でた後で、今度こそ、私は奴を抱き締める。背伸びをして、私よりも余程大きな体を腕の中に閉じ込めて、広い背中をそっと撫でた。
二人並んで眠るには、私のベッドは、少し狭い。
頻繁にやってくる馬鹿の為にも私自身の安眠の為にも、もう少し大きなものに買い替えようかと思ったこともあったがやめにした。狭い方がいい、と五条が言ったからだ。
「くっついて寝られるし」
「……」
「離れなくて済むから、その方が、安心する」
腰にしがみついてぼそぼそと、そんなことを言われてしまったらもっと大きなベッドにしたいなんて到底言い出せない。そう、とだけ返して、その場はそれきりになった。
長らく続く不眠症の所為で、五条は、酷く不安定だ。
普段は黙れと言っても喋り続ける姦しい男なのに、夜、私の寝床に潜り込んでくる五条は黙りこくって碌に物を話さない。私の胸に顔を埋めて、耳を当てて、目を閉じる。浅い眠りに吐息を繰り返して、骨が軋むほど強くしがみついてくる。眉間に険しく皺を寄せて、それでも、吐き出す呼気に安堵が滲む。
薬は、効かないそうだ。
他にも色々と試したようだが、何一つ功を奏さなかったらしい。ただ、私が側にいる時だけは眠れるのだと、くしゃりと歪んだ顔で微笑っていた。
────放って、置けない。
最強の名を冠して緻密に積み立てられた硝子細工の楼閣を、無遠慮に叩き壊した私だから、五条はこうして弱った姿を晒すようになった。もう取り繕うものは何もないから、そのままの壊れた姿で、私の隣で眠ることが出来る。脈の音を聞いていると落ち着くのだと言って、胎児のように体を丸めて、私に爪を立てて。
曲がりなりにも眠れるようになったからか、心なしか、五条を取り巻く空気も柔らかくなったように思う。軽薄を装う仮面が、少しだけ、弛む。一分の隙なく取り繕われた佇まいに生まれる僅かな余裕を素直に喜ぶ一方で、しかし、これでは根本的な解決にはなっていないと焦りもする。
何とか、しなくてはならない。
今はいい。辛くなったら、私の元へ来たらいい。五条が身動き取れないのなら、私が駆けつければそれで済む。けれど、この先もずっと、そうしていられる保証はないのだ。
いつまで、こうして、慰めてやれるのだろう。
先のことなんて誰にもわからないから、もしも私が居なくなった時に、一人きりで残されたこの男がどうなってしまうのかが不安だった。
「…………歌姫はさ、いつまで、僕に付き合ってくれるつもりなの?」
「は?」
二人ベッドに潜って暫く、うつらうつらと眠気に頭が侵食され始めたところで、ふと五条がそんなことを言い出した。
はっとして、目を見張って、腕の中を見詰める。
すると、常の如く人の胸に耳を押し当てていた五条がのそりと顔を上げて、私を睨んだ。
恨めしそうなその視線の意図が読み取れず、私は内心の困惑を押し殺し、眉を顰める。
「いつまでって……必要なくなるまでは、付き合うわよ」
「じゃあ、僕が、一生このままだったら? 死ぬまでこうしていてくれるわけ?」
「…………」
勿論だ。
即答してやっても良かったが、やはり、意味がわからない。どうしてそんなことを訊くのだろう。
試されているようで不愉快だった。
今ここで私が手を離して困るのは自分だろうに、わざと、私の怒りを煽っている。一度心に決めたことを、売り言葉に買い言葉で投げ出す程の短絡だと思われているのだろうか。だとすれば、あまり馬鹿にするなと言いたい。
込み上げる苛立ちに押し退けられて、睡魔はどこへやら立ち去ってしまった。私は瞳を怒らせて、冷たい色の目をした男を睨み返す。
「何て言えば満足なのよ」
「……」
「あんたの欲しい言葉なんか知らない。私が要らなくなったなら、はっきりそう言いなさいよ」
そういうことならば喜んで、お役御免被ってやる。
そうではないからこうして夜遅くにいきなり訪ねてくるくせに、そうとは思えないからこそ毎度抱き締めて眠るのに、それの何が不満だというのだろう。
私が吼えれば、五条は溜息を吐いた。
そうじゃない、と口の中で小さく呟いて、再び私の胸に顔を伏せる。
「僕は、歌姫を、手離さない。絶対」
「……」
「必要じゃなくなるなんて、そんなこと、この先一生ありえないんだよ」
それでも、傍に、いてくれるって言うの。
独りごちるようなその問い掛けには、諦めが、滲んでいた。
私は息を詰めて五条を見つめた。と言っても、今は旋毛しか見えないけれど。さらさらと垂れる白い髪の流れさえ整って見えて、こんなに弱っていても、何処を切り取ってもなんて上等で美しい男なのかと、場違いな怒りを覚えていた。
喉奥に詰めて止めた息を、ゆっくり、吐く。
強張った体を弛緩させて、やんわりと、ごつごつ骨の張った男の体に腕を回す。
「同じことを何回も言うのは、嫌い」
「……」
「いるわよ。あんたが本当に、この先もずっと、私が必要だっていうんなら」
傍にいる、改めてそう告げる。
すると五条は掠れた笑い声を上げた。
引き攣れて乾いた声音と裏腹に、胸元、が熱っぽく湿る。
「ははっ、はっ……あーあ。歌姫さあ、そんでなくとも僕に滅茶苦茶されたのに、この先の人生まで棒に振る気?」
好きな男でも出来たらどうすんのさ、と言う。
「諦めんの? それとも、僕置いて、そっちいくわけ? 二股なんて器用な真似、歌姫には無理でしょ。……ああ、そもそも、僕はカウント外か。はは」
「……あんたね」
思わず、ぱしり、と頭を叩いた。
「いてっ」
「その笑い方、やめて。むかつく。あと、今のも撤回して」
「……今のって、何を」
「あんたに滅茶苦茶にされた覚えも、人生棒に振るつもりも、これっぽっちだってないのよ」
嗚呼。
本当に、なんて愚かな男なんだろうか。
私は、いい、と言ったのに。後悔なんてしていない。この現状に不満もない。強いて言えば、日に日に度を増す五条の執着に、果たして、いつかこの男が穏やかな眠りを取り戻す日が訪れるのだろうかと疑念を抱いているくらいで。
もしも私の全てが無駄になるとしたら、それは、こいつが正真正銘壊れてしまって元には戻らなくなってしまった時だ。そうでなければ何も、何一つ、無駄にはならない。誰が何と言おうとも、私がここにいる意味はある。
そうやって、私自身が選んで決めた価値を、この男だけは否定しないで欲しかったのに。なのにこいつときたら私が憐れだと言わんばかりの態度、腹が立つったらない。
同情とは言ったが私がこいつの抱き枕になると決めたのは、可哀想だったから、だけが理由じゃない。
あんたが心底欲しがったから、あげたのよ。
それを、今更怖気付いて手離そうとするなんて、そんなこと許さない。
「あんたってば、人の話、マジで何にも聞いてないのね。最初に言ったでしょ。あんたにかかりっきりなのに、他に目が行くわけないって」
「……」
「余計な心配するんだったら、さっさと立ち直ったらどうなの? そしたらいつでも綺麗さっぱりおさらばしてやるっつーの。馬ぁ鹿」
「…………」
「……うそ。治らなくても、いいわよ。もう、無理を通さなくていい。一生このままだって構わない。怖いならずっと、こうして、しがみついてなさいよ。あんたが離さないんなら、私も絶対、離れないから」
これ以上何度も同じこと言わせないでと唸る。
一体、どれ程の言葉を尽くしたら、私の覚悟はこいつの信を得るのだろうか。真心尽くしたつもりでも伝わらない。疑心暗鬼に囚われた青い目で見詰められる度、たった一人きりで、長いこと耐え忍んでいた五条が未だに深く闇に呑まれたままなのだと思い知る。
手遅れだとは、思いたくない。いつかのように、表裏もなく、馬鹿をやって笑う姿を見たい。今すぐに、なんて言わない。時間がかかっていい。いっそ、叶わないのだとしても気にしない。これ以上、一人で我慢しないでくれるのならそれだけでも充分過ぎる。
「試しもせずに諦めんな、馬鹿。らしくもない」
「いてててててて」
「ねえ、もっと、ちゃんと教えてよ。何がそんなに不安なわけ? 一緒にいるだけじゃ足りない? 何でもしてあげられるわけじゃないけど、私に出来そうことなら、やるだけやるわよ。もし駄目だったとしても、その時は、二人で考えたらいいじゃない」
人の胸の合間に顔を埋めたまま、一向に顔を上げない男の頭を拳で挟んでぎりぎりと締め上げる。手心など一切加えなかったものだから五条は本気で痛そうに呻いている。そのくせ抵抗はしない。馬鹿。本当に、馬鹿だ。
こいつは、あの夜からずっと、後悔している。
許しが欲しいのだと思う。けれどもそれはくれてやれない。だって、本当に怒ってない。だから謝罪が欲しいとも思わない。上辺だけの言葉をくれてやるくらいならば出来るけれど、無駄に敏いこの男が飯事のようなやり取りに騙されるとも思えなかった。
償いと罰を要求されているのだと、口に出されたことはなくとも、知っている。
私には、出来ない。
それが余計に五条を苦しめているのだろうけれど、でも、嫌だ。形ばかりの行為だとして、それでなくとも弱っている男を痛めつけるような真似はしたくない。
守ってやらねばと思ったから、傍に居ると、決めたのだ。
だから、たとえ相手が五条自身なのだとして、こいつに害を為すのなら私はそれを決して許容しない。
「あのね五条。私、本当に、何処にも行かないわよ」
「……」
「不眠症治っても、あんたが一人になりたくないって言うんならこれ、続けてもいいし。あんたにもっといい子が見つかったら、その時やめてもいいし」
「……」
「だから、そんなに不安がらないで、ちょっとは治そうと努力しなさいよ。大体あんた、もっと頻繁に来られないわけ? 忙しいのは知ってるけど、毎度死にそうな顔になるまで痩せ我慢してんじゃないわよ。そんなにしんどいんだったら、せめて電話一本くらい寄越したらどうなの。都合つけば、私が会いに行ってもいいんだから」
一度訪れたきりのこいつの自宅はがらんどうもいいところで、生活感がなかった。あの調子ではどうせ家に帰るのは寝るくらいのもので、そもそも独り寝出来ないのだから碌に使ってはいないのだろう。だったらもう、東京には帰らず、毎回こっちに来たらいいのに。職場が東京なのに毎度京都に来るのは通勤が不便だろうが、今だって似たようなものだし、私が東京に住むのは流石に厳しいし。うん、何だかその方がいい気がする。
私は、五条の顔を両手で包んだ。
無理矢理顔を上げさせて、目を覗き込み、尋ねる。
「いっそのこと、ここに住む?」
「…………。は?」
「今だって、半ば同棲みたいなものじゃない。自分ちなんて碌に帰ってないでしょ。面倒だから、荷物持って越して来なさいよ。合鍵もあげる。家が一緒なら、あんただって気兼ねなく来られるし、お互いそう簡単に出て行ったりもできないから、安心するんじゃないの? どう?」
「………………どう、って。そんなの」
呆然と呟いた五条はそこでぶつりと言葉を区切った。丸く瞠った目を伏せて、視線を斜め下に逃す。
「それは……そんなの、僕は、いいに決まってる……。けど」
「けど、とかいらない。決まり。帰ったら準備しなさいよ」
「ッ」
「一緒に暮らすなら、もう、家族ね」
「……」
言葉を失った様子の五条の頭を抱えて、笑う。
しばらくの沈黙の後、動きを止めていた五条がひくりと震えた。大きな揺れが呼び水になって、肩がぶるぶると震えだす。
溢れた嗚咽は聞かなかったふりをした。
私は深く深く、目一杯に手足を伸ばして大きな体を抱え込んで、白い髪に鼻先を擦り寄せて目を閉じる。
すると五条がぼやいた。
「…………歌姫なんて、僕のこと、これっぽっちだって好きじゃないくせに……」
何でそんなに甘やかすんだよ、と恨めしそうに呻くものだから私はあやすつもりで背中を軽く叩きながら嘯いた。
「馬鹿ねあんた。まさか、そんなことで拗ねてたの?」
己の行状振り返ってから出直してこいと笑い飛ばす。
「……愛はないけど、情ならあるわよ。こんなに特別扱いしてやってるのもあんただけ。今は、それで満足しなさいよ」
「してるよ……もう充分、もう要らないって思ってるのに、歌姫すぐに優しくするじゃん……つけ上がるよ。僕」
「いいわよ。それで調子が戻るんだったら、大目に見てあげる」
「……」
「ほら、早く寝なさい。明日の仕事に間に合わないわよ」
それとも子守唄でも必要か、と揶揄すれば、五条はぎゅっと私を抱え直した後で「それはまた今度で」と呟いた。必要は必要らしい。すっかり甘ったれている。
私はゆっくり溜息を吐いた。
おやすみ、と呟くともぞりと動いた五条が小さく頷いたのがわかった。鍛えられた男の体はごつごつして抱き心地の良いものではない。が、温かくて、ほっとする。
どうか五条が、夢も見ず、ぐっすりと眠れますように。
祈るように願って、その夜は意識を手放した。