花を食す何の弾みだったか。
悪い、と謝ったもののならば反省できるのかと言われると無理に近い。
「別に。大丈夫よ」
向こうもそんな反応であったし、気に留めることではないのだろうと水に流すことにした。
開き直るわけではないが、それぐらいの反応でないと困る。
同じ家で住み始めてどれぐらいになるだろうか。
満を持してそういう状態になっただけで、それよりも前があることを踏まえるとむしろ遅いぐらいなのだろうとは思う。
だが、相手はどうにも腹が決まらないらしい。
そこを急かすのも変な話ではあるし、世間の定説を盾にするのも話が違う。
先は長居し急ぐ必要もないので特に言及することもなかったが、さらりとしたあの反応を鑑みるというほど子供扱いする必要もないのかもしれない。
そんなことをぼんやりと眠りにつく前に思った翌日の朝食後。
皿を洗う彼女の横に布巾を手で遊ばせながら並んだ時のことだ。
「うわっ!」
そんな幽霊のような驚き方をされ、思わず手にしていた布巾なんか気にせず両手を上にあげた。
脅かすつもりはなかった。
そうい咄嗟の証明だった。
「悪かった。けどそこまで驚くか?」
別に足音を殺したわけでも背後から忍び寄ったわけでもない。
そこまで大げさな反応をされる心当たりがなかった。その時はまったく。
「ご、ごめん……。ちょっと考え事してたから気付かなくて」
まぁそういうこともあるか。
確かに自分も短剣の手入れに夢中になっているときに、急に声をかけられ似たような反応をした記憶がある。
ならこっちは反省の余地があるかな。
そう思いながら布巾を拾い上げる。
前傾姿勢になり指先に引っ掛けるようにしてそれを取り、姿勢を戻す。
「……」
心なしか、隣に立ったはずの彼女が一人分横にずれている気がする。
流しの位置は変わらないのだから目の錯覚だろうか。
なんて冗談を挟む必要なく明らかに遠ざかっている。
距離を取られている。
そっちがそのつもりならそれ以上のことは言わないでいてやるが、でもそうか。
そうかそうか。マジか。
いや、まぁ。いいんだが。別に。
◇
「別に構いはしねぇが、お前な、あからさまなのは流石に堪えるぞ」
そんなことがあってから数日。
彼女の距離感が変わらないので流石に一言言うことにした。
避けること自体はこの際何も言わない。
元はと言えばこちらに落ち度がある、ということにしておいて何も言わないでやる。
だが、近付くなり声にせずとも「うわっ」と反応するのは流石に傷つく。
これがただの通りすがりの赤の他人なら何とも思わないが、付き合いだけなら数年も経つ相手となると話が変わる。しかも付き合っている女となると猶更だ。
「ご、ごめんって……」
勝気な菫色の目が及び腰になっている。
自覚と心当たりはあるようでなによりだ。
「お前もそんなおっかなびっくりばっかしてたら疲れるだろ」
「……うん」
そう言う彼女は例にもれず一人分空けて同じソファーに座っている。
試しに、そろりと腕を彼女の方へ伸ばしてみる。
大げさな反応こそはなかったが、その身が少し強張るのを見た。
石のようになったわけではない。だが確かに力が入ったような。
「ベロニカ、お前実は俺に触られるの嫌なんじゃないのか?」
「え、なんで……?」
「過剰だから。この前のこともその程度って言うつもりはねぇけど、まぁなんつーか」
「……」
何よ。
そう言いたげにじとりともぎろりとも見て取れる目でこちらを見据える。
自身を抱きしめるように腕を組んで。
自衛でもするかのようにがっしりと両の腕を掴んで。
身の安全でも確保するかのように胸の前で腕を交差させて。
そう。胸の前で。
やっぱり駄目じゃねぇか。
カミュは働くことでも促すように髪を掻きあげた。
「お前な、この際燃やされる覚悟で言うが、あの程度触ったうちに入らねぇだろ」
事の発端は何かの弾みである。
何か。把握できていないあたり、自分の目がそこを向いていなかったことは明らかだ。
視界の外に手を伸ばした時、丁度そこに彼女がいた。
その時に手が彼女の胸元をかすめた。話はそれだけだ。
当たったというよりも触ったのだろうというのは手の甲にそれを押してしまった感触が残ったからだ。
とはいえ程度は『掠めた』だ。
彼女の揺れるスカートが手に当たった時と大差ない。程度の違いとしては。
だからそれを『触られた』と主張されても当惑する。
不注意だったことは認める。
だがそれを棚に上げてでも言わせてもらわなければならない。
お前、触られたことねぇだろ。
だからその程度を『触る』とカウントされるのは誠に不承である。
「なによ。この生娘がって言いたいの?」
読書家であることを活かすような言葉遣いをしやがる。
「実際そうだろ」
「……そうだけど。そうだけど!」
キッ、と。
今度は間違いなく睨みつけられる。
「仕方ないじゃない! アンタと違って、そういうの、慣れてないんだから!」
「分かってる。だから今まで何も言ってこなかっただろ」
「そうよ! ……なんで言ってこないのよ!」
『なんで言ってこないのよ』?
「知らないんだから……あたしから言い出せるわけないじゃない!」
今、何を叱られているのか。
想定していた筋道と噛み合ってこない。
不埒だのなんだのとやかく言われるぐらいの覚悟はしていたのだが、そういう怒声がまるで聞こえてこない。
「大体、変なとこ鈍いのよ! なんで過剰かって、そんなの、」
「……」
「…………なんでだんまりなのよ!」
「お前の話聞く流れだからだろ。ここで俺が何言うことがあるか?」
「あるでしょ! いっつも子供扱いしてるくせに!」
「……はぁ!?」
今その対極を求めるって言ってるのこの女。
途端、視界が浮いた。
同じ位置で見ていた彼女が視界の上にいる。
「ベロニカ」
体がソファーに沈む。
肩やら首やらで下に敷かれているクッションを押しつぶしているのが分かる。
ぎし、とソファーが軋み、自分の上に重量が乗せられる。
丁度年頃の女一人分の重量だ。
「俺はそこまでさせろとは言ってねぇからな」
「……どうだか」
しゅるり、と腰で咲かせていたリボンの形を自らの手で彼女が奪う。
「思ってるんでしょ。煮え切らない女だって」
「それは思ってた」
「……ほら」
するり、と。
今度は胸元の紐をほどくように引っ張る。
「あたしに任せたら、こんなのしか出来ないのよ。……だから、待ってたのに」
「それは、賢かったのかもな。急に押し倒すんじゃねぇ」
「じゃあ、どうするのよ」
「……」
少し、思考を巡らせようとした。
だがそんなのは後だ。
沈められた上体を起こす。
そのはずみで倒れ込みそうになる彼女を力技で引き寄せ、そのまま口元にかぶりついた。
手加減してやるのもありだと思った。
どこまで手を抜いてやるべきか検討しようかと思った。
だが、先程の彼女は明らかにその程度で済ませる気配ではなかった。
その彼女の程度に合わせても良かったのかもしれない。
だがどうすればいいのかと聞いてきたのもまた彼女だ。
この状況で。男女で。
戯れで済ませる理由がない。
だから彼女の顎を引いた。
口を開けろ。そんな子供にするような指示もしない。
噛んで。
吸って。
絡めて。
「まず、こっちが先だろ」
息も絶え絶えの彼女にはたしてそれが聞こえていたかどうか。