瑞雲遠飛(途中) 魏無羨は目を覚ました。森は薄気味悪く、烏が鳴きながら飛び交い、そこら中に人や獣の骨が落ちていた。彼は起き上がって、自分の周りを見た。灰色の森にあるのは、たくさんの闇と、先の方だけ僅かに白い自らの漆黒の九尾だけであった。
目を覚ますまで、魏無羨は黒い身体を持った狐として仲間内で凶兆とされ迫害を受けてきた。各地を転々とし、崖から落ちて、間違いなく一度ここで力尽きたはずだ。 そこで彼は悟った。痛みと苦しみしか知らない自分の身体は、この乱葬崗の闇を吸い込み、伝説で一度聞いたことのある九尾の魔狐となって再び目を覚ましたのだと。彼は水溜まりに映った自分の顔を見た。それは青年の姿をしており、見た目だけで言えば美しい方であった。
「ふうん、九尾の呪いに選ばれちゃったのか……」
魏無羨は人間にも似た九尾の魔狐の姿に慣れず、何度も自分の姿を水溜まりに映したが、黒の着物と、目覚めた時に手に持っていた赤い房飾りのついた漆黒の笛は気に入っていた。
そして、魏無羨は知っていた。この世に大きな闇が生まれようとしていることを。自分はそれを封じるための霊獣で、柱だということを。
彼は山を下りて、その大きな闇を見つけ出すべく旅立つことにした。というよりは、どんよりと暗いこの山から一刻も早く出ていきたかった。
「九尾の呪いを受けて転生したこと以外は、なんにも分からないんだよなあ。――気ままに夜狩でもしながら、どうして俺が生まれ変わっちゃったのか、確かめるとするか」
魏無羨は手に持っていた笛を何となく吹いてみた。闇の力は周囲を圧倒し、ごうごうと音を立てて風が吹くと、山を下りる道が開けた。
「なるほど、こいつは使えるな。声にならない声の笛。お前は陳情って名前にしよう。我ながらいい名付けだと思う!」
魏無羨は歩くのには少々重たい九つの尻尾を一つにする変化をして、早速出発することにした。
月夜に琴の音が響き渡り、次々と凶屍や彷屍が滅された。しかしその数は多く、琴の弦が切れるのも時間の問題に思われた。
琴の主である藍忘機は、日課のようにしている夜狩で姑蘇のはずれの洞窟にいた。はじめは数体いた彷屍の類を鎮めて帰ろうとしたのだが、戻る途中で次々と彷屍に出会った。それだけでなく、凶屍までやってきて、あれよあれよという間に大群となっていたのである。
この洞窟は理由あって埋葬されなかった人々の墓地となっているらしく、藍忘機はすっかり敵に囲まれてしまっていた。その気になれば奥の手を使うこともできたが、藍忘機は出来る限り正攻法でこの危機を脱したいと考えていて、判断が遅れてしまったのである。剣を握り締め、万事休すかと思った矢先、笛の音が洞窟に響いた。それは大層美しく、飛鳥のように自由でいて、そしてどこか妖しげな音色だった。押し寄せていた凶屍たちが一斉に動きを止め、恐怖で叫びながら消えていく。藍忘機は何が起きたのか全く分からなかった。
「何者だ」
笛の音は藍忘機の問いに答えないまま、ついに藍忘機の目の前で凶屍同士が闘い共に滅びる事態となった。月明りの僅かに差し込む薄暗い洞窟の中で、彼は何が起きているのか分からなかったが、凶屍や彷屍が減っているのにも関わらず強くなる闇の気配に身構えた。ついに、剣を構えた藍忘機のもとに姿を現したのはひとりの狐だった。
「大丈夫か?」
「私を、……助けてくれたのか?」
「うん? ――ああ、俺は魏無羨。魏嬰でいい」
「藍忘機、藍湛でも構わない」
藍忘機が言いながら明火符に火を点けた。明るくなった札の先で眩しそうな顔をした魏無羨を、藍忘機はまじまじと見つめた。
「――なんだよ、どうしたんだ?」
「君は、狐なのか?」
「そうだけど、だから何だよ。あれ、お前もそういうにおいがするな」
魏無羨はくんくんと鼻を動かし、再び藍忘機の方を見た。彼はここでようやく、藍忘機の頭の上に二本の立派な角があることに気がついた。
「――私は、龍の血を引く」
「へえ! 龍。じゃあ、光を司る龍神と関係があるのか? すごいな」
魏無羨はただの狐だった頃の記憶を呼び起こした。姑蘇には闇を払う力の強い龍の血を引く一族がいると聞いたことがある。それが目の前の者のことらしい。確かに、目の前の藍忘機には立派な龍の角が生えており、さらに目を地面の方に移すと、装束の下には美しい玉虫色のような光沢がついた白い尾が見えた。
「大丈夫、恩人を祓うようなことはしない」
「ハハッ、ありがとう」
手を差し伸べられておっかなびっくりした魏無羨は、そう言われてようやく彼の手を取った。初めての温かい気持ちに、心がふわりと宙に舞う気がした。
どきどきして、くらくらする。見れば、藍湛が慌てた様子で魏無羨を支えていた。
「魏嬰、君は――闇を吸い過ぎだ!」
どうやら調子が悪くなったのは、藍忘機と握手をしたせいではなく、本当に無茶をしてしまったからであるらしい。魏無羨はとうとう気を失いかけて、藍忘機が地面に敷いた上衣の上に寝かされた。
「……ああ、藍湛。悪いな。――すぐ、大丈夫になるから」
「そばにいる。休みなさい」
額の汗を拭われたのを最後に、魏無羨は目を閉じた。
藍忘機は一晩明けると、洞窟を出て自らが住まう仙境・雲深不知処に帰ってきた。雲深不知処は姑蘇の山奥にあり、沿岸部の暖かな空気のする麓とは違って一年中冷涼であった。滔滔と流れる川のせせらぎ、朝を告げる小鳥の声。それから幻想的な霧の情景は、心を俗世から切り離して安らぎを与えてくれる。
藍忘機はおぶっていた魏無羨と共に自分の部屋である静室という離れに戻り、彼を自分の牀榻に寝かせた。事の次第を報告しようとした時、外から慌ただしい様子の呼び声がした。
「忘機、帰ってきたのか?! 何を連れて帰ってきたんだ。弟子が大騒ぎをしているぞ」
声の主は姑蘇藍氏の長老である藍啓仁である。窓から外を見ると、兄である宗主の藍曦臣も隣で心配そうに佇んでいた。
「――客人です。夜狩の際に助けていただきました。体力を著しく消耗していたのでここで養生させたいと思います」
紙窓越しに言いながら静室を出ると、二人が藍忘機に近づいてきた。
「忘機、話がある。お前が連れ帰ってきた客人のことだ」
「忘機、彼をすぐにどうこうするつもりはないから、経緯を聞かせてほしい」
どうやら二人が慌てている様子なのは、藍忘機が連れ帰った魏無羨に原因があるらしい。藍忘機は大人しく二人についていき、事情を説明することにした。
「忘機、あの狐が何者か知っているのか?」
叔父と兄の執務室に連れて行かれた藍忘機は、座るよう促されるなり慌ただしく尋ねられた。
「彼とは昨晩初めて会いました。魏嬰は私を凶屍や彷屍の衆から助けてくれた、普通の善良な狐です」
「しかしあの気配。間違いない……。曦臣、書物を持ってきなさい」
「はい、こちらに」
藍曦臣は既に傍らに準備していた書物を叔父に渡した。
「尻尾は隠していたが……九尾の魔狐・夷陵老祖が転生したとみて良いだろう。彼は笛を持って妖魔奇怪を操り、闇を喰らう化け狐だ。そしてこの者の復活は、強大な闇の到来を意味する凶兆である。光を司る龍神を祖先に持つ我々姑蘇藍氏は……言いたいことは分かるな?」
「――今は何とも分からない強大な闇を見つけ、世の中が混乱に陥る前に、彼を贄として封印すべきである、と」
藍忘機は自らそう述べたが、九尾の魔狐が復活した要因である闇の正体が分からないことをわざと強調した。
凶兆である九尾の魔狐は、闇を吸収する性質から、何世にもわたって贄として強大な妖魔と共に封印されてきた。九尾の魔狐が復活したということは、彼が贄となるべき力の強い妖魔がどこかで目覚めたということになる。
藍忘機は九尾の魔狐が復活したことの意味を少し考えたが、しかし自分の考えを変えることはしなかった。
「――叔父上、兄上。今のところ、彼はまだ私にとって命の恩人であることに変わりません。客人として療養させる許可をください」
「――忘機! わしの言ったことが分からないお前ではあるまい!」
藍啓仁が怒鳴ろうとしたとき、間に入ったのは藍曦臣だった。
「忘機。お前が言いたいことは分かった。――確かに、九尾の魔狐が復活した今、彼の居所が掴めなくなったり、悪者に利用されることは避けたい。……お前が責任を持って客人をもてなすのであれば、……姑蘇藍氏宗主の私が許可しよう」
藍曦臣が言うと、藍啓仁はぐぬぬと呻いた後、目を閉じて髭をいじった。仕方がないことがあった時によくやる仕草である。兄の言葉を重んじてくれたのだろう。
「兄上、叔父上。ありがとうございます」
藍忘機は深々と一礼をすると、兄に魏無羨のための丹薬をもらい、その足で藍家の装束や装飾品、祭具を管理する者を捕まえてあれこれと依頼をした。普段の注文と全く異なる依頼に担当者は何が起きたのかと思ったが、藍忘機は至極真面目だったので、何も聞き返すことができなかった。
魏無羨が目を覚ましたのは、翌日のことであった。
あれだけの彷屍や凶屍の闇を吸い尽くして倒れたのにも関わらず、魏無羨は藍家の丹薬のお蔭もあり、一日半ほど眠っていただけですっかり落ち着いた。彼は、上等な牀榻の上に寝かされていることに気がつき、起き上がった。
「あれ、ここ、どこ……?」
「魏嬰、目が覚めたのか?」
ちょうど静室に戻った藍忘機が、目を覚ました魏無羨に気がついた。
「うん。藍湛、ここは?」
「ここは、雲深不知処の私の部屋だ」
「雲深不知処……ああ、聞いたことがあるよ! 龍神の一族が住む仙境、雲間の里だって」
魏無羨はただのいじめられてばかりの狐だった頃に、そんな里が遥か遠くにあると聞いたことがあった。半分伝説のような噂は、どうやら本当であったらしい。魏無羨は、牀榻に近づいてきた藍忘機が立派な桐箱を持っていることに気がついた。
「その箱は何だ? 立派だな」
「君は暫く私の客人だ。加護のついた装束と飾りを作らせたから身につけなさい。魔を寄せ付けない」
藍忘機が桐箱を開けると、そこには赤と黒を基調とした上等な装束と、金や宝石で出来た飾りが入っていた。
「ええっ?! これ……いくらするんだよ?」
今まで身につけたことはおろか、見たこともないような艶やかな布地の服を広げ、魏無羨は思わず不躾に呟いた。滅多なことでは破れなさそうな布地には、金糸の刺繍がふんだんに入っており、共布の髪紐までその端に紅玉が付いている。
「気にしなくていい」
「ハハハ、これならどんな魔も寄り付かないよ。――あ、お前も家ではすごく着飾るんだな」
魏無羨は、黒と白の毛で覆われた大きな耳をぴくぴくと揺らして藍忘機を見上げた。彼は洞窟で見た時には動きやすい格好であったが、今は魏無羨に差し出した装束と色違いの白と天色を基調とした装束を着ており、そこら中におびただしい量の金の紐と房飾りを付けている。腰の青い佩玉を見れば、一目で藍忘機が藍氏の一族でも高位の者であるということが分かった。また、金で出来た角の飾りには、服と揃いの金の房飾りが付いており、青金石でできた玉がいくつも輝いていた。
「着替えられるか?」
「うん。大丈夫。ああ、服に尻尾って通せる?」
「問題ないと思う。だめだったら直させる」
藍忘機は着替え終わったら言うようにと一言言うと、魏無羨が着替えるための屏風を立ててやってその場を離れた。魏無羨は何枚もある装束に少し苦労したが、着替えを終えた。
「どう? 龍の里の客人らしくなれたか?」
着替え終わった魏無羨を見て、藍忘機はうん、と深く頷いた。魏無羨はにっこり笑うと、髪紐を差し出した。
「髪を結ってくれないか? きちんと結うのは慣れてないんだ」
藍忘機に会う前から、魏無羨はずっと髪の上の方だけを適当にまとめていた。しかし、装束の紐に髪が引っかかりそうだと思ったので、全部一つにまとめておこうと思っていた。
「私が髪に触れても?」
少し戸惑った様子で尋ねた藍忘機の手に、魏無羨はきらきらした飾りのついた髪紐を預けた。
「もちろん。俺が頼んだんだ」
「――分かった」
藍忘機は円座に座った魏無羨の豊かな黒髪を柘植の櫛で丁寧に梳き、髪紐でまとめた。鏡でそれを見せてもらい、魏無羨はすっかり嬉しくなった。生まれ変わる前から、こんなに誰かに世話をしてもらったことなどなかったのだ。生まれ変わった結果、あろうことかただの黒い狐よりよっぽど忌み嫌われる九尾の魔狐となってしまったが、どういう訳か光を司る龍神の一族の末裔に髪を結わせている。
「おかしいか?」
藍忘機がそわそわした様子で魏無羨に尋ねた。
「ううん。藍湛って器用だなって思ってさ! 俺、藍湛に毎日髪を結ってほしいよ」
「……そうか。私は構わない」
藍忘機が少しだけその怜悧な美しい顔に微笑みを宿すと、魏無羨はすっかり機嫌を良くした。彼は円座からぱっと立ち上がって、藍忘機に抱きついた。
「藍湛! 俺、ここが気に入った! しばらくお前のところに世話になってもいい?」
「うん。私も、ここにいてほしい」
藍忘機は抱きつかれたのを嫌がらず、魏無羨の頭とふさふさの耳を、飾りが絡まないようにしながら柔らかく撫でた。
彼は、このまま加護を受けた魏無羨が九尾の魔狐などと呼ばれなくなり、平和に暮らすことができればと淡く願った。