春風江路曲(途中)春風江路曲
「お待たせ。これがサーモンとクリームチーズのベーグルサンドで、こっちがブレンドだよ。――なあお兄さん、初対面でいきなり失礼かもしれないけどさ、すっごく綺麗だな」
大手チェーンのカフェの隅のソファ席に座り、藍湛は店員が食事を運んでくるのを読書をしながら待っていた。数ページ読み進めたところで頭の上から声がして、目線を上げると、黒いエプロンを着たカフェの店員が気さくに話しかけてきていた。藍湛は店員の目を真っすぐ見つめ、「君は」と呟いた。
「あ、俺? 魏嬰って言うんだ。お兄さんは初めて見るけど、この辺の人?」
魏嬰と笑顔で名乗った店員に対し、藍湛は首を振った。
「あー、そっか。こんなに綺麗な人が毎日うちの店に来るなんてあるわけないよなぁ……え?」
コーヒーの香りが漂う店内にはカフェにふさわしいボサノバが流れていて、柔らかい歌声が聴こえてくる。それを意にも介さず、目の前で残念そうにぶつぶつ喋っていた魏嬰の手を、藍湛は突然握ったのだ。ちょうどその時、店の中に忙しない様子で二人組のスーツの若い男が入ってきて、彼らは真っすぐ魏嬰と藍湛のところにやってきた。
「あなた! カフェの店員さんですか? 彼に馴れ馴れしく触らないでください」
「そうだ、料理を持ってきただけだろう? この人は忙しいんだよ」
魏嬰は思わず「はぁ?」と聞き返しそうになったが、勤務中なのでそれを喉元で抑えた。
「違う違う、兄さんたち。俺が握手を求めたんじゃなくて、藍湛が俺の手を握ったんだ」
「「どういうことですか?!」」
魏嬰の言い分に、二人のスーツの青年は青褪めた表情で藍湛と魏嬰を見た。藍湛は何か言わなければならないと思い、簡潔に一言呟いた。
「――私が握った」
「店員さん、それは失礼いたしました。――含光君、どうしてあなたがそのようなことを……?」
青年の一人はとても礼儀正しい。魏嬰は彼らが藍湛の部下か秘書か何かなのだろうと推測したが、どうやら彼らも魏嬰と同様、これから発せられる藍湛の返答を想像していなかったらしかった。
「――この者を連れ帰り、私の付き人にしたい」
「は…………? えっ、えええええ?! 待て待て待て、藍湛、俺今勤務中なんだけど。あと、藍湛、お前付き人って、仕事何してるの?」
魏嬰の一言に、スーツの二人は少し残念そうな表情で藍湛を見た。
「まだ、私たちの営業が足りませんね」
「魏さんは知らないんですか。外の広告見てくださいよ、ほら、あそこ」
スーツの二人組のうちの礼儀正しくはない方に促されるまま窓の外を見て、魏嬰は頭を抱えた。目の前にいる人物が、すぐそこのメゾンブランドの旗艦店の垂れ幕に数倍の大きさで印刷されている。確かに魏嬰がよく見ると、ソファ席に座って魏嬰の手を握っている等身大の藍湛は大層身なりが良く、芸能人か財閥の御曹司のような格好をしていた。つまり、苦情を言ってきた二人は、恐らくマネージャーなのだろうということが察せられて、魏嬰は思わず藍湛に取られた手を離した。
「――あの、すみません、仕事中ですから」
魏嬰が言うと、スーツの二人組は申し訳なさそうに頭を下げた。礼儀正しくはない方も、どうやら素直すぎるきらいがあるだけのようだ。
「こちらこそすみませんでした」
「お邪魔をしてしまい申し訳ございません」
いやいや、と手を振りながら魏嬰が戻ろうとしたところ、ソファ席に座っていた藍湛が立ち上がった。
「――魏嬰」
「ハハッ、ちょっと待てよ。モデルの付き人なんてそんな冗談……」
「君の生活は私が全て面倒を見る。考えてほしい」
藍湛は、魏嬰に読んでいた小説の端を丁寧に手でちぎったメモを差し出した。魏嬰が見れば、電話番号と滞在先のホテルの部屋番号が書かれている。
「待て待て、ええと、こんなのもらっちゃったら不味いだろ……?」
「構わない。私は君が欲しい」
思わぬ直球に、魏嬰は叫びそうになった。広いチェーン店のカフェの隅の隅で起きていた騒動は、幸いあまり人目に付かなかった。けれども魏嬰は、結局マネージャーを名乗った二人のスーツの青年、藍思追と藍景儀からも頭を下げられ、アルバイトが終わったら藍湛の滞在先のホテルに行くことを約束させられてしまったのだった。夜だったら断るかせめて先延ばしにする方法もあっただろうが、今日は早番で朝六時から入っていた魏嬰は、予定通り十四時で退勤した。
「――今日は本当に散々だ。チャリ置き場の屋根の柱に犬が繋がれてたし、芸能人にナンパされるし……」
アルバイトを終えた魏嬰は、呼び出された高級ホテルに向かいながら、沈丁花の香りの混じった向い風に向かってぼやいた。
ホテルに着いた魏嬰を待っていたのは、藍湛と二人のマネージャー、それからなぜか自分のアルバイト先の店長だった。そういえば店長が、今日は急遽予定が入って夕方不在になるとか言っていた気がする。アルバイト先からそのまま来たので、魏嬰は白を基調とした高級感あふれるホテルのラウンジに、場違いさを感じた。
「――魏くん、今までありがとう。君は日曜も祝日も連休もシフトに入ってくれて助かったよ。これからもと思っていたけれど、仕方ないね」
店長は、魏嬰がラウンジのソファに座るなり、銀行の封筒を渡すと共に別れの言葉を告げた。
「は? 店長、俺まだ辞めるなんて言ってないですよ」
魏嬰はあのカフェで働くのが別に嫌ではない。むしろ歴代の彼のアルバイト先の中では居心地の良い方だった。なぜ突然クビ宣告になるのだろうと思いながら、魏嬰は店長に返事をした。店長は笑顔を顔に貼り付けて言った。
「いや、どうしても君が必要だって言われてね。……藍様のお申し出なら取引先の一店舗の店長がどうこう出来るわけないでしょう? 明日から君は彼のもとで働きなさい」
途中から小声になり、魏嬰にだけ聞こえるようぶつぶつと呪文を唱えだした店長に、魏嬰は「アッ、ハイ」と棒読みの適当な返事をするしかなかった。どうやら藍湛の家は、数秒前まで魏嬰のアルバイト先だったカフェの運営会社と関わっているらしい。
(容姿端麗かと思えばこの男、実家も太いのか……)
魏嬰はさっきからずっと黙ったままの藍湛を見て、溜息をついた。どう考えても逃げ場がない。ということは、できるだけ早くクビにされるような行動をするしかないだろう。
(待遇が悪ければすぐに逃げてやる)
用件だけ伝えて先に席を立った店長を恨めし気に見送り、魏嬰は礼儀正しい方のマネージャーから渡された契約書に目を通した。そこに書いてあった待遇は、簡単に言えば家と三食、アルバイトで稼ぐよりはるかに良い小遣い付きで、業務内容は藍湛の仕事への同行等となっており、細かいことは書かれていない。
(最悪だ! 待遇が良すぎる)
「魏嬰、何か足りないことはあるか?」
「藍湛、残念ながら何も文句はない。どういう訳か分からないけど、お前が俺を付き人にしたいのはよく分かったよ。――バイトもクビになっちゃったし、お前のその綺麗な顔に免じてやってやる……」
「うん。よろしく」
藍湛は満足そうに頷くと、向かいに座る魏嬰の手をうやうやしく取った。
「――よろしく」
戸惑いながらも魏嬰が返事をする。いつまでも手が離れないので、マネージャーの一人がコホンと咳払いをした。
「――ええと、魏嬰さん。これから引越しになりますが良いですね?」
「は? ……嘘だろ…………?」
「サインをした以上拒否権はありません。車は僕が運転しますから。ああ、私は藍思追。こっちは藍景儀です。よろしくお願いします」
「う、うん、よろしく……?」
(みんな同じ名字だけど、親戚か何かなのか? それにしてもこれからいきなり引越しだなんて!)
魏嬰は自転車で家を引き返し、小型トラックに積むほど多くもない荷物を積み込むと、帰りは藍思追の運転する小型トラックに自転車ごと積み込まれた。藍景儀の方は魏嬰が座る助手席に乗って来ていたが、帰りは後ろからついてきているタクシーに乗っている。
「思追と景儀は力持ちなんだな」
魏嬰の荷物の積み込みは、そもそも荷物が多くなかったので早く済んだが、藍思追と藍景儀がものすごく怪力だったお蔭で早く済んだのも大きかった。彼らは魏嬰の箪笥やベッドを軽々と持ち、エレベーターの無い五階建ての建物を汗一つかかずに往復したのである。
「失礼ですが、魏さんは随分古いところにお住まいだったんですね」
「この大都会だと、俺みたいなのはあんなところにしがみつくのが精一杯だよ」
魏嬰はひと時だけ華やかな仕事をしていた。しかしそれも十年ほど前の話であり、ここ最近はその頃の貯金も危うく、アルバイトでどうにか食いつないでいた。
「これから何があっても驚かないでください」
「分かったよ。お前もあんな滅茶苦茶な雇い主なのに、よく驚かないよな」
魏嬰に指摘されて、藍思追は丁寧な運転を続けながら返事を詰まらせた。
「……含光君がこんなことをするのは今日が初めてです。魏さん、もしかして、どこかで含光君にお会いしたことがあるんですか?」
魏嬰は少し考えたが、思い当たることは無かった。
「いいや、お前たちの含光君……たぶん藍湛のことだと思うけど、俺は今日が初対面だと思う。そもそも、この辺に住んでなかったんじゃなかったのか?」
「ええ、ついこの間まで拠点はパリだったんですが、ご実家のお兄様が帰国を望まれて」
「ふうん。何だか随分ボンボンらしいけど」
「含光君は、藍興商有限公司の御曹司ですよ」
藍興商有限公司といえば、関わっていない会社は無いと言われる巨大財閥だ。商社を筆頭に、金融や保険業、IT産業まで幅広く手を出していて、就職すれば掃除人であっても一生食べるのに困らないとまで噂されている。
「ひっ、なんでまたモデルなんてやってるんだよ。芸能界なんて性格激悪嫉妬まみれの世界だろ? あんな何も話さないボンボンに務まる仕事かよ?」
「――含光君はあの通りあまり人を寄せ付けないのですが、きちんと仕事をなさいますから」
「なるほど、お前と藍景儀も敏腕ってことか。ハハッ、分かった分かった。俺を丸め込んで引越しまでさせるんだから、そりゃあ敏腕だよ」
藍思追はありがとうございます、と一言言って愛想笑いを浮かべた。
魏嬰が藍思追に聞いたところでは、藍湛は藍忘機という名前でモデルをしており、元々少しこの国で芸能活動をしていたものの、当時は一時の箔付けだと考えていてあまり本格的にはしていなかったそうだ。ところが、留学先のパリでスカウトされ、本格的にモデルとしてのキャリアを始めたようだ。藍思追は、この国に帰ってきても藍湛がこの仕事を続けるとは思っていなかったらしい。
「帰ってきたら家業に入られるのかと思っていたんです。ですが、モデルを続けると家族会議の場で仰って」
「へえ、普段大して喋らない割に頑固なんだな」
魏嬰の一言に、藍思追は苦笑した。
「頑固と言えば、そうなのかもしれません。――実は俳優志望なんですよ」
「えっ? ――あんなに無表情で、あんなに喋らないのに?! ハハッ、モデルは適任だと思うけど、俳優? いやいや、揶揄うつもりはないけどさ、絶対モデルの方が良いって!」
「――どうやら探している方が俳優業をなさっていたらしくて……」
「へえ?」
藍湛の尋ね人についてもっと聞きたいと思っていたが、残念なことに藍思追の運転する小型トラックは高級住宅街の立派なマンションの駐車場に停められた。
「着きました。魏さんは三十三階にどうぞ。ああ景儀、案内を頼みます」
「分かった! ――魏さん、こっちだよ」
藍思追は、てきぱきとどこからともなく現れた人たちに荷運びを指示し始め、魏嬰はそれを横目に藍景儀と藍湛の待つ部屋に向かった。
「――なあ景儀、俺は思追に『何があっても驚くな』って言われたが、……驚かない方が無理だ」
「あのボロアパートから引っ越したんだし気持ちは分かるけど、早く慣れろよ」
藍景儀が言った。魏嬰ははあ、とため息をつき、エレベーターから見える都市の景色を眺めた。春霞か大気汚染か分からないが、もやもやした空気の向こうに川が流れており、その合間に摩天楼の大群が聳え立っている。
「そういえばさ、藍湛って探してる人がいるんだろ?」
「ああ、思追から聞いたのか? いくら調べても見つからないらしくてさ。昔は結構売れてたらしいんだけど、名前も教えてくれないから分からないんだよ」
「へえ。藍湛が留学してる間に消されたとかか?」
「そうかもしれないんだ。でも含光君は頑なに諦めなくて。――昨日も家族会議で芸能活動を続けるって、お兄さんに頭を下げて…………」
「そうなのか……。見つかると良いな、その人」
「いやいや、お前も手伝うんだぞ。その人探し」
「待て待て、それは俺の仕事には入ってないよ! 名前も教えてもらえないのに無理だろ!」
魏嬰は藍湛のモデルの撮影に付き添うくらいならいくらしても良かったが、芸能界で人探しは全く御免被りたいことだった。
(あんなところにはもう二度と関わりたくない。けど、こうなった以上は一日も早くクビにならないとな。)
魏嬰は、どうやったら藍湛が自分に愛想を尽かすかを早くも考え始めていた。
(もしかして、尋ね人が初恋の人とかなのかな? だとすれば簡単だ!)
エレベーターが目的地を告げると、彼を送り届けた藍景儀は再び一階に向かって引き返した。魏嬰はエレベーターホールで待っていた藍湛に駆け寄ると、誰も見ていないのを良いことに、思いきり抱きついた。
「藍湛! 会いたかったよ!」
「魏嬰……急に駆け出すと危ない」
藍湛の言い方は至極真面目に魏嬰を窘めるような口調だったが、彼が抱きとめる手はとても安定しており、絶対に魏嬰を転ばせないという強い意志が感じられた。大の男が飛びつく勢いで抱きついたのに、藍湛は一歩も動かなかった。
(えっ、あれ?)
そのため、かえって魏嬰の方が照れてしまい、思わず藍湛を見つめてしまった。
「…………ああ、いや、ごめん。冗談だよ冗談……。そうだ、藍湛、部屋はどこ?」
そうやってどうにか誤魔化して、魏嬰は藍湛から離れた。藍湛は自分からは魏嬰を離そうとせず、魏嬰が離れるまでそのままの体勢でいた。
(もしかして、帰国子女だからあんなに動じないのか?)
魏嬰が欧州で暮らしていればこんな感じなのだろうと思っていると、藍湛は黙って魏嬰の前を歩いて、一部屋しかない部屋の鍵を開けた。
「ここだ」
「えっ、ワンフロア全部お前の家?」
「うん。私の家であり、今日から君の家でもある」
(嘘だろ…………?! 俺の、家…………)
魏嬰は今まで、縦も横もこんなに広い家に住んだことがないし、ましてや見たこともなかった。中に入ると、藍湛が選んだのかどうかは分からないが調度品の品も良い。どの一室が魏嬰の私室になろうと、そこだけこの家の調和を乱すことは確実だった。
「藍湛、俺の荷物、あんまりないけど……、その、どこを使ったらいい?」
「君の部屋か。――ここだ。隣が私の部屋」
「アハハ、藍湛、ここ広すぎないか? 俺の前のアパートの部屋を丸ごと入れてもたくさん余りそうだよ」
「好きに使って構わない。荷物もそろそろ来る」
藍湛が言ったそばから玄関の方が騒がしくなり、魏嬰はとりあえず家具を元あったような配置で置いてもらった。この家に似つかわしくない貧乏単身者御用達の家具たちは、まだ新しい部屋で居心地悪そうにしている。
「藍湛、本当にこれでいいのか?」
「うん。私が決めた」
「ハハ、そうか……」
魏嬰は藍湛に半分呆れかえりつつも、広々とした新しい部屋に少しだけわくわくした。
魏嬰が細々とした部屋の整理を終えてリビングに足を踏み入れると、藍湛は夕食の準備をしていた。
「お前も昨日までホテル住まいだったんだよな?」
「うん」
「料理なんて人に頼めばいいのに。引っ越し初日に料理するなんて!」
「君がいるから」
魏嬰は少し的外れな返答に困惑したが、見れば藍湛は新品のキッチンで、どういう訳か魏嬰の好きそうな辛い味付けの料理ばかり作っている。そして、その横の土鍋から漂う八角の匂いだけでは確信できなかったが、魏嬰の好物であるスペアリブと蓮根のスープが入っているのではないかという想像をさせた。
「藍湛も辛いのが好きなのか? 湖北か湖南、四川あたりの出身とか?」
「いや、私はフランスに行くまで蘇州で生まれ育った」
「嘘だろ?! じゃあなんでこんなに、こんなに真っ赤な食べ物ばかり作るんだ。――俺、誰かに言ったっけな……?」
(藍湛は賢そうだし、訛りとかから出身地を推測したということはありえそうだけど……。)
魏嬰が驚愕と僅かな喜びの中にいるのを見て、藍湛は少しだけ瞳の奥を揺らした。
結局、魏嬰の座るダイニングテーブルの上には、野菜炒め、水煮魚(白身魚と野菜を辛い味付けのスープで煮た煮物)、麻婆豆腐、レンコンとスペアリブのスープと白飯が並んだ。
「魏嬰、食べて」
「ハハハ、なんだか一気に俺の生活変わっちゃったな! 驚いたよ。いただきます」
あれもこれもと魏嬰が食べ進める中、藍湛はスープと野菜炒めを少しずつ食べた。
「藍湛、そんな小食で良いのか?」
「――食うに語らず」
「ああそうか、お前の家はしつけが厳しそうだ。仕事柄食事も気を遣うだろうし、大変だな」
魏嬰がほとんどの料理を食べ尽くすと、藍湛も食事を終えた。
「これで美味い酒があったら最高なんだけど」
「ある」
「……え?」
藍湛は徐に食器棚の下段にある扉付きの棚を開け、酒の壷と小さな酒器を出し、魏嬰に酒器を渡すと、そこに酒を注いだ。
「もらいものだが私は飲まない。ほどほどに」
「へえ、ありがとう…………。ん、美味いな! 何て酒だ?」
「天子笑」
「覚えておくよ。藍湛、いやあ、俺、藍湛に拾われて良かったなあ」
「明日は六時に出る」
「――ぜ、前言撤回…………」
魏嬰はあくまでも付き人として雇われたのだ。何とかしてクビになる気は今も満々だが、藍湛の手料理を食べると、もう少し美味しい思いをして金を貯めてからでも遅くないだろうと思い始めていた。
(藍湛の仕事はモデルだ。十年くらい時間もたってるし、大丈夫だろう。)
「なあ藍湛、風呂入っていいか」
「君の家だ。好きに使いなさい」
風呂に入って汗を流し、魏嬰はそのままリビングには戻らず、自分の部屋のベッドに寝転がった。しかし明日の仕事内容がはっきり分からないので緊張してきた上、中途半端に飲酒したこともあって目が冴えてきてしまった。
(確か隣が藍湛の部屋だって言ってたな)
魏嬰は、藍湛が寝ているかどうか確認するため、静かに部屋を出た。廊下は真っ暗で、藍湛の部屋からも音がしない。
(寝ているんだろうな)
ここで引き返すつもりだったが、魏嬰は好奇心がむくむくと湧いてくるのを感じた。細心の注意を払って藍湛の部屋のドアを開けて部屋に入る。上品な檀香が鼻を掠めたが、魏嬰の心は全く落ち着かなかった。藍湛は、魏嬰の部屋にあるものの二倍はある大きさのベッドの上に仰向けになっており、規則正しく寝息を立てていた。
(ね、寝てる……!)
物静かで何を考えているか分からない同居人の寝顔に、なぜか魏嬰は見てはいけないものを見てしまったような気分に襲われた。魏嬰が近付いてみると、藍湛の陶器のような白い肌は美しく透き通るようで、長い睫毛がカーテンから漏れる月明りに照らされており、より一層彼の美しさを強調している。
(わあ……美人だ。こんなの見たら世の女の子は全員倒れる!)
その時、藍湛が眉間に皺を寄せ、少し唸った。
「…………魏嬰」
夢か現か分からないような柔らかい声がふと耳を掠めたかと思うと、魏嬰は次の瞬間思わず僅かに声を上げた。
「ふぇっ?!」
物凄い力で腕を掴まれ、魏嬰はあっという間に藍湛の布団の中に引きずり込まれてしまったのだ。
(ままままま待て! 藍湛! それはまずいって! 俺は男だよ!!)
そうしてそのまま抱き寄せられると、魏嬰は全く身動きが取れなくなってしまった。藍湛はすさまじい怪力の持ち主だということが、否応なしに分かった。
(俺……、もしかして朝までこのままってこと?)
藍湛の腕は強固ではあり、全く抜け出せる気はしなかった。しかし自身を抱き寄せた手つきは優しく、魏嬰はどういう訳かどきどきしてきた。とはいえ彼は長い一日を過ごしてかなり疲れており、横になると急に眠気を自覚した。藍湛の心音が背中越しに感じられ、体温の心地よい温かさを感じると、次第に眠気くなって目を閉じた。
翌朝、魏嬰はいつもであれば寝ている時間に起こされた。
「魏嬰、仕事に行く」
「――う、……うん。まだ眠いよ…………」
「起きて」
昨日までは、誰かが自分を起こすことなどありえなかった。魏嬰は違和感を覚えて目を開けた。すると、ベッドサイドに座り込んでいる藍湛の顔が魏嬰のすぐ近くにある。魏嬰はびっくりして眠気など吹き飛んでしまい、藍湛の部屋の巨大なベッドから転がり落ちる勢いで起き上がった。
「わわわ、藍湛……! お、おはよう。いい、朝だな……?」
朝とはいえまだ日が昇っておらず、辺りは真っ暗である。
「魏嬰、眠れた?」
「お、おう……」
(一緒の布団で寝てたことは、何も言わないんだな……?)
藍湛のベッドのマットレスは魏嬰のベッドに敷かれた煎餅布団よりはるかに寝心地が良く、彼は結局朝まで藍湛の布団で寝てしまったのだ。けれども藍湛は、そんなことまるでなかったかのように身支度を終えている。上質なシャツに、少しカジュアルなスラックス姿の藍湛は、魏嬰の支度を急かすのに十分だった。
「待ってろ、六時に出るんだよな? すぐ着替えるよ」
魏嬰はとりあえず洗面を済ませに行き、自分の部屋に駆け込んで服を着替えた。手持ちの服の中で割と最近買ったチノパンにスウェットを合わせ、シャツジャケットを羽織り、とりあえず外に出れる状態にする。サコッシュにスマートフォンと財布を投げ入れると、六時まであと三分といった具合だった。
「――間に合った」
「そろそろ思追が迎えに来る」
ちょうどチャイムが鳴ったので魏嬰が応答すると、藍思追が朝からきちんとスーツを着てモニター越しに立っていた。
「おはようございます。地下の駐車場に降りてきてください」
「分かった。すぐ行く」
魏嬰は藍湛の仕事の荷物の入った鞄を持ったのだが、それは不意に軽くなった。
「大丈夫。私が持つ」
(用心深いなあ。別にどっか持って行ったりしないのに)
魏嬰はドアを開けたりエレベーターのボタンを押すくらいの仕事をして、地下にいる藍思追と合流した。
「なあ藍湛、付き人の仕事って何すればいいの?」
鞄持ちすらさせてもらえなかった魏嬰は、車の中で藍湛に尋ねた。
「特に決めていない」
「――おいおい、それで俺を雇ったの?! 犬じゃないんだから鞄持ちとか、買い物係とか、領収書整理するとか、色々出来るぞ」
すると、藍湛ははたと気づいたらしく、鞄から財布を取り出し、カードを一枚魏嬰に渡した。
「必要なものがあれば買いなさい。暗証番号は君の誕生日だから変更して」
「はあ?!」
真っ黒いカードの名義はなぜか自分のものになっており、魏嬰は開いた口がふさがらなかった。
「支払いは私がするから心配いらない」
「いや、そうじゃなくて! 藍湛、俺を甘やかしすぎだろ! 思追も内心思ってると思うぞ」
「……そうだろうか」
「含光君がしたいようにされればいいと思いますよ。魏さん、無駄な買い物はしないでくださいね」
藍思追は藍湛の忠実なマネージャーらしく、藍湛の決めたことには基本的に逆らわないらしかった。魏嬰はもう一度手の中のカードを見つめた。
(こんな真っ黒なカードで包子でも買ってみろ! 後ろに並んでる奴から刺されるぞ!)
魏嬰は車の中で、昨日やり切れなかった住所変更の手続きのついでに、早速全ての電子決済の支払い手段をこの黒いカードにした。藍湛はその作業を横目にしつつ、魏嬰に特に何も言わなかった。魏嬰は、急に人生の安心を全て手に入れてしまったような感覚がして落ち着かなかくなった。隣に座る藍湛がどんな人間なのかまだ分からないのに、親切すぎて腹立たしくさえ思えてくる。魏嬰は他の感情が見たいと思い、彼を少し揶揄うことにした。
「そうだ、俺、毎晩藍湛と一緒に寝たいよ。あのベッドは寝心地が良くて最高だった。俺のすのこベッドと煎餅布団は、そろそろお役御免で良いと思う」
魏嬰はベッドを買い替えたかっただけなのだが、わざとそういう言い回しをして藍湛を困惑させる作戦に出た。案の定、藍思追は信号待ちの一瞬に、青ざめた表情で二人を振り返ったが、信号が青になったので前を向いた。
「構わない」
しかし、その瞬間の藍湛の返答は、魏嬰が期待した返答ではない、いや、想像すらしていなかったものだった。魏嬰は叫びそうになるのを抑え、あくまでも本当だと受け止めることにした。
「本当か?! アハハ、嬉しいよ藍湛!含光君! お前は優しいし、まだ夜は寒い日もあるから最高だな! 俺がくっついても問題ないんだよな?」
「構わないと言った」
藍湛は何がおかしいんだと怒り出さんばかりの表情で魏嬰に向かって言った。藍思追はその会話を聞いて車を停めたい気分だったが、数分後には通勤ラッシュで混雑する道路だったので諦めた。
藍思追が知っている藍湛は昨日までこんなに他人に心を許す人物ではなかったはずだ。まさか自分が見ていないところで頭でも打ったのではないだろうかと心配になってきた。こういう時に藍景儀であれば、他人の顔色を気にせず冷静に意見具申していただろう。しかしながら藍思追にはそんなこととてもできなかった。そうこうしているうちに、さっきまであれだけ騒がしかった魏嬰が急に静かになったかと思うと、藍湛にもたれかかって寝ているではないか。
「含光君、あの……」
「思追、これで構わない。気を付けて運転しなさい」
魏嬰に肩を貸す藍湛に、そう言われ、藍思追は「はい」と返事をするしかなく、二度と後ろを振り返らないで車を走らせた。
魏嬰が顔にかかる冷たい空気を感じて再び目を覚ました時、彼は藍湛のコートを掛けられ、楽屋で寝かされていた。
(嘘だろ?! どうやって運ばれたんだ?)
魏嬰は、布団代わりにされていた可哀そうな藍湛のコートを丁寧にハンガーに掛けた。彼は、藍思追がここまで自分を持って運んだのかもしれないと思ったが、もし藍湛に担がれでもしていたらと思うと心がざわざわした。どこに二度寝した付き人を抱えて運ぶトップモデルがいるだろうか。魏嬰はとりあえず撮影をしている部屋に向かい、藍思追を探すことにした。
「魏さん、こっちですよ」
「思追、起こしてくれればよかったのに」
魏嬰に気付いた藍思追は小声で魏嬰を呼び、手招きした。
「魏さん、知らないんですか。私と含光君の二人で何十回も起こしたんですよ」
「…………嘘だろ」
彼は昔の自分を思い出した。たまに、寝てしまうと自発的に起きるまで昏々と寝てしまうことがあるのだ。昨日までのアルバイト時代は、お金が掛かっていると思うと必死に朝起きることができたのだが、生活が保障されていることにすっかり安心し、昔の怠け心が復活したのかもしれないと魏嬰は反省した。
「最終的に、含光君が運ぶと仰って」
「嘘だろ……?」
「尋ねるなら撮影が終わってからにしてください。魏さん、今日は夕方までここで撮影です」
聞けば、今日はモデルを務めている若い富裕層に人気のブランドのカタログ撮影らしい。シャッター音やスタッフの声がする方を見ると、グリーンバックを背に、藍湛が二シーズンほど先の格好をしている。ジャケットにパンツなので最初は分からなかったが、よく見ると色合いが秋冬物だ。
「へえ、かっこいいな。この仕事は思追がもらってきたのか?」
「いえ。聶さんというデザイナーの方と含光君の家が家族ぐるみの付き合いなんです。帰国して最初の仕事はうちでぜひ、と申し出がありまして」
「そうなのか。だからこんなに和やかなんだな」
魏嬰がやや遠くから撮影を眺めても、カメラの前の藍湛は非常に落ち着いていて、カメラマンとの意思疎通も上手く取れているように見えた。
「分かるんですか?」
「ん、いやあ、何となくだよ。俺はこういう仕事なんて馴染みがないけど、やっぱり車の中とは全然雰囲気が違うな!」
わざと聞こえるように言うと、藍湛がその時だけ魏嬰に目を合わせてくれた気がして、魏嬰ははっとした。藍湛が一瞬自分の方を見た時にだけ、名残雪が春の日差しに照らされて僅かに輝くような、微かに柔らかな表情をしたのだ。シャッター音がその時勢いよく鳴ったが、魏嬰は思わず手を振ってしまった。藍湛の様子の変化に気付いたスタッフたちが魏嬰の方を振り返った。
「……あ、すみません。今、藍湛がすごくかっこよくて、思わず手を振ってしまったのは俺です」
魏嬰が悪気はないです、中断して申し訳ないと謝ると、藍思追はどうしようと慌てていたが、スタッフたちは和やかに笑った。
「ああ君、起きたんだね。さっき含光君が君を抱えて入ってきたときは一体何が起きたかと思ったよ」
スタッフの一人がそんなことを言いながら、魏嬰と藍思追のために椅子を出してくれた。二人は控え目にお礼を言い、再び始まった撮影を眺めた。フォーマルがびしっと決まる藍湛から、魏嬰はずっと目が離せなかった。すっと伸びる長い脚に、バランスよくきちんと付いたしなやかな筋肉、色の薄い瞳は怜悧で、若い経営者やエリート層が中心の顧客だというブランドだと言われれば誰もが納得するだろう。魏嬰は藍湛が着替えるたびに、目の前にいる藍湛が本当に自分に甘いあの藍湛なのだろうかと思った。カメラマンの求めに一発でポーズや表情を修正し、完璧を作り出していく。
(今まで見てきたどんな奴よりプロだな……。どうして藍湛は俺を付き人にするなんて言い出したんだろう?)
見れば見るほど謎が深まり、魏嬰はため息をついた。
昼休憩を挟んで撮影が終わった帰り際。藍湛と藍思追が挨拶回りをしている折に、魏嬰は先ほど気さくに話しかけてくれたスタッフの一人に声を掛けられた。
「君、もしかして十年くらい前にアイドルやってたよね? ええと、『雲夢双傑』の、魏無羨君じゃない?」
魏嬰は心臓が止まるような思いをして、一瞬肩が震えた。
「――それは……」
人違いだと取り繕う間もなく、スタッフは饒舌に魏嬰に話を続けた。
「いや、暫く見なかったけどどうしてるかと思って。含光君の付き人をやってるなんてびっくりしたよ」
「…………昔のことは、あまり言わないでおいてくれますか」
「そうだよな。業界で君は随分叩かれてた」
「ハハ、よくご存じで」
「大丈夫、あくまでも今の君は含光君・藍忘機の付き人だ。だが、映像業界なんかはまだ君を良く思っていない人もたくさんいる。――君もよく知っているだろうが、江晩吟は今や飛ぶ鳥を落とす勢いの俳優だ。気を付けて」
スタッフは器用にウィンクした。
「……ご忠告ありがとうございます」
「今日の含光君の表情はいつもと全然違った。彼の仕事が素晴らしかったのは、君のお蔭かもしれないからね」
魏嬰は片付けに戻ったスタッフに一礼した後、彼に言われた言葉を反芻した。入れ替わりに藍湛と藍思追がやってきた。
「魏さん、今日はこれで終わりです。帰りましょう」
魏嬰は藍思追の問いかけに、すぐに反応できなかった。藍湛が心配した様子で魏嬰を見て、ようやく気がついた。
「――魏嬰、どうした?」
「……あ、ああ、いや。何でもないよ。――やっと終わりかあ。藍湛、俺は疲れたよ。疲れすぎてぼーっとしちゃった。さっさと帰ろう。なあ、今日のお前の写真って見れないの?」
「そのうち」
「へえ、楽しみだなあ。スタッフさんも素晴らしい仕事って褒めてたよ」
「そうか」
魏嬰が笑うと、藍湛も口角を僅かに上げた。
三人は車に乗り、藍思追の運転で帰路についた。後日ファン向けのSNSに藍景儀が公表した写真は、「氷の藍忘機が微笑みを湛えている」とファンの間で大騒ぎになった。
こうして、魏嬰の付き人暮らしは平和に始まった。藍湛は朝早く出ていくときもあれば、午前か午後のどちらかがオフのこともある。そんな日は朝早く起きると、近所をランニングしているようだ。
魏嬰は撮影に付いていくことが多かったが、たまに藍湛は魏嬰に休みを取らせた。休みの日、魏嬰は昼近くまで寝ていることが多い。起きてからは、買い物をしたり、趣味の笛子を吹いたり、こっそり買ったプラモデルを組み立てたりして気ままに過ごしている。
魏嬰と藍湛が暮らす家には一台のベーゼンドルファーがあって、魏嬰は広いリビングの奥の方に鎮座するそれをしばしば見ては、藍湛がいつそのピアノを弾くのかと待ちわびていた。けれども藍湛は多忙なこともあって、なかなか弾かない。
魏嬰はある撮影の帰り道、思い切って藍湛にピアノ演奏を強請ってみることにした。最近藍思追と藍景儀は、初めての現場でなければ送り迎え以外を魏嬰に任せることが増えてきた。今日は撮影が思ったよりも早く終わり、迎えが来るまでは二人で近所のカフェに入ることにしたのだ。魏嬰はカフェモカにクリームやらチョコレートやら、たくさんトッピングを乗せた甘い飲み物を頼み、藍湛はグアテマラの深煎りをブラックで飲んでいる。
「藍湛、家にばかでかいピアノがあるだろ?」
「うん」
「あれは置物なのか?」
「私がたまに弾くが、引っ越してからまだ調律を頼んでいない」
「そういうことか。いや、俺ずっと藍湛がいつピアノを弾いてくれるのかなって思ってさ」
「聴きたいか?」
「勿論。俺も笛を吹けるし、歌ってもいい」
魏嬰はそう言って、ドリンクの上のクリームをスプーンですくって食べた。藍湛は紙ナプキンを手に取ると、魏嬰の口の端に付いたクリームを拭いた。
「クリームは沈めるものではないのか」
「あ、ありがとう藍湛。俺は沈む前のクリームの上の方だけをちょっと味見するのが好きなんだよ」
「そうか。――来週末は二日とも休みだ」
藍湛はやっと本題に話を戻したが、相変わらず目尻が少し下がっており、魏嬰はそれを見てぱっと心が温かくなった。
「いいのか?」
「調律師を呼んでみる。恐らく来ると思う」
「本当か、ありがとう藍湛、嬉しいよ。お前がピアノを弾いてくれるなんて!」
藍湛は魏嬰が喜ぶ様子を見て、コーヒーを一口飲んだ。
「魏嬰、一つ頼みがある」
「ん? 何だよ。何でも言ってくれ。俺はお前の付き人なんだし」
「そのクリームを、私も一口食べてみたい」
「えっ、これを? いいけど藍湛には少し甘いかも。じゃあ一口だけな?」
魏嬰がまだ沈んでいないクリームをスプーンで掬うと、隣で藍湛が無防備に口を開けて待っていた。
(ちょっと待て! これは食べさせてくれってことか?)
一瞬固まった魏嬰を、藍湛の色の薄い瞳が急かすように見た。魏嬰はそれをゆっくり口に運んでやる。スプーンが舌先を掠めて、魏嬰の手は震えそうになった。瞬間、口が閉じられ、魏嬰は持っていたスプーンを藍湛に取られた。
「……なかなか」
藍湛が呟くと、魏嬰は身体の内側がむずむずするような気分になった。
「お、もしかして結構気に入った? 美味いよな! まあお前みたいな仕事だとこんなカロリーの塊飲んだら怒られるかもしれないけど、たまに隠れてちょっと飲む分には良いと思うよ」
「検討する」
少しして迎えが来ると、二人はやってきた藍思追と藍景儀にも飲み物を勧め、四人で暫し打ち合わせをした。
「珍しいな。二人そろって来るなんて」
藍思追と藍景儀は挨拶をすると、一度飲み物を買ってきてすぐに戻ってきた。
「今日はたまたま仕事が早く片付いたんです。俺も思追も結構忙しいんですよ」
「そりゃあ分かってるよ。藍湛は売れっ子だもんな」
魏嬰が言うと、二人は嬉しそうに頷いた。藍湛も何かおかわりが欲しくなったらしく、彼は徐に立ち上がり、カウンターの方に向かった。
「含光君、魏さんが来てから表情が変わったって評判なんです」
「へえ、もしかして俺のお蔭なの?」
「そう思ってもいいと思う。俺と思追が何べん言ってもなかなか変わらなかったのに。――怜悧なのはそのままなんだけど、前はもっと憂いがあるというか、暗かったんだよな」
「へえ、そうなの? 確かに初めて会ったときは何考えてるか全然分からなかったけど、近くにいると結構表情豊かだなって思うよ」
「それで、一つ決まりそうな仕事があるんですよ。まだ正式ではないのですが……」
藍思追が続きを言おうとして、藍湛が一番小さい紙カップを手に戻ってきた。
「含光君…………!? 何頼んだんですか?!」
「『スペシャルダブルチョコレートモカエクストラクリーム』だ」
それは正しくさっき魏嬰が一口クリームを分けてやったもので、魏嬰は笑いを噛み殺していたのだが、とうとう我慢できなくなった。
「アハハハハハハッ!! 藍湛、それはこっそり飲むものだろう? 全く悪い子だなあ、ひい、ハハハハハ」
結局その後ひとしきり藍湛の食生活についてマネージャーから根掘り葉掘り聞かれる羽目になったものの、日頃の藍湛の食生活に関しては全く問題なかったので、今回はお目こぼしをもらった。藍湛は一日の仕事を終えて少し疲れていたこともあり、悪魔的な甘さの飲み物をかなり気に入ったらしかった。結局藍思追が言っていた新しい仕事の話は有耶無耶になってしまったが、魏嬰はいい気分で家に帰った。
翌週末、二人は調律を終えたピアノの前にいた。魏嬰はある時こっそりピアノの値段を調べて驚愕したのだが、どうやら藍湛はここに引っ越してくるとき、唯一このピアノだけを実家から引き取ったらしい。
「フランスでは何勉強してたんだ?」
「主専攻は経営学だったが、ピアノは個人的に練習を続けていた」
「へえ! てっきり音大でも出ていたのかと」
魏嬰が言うと、藍湛は否定も肯定もしないまま、懐かしむように言った。
「――母親はピアニストだった」
藍湛は椅子に座ると、深呼吸してピアノの蓋を開け、鍵盤に白い指を乗せた。ジムノペディ第一番の落ち着いたメロディーをその指が紡ぎ始めると、魏嬰は思わずその場に立ち尽くした。重みのある伴奏はしっとりとした主題に明るくはないが、お洒落な和声の響きを藍湛は寸分の狂いもなく奏でた。
(もしかして藍湛、こっちでプロにもなれたんじゃないか?)
三分ほどの曲はあっという間に終わってしまった。魏嬰は拍手をした。
「藍湛! お前は俺にコンサートも開いてくれるなんて! 本当にすごいよ」
藍湛は特に言葉を返さなかったが、耳元が僅かに赤くなっていることに魏嬰は気付いた。
「なあ、もうちょっと弾いて」
「君にも椅子が必要だ」
「ああ、ダイニングのやつを持ってくるよ。ソファに座ったら遠くなっちゃうし」
魏嬰はダイニングチェアを抱えてくると、そこに座って藍湛の演奏を聴いた。次に藍湛が弾いたのはメンデルスゾーンの「春の歌」で、柔らかい音律に魏嬰は自分が撫でられているようないい気分になった。
「藍湛はもっと激しい曲を弾くと思ったけど、こういう柔らかい曲が好きなんだな」
「一曲目は私が落ち着くために弾いた」
「二曲目は?」
魏嬰が尋ねると、藍湛は言葉を迷ったように目を伏せた。
「…………弾きたくなった」
「へえ、今の季節と合ってて良かったよ。あ、でも、俺が笛を吹くとか歌うとか言ったのは無かったことにしてくれ。――お前がピアノでも食べていけそうな奴だとは考えてなかったんだ。ハハ、とんだ恥知らずだったよ!」
「魏嬰、笛を吹いてほしい。君に合わせる」
「おい、今の聞いてた?! 確かにガキの頃から唯一好きで続けてたけど、独学だからお前の折り目正しいピアノと合うかどうか……」
「合わせる」
魏嬰は悟った。藍湛は一度決めたことは中々曲げないのだ。こうなったらどんなデタラメでもいいから弾いてやって、うんざりさせるしかないと考え、部屋から笛子を取ってきた。
「いつも吹いている曲があるだろう」
「あああれ? 俺が作った適当曲だよ。名前もないんだけど。――ああ、『随便第一番』とかにしておくか」
「もう少しきちんとした名前を付けてやりなさい」
藍湛が苦言を呈したのに魏嬰は少し笑うと、気を取り直して笛を吹き始めた。一節吹いたところでピアノのメロディーが加わった。
藍湛は弾きながら、有名な詩の一節を思い浮かべた。
笛の音は花を眺めつつ、春風の吹く川のほとりをふらふらと、心のまま、自由に歩いていく。――この人が知らぬ間に辿り着いた場所が自分の家であればいい。
一曲を吹き終わり、魏嬰も藍湛も自然と満たされた気持ちになって互いを見た。
「何か、良かったな。俺は適当に吹いただけだったけど、藍湛がちゃんと伴奏してくれたからすごくよく聴こえて、楽しかったよ。ハハ、お前が干されたり、実家の事業が傾いたりしても、俺が笛を吹いてお前がピアノを弾いたら食うのには困らなさそうだ」
「うん」
それから二人は楽しくなってきて、何度か色んな即興曲を奏でた。結局その日は、日が暮れるまでピアノの周りから離れずに過ごした。