FX戦士蘆屋さんこれは「蘆屋道満」が「藤丸立香」に邂逅する前の話。
魔力という概念が存在しないこの世界において己の力を示すただ一つの指標、それは資金力。
故にかつて比類なき魔力を誇ったこの男も、現地点では弱者に類されていた。
平均よりもゼロが二つほど足らない通帳残高を道満は憎々しげに見つめていた。
(ンンン……何事を成すにも先ずは金が無いと始まらぬが、これはいけない……)
(しかし今から正規のルートを辿ったところで、所詮凡夫止まりが関の山……ンンッ、然らば!)
「歩」は敵陣に入りて「金」に成る。
凡夫に類される事が我慢ならぬこの男は所謂「成り上がり」を目論んでいた。
下準備として関連書籍を読み漁り、シミュレーションを繰り返し、満を持して迎えた新たなる仕合舞台。其の名を「FX」、正式名称を「外国為替証拠金取引」という。
敗北せしすべての魂喰らう辺獄の決戦地、その死合の舞台が此処に幕を開けた。
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初心者であるにも関わらず、彼の滑り出しは実に順調だった。
持ち前の多才さとビギナーズラックも相まって、雀の涙ほどしかなかったはずの彼の持ち金は一ヶ月でそれなりの金額になっていた。
(ンンン……これは……存外悪くない、悪くないですねぇ!)
順調に増えていく数字に気を良くした道満はさらなる策に打って出る。
軍資金がある程度まで増えたのをきっかけに、これを種銭として更にハイリスクな取引を試みんとしていた。
新興国通貨への投資。その中で道満が選んだ通貨は高金利として人気も高い「トルコ/リラ」。
よく動く相場は損失も出しやすく資金を溶かすリスクと表裏一体ではあるが、逆にタイミングを見極めて上手くやれば莫大な利益も得られるのだ。
「さて……我が指先にて、すべてを喰らい尽くしてくれましょうぞ!」
現時刻、日本時間にして午後五時。
彼の最初の『運命の日』はすぐそこに迫っていた。
*********
「ンンン、やはりここは『買い』でしょうなァ?」
取引開始時、トルコリラの現在の相場価値は最高値時の約半値であった。現在が底値であると踏んだ彼は、掛けうる最大のレバレッジをかけてあえて買い注文で挑んだ。
入金額以上の通貨を運用できるシステム「レバレッジ」。デメリットも当然あるものの、現地点までは彼がその苦汁を飲む場面は無かった。
緩やかではあるものの彼のポジションはじわじわと上昇していく。予想通りの展開に、道満は余裕たっぷりの笑みを浮かべて画面の前で手を叩いた。
「フフフフッ、ハハハハッ! いいですねェ、実に愉快! そうれ! 我が糧となれィ、有象無象共!!」
数多の敗者の屍の上にこそ勝者の莫大な利益がある。ゼロサムゲームな為替の世界は、彼の気質に上手くマッチしていた。
*********
同日、午後十時。
ニューヨーク市場の開始時間。イギリスとアメリカ、二つの為替市場が動くこの時間帯は最も活発に取引が行われる。
その影響か、これまで緩やかに上昇していたチャートの流れが変わり徐々に下落に転じていた。
「なに、多少の相場変動は織り込み済み。この流れもいずれ上昇に転じましょうや」
そう言ってしばし見に徹していた道満であったが、待てども下降トレンドは一向に揺らぐ気配がない。
最初は余裕のあった道満の笑顔は徐々に硬くなっていった。
(おの、れェ――)
ぴくぴくと表情筋を引き攣らせて取り憑かれたように画面を見つめながら、道満は爪を噛む。
ポジションをさらに買い増す「難平(ナンピン)買い」で流れに抗ってきたが、値動きは明らかに道満にとって「負け」の潮流であった。
(ン、ンンッ!……重々承知しているつもりなれど、耐え難き思いに囚われてしまう……)
(鎮まらねば、鎮まらねば……儂は血迷うておる……)
難平買いは成功すればより大きな利益を得られるが、相場が好転しないと含み損が膨らみ続ける諸刃の剣。
通常、FXの負け分はそのまま借金となる。道満のような高レバレッジで取引する口座は、ほんの少しの価格変動でもロスカット――強制決済されてしまうリスクがとても高い。
そのため、追加入金で取引の寿命をいかに伸ばせるかが重要なカギとなる。
しかし損失を取り返すために延命措置を繰り返した結果、入金する金がなくなり借金に手をつける者もいる。こうして数万円が呼び水になり、最終的には破産する者も出てくる。これがFX取引が「地獄」と呼ばれる所以であった。
道満は頭の切れる男である。
目の前の状況だけを見て流されてしまうのは悪手。敗者の末路がどうなるかを前情報で知っている彼は、今取るべき最善を理性では理解出来ていた。
(チィィイ! そろそろ弾丸も底を尽きる……やはりここは傷の浅いうちに潔く退くのが得策か……)
(……だが、ここで「上昇」が来れば、手に入る益は今迄の取引の比ではない……)
しかし彼の持つ生来の気質が、道満に判断を誤らせた。
(……否、否、否ァ! 此処で退くなど断じて! 断じて有り得ぬ!)
(この道満、嘗て占星術に於いては読みを外した事など無し!)
(下がりはしたが、チャートはこれで確実に底を叩いた! 叩いた筈なのだ!)
(儂の読みでは来る、確実に! 上昇が!)
引き際を見極められずに損切りを引き伸ばして、自滅していく敗者たち。かつて嘲笑っていた有象無象と皮肉にも同じ道筋を辿りつつある道満は、確実にFXの泥沼にはまっていった。
*********
数日経過し、チャートはしばらく焦らすような横ばいの膠着状態が続いていた。しかし、週明けに事態は急転した。
「ン、ン、ンンン〜〜〜ッ!?」
早朝、タブレットの通知で目覚めた道満は我が目を疑った。
――清々しいほどの大暴落。まさしく未曾有のフラッシュ・クラッシュであった。
落ちに落ちた道満のポジションは、一瞬で今まで培ってきた利益を総て喰らい尽くした。
ギリギリで持ち堪えていたものの、強制ロスカットの魔の手は道満のポジションに確実に忍び寄っていた。
「ええい! どうなっておる!? 一体何が起こったというのだ!?」
入金できる残弾は残り僅か。脳内までクラッシュしそうになるのを道満は紙一重で抑え込んだ。
「馬鹿な! 馬鹿なッ!! 儂が、ここで死ぬなど……!!」
(……いや、まだ儂には、奥の手がッ……!)
彼はついに禁じ手の非常用口座に手をつけ、勝負に出ようとしていた。
(――我が最後の砦! 是を今こそ解き放ちて、一挙に負債を消し飛ばしてくれる……!
万一これが破られる事あらば、家賃の滞納は必定……リスクの激しきこと甚だしければこそ避けては来たが、最早手は無し――)
この入金で計算上彼のポジションはギリギリ持ち堪える……はずであった。
しかしここで予想外の入金タイムラグが発生した。
「なァッ!?」
その間に襲い掛かる容赦のない強制ロスカット。
道満の損失が確定した。最後の入金は介入に間に合わず、通算した含み損は500万円超。この取引で今までに築いた財を全て溶かした形となった。
道満はしばし呆然とした後、小刻みにわなわなと身体を震わせ、恨み骨髄といった面持ちで呪殺さんばかりに画面を睨め付けた。
「……おのれ、おのれおのれおのれェェエエッ!!!!」
(おのれ、臓物をねこそぎ吐いても収まらぬ。おのれ、正気を保つ理性すら焼き切れる。
おのれ――斯様におぞましき結末を見せつけられ、大笑できるものなど何処にいよう――!)
鳴り止まない支払催促の電話。
普通の人間ならば退場を余儀なくされる所だが、道満はこの程度で心折れる男ではなかった。
その後も血反吐を吐く失敗を幾度も繰り返すのだが、最終的に彼が成功を掴むのはもう少し先の話。