杉の木は意外と柔らかい……らしい。 本日は雲ひとつない快晴。太陽の光が降り注ぐ屋根には三毛猫があくびをしながら伸びをしている。柔らかな風が頬を撫で、遠くでちりん、ちりん、と鳴る涼やかな風鈴の音を運んでくる。
いつも通りの風景、いつも通りの日常……とはかけ離れた耳を劈くような泣き声が辺りに響いていた。
「うぇえん、お母さん……どこぉ?」
大きな瞳からぽたぽたと雫を流す少女。きょろきょろと辺りを見渡して母はどこかと探している。
少女の傍には白と黒の髪の毛と色の違う両の目が特徴の青年……桜遥が両手をまごつかせながら立っていた。
たまたま近くを散歩がてら見回りに来ていた桜。ふと耳に女の子の泣く声が届いたもので辺りを探してみると迷子の少女に出会ったのだ。
服をぎゅ、と握りしめながら「お母さん」と泣き続ける少女。
そんな少女を一人にしてなどおけず、かと言ってあやす方法など分からず桜は途方に暮れていた。
「お、おい……泣き止め、母親?は多分どっかいんだろ、見つけてやっから……」
「お母さん……おかあさぁん……」
全く泣き止む様子が見られない。かれこれ数十分はこうして泣き続けている。周りの商店街の人たちも何事かとゾロゾロと集まってきてしまった。
「お嬢ちゃん、迷子かい?」
「うぇ、ぇっ、おかあさ、ひっく」
「お名前言えるかな?」
「おかあ、おかあさん、うえぇぇえん」
「ほら、飴玉あげよっか!」
「いら、いらないぃぃい」
もうお手上げ状態である。白と黒の髪の毛をガシガシと掻き毟り唸っていると後ろから「おい」と声を掛けられた。振り返るとそこには酷く不機嫌な顔をした杉下が立っていた。
「…………なに」
「なに、はこっちのセリフだ。見回りサボってんなら梅宮さんに言うぞ」
「アァ!?サボってるわけじゃねぇよ!」
「じゃあ何やって…………ア?」
杉下が桜の頭を掴み、ぐいっと横へ退けた瞬間にその少女と目が合った。
少女はビクリと肩を揺らし、また大きな瞳から雫を滴らせる。
「………………そこどけ」
「あ?まだ説明してな……おい聞け!」
杉下は桜を押し退け少女の前へ歩いていく。
流石にお前の巨体を目の前にしたら女の子がビビって余計泣くだろ……そう思い止めに入ろうとした。
すると杉下は女の子の目の前に両膝をついて目線を合わせるようにし、そっと少女の両手をとって声を掛け始めた。
「……少しだけ、お話できるか?」
「ひっく、ぅ、うん……」
「ゆっくりでいいよ、お名前言えるか?」
「み、さき……」
「みさきちゃん。いい名前だ。あ、そのリュックについてるクマさん可愛いな。お友達?」
「う、ん……!お母さんが作ってくれたの!大事なおともだち!」
「へぇ、見せて」
「いいよ!どうぞ!」
先程の様子とは打って変わって楽しそうにお喋りをする少女。一瞬でその場の空気を変えた杉下に桜は驚きを隠せなかった。
自分には出来なかったこと……少女を笑顔にすることを一瞬でやってのけたのだ、杉下は。
小さな子への対応はきっと梅宮の背を見て学んだのだろう。話し方の柔らかさがどことなく梅宮の姿を思い浮かばせた。
それにしても今目の前にいるコイツは本当に杉下か?信じられず目を擦ってみるものの光景は変わらない。本物のようだ。その事実に脳がさらにフリーズする。
目を見開いて固まる桜を他所に杉下と少女は会話を繰り広げてゆく。
「お母さんと一緒にここに来たのか?」
「うん……でもね、みさきが走ってたらね、お母さんいなくなっちゃってね……ぅ、……っ、ひっく」
「そうか、怖かったな。でも大丈夫、泣かなくていいぞ。お兄ちゃんがお母さん見つけてやる」
「………………ほんとぉ?」
「うん、約束」
そう言って指切りげんまんをする杉下。少女の強ばっていた肩の力は抜けて、安心した笑顔を見せてくれるようになった。
さて、と杉下が立ち上がろうとして何かを思い出したのか「あ、」と声を上げた。
桜が頭に疑問符を浮かべているとまたも杉下は少女の前に両膝をつき声をかける。
「みさきちゃん、ちょっとリュック見てもいいか?」
「うん、いいよ!」
ガサガサとリュックを漁る杉下。暫くすると「…………あった」と声が上がった。横から覗くと何やら小さな紙を持っている。目を凝らして見るとそこには母親らしき名前と連絡先が書いてあった。
杉下はその紙を桜の目の前で得意気にひらひらと泳がせる。
「ここに連絡すれば母親と会えんだろ」
「よく連絡先書いてある紙見つけたな……てか、あるって分かってたのか?」
「いや……でも大抵小さい子のカバンとかに入れておくもんだろ。って梅宮さんが前に言ってた」
「梅宮の教えがここで役に立った……」
「梅宮さん、だ。馬鹿が」
「うるせぇな」
やいのやいのと言い合いをしてる間に商店街の人の誰かが連絡してくれたのか「母親と連絡取れたぞ!もう少しでこっち向かうってよ!」という声が響き、辺り一帯が安堵に包まれた。これで一件落着である。
あとは商店街の人たちに任せても大丈夫だろうと桜と杉下はその場を立ち去ろうとすると、少女が杉下の元へ駆け寄ってきた。何か言いたげにモジモジとしている少女。杉下は急かすことなく少女の言葉を待ってやっていた。
「お、お兄ちゃん!」
「うん?」
「あの、あのね、」
「うん」
「あ、ありがとう!」
「うん、どういたしまして」
少しだけ杉下が目元を緩めると少女は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
そんな少女の様子を見て桜はビビビッと己のセンサーが反応するのを感じる。いやまさか、そんな。いやでも……と思うより先に少女が意を決したように口を開く。
「おっきくなったら!お兄ちゃんとけっこんしたいです!!!!」
何とも大胆な逆プロポーズ。周りからは おぉ、という歓声が響いた。桜はというとショックを受けたかのような、何とも言えない顔をしてわなわなと震えている。
少女の大告白を受けた杉下は目をぱちくりと開いて数秒考え込んだ後、少女の頭を一つ撫でた。
「……お兄ちゃん、実は大事な人がいんの」
「だいじなひと……?」
「ん。大事な人」
「お姫さま……?」
少女の言葉ににやりと笑う杉下。そして桜の方を一瞥して
「そう、オレの大事な大事な……お姫様」
そうゆっくりと、丁寧に口にした。
なんてことを言ってんだコイツは。あんぐりと口を開け杉下を見遣る。
杉下自身も小っ恥ずかしいことを言った自覚はあるのだろう、ふいっとそっぽを向きながら「可愛げはねぇし、とんだじゃじゃ馬だけどな」と付け加えていた。長い髪の毛の隙間から見える耳はほんのり赤く色付いている。
居た堪れない。もうこの場から逃げ出したいくらい恥ずかしい。
桜はそう思いながら真っ赤な顔を隠すように下を向いた。
すると目線の先にいる少女と目が合う。
「白黒のお兄ちゃん……なんで顔真っ赤なの?」
「んなっ……!な、なんでもねぇよ!」
「な、変だよな」
「テメェは少し黙ってろよな!!!!」
うがぁ!と杉下に食ってかかるものの、しっしっと適当にあしらわれてしまった。
邪険に扱いやがって……仮にもさっき大事な人とか言ってたろうが、とは思うもそんなこと死んでも口には出来ない。恥ずかしくて死んでしまう。
火照る顔をパタパタと扇いでいると遠くから少女を呼ぶ声が聞こえた。母親だろう。
「…………おら、オレらの役目も終わりだ。帰るぞ杉下」
「命令すんな」
「アァ!?」
「お兄ちゃんたち、ばいばい!またね!」
「うん、またね」
「…………お前のその対応の違い怖いわ、二重人格なんじゃねぇの」
「ア?さっきから何突っかかって……なに、お前もこういう対応されてぇのか?」
「はっ!?はぁっ!?!?ちげぇし!!勘違いすんなボケ!!!!!!もういい一人で帰る!!!!!!!!」
そう言いズンズンと一人で前を歩く桜。その後ろから杉下のフンッという、何とも馬鹿にしたような笑いが聞こえるのを無視する。
先程の杉下の意外な一面と不意の言葉に心が掻き乱される。ごちゃごちゃとした思考を取り払おうと乱雑に頭を掻いた。
後ろから「ハゲるぞ」と小さく馬鹿にされるのが聞こえ、桜は「黙れや!!!!!!!」と烏さえも飛び立つ勢いの大声を上げた。
なんてことない一日になるはずだったのに散々だ。
散々だ、けど。
「………………まぁ、悪くはねぇか」
ポツリ、独り言を呟く。
くるりと後ろを振り向くと眉間に皺を寄せ鋭い視線をこちらへ向ける杉下と目が合った。さっきの王子様のような姿はどこへやら。だがいつも通り見慣れている顔の方が安心する、というのは胸中に留めておこう。
疲労困憊、散々な一日。
頭の中でもう一度あの杉下の姿を思い浮かべては、疲れよりも新しい一面を見れた喜びの方が遥かに勝っている自分に少しだけ呆れ笑いをして ぐっ、と伸びをした。