ヤング・モリアーティと藤丸立香 コツ、コツ、と。硬質な靴底が鳴る音は規則的で、定規で引いた直線のような几帳面さを感じさせる。高い天井に反射するその響きに、藤丸立香はそっと溜め息を吐いた。
ノウム・カルデアの図書館の一角に設けられた読書用のスペースはと言えば、普段から、埋まっている席のほうが稀である。図書館自体の利用者はさほど少ないというわけではないが、やや奥まったその空間はなんとなく足を運びがたい空気でもあるのかもしれなかった。今日も例に漏れず、藤丸が腰掛けている席を除けば見渡す限りが空席だった。が、迷いない足取りで近づいてきた訪問者は何を考えているのか、低い衝立を挟み、藤丸の正面の席にすとんと腰を下ろす。
空席だらけの電車で、わざわざ隣に座られたような居心地の悪さを覚える──まあ実際のところ、電車など、もう何年も乗ってはいないのだけれど──目の前に座る相手とは生まれた国も時代もかなりの隔たりがあるので、あちらにおいてはこれがスタンダードなマナーなのかもしれない。藤丸はそう考え、無理に自分を納得させようとしたが、残念ながらうまくはいかなかった。
その原因であるところの彼──調停を役割とする裁定者のクラスを割り当てられるに至ったジェームズ・モリアーティはと言えば、藤丸の正面で、机へ肘を突いた手のひらに綺麗なかたちをした顎を乗せ、まるで親しい友人に接する時のように、にこやかに微笑んでいる。
本日、ノウム・カルデアでは今後の方針に関する意見交換の実施を予定しており、モリアーティはそのメンバーとして選定されている。そのため、藤丸が彼とこうして顔を合わせること自体は何一つ意外なことではない。ただし、その会場はこの図書館ではなく、管制室のはずである。
藤丸は、半ば過ぎまで読み進めた本──表紙には、赤い革張りの椅子が描かれている──から視線を外し、机上に置いた端末の表面に軽く触れ、現在の時刻を確認する。呼び出しをかけた時間までには、まだ随分と余裕があった。藤丸は特に潜めることなく、再び息を吐いた。またか、と思う。
モリアーティが藤丸に対し、前触れなく、不自然な距離での交流もどきを仕掛けてくるのは、これが初めてのことではない。数週間前、初めてそれが行われた時も、場所は今日と同じ地下図書館の一角だった。今まで人類最後のマスターとして、珍妙で、突飛で、報告書を取りまとめるのにほとほと苦労するような事態に幾度となく遭遇してきた藤丸ではあるが、今回もその一環として受け流すには、いかんせん、モリアーティという男の存在が齎す違和感が強すぎた。
思わず眉を寄せ、何か用かと問うた藤丸に、モリアーティはいっそ爽やかさすら漂わせて「いいや別に?」と朗らかに応えた。さあさ僕のことなど気にせず読書を満喫するといい、と笑顔で藤丸を促しながら、自分はと言えば手元で本を開くでもなく、じっとこちらを見つめたままでいた。藤丸がそんな状況で本に集中などできなかったことは、言うまでもない。
加えて、モリアーティが取っている姿も、藤丸の思考を乱れさせる要因だった。
普段は、再臨を重ね、裁定者としての自覚が深まり、加えて自身の眼前に悪の頂へと続く道があることに気がついた姿でもってノウム・カルデア内を闊歩している彼だが、今日のような会議や戦闘シミュレーションのために藤丸が呼び出すと何故か、召喚サークルから現れた時の学徒めいた姿でやってくるのである。この理由については、藤丸はまだ尋ねてみたことがなかった。まだ特異点の一件は記憶に新しく、あくまでも違う存在として召喚されたことは理解しながらも、そもそもがあのモリアーティの若い時分の影法師であることも考慮すると、こんな小さな要素も彼の操る搦め手の一環かもしれないと疑い始めてしまう。本人に意図を正面から尋ねるのもなんとなく憚られ、結果的に、まるで気にしていませんよ、とでもいうような態度を取ってしまっている。
まあ、この藤丸の逡巡や一種の諦念も、モリアーティにはまるきりお見通しなのだろうけれど。
手にしている本の文字列がまるで頭に入ってこないことを自覚し、藤丸は顔を上げる。予想通り、モリアーティは紫色のメイクが施された瞳で藤丸をじっと見つめており、視線がかち合っても、あらゆる生命活動の一端にさえ僅かの動揺も表さなかった。
大きな瞳が、絶え間なくこちらを観察しているさまは、猫を思わせた。それも、老いて暖炉の前でくつろぐ猫ではなく、世界のあらゆる要素に興味が溢れて、髭がうずいてたまらない猫だ、と藤丸は思った。その観察から読み取ったあらゆる情報を基に、頭蓋の内に収めた優秀な脳で、小さな銀の火花を散らしながら深く、重く、思考に耽溺しているのだろう。その対象が藤丸自身であることはやはり気にはなるものの、モリアーティにそれをやめろと言うことは、魚に泳ぐのをやめるよう命じるのとほとんど変わらないことのように思われた。
ふと思い返したのは、彼を召喚してまだ日の浅いいつかの会話だ。既に再臨は終え、自らが異星の神の使徒として活動した特異点の記録も読んだモリアーティに対し、藤丸は、認識の擦り合わせのために質問を重ねていた。その中で、藤丸についてどう思うかと尋ねた時のことだったように記憶している。
曰く、君は異物であるのだ、と。それだけ言って、黒いスーツを纏ったモリアーティは笑顔のまま口を噤んだ。
その姿に、その時の藤丸は納得の心地を覚えた。熟成したジェームズ・モリアーティが意図して藤丸へ、そして後輩へとそう施してくれるのとは違い、この歳若いモリアーティは、解法を一から十まで丁寧に説明するということはほとんどない。それは当たり前のことだ。彼は藤丸の教師ではなく、藤丸は彼の教え子ではない。
だから、藤丸は考えた。異物、という言葉。それはおそらく、数式を波立たせ、実験に揺らぎを生み、論理をもう一度見つめ直させる、そういう類いのもののことだろう。
そう判断した藤丸は、奇遇だ、と応えた。
あなたも私にとって、異物に他ならない、と。
そう言ったのは、ある種の意地でもあったが、おおよそ藤丸の本音だった。モリアーティという男は、特異点での出会いから退去に至るまで、そしてノウム・カルデアで召喚を果たして今日まで、その全てにおいて、藤丸の想定を外れた存在だった。翻弄され、理解に至らず、だと言うのに目で追わざるを得ない。そのことに困惑を通り越して、いささかの憤りすらある。未だに腑に落ちる答えを得られてはいないが、この異物感と向き合いながらこのサーヴァントと付き合っていくのだろうという確信めいたものが、多少の不本意さを伴いながら、藤丸の中に生まれてきていた。
モリアーティは、藤丸の視線を受け止める。一般的な世界の公式に基づけば、いずれ成長して、犯罪界のナポレオンとなるはずの青年は、そんな運命などまるで知りません、とでも言うように、薄く、微笑んでいた。
──その笑顔を脳裏に浮かべながら、図書館で本を開いていた藤丸は、双六というゲームのことを考える。賽子に運命を託して進むあの遊戯で、ルートが複数に分岐することはあるが、概ね到達地点は一つに定められている。
果たして、目の前の男が至る先は、あの悪の首魁なのか、あるいは。
不意。
消音に設定した端末が、画面を点滅させ、意見交換の時間が近いことを知らせる。アラームを止めた指先が、藤丸の詮ない思考もそっと途切れさせた。
藤丸は、本の頁に栞を挟み、椅子から立ち上がる。一拍置いて優雅さを感じさせる動作で立ち上がったモリアーティは、まるで和やかな談笑の続きのような顔をして「読み終えたら、感想を教えてくれたまえよ」と言うものだから、第一声がそれか、と脱力してしまう。お陰様で読了はだいぶ先になりそうだ、と嫌味を言いかけた藤丸は、一瞬考えてから「採点は止してね」と釘を刺した。それにモリアーティは虚を突かれた様子で一度目を丸くすると、「感想に点数なんかないとも!」と破顔した。