背中に伝わる異様な寒気に耐えていると、突然地響きのような音が鳴りだした。逃げ出したくなるのを必死に堪えながら待っていると、目の前の地面から赤いものが少しずつ生えるようにして現れる。お腹の辺りまで現れたそれは、ものすごく大きな赤い鬼の姿をしていた。歯を剥き出しにした口、見開いたような目、頭のてっぺんと顎のところに生えたツノまで、全部が赤い。目が合うと、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまう。
そのぎょろりとした目で僕の姿を確認したその悪魔は、大きな口をにやりと吊り上げて右手を上げ、気さくな笑顔を形作って僕に呼びかけた。
「ハロー」
「…………はろー?」
「分かるだろォ、挨拶だよアイサツ」
独特な声が頭に響いてくる。何だか、一本の堅い芯の周りを甘くて柔らかいものが取り囲んでいるような、一回聞いたら忘れられない声だ。
「んで、オメェは俺に何を願いに来たんだァ、坊主?」
ぎょろりとした目で僕の全身を観察しながら、悪魔は尋ねる。
「見たところ随分酷ェ扱い受けてきたみてェじゃねェの」
大きな指が伸びてきて、僕の頬をなぞってくる。思ったより衝撃は来ない……というより、むしろ僕に触れてくる他の人間よりも優しいぐらいだ。
「俺に頼めば何でも叶えてやるぜェ?いじめっ子どもを殺るか?それともオメェを置いてったパパとママを殺るかァ?」
「…………何で、」
まるで僕がこれまで味わってきたことを全て知っているような言葉に、少しだけ動揺する。
「そりゃ悪魔だからよ、追い詰められて縋ってくるニンゲンなんざ山ほど見てんだァ。オメェがこれまで何されてきたかってェのも大体分かる。で、どうする?殺し方も自由自在、オメェの悪意次第でいくらでも思いのままだぜェ?」
「別に……いい。そういうの」
僕が首を振ると、悪魔はやや驚いた様子で目を瞬かせた。
「どうでもいいし……あんな人たち、どうなっても」
「何だいいのかァ?勿体ねェ。人間が悪魔相手に願うことといやァ、大抵復讐だの他人の蹴落としだの……エゴに満ちたモンばっかだぜ?変わってんなァ坊主ゥ」
「……皆、僕のこといらない子って言うんだ。僕が白くて、赤い目で、頭がおかしいから。お父さんもお母さんも、周りの人たちも……みんな僕が嫌い。悪いお化けめ、あっちに行け、っていつも言うんだ」
思い出すだけで苦い感情が込み上げてくる。お母さんの冷たい目。お父さんの諦めきった顔。僕を箒で殴ったり、砂場の砂を浴びせてくる同級生たち。見てみぬふりする他の大人。気分が悪すぎて思わず笑いが込み上げてくる。
「僕がお化けだとしたら、お化けは、現実の人なんか相手にしない。だから、僕も……みんなのことなんかどうでもいい。生きてても死んでても、僕の人生には関係ない人。おじさんが殺したいなら好きにすればいい」
「おじ……あー、俺がァ?」
「何か、そんな風に聞こえた。……理由が欲しいのかな、って」
悪魔の顔を見上げて言う。それを受けたそいつは、首を傾げて少し考えるような仕草をした後……ケケッといかにも悪魔らしく笑った。
「面白れェなァ、坊主。気に入ったぜェ」
僕と目線を合わせるように悪魔が身を低くする。
「んでェ?復讐目当てじゃねェなら、オメェが俺に望むことは何だァ?」
「…………僕、」
その目を見つめ返しながら、僕は悪魔に願いを告げる。
「僕の友達になって」
「…………ほォ」
「みんなのことは、どうでもいいけど……一個だけ」
悪魔が無言で続きを促す。
「お父さんとお母さん、二人で死ぬために出て行ったんだ。それで……死ぬとき、誰かにそばにいてもらえるの……羨ましいな、って」
僕が悪い子だとすれば、僕を産んだ二人はもっと悪い奴に決まっている。そんなあの人たちが、僕が手に入れられないものを手に入れて死んでいくのが、妬ましくて。
だからこうして、夜の学校に忍び込んでまで悪魔を呼び出したんだ。
「僕にも、そんな存在が欲しい。だから……君がなって」
僕のそばにいて、助け合って、僕が死ぬときは一緒に死んで。
「……ケケッ、ハハッハハハハハ!!」
僕の言葉を聞いた悪魔は大声で笑う。警備員にバレないかな、と不安になったけど、今のところ悪魔の声は僕にしか聞こえてないのか、誰も来る気配がない。
「ハハッ……ますます面白れェ!いいぜ、なってやるよォ、オトモダチって奴にィ」
ただ、と悪魔は付け加えた。
「オトモダチ相手におじさんは頂けねェなァ。俺の名前知ってんだろォ、その本見て呼んだんならよォ」
「ああ……えっと……」
すっかり存在を忘れていた本をちらりと見る。何だか難しい漢字が二つ並んでいて、よく分からない。これが悪魔の名前……?
「…………シンファン、って読むんだよそいつァ」
僕の様子を察してか、悪魔――シンファンは教えてくれた。
「シンファン……」
シンファンが名乗ってくれたのを受けて、僕も自分の名前を悪魔に告げる。
「僕も、坊主じゃない……よ。僕は……ヒョウガ」
「ヒョウガな。仲良くやろうぜェ、親友」
「うん……」
差し出されたシンファンの手はあまりに巨大なので、とりあえず指先の方を握る。
手が触れた瞬間、僕の意識はそこで途絶えた。