ホワイトボード教室のホワイトボードの前に立つ。白鳥沢学園高校には黒板がない。あまり好きじゃない過去にはいつも真っ黒の黒板があった。そしてそこには、誰かが書いた自分の悪口。
「妖怪」
そういった数々のあだ名と雑言。しかし不登校にはならなかった。幼い頃に心を殺す術を見つけてしまったがために、生き抜くことを自然と選んでしまった。どうせ義務教育など、義務でしかないのだ。たかが数年生きられれば、あとはどうにでもなる。
大人になれば、自由だ。何に染まることもない。逆に何かに染まってしまえばいい。自分を染めるものを選べるのが大人なのだ。そう思って生きてきた。誰かと交わることなんてないだろうと思っていた。
期待なんてしない。そんなものは持たない。使い古したバレーボールをひとつ持って、ただコートに立つ。勿論主役なんてなれない。けれど、何かを操作できるあの感じは、とても好きだった。自分で決められる何か。相手の悔しがる顔、仲間に驚かれる顔。そういうものに喜びを感じられる唯一のものだった。
ホワイトボードに備え付けられているマーカーを手にする。色は黒だ。小学校から中学校、つまり白鳥沢学園に入学できたことで、嫌いなものから離れられた。自分を責める言葉を書く者もいない。辛かったというより面倒だった六年間。
「いやぁ。」
首を少しだけ横に振る。面倒とはまた少し違う。辛いより、面倒より、ひたすら長く感じた。楽しくもない六年間は、長かった。辛いものからも、面倒なものからも、見て見ぬふりはいくらでもできた。笑顔だって作れた。褒められたような笑顔ではなかったが。
高校のバレーボール部に入部してから、鷲匠監督に出会ってから、牛島若利という同級生に出会ってから、自分の時間が全て変わった気がした。だからと言って、真面目に生きるだなんてことは選ばなかった。へらへらとしていれば、嫌がる人も笑ってくれる人もいた。しかし、不思議と責める人は誰もいない。部活動をしている時間は、日々叱られる。不思議なことに、叱られる日々の中で、部員同士の会話が増える。自分達の情報を交換する声が増える。
「ほーんと、子どもって、子どもってことかぁ。」
素直で残酷で、結局は愛らしい生き物。そしてそれらのどれにも当てはまらなかった自分。
作りあげた自分が半分、仲間との居心地のよい関係に喜んでいた自分が半分いる。
では、あの頃に、子どもだった頃に牛島若利と出会えていたら。彼は自分のことをなんと呼んだだろうか。周りと一緒になって妖怪と呼ぶだろうか。
妖怪だと認めつつ、他の子どもとは違った視点で目に前にいる妖怪を見つめたかもしれない。
「河童とか?」
あの男の顔からそんな単語が出てくることを考えるだけで頬が緩む。
黒板がない世界。
牛島若利という男。
「うんうん、」
上機嫌に頷いてみる。マーカーでホワイトボードを黒く塗りつぶしていく。全てを黒くさせようとしたら、途方もない時間をかけて、マーカーを何本も消耗していくことになる。ホワイトボードの隅から塗り始めて、右端の淵をとりあえず塗りたくってみたところで一度手を止めた。
塗ってみたところで、あの六年間を思い出すこともなかった。
あの吸い込まれそうな、黒と緑を足したような色。消しきれていない、粉っぽい部分。短く折れた鮮やかな色の
チョーク。それらから連なる自分を形容する汚い言葉たち。
それらが、今日はひとつも出てこない。
塗っていくことにも飽きてくる。右上の隅を塗り終えたところで、徐に赤のマーカーを取る。黒く塗った部分に、赤い️丸を描く。その中を塗っていく。再び黒に持ち変えると、あの男の顔を中に描いてみた。似ている。
「若利くん可愛い。」
「俺がどうした。」
声がした方を見ると、常夜灯にその形を縁どりされた姿をした若利がいた。ルームウェアを着て、濡れた髪のまま立っている。汚れて効果が薄くなったイレーサーを手に取る。
「なんでもないよぉ、それより今週のジャンプ読んだ?」
「この時間に教室に入るのは規約違反だ。」
寮の門限も破っていれば、夜間は立ち入り禁止の校舎にも忍び込んでいる。ちょっとした不良気分を楽しんでいたが、どうやらここで終わりのようだ。昔のことを考えるのも、思い出すことがなくなったものへ対しても。
「日付が変わったから、先週のジャンプだ。」
クソが付くほど真面目なセリフに、とても愛おしい気持ちが込み上げてくる。自分は遅くまで練習していたくせに。体育館だって特別に使わせてもらっているくせに。早朝から学園の外を走っている人間は規約違反にならないのか。
「えー、じゃあこれから一緒にジャンプ買いに行こっかぁ。」
すっと、イレーサーを上から下に下ろす。黒く塗った部分が、かすれていくように消えていく。自分の中の何かも消えていく。
「明日の朝なら付き合おう。」
「朝は若利くんのお布団で寝てるので、昼以降かなぁ。」
イレーサーをもう一度下ろしてみる。すっと音を立てて、何かが消えていく。何かが引いていく。それは影か、何か。
「行くぞ。」
「はいはーい。」
否定はしないあたりにほくそ笑む。
「ああ、なるほど。」
消していった黒い色。まるでそれは、波打ち際にたどり着いた波。最後は砂浜に吸い取られる、小波の終わり。
「天童。」
「はいはい、はい、」
イレーサーを置いて、少し汚れた手を、手で払う。
「覚。」
「なぁにぃ?」
ここにはもう、妖怪はいない。あの小さな妖怪は、逝ってしまった。
この強すぎて美しく、清廉な生き物に染まってしまった自分から、憑き物は離れていってしまったのだ。
手を握られる。あたたかい。大きい。強い。こんな手に捕まえられたら、あの頃の小さな妖怪は、小さな生き物は、消え去ることを喜ぶに違いない。
暗い廊下にはふたつと、もうひとつの足音が響いていた。
終わり