アンサンブル·キャット 昔から演じることが好きだった。
自分が役になりきって演じれば大人たちが拍手をくれた。
大好きだったのだ、自分では無い『ナニカ』になれることが。
それが今はどうだ。大した役を勝ち取ることも出来ず、それでもなあなあに続けている。何も諦められずに小さな舞台でアンサンブルとして演者を続けている。
「…………もうやめよっかな」
誰も居ない楽屋でぽつりと呟く。
静寂に包まれる。嫌な思考を振り払うようにパシンッと両頬を叩いた。
やめるわけにはいかない。だって
「遥、怒るもんなぁ」
遥。オレの愛しい恋人。
オレの演技を一番傍で見てくれていた人。
オレの演技を「世界で一番綺麗だ」と抱きしめてくれた人。
愛しい人に宣言したのだ。「オレが、誰からも認められるような人間になったら一緒になろう」と。
「…………大丈夫、オレが一番上手いんだから。誰よりも」
もうこうなれば意地なのだ。
絶対にここで折れてなんかやるものか。
ぎり、と拳を握る。少しだけ爪が肌にくい込んで血が流れた。
はああ、と大きめな溜め息が零れた。諦めないのは決定事項なのだが、如何せんこの先どうすれば良いのかが皆目見当もつかない。
はて、どうしたものか……うんうんと唸っていると扉の向こう、廊下から話し声が聞こえた。
「例の映画、見ました!?ほんっと、衝撃的でしたよね!」
「あれねぇ、初日に有給取って見に行った甲斐があったわ」
二人の女性の声。それらが廊下に響き渡る。
例の映画……?映画………………あ。
「たおはな、か」
手折った花の名をきみは覚えているか。通称『たおはな』
最近巷で有名な作品だ。今日も他の演者仲間がその話をしていたのを思い出した。
確かまだ上映されてから日も経っていないはず。
「……………………見に行くか」
何事もまずは行動だ。今のこの状況から抜け出せるヒントがあるかもしれない。
勉強あるのみなのだ、この世界は。
ポケットからスマートフォンを取り出す。自分が明日は休みであることを確認し、映画館のサイトを検索した。
「…………あった」
たおはな……流石は今季最大のブームを巻き起こしている作品だ。ほぼ座席が埋まっている。
だが幸い、一番後ろの席が二席空いていた。
「遥も誘うかぁ……来てくれるかなぁ」
最近は自分のスケジュールと遥のバイトが重なってしまい予定が合わずにいた。デートなんてここ暫くしていない。
「は、る、か……明日、映画館、デート、しない……?と」
年甲斐もなく緊張してしまう。何度だって連絡は取り合っているはずなのに。
こんなダサい姿は見せられないよな、と頭をかいているとピロンッと電子音が鳴った。
画面を見ると いいぜ の三文字。絵文字もスタンプもない、たったそれだけの返事。
「………………可愛げねーの」
言葉とは裏腹に口元が緩む。
誰が居るわけでもないのに恥ずかしさを感じ、右手で顔を覆い隠した。
次の日になり、お待ちかねの遥とのデート。
少しだけ約束の時間より早く来てしまった。辺りを見渡すもあの特徴的な白黒頭は見つからない。
「……………………」
空を見上げた。少しだけ雲がかかっていて生憎お天道様は顔を隠している。
遥の目、太陽みたいなんだよなぁ。
そんな事をぼんやりと考えいたら突然頭上から声が聞こえた。
『てめぇは はい、やめます。 で良いんだよ』
ゾクリ。
全身が総毛立った。なんだ、今の声は。
はっはっ、と上がる息を抑えて声のする方へ視線を上げた。
大型ビジョン。そこにはやけに顔色の悪い、何とも不気味な男が映っていた。
その男から発せられる言葉、一言一句に冷や汗が止まらなかった。まるで今目の前でナイフを突きつけられているような、はたまた麻縄でじんわりと頸動脈を締めつけられているような。そんな錯覚を覚えた。
「…………これ見に行くの、マジ……?」
広告の最後には例の作品の文字列。今日これを見に行くというのか。本当に。
今からでも別の映画に変えようかな、そう思っていると袖をついっと引っ張られた。
「京太郎、ごめん待った?お前来るの早すぎだろ焦ったわ」
振り向くと我が愛猫が息を切らしながらこちらを見つめていた。
「…………待ってねぇよ」
相手の手を取り軽く握りしめた。指先が冷えたのだ。先程の男のせいで。
遥は訝しげな顔をしつつも振り払おうとはしなかった。少しだけ震えているのが伝わったのだろう、ただじっと黙って握らせてくれていた。
「……京太郎、大丈夫?具合悪い?行くのやめる?」
「…………いや、大丈夫」
「そう?無理すんなよ。今日映画だけ見て解散でもいいからな」
その映画の広告が原因でこうなっているとは言えない。口が裂けても言えない。
「……………………」
「今日何見るんだっけ?あの、あれだよな?何か最近流行ってるやつ」
「……………………たおはな」
「そうそれ!オレ気になってたんだよな。バイト先の常連も見たみたいでさ、オレだけ話ついてけないの嫌じゃん」
キラキラと目を輝かせて言う可愛らしい恋人。こんなに楽しみなしているのだ、今更やっぱやめようなんて非道なことは言えない。
「行くか…………」
「ねぇ京太郎、ほんと大丈夫?」
心配そうに顔を覗き込む遥を横目でちらりと見て、「大丈夫だよ」の言葉の代わりにその手を取り指を絡ませた。
売店で二人分のドリンクを買い席に向かう。辺りを見渡すとほぼ満席。女性客が多いように見える。
「おぉ、流石話題作品。お客さんいっぱいだな」
「…………ん」
ほんの少しだけ、この光景を作り出せる演者らに嫉妬心を覚えた。オレには、出来ないこと。
くだらない感情は捨てなければ。今日は勉強しに来たのだから。
軽く頭を振ると少しだけ傷んだ髪の毛がぱさりと揺れた。
「…………ね、京太郎」
「なぁに、遥」
「無理、しなくていいからな」
きゅ、と手を握られた。
無理をしなくていいというのは、この映画を観ることだろうか。オレが役者を続けることだろうか。
それとも、遥と一緒になることだろうか。
「…………大丈夫だ。大丈夫」
オレは遥から握られた手を握り返す。
絶対、夢もコイツも離してなんかやらない。
フッと辺りが暗くなった。もうそろそろ始まってしまうのだろう、あの物語が。
どこからでもかかってこい。名前も知らねぇけどお前の演技、喰らい尽くしてやらぁ。
そんな気持ちを込めて目の前のスクリーンを睨んだ。
エンドロールが流れ辺りが明るくなる。
パチパチと辺りから拍手の音が鳴り響いていた、らしい。
らしい、と表現したのはオレの耳には届いていなかったから。
衝撃だった。
あんな、あんな演技をする人間がいるのか。下手すれば見ているこちら側すら殺しかねない、そんな演技をする人間が。
初めて『喰われる』と思った。
オレは自分に自信があった。誰よりも上にいると、『喰らう側』であるはずだと信じ込んでいた。
なんて愚かなのだろう。思い上がりも甚だしい。
産まれたての子猫がライオンに勝てるはずだ、などと戯言をほざいているのと一緒である。それくらい圧倒的な実力の差があった。
アレは、バケモノだ。
侮蔑の意味ではない。アレは才がありすぎる。
畏怖の念を抱いた故の感想だった。
どれくらい時間が経っただろう、周りの客は誰一人として居なくなっていた。
「京太郎?……京太郎、行くぞ」
とんとん、と肩を叩かれる。
「ぁ……………………う、ん」
足に力が入らない。完全に腰が抜けてしまっていた。
ひゅ、ひゅ、と喉から空気の抜ける音がする。上手く呼吸が出来ない。あの男の手が、酷く傷んだ髪の毛が首に絡みついている気さえした。
パニックになり隣にいる遥の腕を掴んだ。歯がガチガチと音を立て鳴り止まない。
ふと顔を優しい体温が包んだ。目を見開くとそこには愛しい人。
唇にあたたかく柔らかい感触が伝わった。
ちゅ、と軽くリップ音を立てて離れる。遥の額がオレの額にすりすりと擦り付けられた。
「大丈夫、京太郎。オレに合わせて。息、して」
すぅ、はぁ、と何度か繰り返される。
やっと息ができるようになった頃にはオレの目からはボタボタと涙が零れ落ちていた。
「…………京太郎、帰ろっか」
遥が服の袖をぐいっと目元に押し付けてくる。少々痛い。
「…………ね、遥」
「んー?どした?」
「あの長髪の……名前覚えてる?」
「なんだ急に。えーと……確か、ミヤコ?って名前だったはず。最近テレビにも出てたぞ」
「そ、か」
ミヤコ。………………ミヤコ。
覚えた。オレを堕とした奴の名前。
「はるかぁ、オレ、活動名変えようと思う」
「え、マジで何急に。今まで本名だったじゃん」
「うん…………でもさ、目標は近くにあった方がいいと思うんだよな」
にこりと微笑む。遥は「うげ、その胡散臭いツラやめろ」と顔を顰めていた。
ミヤコ……ミヤコね。
じゃあオレは
「ミヤビって名乗ることにする」
それからはひたすらにミヤコの演技を漁りに漁った。
ドラマの脇役からバラエティ番組までありとあらゆる姿を目に焼き付けた。
でもあの映画だけは二度と観れなかった。震えが止まらなくなるから。
ミヤコの演技の特徴をひたすらにノートにまとめた。彼の身体の動かし方、息の仕方すらも記憶に刻んだ。
それらを自分の演技に落とし込んだ。全部真似するってわけじゃない。自分の得意な演技をより伸ばすためにあの男の影を利用した。
「…………最早ここまで来るとファン……というか変態だろ……」
自分に呆れて溜め息が出る。でも止まる訳にはいかない。
「いつか絶対、喰らってやるからな」
やられっぱなしは性にあわないのだ。
指にできたペンだこが痛む。皺の寄った眉間を親指で押さえ、また出そうになる溜め息をぐっと堪えた。
コンコン、ドアをノックする音が響く。
「…………はぁい」
ガチャリと扉が開く。そこにはマネージャーが立っていた。
「京太郎……じゃなくて、ミヤビ。お疲れ様。今日の殺陣も調子良さそうだったな」
「ありがとね、それでなに?何か用があるんじゃねぇの?早くしろ」
手元にある台本から目を離さず返事をする。
「いやぁ、ミヤビにね……ある人から手紙届いてるんだよ。お前の演技見たよーって」
「あ?ファン?オレ、ファンからの手紙とかプレゼント一切断ってるよ」
「ファンじゃなくてさぁ……えぇと……」
「んだよ、焦らすな。どこのどいつだよ」
煮え切らない返答ばかりするマネージャーに苛つきが募っていく。このマネージャーとは長い付き合いではあるがこういうところが好かない。
マネージャーがすぅっと息を吸って意を決したように口を開いた。
「……………………ミヤコ」
「…………は?」
「だから、ミヤコ」
「いや聞こえてんよ。え?いや、なんで?」
「オレも知らないよ……急に現れてさ、お前に渡してってそのまま行っちゃったんだよ……たおはなの時もそうだったけどあの人独特、っていうか不気味な雰囲気あり過ぎだろ……オレ泣くかと思った」
そういって手紙をひらひらさせるマネージャー。おいやめろ、それぐしゃぐしゃにしたら許さないからな。
マネージャーから手紙を奪い、中身を確認する。便箋が一枚入っていた。全て手書きで書かれている。
『ミヤビくんへ
ミヤビくんの演技、間近で拝見させていただきました。あなたの演技……特に殺陣においては他を凌駕する程の才があるとオレは感じています。大人数が入り乱れる中で圧倒的な存在感を放っているあなたを見て(続きが二重線で消されている)いや、小難しい話は無しにしよう。お前、オレの演技に惚れただろ?落とし込んでんのがバレバレなんだよ。オレの事務所に来い。もっと伸ばしてやる。以上。』
何だこいつ。
こめかみがピクピクと脈打つのを感じる。ここまで腹の立つ文章を書けるというのは、ある意味これも才能なのだろうか。
だが
「ミヤコの……事務所」
それはそれは大手の事務所だ。名を知らない人などいない程の。
誰からも認められるような、その目標に一歩近づけるチャンスだ。
「…………上等だ」
ぎらりと瞳を光らせる。
まさかあんな事になるとはこの時ミヤビは思わなかった。
「失礼しまーす」
がちゃりと扉を開け部屋に入る。大手事務所の一室……そこにミヤコがいると聞いたので一応挨拶でもしとこうと思い立ちここに来た。
あの手紙を貰ってから数週間、やっと小さな舞台も幕を下ろし演者仲間たちに挨拶を済ませここに来た。少々時間がかかってしまったな、とは思うものの仕方がない。舞台を途中で放棄してこちらに来る訳にもいかなかった。
ミヤコ、オレのこと覚えてるかなぁ。知らないよお前なんてとか言われたらどうしよう、流石に事務所追い出されて無職は厳しいなぁ。
グルグルとそんな事を考えていると、楽屋鏡の前に座っている男が目に入った。
……ミヤコだ。
声をかけようと一歩を踏み出そうとするが、その足がピタリと止まった。
動いたら、殺される。
何故か直感的にそう思った。
動けない、動きたくない。
冷や汗が背中を伝う。迫り上がる吐き気をなんとか堪え、震える膝を叩いた。
その間もミヤコは鏡に向かいこちらを一向に見ようとはしない。ブツブツ、と何かを呟いていることだけはかろうじて分かった。
異様な空気に目眩がする。
これはもう無理だ、耐えられない。この部屋を出よう。
くるりとその身を翻した際、近くに置いてあったコートラックに上着が引っかかってしまった。
ガシャン!
音を立てて倒れるコートラック。
あ、まずい。そう思った時には遅かった。
振り向くといつの間にか近くに立っていたミヤコ。ゆらりと髪の毛を揺らし、その長すぎる腕が胸元に伸びた。
逃げなきゃ。
そうは思うのに身体が言うことを聞かない。
そのまま胸倉を捕まれ、ミヤコの方へ引き摺られる。
「…………なぁ、オレ何か悪いことした?」
「………………はっ?」
「…………オレ、アイツの腕に抱かれて眠りたかっただけだよ」
「いや、なんのはなし」
「なァッ!!なんでオレはこの地獄から抜け出せねぇんだ!?オレは兄さんの玩具じゃねぇ!!!!オレの人生踏み躙って楽しいかよ!?ア!?」
バンッ!と扉へ叩きつけられる。あまりの衝撃にげほっと噎せた。
オレが咳き込む音が余程不快だったのだろう、胸倉を掴んでいたミヤコの手がそのまま首へと伸びる。
やばい、やばい、やばい。
叫んで助けを呼ぼうにも、あまりの恐怖に声が出ない。
首を捕まれる……かと思いきや、そのままだらんとその腕が下に降ろされた。
次第に両の手がゆっくりとミヤコの顔を覆い、指の隙間からはぽたぽたと雫が流れ始めた。
「ごぇ、ごぇんなさ、じいちゃん……おとおさ、おかあさ、も、やだ……ッ」
悲しみに喘ぐ声が部屋に響く。
なんなんだ、なんなんだコイツは。イカレている。
早くここから逃げなくては。
震える足を引きずって出口を必死に目指す。すると廊下からバタバタと音がした。
「ミヤビくん!いる!?」
慌てた顔で入ってきた知らない人。あぁ、でもどこかオレの恋人に似てるな、なんて場違いなことを思った。もう誰でもいい、助けてくれるなら。
安堵で泣きそうになっていると後ろから気配がした。
「ミヤコ!!!!!!!!」
その人が大声で叫ぶとすぐ後ろにいたミヤコの動きがピタリと止まった。
「ぁ…………カナ、カナタ」
「…………そう。カナタ。大丈夫?お前自分が誰か分かる?」
「オレ、オレは、あれ?オレ、……?」
「ミヤコ」
「み、やこ」
「そ。ミヤコ。いい子だね、おいで」
のそり、大きな身体を動かすミヤコ。
あの人、あのままじゃ殺されるんじゃ……という心配とは裏腹に、ミヤコは優しくその人に触れ、恐る恐るといった風に抱き締め始めた。次第に二人の顔が近づき額をすり、と擦り合わせる。
もう訳が分からない。
先程自分の身に起こった出来事と目の前の情報を処理するのに手一杯だった。だが未だに額を合わせる二人を見ていると(そういえば、遥も同じようにしてくれるんだよな)とまたしても場違いなことを思ってしまった。もうパニックで正常な思考回路すら奪われている。
何も言えず立ち尽くしていると「なぁ」と声をかけられた。
「ごめんね、ミヤビくん。少しだけ席外してくれる?大丈夫、すぐ戻るから」
「もど、る?」
「うん、今ちょうど新しい作品の撮影入っててさ。コイツ役に引っ張られるところあるから……怖い思いさせてごめんな。ちゃんと戻ったらまた挨拶しに来てやって」
「あ……………………は、い」
バタン。音を立てて閉まるドア。
やはり『バケモノだ』とあの日抱いた直感は正しかったのだと確信して身震いした。
こわい。
怖い、怖い、怖い、怖い。
「……………………ッ、はるか」
極限の恐怖の中、縋るのはやはり最愛で。
ふらふらと帰り道を歩きながら無意識に愛しい人の名を呼べば、頬に生暖かい雫が流れた。
真っ暗な部屋に戻り寝室へと向かう。ただただ布団の中で己の身を抱き、縮こまった。
いつまで経っても向けられた殺意が全身にじっとりと張り付いている気がした。今思えば一人で過ごすなんてせずに遥の元へ行けば良かったと思う。でも、弱っている姿は見せたくなかった。ぎゅ、と己を包んでいるブランケットを握る。
早く、早く。
朝日が昇ることをこんなに待ち侘びた日は、ない。
また挨拶しに来てやって、と言われてから何日経ったであろうか。
あの日以来、あの事務所に近寄れないでいた。トラウマ、というやつ。
このまま無職ルートか、どうやって遥に説明しよう。もう無理だ死んじゃおうかな。いや死なない、遥と結婚するまでは。
もう情緒不安定だ。どれもこれもあのミヤコとかいうイカレ野郎のせいだ。許せない。クソ、クソ。
ギリギリと歯を食いしばっているとスマホから電子音が鳴った。
画面を見ると知らない番号。
無視を決め込むと鳴り止むが、すぐさま同じ番号からかかってくる。
仕方ない、勧誘の電話とかだったら直ぐに切ろう。そう思いながらスマホを手に取る。
「…………………………はい」
『あ、ミヤビ!?良かった、出てくれたァ』
ビクリと身体が震える。声だけで分かる。
ミヤコだ。
「あ、の…………何の用、ですか……」
声が震える。
『あ、いや、あのな、えーっと、ちょ、カナタ待ってよ、言う!言うから!怒んないで!』
遠くからあの日助けてくれた人……カナタさん?の声がする。一緒に居るのか。
「用ないなら……切ってもいい……です、か?」
『ま、待って!謝りたくて!本当にごめん!怖い思いさせた!会いたくないかもだけど直接会って謝りてぇの!ご飯奢るから!高い肉食わせるから!!!!!!』
必死に懇願する声。もはや絶叫である。遠くで「うるせぇ!」と叫ぶカナタさんの声も聞こえた。
にしても、高い肉……か。
「……オレが高い肉に唆されると思ってるんですか?」
「……………………」
電話の向こうのミヤコが黙ってしまった。
はぁ、と溜め息をつく。
「…………いつですか、謝罪してくれんの。あとオレの恋人も連れてっていいですか高い肉食わせたい超絶高くてサシが綺麗に入った美味いやつ」
一息に捲し立てる。別に高い肉に釣られたわけじゃない。謝罪を受けないのは人間としてどうなのかなと思っただけだ。決して釣られたわけじゃない。
『わぁ、お前強かだね。いいよ連れておいで。ん?なぁに?カナタも行く?うんうん、皆で行こうな。あと弟も絶対連れてく。嫌って言っても連れてく』
ミヤコ…………カナタに対して声がかなりデレデレしている。あと弟がいるのか……巻き込まれてかなり可哀想だ。
本当にコイツはあの日のバケモノと同じ人間か……?遠くを見つめた。
数秒程黙り込むとミヤコが
『なぁミヤビ…………事務所、来てくれる?』
と少しだけ不安そうな声でそんなことを言った。
オレは考え込んで
「…………アンタの謝罪次第」
そう言って電話を切った。
「さて、と」
ついついっとスマートフォンの連絡先の欄をスクロールする。
『遥』の文字をタップして耳元に当てる。
二回ほどコールが鳴った後に『……京太郎?どした?電話かけてくるなんて珍しいじゃん』と愛しい人の声が鼓膜を震わせた。
あぁ、かわいい。癒される。
「んー、いや、遥にご馳走食わしてやりたいなって」
『あ?なんで?別に記念日とかでもねぇじゃん』
「それがな、記念日になりそうなんだよね」
『は?なんの????』
きっとぽかんとした顔してるんだろうな。想像するだけで愛おしさが込み上げる。
クスクスと笑いながら遥の質問に爽やかな声で答えた。
「先輩土下座記念日!」
おまけ
『…………アンタの謝罪次第』
プツリと通話が切れた。
「………………カ、カナタ……」
ふるふると震えるミヤコ。それをカナタは(なんだ?発作か?)とわりとどうでもよさそうな顔で見つめた。
「かな、カナタ……っ!」
「あン?んだよ、聞こえてるよ」
突然ぐりんっとこちらを振り向くミヤコ。正直その動きは怖いのでやめて欲しい。
ミヤコが大声を上げた。
「ミヤビが!恋人紹介してくれるって!!あ、挨拶だよな!?どうしようオレ後輩からこういうのされんの初めて!え、どうしようお店良いとこ予約しなきゃだよね!?」
大横転。何を言ってるんだこいつは。
しかも後輩って……まだ正式に事務所に加入したわけでもないのに、もう先輩面をかましている。いやもうそこはどうでもいい。
「…………謝罪しに行くんじゃねぇの」
呆れた顔で問う。そんなカナタに抱きつきながらミヤコは続けた。
「それはそれ!これはこれでしょ!わあ、スーツも新調しようかな?カナタも欲しい?オレ買ったげるよ。ネクタイ良い色あったっけ?ちょっとクローゼット見てくる」
パタパタと小走りでクローゼットの方へ向かうミヤコ。本当にこいつは嵐のような男だな……とカナタは少々げっそりとした顔をする。
ふぅ、と息をつき、珍しく楽しそうなミヤコの背中に声をかけた。
「なあ、ミヤコ」
「なぁに?カナタ」
「あー、スーツ……ホントに新調、すんの?」
「うん!あ、京ちゃんにもプレゼントしようかな!?サプライズで!」
「それは本人の意向を聞いてやれよ…………スーツ汚さねぇといいな、特に膝」
「?どういう意味?」
「そのまんま」
頭に疑問符を並べるミヤコ。その手には様々な色のネクタイが握られている。
「ま、後輩は大事にしてやれよ」
「うん?え、オレいつも後輩どころか先輩もすっごく大事にしてるけどなぁ」
振り回している自覚無し、と。
多分ミヤビくんこれから色々苦労するだろうな、でも可愛がられる才能ありそうだから心配ないか。頑張れ。
カナタはそう心で呟いて天井を見上げた。
後日、ミヤコとミヤビのインスタグラムが動いた。
初めに写真が投稿されたのはミヤビの方。
ぴっかぴかのスーツを着ながら土下座をするミヤコ。その横でそれはもう満面の笑みでダブルピースをキメたミヤビとのツーショット写真だった。その写真の下には『いや〜な先輩と♡これからよろしくね、先輩♡』と生意気な文章が添えられていた。
それを見たファンやその他大勢は大騒ぎである。
「あのミヤコに頭下げさせてる」「こりゃ大物新人だな」「めっちゃいい笑顔だなこの子」「てかミヤコの事務所入ったんだ。写真の衝撃でそれどころじゃなかった」と数多くのコメントが寄せられた。
その数時間後にミヤコの方で写真が投稿された。
酷く怯えた顔をするミヤビの顎を背後から掴み、無理やりカメラ目線にさせている。ミヤビの頬にくっつけるようにしているミヤコの顔はそれはそれは楽しそうな笑顔。
その写真の下には『あんま調子乗んなよ、ぱやぱやの子猫ちゃんが』という文章が添えられていた。
「分からせられてんじゃねぇか」「親猫に躾られた子猫じゃん……」「何したらこんな怯えた表情になるんだよ」「ミヤミヤてえてえ」「ミヤビの笑顔を返せ」等々、これまた数多くのコメントが寄せられた。
この写真以降ミヤビはメディアへの露出も増え、某鬼ごっこ番組にミヤコと共に出演するなどその名を世間に広めることとなった。