朝は嫌いだ。
日当たりの悪い部屋なのに、朝の匂いがしてまた毛布に潜り込む。
家の扉が開く音が「凛月〜」の声と一緒に訪れた。いつものひと声が揺れる暑さを連れてくる。
もし、何も言わなかったら。
ここまで来てくれるだろうか。
毛布なんて被る季節はとうに越しているけれど、手放すのはひどく怖かった。
「入るぞ」
「おいっす〜。今日も早いね、ま〜くん」
手だけ出してひらひら振る。
ああ、眠い。
「起きてるなら自分で仕度しろっての」
「え〜…。ま〜くんがやるからいいの」
「俺はおまえの召使いじゃないぞ〜?」
「わかってるよ。ま〜くんは俺の大事な恋人だもんね」
「やめろっての」
もう、茶化してもノッてくれなくなった。
真緒とあんずが付き合ったからだ。
なんで、よりによってこのふたりなんだろうか。仲が良いことは誰もが認めていたから順当といえばそうなのだろう。
まさか、あのあんずが一番を決めるなんて信じられなかったけど。
真緒はいつも俺の上をいく。
「遅刻するぞ。早く着替えてくれ」
「ん。やだ」
「あのなあ?どうしたんだよ、急に」
「ま〜くんがちゃんと会話してくれないんだもん」
盾はどんな表情も塞いでくれる。
「そんなことねぇだろ…。おいおい、拗ねんなよ。悪かった、な?」
「むう…。本当は俺のことなんか好きじゃないくせに」
「…何言ってんだよ、凛月を嫌いになるわけないだろ?さっきからおかしいぞ、お前」
「別に。なんでもない。学校、行くんじゃないの」
「あ、あぁ」
今日は晴れている。
ポコン。
隣を歩く真緒は「悪い」とスマホを取り出した。
途切れた会話の続きを持て余して、カバンの重みに寂しくなる。ぬるい風が苛立ちを加速させた。
少しくらい、忘れていても良いじゃないか。それで怒る相手でもないのに。
何をしても優しく笑う彼女の顔を思い浮かべて、また疎ましく思った。
「朝から、コイビトからのおはようラインにニヤけないでくれる?」
「ニヤけてねぇし」
嘘つき。
「あと、おはようラインでもねぇ」
向けられたのは、トーク画面だ。
今日のお昼、時間があるので一緒にご飯食べませんか?
いいぞ!楽しみにしてる。
見たことのない猫が「うれしいにゃ☆」と笑うスタンプ。
顔を歪める自分を、画面の反射も後ろから覗く真緒のガラスのような目も、はっきり映し出した。
「俺にこんな惚気見せて、何がしたいの?」
大事そうにまたスマホを戻すと、今度は偽れないくらいニヤついて「かわいいだろ」なんて言った。
そんな真緒だって、可愛くて。ときめいた自分を呪いたかった。
人を簡単に愛してしまうほど、容易い人間ではない。信頼だってしてこなかったのに、アイドルになって変わったように思う。
ステージで『愛してる』を簡単に、深く言う仕事が憧れをもたせたのかもしれない。
とにかく、俺は気づいた時にはふたりを、真緒とあんずを、好きになっていた。
恋愛感情での好きだ。矢印の色は違うが、種類は同じなのだ。
どう考えてもおかしかった。同性と異性を同時に好きになるなんて、こんなおかしなことがあるだろうか。
笑顔が可愛いと思うのも、見かけると目で追ってしまうのも、話すと落ち着かなくなるのも。テンプレみたいな感情がやっぱり好きなんだと告げてくる。
それは、ふたりが恋人となったから自覚した気持ちだ。
だから今更足掻いても仕方がない。
「うん。そうだね、かわいい」
「え、お前、そういうこと言うなよ…」
「何それ。俺がかわいいって思うのが悪いみたいじゃん〜」
「わ〜、るくはないけど」
「独占欲だね、ま〜くん」
なんで、その感情がこっちに向かないんだろう。なんで、あんずにその感情を抱くんだろう。
「はあ?別にそんな」
「はいはい、あんずに言っちゃお〜」
「ばっ、それはやめろ!」
「えー、なんでよ」
「当たり前だろ!俺がこんな気持ち悪いこと」
別に、気持ち悪くはないと思うなあ。だって、俺も持ってるんだから。
「認めたね。きゃ〜、ま〜くん恋する乙女♪」
「乙女じゃねえ」
「ふぁ〜ぁ、眠い…。学校まだ〜?」
「もうちょいだから。あと少しの辛抱な」
やっとこっちを見た。
もう見るだけじゃ満足出来ないよ。
「木陰で休む〜」
「お〜い、せめて教室まで行こうぜ」
もっと、ずっと、俺だけを見てくれる時間が続けばいい。このまま、夢の中まで。
「あ〜あ!」
ま〜くんにあんなこと言っておいて俺も大概、独占欲の塊じゃん。
「凛月?」
そんな顔、しないでよ。お願いだから。
でも、これは俺だけの表情なんだ。
「あ〜〜、眠りたい」
立ち止まって目を閉じる。遠くでチャイムの音を聞いた気がした。
キーンコーンカーンコーン。
ぼやけている意識が、覚醒へと近づく。
脳が動き出した。ここは、校内の木の下。授業から逃げるようにやってきてそのまま寝てしまった記憶が、夢の景色を飛び越えて鮮明に描かれる。
校舎からじわじわと声が広がり、駆ける足音もたくさん迫ってきた。
「もうお昼かあ」
呑気な自分の声が、葉に染み込まれてそっと揺れている。
は〜くんが紅茶でも淹れてくれないかな。
そう、なんとなく考えて、ガーデンテラスに向かってしまった。
あくびを噛み殺してガーデンテラスを覗く。相変わらず混んでいる。
創はいないようだった。大きな仕事があると言っていたことを思い出す。
どこか良い日陰はないか、炭酸ジュースを片手に人の隙間をぬって進んだ。
「あっついな〜」
「うん。中で食べた方がよかったかな」
「まあここまで来たしな」
声がした。自分から片時も離れようとしない、いや、離したくない二つの声。
振り向いたところには、憎くて、恨めしくて、大好きなふたりがいる。
「なんでっ」
駄目。目を逸らしたら。
遅れて聞こえてきた頃には、もう背を向けて走り出していた。
─今日のお昼、時間があるので一緒にご飯食べませんか?
わかっていた。ここに来るかもしれないと考えれば分かるはずだった。
二人は恋人になる前からこうしてたまに食事を共にしてはいろいろなはなしをしていたから。
「凛月!?」
「っ…」
最悪だ。
太陽が出ている。全身に纏い付くような日差しに長く保つほどこの体は丈夫ではない。すぐに追いつかれた。
逃げる判断をしたことは馬鹿だ。本当に。
「体調大丈夫か?」
こんな時まで真緒は、俺の事を気にかけた。そういうところだ。真緒はこういう人なのだ。
「なんでもない。早く、戻りなよ」
「お前、朝から」
「いいってば」
あんずは追いかけて来なかった。
振り払った手から、俺のための汗が、遠ざかっていった。
日陰を探そう。
反対方向へ歩く。
すれ違う人が笑っている。きっと楽しくて、ずっとこのままでいれたらなんて思っているんだ。
それが羨ましい。
全部自分の思う通りに行った事なんかなかった。期待するからいけないんだって何度も何度も心に染み込ませてきたはずだ。
それでも、いつか自分がこのまま変わらなかったら、歩み寄ってくれる人がいると願わずにはいられない。
草の匂いが強くなる。もっと上を目指す細胞たちの匂いだろうか、土に埋まる死骸の匂いだろうか。
自分はまだこの中にいたい。
硬い木の幹に寄りかかる。背中にフィットしなくて居心地は悪い。
けれど、ゴツゴツした表面になんだか親近感を覚えて、その肌をそっと撫でた。
「凛月くん!」
「あんず…?」
「やっぱりここにいた」
どれだけ経ったかわからない。
明らかに誰も寄りつかないような、木々が生い茂る、その真ん中。俺とあんずの秘密の場所だった。
「なんで来たの」
「心配だったから」
「さっきは、追いかけてこなかった」
「それは、急ぎの電話があって」
「ま〜くんは」
「昼からのお仕事。間に合わないから無理矢理行かせてきたんだ」
どうしても、目を合わせたくなかった。
その優しさに飲み込まれてしまいそうで。
「どうしてそこまで」
「だから、心配だったんだよ。真緒くんは朝から凛月くんの様子がおかしいなんて言うし」
「でも」
「でも、じゃない。少しは頼ってね。『プロデューサー』だもん」
プロデューサーなんて、言わないでほしい。
あんずは、俺と向き合ってくれないの?
…ま〜くんには、向けるくせに。
「なんで、なんでふたりは!」
「凛月くん?」
「ごめん、今駄目」
「本当に?ちからになるよ?」
「もう構わなくていいよ、あんず」