ひなあん
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時計の針が、一周。また一周。
何も考えずにふと視線を上に向けて。こうやって針が動くのを、見ている。
同じ速度でゆっくりと。心が落ち着くような、苛立つような。
ああ、どうしてずっと動いていられるのだろう。歯車が少しでもズレたら、この空間は少しズレた時刻を受け入れて過ごしている人でいっぱいになってしまうのに。あなたが間違えばみんな巻き添えを喰らうんだよ。
誰かが正しい時刻を知ったとしても。責められるのは信じた人々じゃなくてあなたなんだ。さっきまでは頼もしそうに、縋る目を向けられていたのにね。
でもね。かわいそうだとは思わないよ。だってそれが当たり前なんだもん。
そう言ったらあなたは怒るかな。
うん。それなら絶対に間違えない努力をする、か。あなたらしいよ、時計さん。
でもさ、あなたの努力ではどうにもならなかったら? あなたが望んでいなくても歯車が狂うような出来事があったら?
あなたにはどうすることもできない。人を悲しませるだけ。
いつかそうなると分かっていても、まだ続けるの? その針を回し続けて楽しい?
なんてね。意地悪だったでしょ。怒るでしょ?
……なんで怒ってくれないの。なんで全部一人で背負うの?
助けを呼べばいいのに! 壊れるまで頑張らなくたっていいのに!
そうやって貴方は自分を無意識に傷つけるんだ。だからこうなるんだ!
ねえ、もうやめてよ。やめていいから、目を覚ましてよ。
あんずさん!
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「ひなたくん」
甘い。喉に纏わりつくように。
ここは、どこ?
「っ……!」
「ひなたくん」
「あんずさん!」
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「おはよ、あんずさん♪」
オフィスで姿を見つけた瞬間、思いっきり駆けてきた彼はそう言って、にっこり笑った。
「調子はどう?」
「ん〜、今日は甘えたい気分なんだよね〜」
ふっふっふ、と文字通り不敵な笑みを浮かべて身体をきっかり三十度曲げる。顔を覗き込むように目を輝かせれば、おねだり年下モードのひなたくんが完成だ。
これからひなたくんと軽く打ち合わせをする予定がある。少し多めに時間を取ったから、そのあと何かするぐらいは構わないと思う。それに、奥を見据えるような瞳が怖くて。気がつけば「いいよ。後でね」と言っていた。
「…やった〜! 打ち合わせ頑張っちゃうよ!」
いつも頑張ってくれているけれど、更にやる気を出してくれると助かる。ひなたくんは優秀だから。
そして、そのまま打ち合わせもスムーズに進んでいくはずだった。
「あのさ、ここの日程、もっとうまく組めると思わない? お客さん入れる時間長くしたいんだけど」
言葉がきつい。
言っていることはいつもと変わらないし、確かに改善出来る点ではある。
でも、態度や言葉の端々から苛立ちや悲しみが伝わってくるような、そんな気がした。
「怒ってる?」
目を合わせてくれない。表情は『笑顔』だけれど。
「なんで?」
「……ほら。怒ってる」
こういう時、ひなたくんはちゃんと誤魔化すのだ。「怒ってないよ〜!」と普段より明るい大声で言うのだ。
怖い。
何か、してしまっただろうか。アイドルを怒らせてしまった。傷つけてしまった。
いけない。何か言わないと。『プロデューサー』らしく、ちゃんと、ちゃんと。
「良いんだよ。あんたは笑ってれば」
「え……」
笑顔が、歪んでいた。
遠くへ行ってしまいそうで、なのにもがいても何も変わらないような空気。
「別に俺、怒ってないし。気にしなくていーよ」
引き留めなくては。例え、状態が悪化しても。
それが『プロデューサー』だから。
「うそ」
「ん?」
「嘘吐かないで。ひなたくんが今苛立ってることもその原因が私だってことも分かってる。ごめんなさい」
「それは俺がアイドルだからでしょ。俺がアイドルじゃなかったらあんずさんはそんなことしない…!」
「そ、そんなことな」
「そんなことある」
「だから良いって。あんずさんは今まで通り笑ってても、ちゃんとプロデューサーは出来る」
「私は」
「もういい。訊かないで? お願い」
「……いや、です。ひなたくん行かないで」
「俺が悪いんだよ。こうなることを分かってたのに。ちょっとの期待を捨てられなかったせいなんだ」
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まおあん
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思い出なんて信用してはいけないと思う。
嫌な事は誇張されて幾度も現れてくるのに、本当に覚えていたいことはすぐに淡く靄がかかる。その時感じた気持ちも、見えた景色も、体温も、霧に包まれたらもう遠くへ去っていく。
知識は何度だって覚え直せばいい。けれど、あの一瞬の思い出はもう取り戻せない。霧の中の風景に目を凝らして断片的な情報を得ても、人の話から創り出しても、またすぐに忘れてしまう。
そんな、いつの間にか自分が捏ねくり回した思い出なんて信じてはならないのだ。
後悔するだけだから。
カシャ。
撮った、ということを知らせるためのデジタル音が役割を果たして存在を主張した。
静かな教室に染み込んだそれが聞こえた方向へ、顔を向ける。
そこには丸いレンズが見つめていて、
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ゆうあん
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水色とピンク色が混ざり合うこの景色は、大好きな景色だ。俺と、隣の俺をちゃんと区別して、それでもひとつにしてくれるから。
この光に全ての神経を向けられているのが分かる。俺たちの、一文字の声や表情筋の変わり方、布の靡きまで全てを、焼き付ける炎が視える。
だがそれは、客席からに限られる。多分、舞台袖のあの人は俺じゃなくてひなたくんを見てる。
どれだけ完璧なパフォーマンスでも、誰よりも輝いても、きっとこっちを見てくれない。
今までは、奥で燻るだけだったこれの気持ちが、表に出てきたのはいつからだろう。
ピキッと凍るような空気は肌を打ち、指先を赤く染める。氷の合間を縫うように風が通ると首筋が不快な感覚で鳥肌が立つ。
歩くという判断が間違っていたと後悔しても遅い。もうビルの程近くまで来ていた。
本来、星奏館からならビルはそこまで遠くはなくむしろすぐそこなのだが、ちょっとした用事で昨日は実家で過ごした為、そこからの出勤となったのだ。記憶に新しい実家を思い浮かべながら石を転がすと、親指に鈍く響いた。
ごとごと物音がする。俯きがちの顔を上げて見ると、同年代にしては大きい背中が映った。
「翠くん」
「わ…ゆうたくん。おはよう」
「おはよー!」
どうやら、音の正体はダンボールのじゃがいもと人参がぶつかる音だったようだ。
背が高くてついでに腕も長い翠くんの整った顔が、若干隠れるくらい積み上がっている。ひょっこりと顔を出した翠の眉が歪んでいた。
「手伝うよ」
「あ、ありがとう…」
「よいしょ…。おぉう、重たい」
「それ根菜ばっかりかも…。なんで葉物を下にしたんだ、俺…?」
ずしりと掌に喰い込む底面の辺がじわじわと痛みを起こす。歩き出してすらいないのに腕がじんと熱くなった。微かなそれでも、毎日これを運ぶ翠に負けた気がする。
「代わろうか…?」
優しさからだろうが、気を遣われた事に少し腹が立った。頭がずるずると悪い方へ行く。今日は駄目な日だ、と環境のせいにしてやんわりと申し出を断った。意気地になっていたのかもしれない。自分の欲しい物を全て持つ翠に嫉妬して。
翠のウエストポーチの小さなぬいぐるみが、俺を嘲笑うように揺れた。
活気が溢れるビル内は鬱々とする心の底を清々しく撫でていく。仕事場の明るい雰囲気に触れれば、自分を支配する不快な感情と別れられると思った。実際、仕事もあったし、やる気を出せない理由は無く、時間通りにスタジオへと向かっている。
しかし、なぜだろう。小さな違和感は、翠と会ったことで、喉に掛かる小骨のようにそこにいる。
今日は『2wink』での仕事で、多忙を極める『プロデューサー』も同伴する珍しい機会だ。