災難 とんだ災難に巻き込まれたものだ。
物価が安いという利点と、ホテルから見える海が最高だという評判を聞き、ここでなら景色を楽しみつつ試験勉強ができると思っていたのに。滞在一日目で私の予定が台無しになりそうで笑えない。
『アルハイゼン……いいだろ?お互いにご無沙汰なんだから』
『駄目だと言っている。ここは性処理目的の施設ではない。盛るなら家に戻ってからにしろ』
『そんなことを言って君、全然スメールに帰って来ないじゃないか!だから僕がわざわざオルモス港まで』
『補助金をバラ撒きに来たのか』
『その件は改めて話し合おうって言った』
『っ……!だから、盛るなと言っている!』
お手頃な値段で広い室内。新鮮な果物もテーブルに用意されサービスも完璧。部屋の大きさに対してベッドは少々小さいものの、シングルならば妥当だろう。スメールからの移動の疲れを、先ずは癒してから試験の対策に着手しようと寝転んだ矢先だ。
『オルモス港にこんな素晴らしいホテルがあったとはね……』
『君の分のホテル代は持ち合わせていないが』
『我々の書記官様の財布がそんな寂しい筈がないだろう。頼む。宜しくお願いします』
『本当に君って男はどうしようもないな』
聞き慣れた声が壁越しから聴こえてきた。その瞬間、疲労で綴じかけた瞳が開き、壁際にベッドがあるといっても丸々聴こえてきた会話に思わず飛び起きてしまった。
この声の主には聞き覚えがある。スメールの酒場の常連客なら知らない者は居ないだろう。良ければ口論、悪ければ殴り合いの喧嘩に雪崩れ込むのは日常茶飯事である、教令院が解き放った傍迷惑二人組だ。
ふたりはもうとっくに卒業し、ひとりは栄誉卒業生、もう一人は教令院の書記官と、己など遥かに上回る頭脳と功績を持つふたりだが、酒場での彼等はただの迷惑客に過ぎない。
ここでも殴り合いの喧嘩などされようものなら私の試験勉強は絶望的だ。そう思い、顔から血の気が引いていく。
(いや、滞在と言っても一日だけだろう。今日だけ我慢すれば……)
『君が家に帰らないなら、僕も帰らない』
(帰れ!)
と心の中でカーヴェ、天才建築家でありながら、何故か今は金に困っている……らしい男が拗ねたような声を出したものだから、思わず声を出さずに思い切り突っ込んでしまったが、ふたりの会話にある違和感を私は感じた。
『……君は子供か?図体だけは立派なようだが』
『っ……!君はまた、そういう……!また危ないことに首を突っ込んでるんじゃないかって人の心配心をなぁ……!』
『全く持って無駄な心配だな。明日は助っ人も来る予定だ。まあ、戦力になるかはまだ解らないが』
『だから!そういうところだぞ!!戦力ってなんだよ!殴り合いの喧嘩は僕ひとりでいいだろ!』
(ただの友人同士の会話……というよりかは……)
何かがおかしい。その違和感の答えを、私は直ぐに気付くことになる。
『というか、何?助っ人?男?何歳?何時知り合ったんだ?連絡先とか交換したのか?』
『男だよ。歳は聞いてはいないが、15、16といった所か……モラを騙しとられていた所を……なんだ君。その顔は』
『別に。可哀想な少年だ。猫を被った書記官様に騙されていると思うと同情するよ』
明らかに不機嫌になった声色に、いくら鈍くても解るふたりの関係性が見えてきた。これは違う。酒場で乱闘する際の口論ではない。これは。
『俺が誑す?誑かされていたのは旅人だよ』
『そういう意味じゃない!いいかアルハイゼン!浮気したらゼッッッッタイに許さないからな!』
(痴話喧嘩だ…)
スメールのお騒がせ二人がこのような関係だったなど。頭に鈍い衝撃を感じながら私は賤しくも壁に耳を当て彼等の喧嘩に利き耳を立てていた。
『……………』
『君、僕が馬鹿だと思っているだろう!』
『思ってない』
『いや、思ってる』
『思っていないと言っている。呆れているだけだ』
『同じ意味だろうが!……って……!』
『……俺がこういう事をしても良いと思っているのは、君だけだが。それだけでは不満か?』
今、絶対にキスしただろ。見えてなくても私には解る。軽いリップ音も聞こえてきた気がする。
少し気難しい所があるものの、基本的には人当たりの良く、眩しい金髪と甘い容姿で数々の人間を虜にしてそうなカーヴェの色恋沙汰なら解るが、あの書記官さまが。堅物で、融通が効かなくて、嫌味なほどに頭が良く、腹が立つほど顔が綺麗ではあるが、言葉だけで人を再起不能にさせてしまいそうな男が、恋人のご機嫌取りにキスをした?というかルームメイトって何だ。同棲の間違いじゃないか。
『君って、やつはっ……!』
書記官様のキスですっかり舞い上がったようであるカーヴェが、どうやら恋人に飛びついたらしく大きな物音が同時にした。そして、二人分の重さに耐え兼ねた寝台の悲鳴が私の鼓膜に響く。
これはもしや、もしやなのでは。ふたりが恋人なら、この後の展開も決まっているだろう。
いよいよそろそろ隣人の存在を主張しないと、これから酒場でふたりと遭遇した際気まずいにも程がある。
自分の存在を知らせようと軽い咳払いをしようとした、その時だ。
『んぁっ……、っ、カーヴェ……っ、待て……!』
書記官さまの上擦った甘い声が私の耳に飛び込んで、出そうとした咳を飲み込んでしまった。
『アルハイゼン……いいだろ?お互いにご無沙汰なんだから』
『駄目だと言っている。ここは性処理目的の施設ではない。盛るなら家に戻ってからにしろ』
『そんなことを言って君、全然スメールに帰って来ないじゃないか!だから僕がわざわざオルモス港まで』
『補助金をバラ撒きに来たのか』
『その件は改めて話し合おうって言った』
『っ……!だから、盛るなと言っている!
そして、冒頭へと至るわけだ。
この薄い壁で隔てた先で、今まさに行為に及ばんとするふたりに、丸聞こえだから止めろ!と叫びたい気持ちと、理性が生きて歩いているとまで言われる書記官様の熱を帯びた声に妙な動悸を覚えて何もできない自分との板挟みに私は苦しんだ。
滞在一日目にしてもう佳境である。この緊張感を超える試験は今後体験することはないだろう。断言できる。
(聞いてはいけない。と解っているのに……)
学者の好奇心。とは言い訳できない、個人としての好奇心が先立って、私は壁に耳を強く押し付けてしまった。
あの書記官様が、常に淡々とした姿勢を崩さない男が、恋人の前でどのように乱れるか。その様子を見られなくとも、聞いてみたい。
しかし、そんな下心が生まれた瞬間、あの男は目聡く気付いたらしい。
『……このホテル、設計が少し甘いようだね』
直ぐに気付けばよかった。
前程までとは打って変わったカーヴェの冷えた声。ドキリ、と冷や汗が流れ、防衛反応で思わず壁から離れてしまった拍子に今度は私のベッドがギシリと音を立ててしまった。
その音がアルハイゼンにも聞こえたのだろう。
『だから盛るなと言っただろう』
『なあ、今からでもキャンセルできないか?やっぱり家でヤりたい』
『誰の金だと思ってる。一晩我慢しろ。明日は家に帰ってやる』
『約束だからな、すっぽかすなよ』
どうやら明日にはスメールに帰ってくれるらしい。これで試験勉強に打ち込めるという安堵と、少し残念な気持ちが半々私の心を占めていたが。これで良かったのだろう。
とんだ災難に巻き込まれたものだ。これはシャープールホテルに苦情を入れても良いぐらいだ。壁が薄いだけでホテルには何も罪はないが、絶対に文句をつけてやると、私は心に誓いながら、ささやかに反応を示している自分の下半身を見下ろして少し泣いた。