ぼくにしようよ(仮)ぼくにしようよ。
「──────ぇ」
「だから、僕にしとかない?」
夜とも思えぬほどに光で塗られた雑踏の中、私の腕を緩く掴み、真っ直ぐにこちらを見詰め、五条が微笑った。
「一生、傍にいてあげる。……寂しい思いなんて、させないよ?」
うんざりするくらい、愛してあげる。
洪水のような街明かりに囲まれて、サングラスの奥、一際強く煌めく青に、息を呑む。
雲一つ見当たらない、晴れの日だった。
こんな佳き日には似合いの空だと、柔らかい早春の日差しを見上げて薄く笑う。
「────センパイ」
「硝子ぉ〜っ」
いつもは背中に下ろしている長い髪を結い上げて、シンプルだが華やかな白のドレス姿をした後輩と抱き合う。
「おめでとう!」
「……ありがとうございます」
耳元に落ちるはにかむような柔らかい声に、ぐ、と唇を合わせて抱擁の腕に力を込める。
ああ、良かった。幸せそう。
急に結婚すると聞かされた時には大丈夫かと心配もしたのだけれど、新郎の隣で珍しく照れたように口元を緩めている姿を見てそんな不安は吹き飛んだ。それどころかうっかり泣いてしまいそうになり、お陰で、腹立たしいことに同じ卓に配置された馬鹿男には散々揶揄われる破目にはなったが。
今だって、目の奥が熱くてたまらない。
これまで色々なことがあった。誰もが傷付き苦しんできた。だから、これからは、私の大切な可愛い後輩が、この先誰よりも慈しまれて穏やかな幸福を味わい続けることが出来ればいい。
「おめでとう、硝子。本当におめでとう……今日の硝子、本当に綺麗だわ」
幸せになってね、と私が言うと硝子はぐずりと鼻を鳴らし、はい、と笑って頷いた。
絶対取って下さいね、と言われたブーケトスは空気の読めない白髪青眼の大男の乱入で台無しになり、女性一同相当に白けた。
多少の珍事はあったものの結婚式は無事終わり、成人前の学生たちが帰ったところで二次会が開かれた。新婦が酒豪ということもあって最早祝いの場というよりはめでたい席に託けた飲み会と化していた。式の最中はあまりゆっくり話せなかったが、硝子と一緒にお酒も飲めたし、終始笑い声の耐えない騒がしくも楽しい一時だった。
飲み足りない連中はこれから三次会とのことだったが、明日からはまた仕事ということもあり、私は泣く泣く離脱した。会場のホテルを出て、東京駅へと向かった。
のだが。
「……何で、あんたが、ついてくるのよっ」
「えー? そりゃだって、僕も帰るしぃ?」
方向同じなんだからしょうがないでしょ、と隣で五条が肩を竦める。その手には、硝子が私に向けて投げてくれたラウンドブーケが握られていた。
パステルカラーの淡い色合いで纏められた品の良い花束は、きちんとスーツで着飾った五条に驚くほどよく似合う。それがまた女性陣の白けた空気を助長していたわけだが、五条は何処吹く風で、わーい取っちゃったあとはしゃいでいて更に苛立ちを煽った。
他の女子に取られてしまったならともかく、よりによって、この馬鹿にやられるとは。
別段幸せのお裾分け云々を期待していた訳ではないものの、折角硝子が気を遣ってくれたのに、台無しにされたと腹が立って仕方ない。
あとちょっとだったのに。
思わずじぃっとブーケを睨みつけていると、五条がきょとんとして、そのあとにやにやと首を傾げた。
「……」
「なに? 欲しいの?」
「……違うわ。結婚願望もないくせ横からブーケ掻っ攫っていきやがってあんたほんとむかつく、と思ってたの」
「なんだ。やっぱり欲しかったんじゃん」
「だから、違うわよ! 硝子が私に目掛けて投げてたの、あんただって解ってたでしょ!?」
そりゃ欲しいか欲しくないかで言えば欲しかったのだがでもだけどそういうことじゃ、ない。
ぎろり、と五条を睨む。
奴は分厚い黒のレンズの向こう、へらりと、笑う。
「だって仕方ないじゃーん、咄嗟に手が出ちゃったんだもーん」
「もーん、じゃねえよっ」
態とらしく間延びさせた語尾に舌打ちをくれつつ、大体、と私は続けて悪態をついた。
「何しれっとブーケトスに参加してんのよっ。結婚したい相手でもいるわけ!?」
「そりゃ勿論、いるよー?」
「ぇ」
「確かに結婚願望とか無かったけど、今日の硝子見てたら、意外とアリかもなー、って。色々終わって、僕の身辺も落ち着いてきたしさ」
「……」
「逆に聞くけど、歌姫、そういうの、ないの?」
「…………ないの、って……そんなこと言われても」
結婚したいのかしたくないのかで言われたら「してみたい」とは答えるだろうが、それは、相手がいて初めて成立する行為である。生憎仕事一辺倒で男などいない。おまけに出会いを望めるような職場でもない。仕事の知り合いは碌でもない男ばかりだし、それでなくとも私は見えるところに大きな瑕のついた売れ残り、特別優秀なわけでもなければ美人ということもなく、我ながら可愛げのない物言いをする。貰い手の見込みもなければ売り出しようもない。
何だか、自分で考えて虚しくなってきた。
どうせ私はこれから先も一人だろう。別に構わない。けれども、それでも前までは「このままお互い一人だったら老後は一緒に暮らそうか」なんて硝子と笑い合っていただけに、その可愛い後輩が一抜けしてしまった寂しさはある。家庭を持ったからには、今までのように気軽に呑みにも誘えないだろうし。
硝子が幸せそうで本当に嬉しいが、やはり、寂しいものは寂しい。僻みなのはわかっているが、取り残されたような心地が心許なかった。
「ないわけじゃ……ない、けど」
「ふーん?」
思わず口籠もって視線を泳がせると、五条が可笑そうに声を立ててからこう言った。
「じゃあ、僕とかどう?」
「…………………………。は?」
「歌姫、一人で寂しいんでしょう? 僕なら傍にいてあげられるよ。どう?」
「どう、ってあんた」
馬鹿なこと言わないでよ、と目を吊り上げて、吐き捨てようとして声を失う。
振り返って見上げた男は、いつもの薄笑いを浮かべながらもいやに真剣な目をして私を見詰めていた。
────どうして、そんな目で、見るの。
熱のこもった眼差しに唖然として、頭が真っ白になったところで五条がそっと私の手を拾い上げる。
胸の前で握らされたのは、あいつが私の目前で奪い取っていったブーケだった。
「僕、歌姫のこと、好きだよ」
「ぇ」
「だから、僕にしとかない? 一生、傍にいてあげる。寂しい思いなんてさせないよ? うんざりするくらい、愛してあげるから」
「…………」
「僕にしようよ。な?」
今ならとってもお買い得だよと、戯けて微笑む仕草の方のが、演技なのだと、わかる。
私は唖然として動けない。
大きな手に支えられ、力の抜けた手から放すこともできずに抱えた生花から甘い香りが漂って鼻腔を満たし、今更ながら酔いがぶり返した。
酒は控えたつもりだったがもしかしたら、知らない内に飲み過ぎて、物凄く酔っ払っていたのかもしれない。
押し付けられブーケを握らされたまま、突き返すことも断ることもできず花束を抱えて新幹線の改札口まで送られた。何事もなかったみたいに笑って手を振る五条から逃げるように踵を返し、京都に戻り、自宅のベッドに突っ伏している。
────好きだよ、と今まで聞いたこともないような柔らかな声音が、頭上に降った様を何度も脳内で繰り返す。
あの、五条が。私を。いつも、嫌味ばかり言ってきたくせに。寂しくさせないから一緒にいようと、プロポーズ紛いのことを言ってきた。
……これ、寝て覚めたら実は全部夢でした、みたいなオチはないだろうか。
「ゆめ……いや。違うか……でも、どうせ、全部冗談に決まっ、て……。………………」
では、なかった。
色々と億劫で辛うじて化粧を落としベッド脇に脱ぎ捨てたパーティドレスの上に、華やかなブーケが鎮座している。
ぶぶ、と短く震えて光るスマホの待機画面には、新着メッセージが一件。ロックを解いてタップすると個別のトーク画面に移行して、簡潔に一言、「本気だから」と吹き出しが浮かんでいた。
二週間が過ぎた。
生憎と眠れない夜が明けた後も例のブーケはそのまま私の部屋に鎮座していて、メッセージの履歴が消えることもなかった。仕方なく私は、幾分元気のない花を束ねるリボンを解き、水切りをして、取り敢えずキッチンから一番大きなボウルを引っ張り出すとそこに活けた。
仕事帰りに花瓶を買って、活け直して、こまめに水を変えては水切りをし、どんどん短くなっていく花も遂には萎れて処分せざるをえなくなった。
残ったものといえば、この先の用途が見えない白い花瓶と、なんとなしに捨てられなかったサテンのリボンが、一本。束ねた花を飾っていた滑らかなそれは、よりによって、淡い青をしていた。
最悪だ。
それは、嫌でも、あの日のあの馬鹿を想起させる。
あれから何の音沙汰もない。夢幻ではなかったにしろ、やはり、お決まりの悪ふざけの類だったのだと苛立った。本気にしなくてよかった。真面目な顔で冗談を言うなんて質が悪い。それも、本気だから、なんてわざわざ後追いでメッセージまで寄越して。うっかり勘違いした私を見てから、ネタバラシとばかりに揶揄って遊ぶつもりだったのだろう。その手には乗るか。
全部、無かったことにしてやる。
そう心に決めて、出勤をした直後のことである。
「よっ、歌姫」
「……………………。五条」
何でいるのよ、と朝から不愉快な気持ちで唸れば「出張帰りにちょっと寄ったんだよ」と、何でもない様子で奴が笑い返した。
「久し振りだし、顔見たくて」
「……」
「にしても、朝から随分と御機嫌ナナメだねえ。生理? それとも更年期?」
「ッ…………あんたって、やつは……!」
やっぱ嫌い。やっぱむかつく。
私が必死に平生を取り繕っている一方、余裕綽々で以前と何ら変わりのないデリカシーのなさを発揮する無礼者にこめかみの血管がぷつんと弾けそうになる。五条は全く普段と変わらない。私に、あんなこと、言っておいて。やはり全て嘘だったのだと、そう思い知らされて、こいつの茶番に一瞬でも感情を振り回された自分が悔しくて堪らなくなる。
ちっ、と思わず舌打ちをくれると、五条は怪訝そうにしながらも私の顔を覗き込んだ。
「なに。なんかあったの? マジで機嫌悪いじゃん。……返事聞きたかったんだけど、出直そっかな」
「…………。あんた、それ、まだ続ける気なの?」
無かったことにする気はないらしいがどうやらおふざけは継続のようである。
冷ややかに睨めあげれば、これにはむっとしたように五条が口を尖らせた。
「は? まだってなんだよ。続けるも何も、諦める気ないから。歌姫がうんって言うまで待つし」
「……」
「うっわぁその目、全ッ然、信じてねー。……ま、いいや。そういうことなら、やっぱ出直す。いい返事以外聞く気ないし」
「…………」
「じゃあな。気が変わったら、すぐにでも言えよー」
「っ、ちょ…………こら、五条!」
ぽん、と頭を覆った手はすぐに離れた。
咄嗟に拳を振り翳すも案の定避けられて、大きな背中が颯爽と遠ざかっていく。本当に、ちょっと顔を見に来ただけらしい。五条はそのまま東京に戻って行って、私はその日一日を悶々と過ごす羽目になった。
以降、仕事での電話や顔合わせの度に「で、僕にする気になった?」と訊かれるようになった。
熱烈なアプローチなどはない。人となりを改めて紹介するような仲でも無いでしょ、というのが本人の談である。それは実際その通りで、好きだと言われたところで奴の腐り切った性根に対する認識が変わる訳でもない。ただ、この十年ずっとそうであったように、流れる浮雲の如く軽薄な態度はそのままにそれでも折に触れてはふと、妙に優しい目で私を見ていることに気が付いた。何でもない日に電話がかかってきたり、食事に誘われたりする回数が増えた。強引なところはない。私が隙間を感じたそな瞬間に、そっと忍び込んで、気付く前に埋めてしまうような自然さがあった。
──────寂しい思いをさせないと、そう、言われたことを思い出す。
確かに今、私は、寂しくない。
日常の何気ない瞬間に、少しずつ、五条が入り込んでいる。今のところ鬱陶しいということもない。ごく自然に私の日々を侵食して、当たり前のような顔をして居座っている。
本当に、本気、なのだろうか。
あの日以来、好きだのなんだのと言われることもなく、定期確認として「そろそろ僕にしない?」と聞かれる程度。それも、しつこく食い下がってくることもない。但し、まともに取り合わなくても真面目に断っても聞こえないふりをされる。宣言通り、イエス以外は受け入れる気がないようだった。
待つ分には一向に構わない、と五条は言う。
最終的に自分が選ばれればいいそうだ。
「まあ最悪、死ぬ前までにうんって言ってくれれば」
「どんだけ長期戦の構えなのよ……」
「だってもう、十年は我慢したし。あと十年や二十年、別にどうってことないし」
「……」
「それにさ、今んとこ歌姫、僕以外に相手いないだろ。誰も選ばないなら、それでもいいよ」
だけど一番傍にいるのは僕だから、とやたらいい笑顔でパフェを頬張っていたのが今から三日前のことである。東京出張だったのだが、生憎硝子と予定が合わず、代わりに五条に捕まったのだ。
仮に硝子と無事に飲みに行く約束が出来たとしても、奴のことだ、恐らく平気な顔で乱入してきたことだろう。その辺りに関しては以前に増して遠慮がなくなっていた。
曰く、口説くチャンスくらいくれてもいいでしょ、とのことである。
そういう言い方をされると断りきれない。どうせ断ったってついてくるのだし、しつこく言い寄ってくるわけでもないし、普通に一緒に食事をする程度で、となるとそれも今まで通りじゃないかといえばその通りでこれに関しては早々に考えるのをやめた。
にしても、だ。
「…………あんた、最終的に、私とどうなりたいのよ」
傍にいるとか僕にしてとかそういう、曖昧な言葉のやり取りはあっても、付き合いたいだの結婚したいだのそういう台詞は一切聞かない。おまけに、私が生涯独り身なら自分が選ばれなくてもいいとまで言う。
どうしたいんだ、この男。
十年我慢していたという戯言を鵜呑みにする訳ではないが、もしそれが真実だとして、これまで通り変わらなくてもいいのなら今になってわざわざ私に告げる意図は、何だ。
珈琲を一口含んだ後、顰め面で睨み付けると五条は笑った。
「んー、どうってか、まあ、端的に言えば、歌姫の一番になりたい」
「……」
「あわよくば全部欲しいけど。今んとこ、無理矢理どうこうって気はないから、そこは安心してよ。……あ、でも下心はバッチリあるから、あんま隙だらけだとぺろりといくからな。そこんとこはヨロシク」
「…………。あんたねえ……」
「だから、無理強いはしない、ってば。……けど、僕にしてくれるんなら、今までの分もめいっぱい甘やかして大事にするよ? 苦労させないし、余所見なんて出来ないくらい夢中にさせるし、もうちょい信用して、まともに検討してくんないかなあ」
別にオーケーもらえたからってすぐに結婚云々とまでは言わないからさ、とそれこそのんびりした調子でクリームソーダを啜り出した男に、私は、釈然としないながらも再び珈琲に口を付けたのだった。
……要するに、五条は、自分を選んで欲しいが気持ちは追々でいいと言っている。出来れば好きになって欲しいけれど別にそうでなくとも構わない、と。
ただ、私の一番近くにいる権利が欲しいのだと。
繰り返し、たったそれだけのことを求められているのだと、最近になって漸く気が付いた。
『いいんじゃないです?』
「そんなテキトーな……」
『だって、本人がそう言ってるんですよね?』
だったらそこまで気を遣ってやる必要ないでしょう、と硝子は言う。
『大体、言って聞くような奴じゃありませんし。どうせ勝手にするんですから、先輩も、自分の都合で決めたらいいですって』
「それは……そう、かもだけど」
『気が引けます?』
「……」
『先輩、それ、もう五条の術中ですからね』
あいつがこのタイミングで何の策もなくいきなり告白なんてする訳がありませんと、電話の向こうで硝子はそう断言する。
『十年拗らせてようやく、ですよ。確実に落としにきてます。その気がないならはっきり断らないと』
「ゔ」
『…………その感じ、実は、満更でもなかったりします?』
「そ、そうじゃない、そうじゃないけど……何ていうか、その、都合が、良過ぎて……」
『……先輩……』
「違うのよ、私だって最初はきっぱり断ってたのよっ、でもあいつ物凄く態とらしく聞こえないフリするし……いつまででも待つから気が変わったら言って、って……しかも何なら別にこのままでもいいとか言い出すのよっ? 勝手に傍にいるから、そしたら寂しくないでしょ、とか…………そんなのもう、断りようないじゃない!」
『………………せんぱい……』
用意された選択肢は見せかけだけで実際には一本道を進んでゆくより他にない。私がどこへ行こうと何を選ぼうと、多分五条は、一向に構わないのだろう。どうであれ、あいつは、私の隣にいるつもりなのだから。
迷惑ならばもっときつい言葉で拒絶も出来るのに、悔しいが、今のところ、相変わらずのお巫山戯や毒へのストレスよりは、気の置けない他人と繋がっている安堵の方が勝っている。あの男、丁度寂しい時に、見計らったようなタイミングで連絡を寄越したりするのだ。余計に拒み辛い。
大嫌いな男なのに、いざ失うと思うと、それを惜しんでいる私がいる。
そういう自分の身勝手が、許容、出来ない。
何かしらけじめをつけなくてはならないと思うものの、いざ、決めてしまうとなると足踏みしてしまうのだった。
『…………結婚、するんです? 五条と』
「そこまで考えたくない……」
『でも、このままだと先輩、近いうちに押し負けますよ』
「……」
それは全くその通りで、何を言い返すこともできないのだが、しかし、それはそれとして、やはり、受け入れたくない。
別に、好きでも好みでも何でもないのだ、あんな男。
見目がよくて賢くて、体もよくて、金もあって、血統書付きのこれ以上とない優良物件だろうが私があいつにときめく要素などは一つもない。それだけは、断言できる。
……なのに、子犬のような無邪気な目をして健気に尻尾を振られると、まあこのくらいならいいかと許してしまう。それこそがまさに五条の思う壺で、そうとわかっていても、どうにもここから抜け出せないのだ。
「…………ッ」
『先輩、他にいい男とかいないんです?』
「……いない……いるわけないじゃないそんなの……いたらこんなことになってない……」
『それは……』
「大体、あの馬鹿のせいで、他の男が悉く霞むのよ……ッ。硝子、あいつの本気のエスコート、受けたことある……? ちゃらちゃらしてんのはいつも通りなのにさり気なく奢るとか車道側歩くとか、そういう、女受けのいい気遣い、一通り全部押さえてくるのよ……! 普段全然そんな素振りもないのに妙に女子扱いしてくるし……」
『……』
「デート慣れしててほんとむかつくっ……文句言いたいのに、いつも、今まで見たことないくらい、めちゃくちゃ嬉しそうにしてるから、何にも言えないぃっ……」
『…………。電話、もう、切っていいです?』
遂には硝子も匙を投げた。
誰も不幸にならないんだし腹括ったらどうですか、と投げやりに言われ、でもだってと言い訳を繰り返しているうちに「そろそろ旦那、帰ってくるんで」と本当にぷつんと通話を切られてしまった。
私とどうなりたいのよ、と訊きはしたものの、そもそも私だってあいつとどうなりたいのかわからない。大嫌い、が、大嫌いだけどでも、と煮え切らない感覚になってしまうくらいには、最早自分自身でさえも奴のことをどう思っているのか不明瞭なのだ。
情は、ある。多分。
しかしこれは恋情の類ではない。友情や仲間意識とも違う。腐れ縁、というのが一番しっくりくる。嫌いだが、とにかく腹の立つ男だが、それでも放っておけないのだ。学生時代から妙に絡んでくるなと思っていたら実は極端に懐かれていたのだと知って、愛着めいたものまで湧いてきてしまったし。誠に遺憾である。どうしてくれるつもりだ。
一体、どこまで、許してしまうのだろう。
どこまでならば、私は、あの馬鹿を許容出来るのだろうか。
もっと近くにいきたいと言いつつ勝手に私の隣を占拠する男に、ノーと首を横に振り続けるのかそれとも観念してイエスと唸るのかは、きっと、それこそが問題なのだ。
「あっれえ〜、歌姫じゃーん。こんなとこで何してんの? 帰ったんじゃなかったっけ」
「……うるっさいわね……」
どうやら自室に帰って着替えたらしい、私服姿の五条と寮の玄関前でばったりでくわして、思わず舌打ちをする。
突然の豪雨だった。
近頃天気が不安定なのは知っていたが、急にこんなに降るなんて聞いてない。
こんな日に限って私は傘を忘れてしまっていて、それでもまだ薄曇りだしと油断していたところへざあっと滝のような勢いで降り出したのだ。堪らず近くの軒下に避難したものの、あっという間に濡れ鼠だ。お陰で下着までぐっしょりである。
でもまあ、車を頼む前でよかったなと、髪から顔へと滴る雨水を拳で拭いながら思う。こんな大雨の中、送ってくれと頼むのは流石に気が引ける。ずぶ濡れのままでは乗車も厳しいし。
すぐに、止めばいいのだが。
黒く濁る曇天と凄まじい勢いの雨粒にげんなりと息を吐く。このまま続くようであれば、新幹線が止まりそうだ。そうなったら帰れない。
しかし、何はともあれとりあえずは、タオルと着替えを借りた方がいいだろう。このままでは風邪をひく。
「……っ、ちょっと」
「んー?」
「触んないでよ。あんたまで濡れるじゃない」
髪が重く水を吸い込み、何度も額から大粒の雫が伝うのを煩わしく思っていたら、何を思ったのか五条が私の顔を掌で拭った。
乾いた硬い皮膚に滴る水が移るのが判って、私は思わず顔を顰めた。
引き寄せる仕草を咄嗟に拒んだ。奴は術式を使っていない。突き出した手に布越しの体温がじんわり染みて、同時に、部屋着らしいTシャツを濡らして私の手の形に模様を作ってしまう。
けれども五条は気にしたふうもなく、微かに笑んでみせるばかり。
そして、こう言った。
「……僕の部屋、来る?」
「え」
「着替えくらいなら貸せるけど。ああ、あと、あっためてあげられるし」
「……」
「どうする? それとも、硝子、呼ぶ?」
「…………」
試されて、いる。
下心はあるとはっきり宣言されている。濡れて張り付く髪を丁寧に脇へ避ける仕草に、眇めた視線の甘さに、何も思わないほど鈍くもない。
けれど、触れる手が、嫌いではないのだ。
私の所為でじわりと湿って、頰に張り付くその掌を、振り払いたいとは思えない。
──────本当に、私ときたら、こいつにどこまで許してやる気なのだろう。
「……………………。いく」
迷いも躊躇いも、実のところ溜めた沈黙ほどの重さはない。ただ、少し、照れ臭かっただけ。僅かに上がる熱と鼓動を悟られたく無くて、顔を背け、目を伏せる。
五条の表情はわからない。
ただ、言葉のないまま、ゆっくりと腕を引かれた。
狭い土間に立たされて、髪を拭かれた。
「っもう……自分でできるわよっ」
「まあまあ」
ハーフアップで髪を結んでいたリボンを解かれ、わしゃわしゃとタオルで水気を拭き取られる。
完全にとまではいかないものの、滴るほどでも無くなった頃、すっかり湿気ったタオルで頭を包んだまま上向かされた。
濡れた唇に、乾いた唇が、重なる。
ふに、と触れて離れる柔らかさは、この先のお伺いを立てるようなのがらしくなく、少し笑ってしまった。
「ふ」
「……何か、可笑しい?」
「ん。まあね、なんか、変な感じ」
ぱさり、とタオルが床に落ちた。
濡れるからやめろと言ったのに、五条はきつく私を抱き締めている。薄い生地はあっという間にびちゃりと濡れた。けれどももう、私も、止めはしない。
啄むような口付けは次第に貪るように変わり、息を吐く間も見つからない。ふ、ふ、とぎごちなく鼻で息をして、逞しい胸板に手を当てていると袴の紐を解かれた。
じゅる、ぐちゅ、と普段よりも不自由に結びが緩み、支えを失い、べちゃっと重苦しく足元で水溜りのように輪を描く。
ひやりと湿った肌が、外気に、触れた。
直に腰を抱く腕が焼けるようで熱い。
抱き上げられて、爪先が浮いて、不安定な浮遊感に私もまた太い首に縋り付く。
きし、きし、と僅かに木の軋む音がした後で、体をベッドの上に投げ出された。
裸の私にまたがる男が、濡れたTシャツを雑に脱ぎ捨てて、嬉しそうに口元を歪めながら覆いかぶさってくる。
「歌姫、冷たい」
「んっ」
「早くあっためないと」
「…………あんまり、乱暴に、しないでよ」
久し振りなの、と言うと五条がぴたりと動きを止めた。
見れば、何やら複雑そうな顔をして口をへの字に曲げている。何故だ。
「何よその顔」
「歌姫さあ……煽ってる?」
「は? んなわけないでしょ、何でそうなるのよ」
「あっそう。なら、今日は、許す。……けど、あんま、余計なこと言うなよ。僕、割とぎりぎりだから」
「……」
「……好きだよ。だぁーいすき」
薄闇の中、きらきらと、青い瞳がまるで宝石のようだった。
それこそ壊れやすい宝物でもあるように、優しく抱かれ、口付けられるのが、どうにもこそばゆくて仕方ない。
きゅ、と顔面が中央に向かって力が入る。
漂う甘ったるい空気など知ったことか。きつく閉じた瞼の向こうでぶっと五条が噴き出して、「あらら、ぶちゃかわでちゅねえ歌姫ちゃーん」とけらけら揶揄してきても無視である。
とはいえ、ここまできて意固地を貫くというのも流石にない。軽薄な調子はそのままに、「いい子だから、おめめはそのままでもいいけど、お口は開いてくんないかなあー?」と猫撫で声で、しかしちょっと困ったように訴えてくるので、瞼はぎゅっと閉じたまま口を小さく開いて「やかましいっ」と唸った。
──少し、眠ってしまったようである。
人工灯など無くとも薄く烟るように明るかった室内は、すっかり暗くなっていた。今、何時だろう。相変わらず雨音が凄い。
もぞもぞと肘を突き、頭を起こすと、隣で仰向けにスマホを操作していた五条がこちらを向いた。
「あれま、起こしちゃった?」
「…………ん、いい……おきる……」
「そ? まだ寝ててもいいよ? 新幹線、軒並み止まってるみたいだし」
ほら、とスマホで交通情報を示されて、眠い目を凝らしながら青白く光る画面を睨んだ。
どちらにしろ、足が止まっていては帰れない。この調子では、明日の始業に間にも合うかどうか。
はあ、と溜息を吐きつつもぞもぞと落ち着きの良い位置を探す。男の腕枕というやつはあまり気持ちの良いものではないのだな、と知った。しかし、心地よい気怠さで体が満たされていて、多少のことではここから抜け出す気にもなれない。
硬い枕に顔を顰めつつ擦り寄ると、五条がくつくつ喉の奥を鳴らした。
「甘えるねえ。僕、そんなに快かった?」
「まくらはしゃべんな」
「ひっどぉーい。ご要望通り、やさーしく、加減してやったのにぃ〜っ」
ぷんぷん、と効果音でもしそうなくらいに頬を膨らせ口を尖らせこれ見よがしにぶりっ子ぶって怒る五条は、しかしそれも大して長続きはせず、にやにやと緩み切った表情で私をぎゅっと抱き締めた。
「んぶっ」
「ふ、ふふっ、ははっ…………ね、歌姫。これ、勿論、オッケーってことでいいんだよね?」
「それは……………………。そう、だけ、ど」
「じゃ、結婚する?」
「けっ……。い、いきなりは、ない。段階踏んでよ」
「段階って、えっちまでしといて今更じゃね?」
「う……うるさいのよっ。いくらなんでもそこまでは、弾みと勢いだけじゃ、無理なのッ!!」
もう少し時間頂戴よ、とがなると五条はますます嬉しそうににやけた。
「前向きだなー」
「っ……」
「いいよ。死ぬまで待つって、そう言ったしねえ、僕」
「…………そこまでは、待たせない、わよっ……」
「んー、どうかな。期待はしてるけど……まっ、取り敢えず、結婚前提のお付き合い、ってコトでいいっしょ?」
「……」
はっきり口に出されると、何かこう、ちょっと、素直に「そうね」と首肯するには躊躇われる。
今更嫌なわけじゃない。とにかく何もかもこいつの思う通りに進められている気がして、それが、癪に障るのだ。
「…………あんまり、調子、乗るんじゃないわよッ……」
「いやいや無理だって。僕、ちょー浮かれてるもーん」
「っ」
「プロポーズは改めて、おいおい、ね? ……ベタに夜景の綺麗なレストランで指輪ぱかってした方がいい?」
「………………絶対やめて」
もっと普通でいい。
そんなものは聞いているだけでも寒いぼが立ちそうだ。が、あまりにも過剰に反応しすぎるとそれはそれで面白がって実行されそうでもある。
微妙な顔つきで固まった私に五条は意味深に微笑んで、まあ楽しみにしといてよ、と愉しげな声を上げた。