瑞雲遠飛②(途中) 加護のついた装束を身に纏った魏無羨は、藍忘機と共に姑蘇藍氏の宗主である藍曦臣のもとを訪ねた。魏無羨の装束は加護が強く、彼の魔の気配はよほどの修為がなければ気付かないほどになった。
「魏嬰、兄だ」
「初めまして、魏無羨と申します」
「藍曦臣だ。沢蕪君と呼んでもいい。話は忘機から聞いているよ。よろしくね、魏公子」
丁寧に一礼した魏無羨と藍忘機に、藍曦臣は朗らかな声で言った。
「長老である叔父上は、君のことをあまり快く思っていないみたいだけど、忘機の客人であるからには、我々は君のことを歓迎するよ」
「ありがとうございます。――あの、やっぱり俺のこと、知ってるんですよね」
魏無羨が尋ねると、藍曦臣は否定しなかった。
「君がどういう訳でこの世に生を享けたのかはまだ分からないけれど、今は忘機の客人だ。気にせずに過ごしてほしい」
「俺も、どうしてこうなったか分からないんです。だから、どうしてなのか知りたくて……」
魏無羨は、自分が元々はただの黒い狐であったこと、乱葬崗で力尽きたとき、九尾の魔狐となったことを二人に話した。藍曦臣はそれを聞いて、時折文机の上の伝承に関する文献を開いて読んだが、少々昔話と今の魏無羨の話には齟齬があるように感じた。
「魏公子、話してくれてありがとう。私は、九尾の魔狐が君を奪舎したか、あるいは君が九尾の魔狐に身体を献じたかだと思っていたけれど……」
「兄上、魏嬰には生前の記憶があります。九尾の魔狐の魂は魏嬰の中に封じられたままなのでは?」
「九尾の魔狐が奪舎に失敗して、魏公子の魂が復活してしまった、と?」
「私は、そう考えるべきだと思っています。ですから見た目は書物のとおりですが、――魏嬰は魏嬰です」
魏無羨は藍忘機が自分の味方をしてくれていることに安心した。今までどこに行っても、どこにいても、誰も自分の味方になった者などいなかったので、魏無羨は少しくすぐったい気持ちになった。
「藍湛、ありがとう。――でも、俺は自分の役割を心得ているつもりです。もともと俺は乱葬崗で死んでるはずだし」
「……魏嬰」
暗に自分が供犠となる身の上だということをほのめかした魏無羨を、藍忘機は心配そうに名を呼んで制した。藍曦臣が口を開いた。
「魏公子。暫くここにいてまずは気を養って。それから、なぜ君が復活したか、忘機と共に真相を探るといい。忘機、いいね?」
「はい、兄上」
「ありがとうございます。藍湛には迷惑をかけないつもりです」
「うん。忘機、魏公子のお世話を頼むよ」
「はい」
静室に帰りながら、魏無羨は藍忘機に尋ねられた。
「君は、自分が何者か知っていたのか?」
「ん、そうだよ。生き返った時に何となく分かったんだ。――お前を巻き込んじゃったのは想定外だったけど……。黙っててごめん」
「私に謝る必要はない。もともと君が私を助けてくれたんだ」
藍忘機はそっと魏無羨の尾を撫でた。魏無羨は予期せぬぞわりとした感覚に、思わず叫びそうになった。
「――ひゃんっ!!」
「す、すまない……!」
「藍湛! びっくりしちゃったよ。ここは大騒ぎしちゃいけないんだろ?」
「君がそんなに驚くとは思わなかった。騒ぐことは、家規で禁じられている」
魏無羨は予期せぬ驚きに、自分の尾が増えていることに気付いた。
「ああ、もう。驚いて九尾に戻っちゃったじゃないか。折角変化してたのに」
藍忘機が叱られておろおろしていると、魏無羨は尻尾を一本に変化させて藍湛の腰に手を回した。
「大丈夫だよ。ちょっと驚いただけだから。――あ、そうだ、藍湛。ちょっと申し訳ないと思うなら、どこか連れて行ってよ。姑蘇は初めてなんだ」
「夜狩はまだだめだ」
「分かってるよ。夜狩じゃなくたって、見るところはあるだろ? ――酒も飲みたいし」
魏無羨は、ずっと藍忘機の腰に手を回して話しかけ続けたので、道行く藍家の弟子たちから不思議な目で見られ続けた。それに気付いた藍忘機は少し困った様子だったが、邪険に扱うのも憚られたのでそのまま静室に戻った。
「藍湛、……どうしてずっと黙っているんだ?」
魏無羨は、最後に物見遊山と飲酒に関する質問をした後から藍忘機が黙っていたことを気にしていたらしい。藍忘機は静室の文机の前に腰かけてから、ようやく口を開いた。
「――見るところは、ある」
「やった! ありがとう藍湛。どこでもいいよ!」
「――それから、酒は……家規では禁じられているが、君は客人だ」
「本当か! よかった。加護のお蔭かお前の家の薬のお蔭か分からないけど、もうすっかり元気だから、退屈は嫌なんだ」
文机の向かい側の円座に座る魏無羨が喜んで尻尾を振る様子を見て、藍忘機は心が和んだ。
「魏嬰」
「ん? なんだ? ――ああ、尻尾が気に入ったのか?」
藍忘機は、魏無羨の長くて太いふさふさの尻尾が揺れるのをつい目で追ってしまっていた。
「――先ほどのように失礼をしては申し訳ない」
「さっきのはお前が悪いんじゃないよ。俺がちょっとびっくりしただけ。おいで」
魏無羨は尻尾の変化を解くと、文机を挟んで向こう側にいる藍忘機を呼んだ。
「ほらほら、好きなだけ触っていいよ。撫でてみて?」
「いいのか?」
魏無羨は藍忘機の声に喜色が混じるのを聞いて、すっかり嬉しくなった。
「ハハッ、もちろんだよ。お前はいつも無表情だけど、以外にこういうのは好きなんだな」
藍忘機は恐る恐る魏無羨の九本の尾のうちの一本に触れた。ゆらゆらと揺れるそれはふかふかで、思わず藍忘機は顔を埋めた。そこは陽だまりの香りを纏っており、漆黒の毛並みは艶やかで美しい。
「すごい……」
「アハハハ! お前、狐に触るのは初めてか?」
「うん」
魏無羨が振り返ると、藍忘機は少し恥ずかしそうに魏無羨を見た。藍忘機の耳朶が僅かに朱に染まっていて、魏無羨は藍忘機のことが少しかわいらしく思えた。
「いいよいいよ、好きなだけ触れよ」
魏無羨が言うと、藍忘機は魏無羨の九尾をかき分けて、その間に自らを埋めた。
「っ。――あたたかい……」
「ハハハ、こんなに俺で遊ぶ奴も初めてだよ。藍湛って面白いな」
「私は、私が……面白い?」
「うん。お前は俺のことを嫌わないし、怖がらないし。俺が九尾の魔狐だって分かってるのに俺のことを追い出さないしさ」
「魏嬰」
「そうだ、俺は魏嬰、魏無羨だよ」
「うん」
藍忘機はひと際やさしい声で返事をして、魏無羨の尾を撫でた。
翌日、魏無羨は藍忘機に案内されて、姑蘇郊外にある花園に向かった。魏無羨は耳を半分ほど覆う布の先についた房飾りを揺らし、うきうきしながら藍忘機の隣を進んだ。加護のお蔭もあり、すっかり魏無羨は体調も気力も万全となっていた。
「藍湛、どんな花が咲いているんだ?」
「季節の花だ」
「俺は姑蘇の花が知りたいんだけど」
魏無羨は少しむすっとしながら返事をしたが、藍忘機は柔らかな表情で魏無羨を見るだけだった。
「魏嬰、今は秋だから――葉の方が美しいかもしれない」
「は?」
「見て」
花園の近くの見晴らしの良い場所で、魏無羨は藍忘機が指を差した方向を見た。雲深不知処は松や竹の他に、花をつける植物は木蓮の木ぐらいだったので分からなかったが、花園の木は紅葉をするものが多く、赤や黄色に彩られていた。
「すごい! 藍湛、こんなすごい紅葉は初めて見たよ!」
「うん」
「俺、今まであんまり季節のこととか考えないで生きてたのかもしれないな。藍湛、なあ、あの一番赤い葉っぱの木、もうちょっと近くで見たいよ」
「行ってみよう」
魏無羨は駆け足で花園の中に入り、一本の楓の木に近付いた。真っ赤な葉を見た魏無羨は目を輝かせてぴょんぴょん飾りを揺らしながら飛び跳ねた。藍忘機は後からゆっくり歩いてきて、後ろから彼を抱き抱えた。
「近く見えるか?」
「アハハハ! 藍湛、全部赤いや」
「君は紅葉が良く似合う」
魏無羨は藍忘機に言われてにっこりと笑顔になり、地面に降ろされても上機嫌で園内を歩いた。藍忘機は、魏無羨がどんな些細な発見も報告してくるので、退屈せずに秋の花園を歩くことができた。
「この葉は黄色い」
「これはずっと黄色いまま葉を落とす」
「こっちの赤もいいな」
「うん」
「これは橙色なのか」
「珍しい木だ」
「これは実が付いてる」
「この実は食べると痺れてしまう、気を付けなさい」
「藍湛は物知りなんだな」
「雲深不知処は学問で名を馳せている。あとは音律」
「へえ。だから琴を持っているんだな! ちょっと弾いてよ。俺も笛を吹くから」
魏無羨が帯の間に挟んでいた陳情を取り出した。あの時のような禍々しい気配はなく、一品霊器であることは間違いないものの、それはただの上等な笛に見えた。藍忘機も琴を出した。魏無羨が柔らかな秋の景色を音に乗せて奏でると、藍忘機もそれに合わせて琴を奏でる。
一通り演奏して満足した魏無羨は、笛から唇を話した。藍忘機の微笑と目が合い、自然と笑みがこぼれた。
「藍湛は琴も名手だな」
「君の笛もなかなかだ」
「俺は……笛なんてこの間生き返るまで吹いたことなかったよ。でも才能があったんだな。ハハハ」
笑った魏無羨が赤や橙の間の空を見上げると、秋晴れの空に五色の彩雲がたなびいていた。
「藍湛! 雲が……」
「あれは瑞雲と呼ばれる」
琴をしまった藍忘機が答えた。
「へえ、いいことあるといいな!」
二人は再び、落ち葉の小道を歩いた。
数日後、藍忘機は魏無羨を連れ帰ってから何度か目の夜狩に出ることにした。
「魏嬰、君も付いてくるか?」
「もちろんだ。夜狩をしていれば、何か分かるかもしれない」
「気をつけて」
「分かってるよ。もう何度か一緒に出ているし、大丈夫だ」
加護のついた飾りを外して動きやすい格好になった魏無羨は、身軽になって少し落ち着かなかったが、その日の夜狩にも手こずることはなかった。
姑蘇のとある村の山に羅刹鳥が出るというのでやって来た二人は、村人の話の通り古い墓地から山に入り、中腹辺りで灰色の体の鶴に似た鳥がいるのを発見した。墓地の死体の陰の気が積もって妖怪となった羅刹鳥は、その鉤のような嘴と白く大きな爪で人を襲うという。
「あれだな?」
「うん。君は下がっていなさい」
「藍湛、俺が注意を引くからその間に剣で仕留めたほうが確実だ」
「……分かった」
藍忘機は静かに移動して、羅刹鳥の背後に回った。それを見た魏無羨が笛を吹くと、驚いた羅刹鳥がけたたましい鳴き声で鳴き、魏無羨に向かって走ってきた。魏無羨は笛を吹き、羅刹鳥の邪気を吸い込む。頭の中に怨念が響き渡ったが、目を閉じて集中すればどうということはない。再び目を開いて羅刹鳥に意識を集中させ、魏無羨は笛を吹き続けた。羅刹鳥が弱った一瞬の隙を藍忘機の剣は過たず、剣芒が首を刎ねた。
「魏嬰」
魏無羨が気付くと、藍忘機が魏無羨の腕を掴んでいた。妖しく光っていた瞳が元に戻るのを見て、藍忘機は再び魏無羨を呼んだ。
「お、もう仕留めたのか?」
「うん」
「さすがだな。検分はしなくていいのか?」
「する」
二人は羅刹鳥が息絶え消滅するのを確認すると、山を下りた。麓の村に戻り、村長に簡単に報告を済ませて雲深不知処に戻ろうとすると、二人は走ってきた村長に引き留められた。
「お待ちください、修士様」
二人が振り返ると、村長はぺこぺこ頭を下げながら言った。
「あの、お願いしたいことがあるのです」
「ん? どうしたんだ、そんなに慌てて」
魏無羨が尋ねると、村長は顔を上げて息を整えて言った。
「実は、清河の方で道士をしている親類がいるのですが、――行方不明に」
二人は顔を見合わせた。村長は話を続けた。
「彼の家族の話では、『夜狩で清河の城外の森に行く』という話だったのですが、どうやらそこから帰ってこない玄門の者は、うちの親類だけではないようなのです」
「けれど、清河にも大きな仙門の奴がいるだろう? そいつは何もしてないのか?」
「聶家という家が一番大きな仙門の家なのですが、そこの宗主は元々あまり修行に興味がなく……どうやら、頼れる家に助けを呼んでいるようなのですが………」
魏無羨が藍忘機を見ると、藍忘機は頷いた。
「兄上のところに救援要請が来ているかもしれない。魏嬰、我々も清河に」
「そうだな」
二人は近所の街に一泊することにして、そのまま清河に向かうことを手紙に記し、鳩を飛ばした。
「藍湛、宿に泊まるなんて初めてだよ」
「そうか」
魏無羨はただの狐だった頃から野山をねぐらにしていて、九尾の魔狐となって人間のような姿となった今も、雲深不知処に来るまでは洞穴や木のうろで寝ていた。宿の部屋に入った魏無羨は案の定部屋を隅から隅まで見て回り、安心するとござの上に腰を下ろした。
「藍湛、清河ってどのあたりなの?」
「北西だ」
藍忘機は明日中には清河に辿り着けると手短に説明した。そうこうしているうちに食事が運ばれてきて、魏無羨は見たことのないご馳走に目を輝かせた。
「藍湛、出してもらっている以上文句は言えないけど、お前の家の食事は何とも言えない味がするよ。全部野菜だし」
「魏嬰、食うに語らず」
「はあい」
魏無羨は宿の食事には肉や魚がきちんと入っていて、味もしっかり付いていることに内心で感動した。たくさん食べてすっかり満足したところで、上品に食事を食べていた藍忘機も食事を終えたようだ。
「もう喋っていいか?」
「うん」
「――さっきの続きなんだけど」
「姑蘇藍氏は龍神の血を引く一族だと言ったが、初代宗主の道侶はもともと僧侶で、還俗して楽師になった者だ」
「……それであんなに、白か緑で、何とも言えない味の食事が出てくるのか。いや、お前の家の食事が悪いというわけではない。ただ、俺の口には……ちょっと合わないなあって」
藍忘機が機嫌を損ねるかと思った魏無羨であったが、藍忘機は否定も肯定もしなかった。
「なあ藍湛、酒飲んでいいか?」
「過ごさない分には」
「やった。下に行ってもらってくるよ」
「私が行こう。君は待っていなさい」
藍忘機は部屋を出ていくと、すぐに酒と酒器を持って戻って来た。
「――早かったな。藍湛、お前の家は禁酒だろう? いいのか、酒器が二人分あるけど……」
魏無羨は何も返事をしない藍忘機の盃にも酒を注いで、自分の分を一気に呷った。
「はぁ……! この酒は美味いなあ。姑蘇は水が豊かでいい場所だけど、酒も美味いのか!」
藍忘機はその様子を見て、魏無羨と同じように酒を飲んだ。
「ふふん、ひょっとして雲深不知処の外ではお前も酒を飲むのか? ハハハ、龍神の末裔様の酔ったところを見れるなんて光栄だよ」
魏無羨はそうやって藍忘機を揶揄ったが、当の本人は何も言い返さず、ううんと唸って眉間を指で押さえた。
「え……? あれ………? 藍湛、おい、藍哥哥!」
魏無羨の呼びかけにも応じず、藍忘機はたった一杯の酒で酔いつぶれてしまった。寝息が聞こえてくると、魏無羨はまさかの事態に頭を抱えた。
「困ったなあ。――九尾の魔狐が龍神様の末裔を酔い潰すなんて……これは封印されても仕方ないことをした」
少し様子を見ていると、藍忘機は顔を上げた。起きたらしい。
「ああ! 藍湛、起きたのか!」
「起きている」
「うん、あのさ……さっきは」
「尻尾を出して」
「へ? ああ、いいけど……」
魏嬰は藍忘機に言われるがまま変化を解き、九つの尻尾を出した。藍忘機はそれに近寄り、魏無羨の尻尾をまとめて抱きしめた。
「おい……酔っているのか?」
藍忘機は何も答えず、ひとしきり柔らかな魏無羨の漆黒の尻尾を愛でていたが、途中でぱっとそれを止めた。
「亥の刻だ。寝よう」
「おい、お前、前から思ってたけどびっくりするくらい早寝だよな」
「亥の刻に就寝、卯の刻に起床」
「……藍湛、いつもは俺のことを放っておいてるだろ?!」
雲深不知処にいる時、藍忘機は魏無羨を牀榻に寝かせ、自身はござの上に布団を敷いて寝ていた。藍忘機が勝手に寝るのを尻目に、魏無羨は夜中が更ける頃まで本を読んで過ごしていたのだが、今日はいつもと違っていた。なんと、藍忘機は額の抹額を外して魏無羨の手首に巻き付けて結ぶと、腕と腕で出来た輪の間に自分の頭をくぐらせ、そのまま抱きかかえて牀榻に連れて行ったのである。
「おいおい、本当に寝るのか?」
「うん。君も」
藍忘機は魏無羨を抱えたまま、自分ごと牀榻に寝転んだ。仰向けになった藍忘機の上に、魏無羨がうつぶせで乗ると、魏無羨はどういう訳かそのまま動けなくなった。
「お前、まさか……動きを封じたのか?」
藍忘機の返事の代わりに、すうすうと穏やかな寝息が聞こえてきて、魏無羨はため息をついた。しかし、彼の胸の上は今までに眠ったどの場所よりも居心地がよく、魏無羨は彼の首元に手を回したまま眠気に身を任せた。
翌日。魏無羨が目を覚ますと、中衣姿の彼は布団を掛けられて寝ていたことに気付いた。手を縛り上げていた抹額も外されており、手首にその痕だけがくっきりと付いていた。
「魏嬰」
「おはよう藍湛……。よく眠れたか?」
「――私は、昨日何を……?」
「ああ、何もしてないよ。ただ俺を抹額で縛って遊んでた。覚えてないのか?」
魏無羨が言った瞬間、藍忘機は信じられないといった表情で魏無羨を見た。
「私は……。魏嬰、手首を見せなさい」
「何も覚えてないなら仕方ない。見てみろ、こんなに赤くなってる」
「っ、……薬を塗る」
自分よりもよっぽど痛そうな表情をした藍忘機に、魏無羨は思わず笑ってしまった。
「ハハ、大丈夫だよ藍湛。お前が少し酒を飲んでも、お前の威厳が地に落ちることは無い。俺は別に誰かに言ったりしないし。そもそも縛った以外のことは何もしてないぞ」
「本当に私は何もしてないのか?」
「ああ、そうだけど?」
魏無羨が不思議そうに首を傾げると、藍忘機は無表情のまま薬を塗った。魏無羨ははじめ、藍忘機が怒っているのかと思ったが、やさしい手つきで丁寧に薬を塗られて心がむずむずした。
「滲みるか?」
「ううん。もう痛くないよ」
藍忘機はようやく安心した表情となり、魏無羨の頭を撫でた。魏無羨は、髪紐だけは夜狩の時も藍忘機がくれたものを離さず着けていて、彼は今日も変わらず藍忘機に髪を結い直してもらった。
「できた」
「ありがとう。それじゃあ出発だな!」
二人は何事もなく、清河の聶氏が暮らす不浄世の街に辿り着いた。
「沢蕪君から返事は来たの?」
「うん。やはり聶宗主から救援依頼が来ているそうだ。兄上は、私が行くと伝えてくれた」
魏無羨は茶屋で菓子を食べると、満足した様子で頷いた。
「そうしたら、どんな厄介な屍霊でももう大丈夫だな。藍湛と俺がいる」
「うん」
二人は茶屋を出て、清河聶氏の宗主である聶懐桑のもとを訪ねた。彼は藍忘機と共にいる魏無羨を見て、はじめ少し恐れている様子だったが、次第に平静を取り戻した。
「あわわわ、含光君! どうしてあなたが、彼と一緒に……?」
「恐れる必要はない。危害を加えるようなことはしない」
「は、はあ……。初めまして。狐の血を引く方は初めて見ましたよ。私は聶懐桑。清河聶氏の宗主です」
「俺は魏無羨。よろしく」
藍忘機は簡単に自分たちが訪れた経緯を説明した。聶懐桑は一通り聞いて、溜息を洩らした。
「もう姑蘇の方にまで被害が出ているんですね……。本当に申し訳ありません」
「彼らも修行をしている以上、覚悟はしているはずだ」
藍忘機が言うと、聶懐桑は覚悟を決めるように深呼吸を何度かして、口を開いた。
「――実は、兄の刀と共に封印していた陰虎符の欠片が……ひと月ほど前、盗賊に封印を解かれてしまったんです」
「陰虎符だと?」
藍忘機の問いかけに、聶懐桑は頷いた。
陰虎符は、前の世の夷陵老祖が作った法器の一つで、持つ者が誰であっても妖魔奇怪を操ることができるものだ。数百年前、死に際の夷陵老祖が屠戮玄武を封印するにあたって利用した後、半分を壊して共に贄となった。しかし残されたもう半分は、極めて危険な法器としてこの世に残ってしまっていたのだ。仙門世家の者たちは壊すことが叶わず、極めて強力な呪いをかけてもう半分を封印することになってしまった。その封印場所の管理を代々担っていたのが清河聶氏であったのだが、盗賊に入られてしまったのだという。
「迷陣を敷いていたのではないのか?」
「ええ、本当に警備は万全だったんです。でも、偶々修為の高い修士が夜狩に来ていたみたいで。盗賊に騙された彼が封印を解いてしまったみたいなんです……」
その後、封印を破った修士と盗賊一味は陰虎符の闇の力によって全員死亡。彼らを探しにきたり、あるいは彼らが盗もうとしていた宝の噂を聞きつけた者たちも山に入ったが戻ることは無かった。
「慌てて陰虎符が山の外に出ないようにはしたんです。けど……山のどのあたりにあるか分からないし、放置されたままの死体が凶屍になってるかもしれなくて……ああああ! どうしよう……どうしよう………私は、もう知りません! 知らないです!」
「魏嬰」
半狂乱になりそうだった聶懐桑を聶家の者に任せ、藍忘機は魏無羨を見た。
「ああ、行ってみよう。恐らく俺が復活した原因も分かるよ。聶宗主、俺と含光君がいるからにはもう大丈夫だ」
「俺が復活?! ああ、あなた! やっぱり九尾の魔狐……夷陵老祖なんですか!? 本で見ただけだけど、黒い狐の先祖返りなんてそうそういないんですよ! ああ、どうして、どうしてあの時陰虎符を全部壊してくれなかったんですか……?」
魏無羨は藍忘機に小声で告げたつもりだったのだが、一問三不知と名高い割に、耳は良い聶懐桑には聞こえていたらしかった。魏無羨はまずいと思ったが、素直に事情を説明した。
「聶宗主。それなんだけど、俺にも事情があって……。見た目は夷陵老祖なんだけど、前世の記憶が無いんだ。でも、ちょっと見てくるよ」
「本当に、お願いしますね? 何かあっても僕を恨まないでください! あなたの復活は口外しないので!」
藍忘機は泣き喚く聶懐桑に一礼すると、魏無羨と共に聶懐桑の屋敷を辞した。
「やれやれ、思ったより大変なことに巻き込まれちゃったな」
どんよりとした雲の下、魏無羨は藍忘機にぼやいた。
彼はどうして自分が九尾の魔狐の呪いを被ってしまったのか分からないし、誰を封印するべき贄なのかも分からないまま、今度は前の世の九尾の魔狐の作った法器をどうにかしてほしいと言われ、分からないことだらけのまま厄介ごとばかりを背負わされていることに気付いた。
「魏嬰、君が目を覚ましたのは?」
「ひと月くらい前……。ああ、ちょうど陰虎符の封印が解けた時期だ」
「うん」
「俺の復活の原因は、きっとどっかの罰当たりな泥棒が、優秀な修士をそそのかして陰虎符の封印を解いちゃったことなんだろうな。泥棒は刀や副葬品狙いで、まさか陰虎符の存在は知らなかっただろうけど……困ったちゃんだよ、全く」
「魏嬰、陰虎符は私も書物でしか知らない。気をつけて。私から離れないように」
「うん。藍湛も気をつけろよ。いくら修為が高くて実力も誉れ高い含光君と言えど、山に近付くほど変な気配がする」
山は紅葉を終えてすっかり寂しいものになっている上、魏無羨の指摘通り近付けば近づくほど陰気が強くなっている。藍忘機は避塵をいつでも抜けるように警戒しつつ、山に向かう道を歩いた。
一刻ほど歩いた先で、藍忘機は、結界の中に入った。魏無羨もそれに続く。陰気は更に濃くなり、藍忘機は時折魏無羨の様子に変化がないか確認したが、幸い彼に異常は見られなかった。
「結構歩いたよ。そろそろ祭刀堂なんじゃないか?」
「うん、あそこだ」
聶家の祭刀堂は、元々刀を扱う聶家の代々の当主の刀霊を祀るために建てられた。強力な刀霊が主の死後も戦いを求めることを利用して、陰虎符の封印をしてきた場所である。
ほどなくして、目視で分かるほどに黒々とした陰気が二人を囲んだ。
「魏嬰」
「藍湛、これは結構やばそうだ」
藍忘機は剣を構え、魏無羨は笛を構えた。飛鳥のような音を鳴らし、まずは周囲の陰気を鎮めようとした。しかし、収まろうとしない。
「陰虎符の力の方が強い! 藍湛、まずは陰虎符がどこにあるか探した方が良い」
「うん」
刹那、どこからともなく襲い掛かって来た凶屍を藍忘機は剣で滅した。
「まずい、凶屍も彷屍も多すぎる! 藍湛、こいつらを任せて良いか? 俺が陰虎符を探す。作ったのが俺なら、多分俺の前には出てくるはずだ」
「――魏嬰!」
藍忘機は剣で大量の凶屍をさばきながら、魏無羨を呼んだ。
「大丈夫だ。すぐ戻る」
藍忘機は迫りくる凶屍がまだ終わりそうにないのを認めると、琴を出して音律で鎮める策に移った。
魏無羨は祭刀堂の中に入り込んだ。中は陰気に満ちていたが、魏無羨は不思議と落ち着くような心地がした。祭刀堂の中には聶家代々の宗主の持っていた刀が眠っており、刀霊と陰虎符が共に封印されることで、長らくの間世の平穏に貢献してきたのだという。
魏無羨が耳をそばだてると、奥の鉄扉の向こうから異様な音が聞こえた。刀と、何か金属がぶつかるような音である。
「間違いない。あの奥だ。――早くいかないと藍湛が大変だ」
魏無羨は迷わず鉄の扉を開けた。
重く閉ざされたそこには、事の発端となった盗賊や彼に騙された修士の死体が倒れた時のまま転がっており、魏無羨は死臭を感じて鼻を覆った。中に一歩踏み込んだ魏無羨の足元に、黒い邪気が纏わりついた。その瞬間、叫び声が頭をつんざくように轟いた。悲鳴と、呻き声の塊。悲しみ、怒り、憎しみ。魏無羨は様々な感情にどうしていいか分からなかったが、なんとか笛を構え、息を込めた。その時、彼をめがけて手のひらの半分ほどの大きさの欠片が飛んできた。思わず手でつかむと、魏無羨は今まで感じたことのない感覚に襲われた。猛烈な陰の気に自らが支配されるような感覚を覚え、そして体中の痛みを感じたが、それは一瞬だった。
「――魏無羨、ハハハ、お前には手こずったよ」
頭の中から声が聞こえた。
無尽蔵の凶屍や彷屍がようやく片付いたとき、藍忘機は魏無羨がいつまで経っても祭刀堂から出てこないことに気付いた。
「魏嬰!」
藍忘機が祭刀堂に入ろうとしたその時、前から誰かが歩いて来る。藍忘機は、ぞわりと肌が泡立つのを感じた。
「――ハハハ、お出迎えありがとう、龍神の末裔。この狐を騙して、陰虎符を手に入れようとしたのか? それとも、また何かを封印するのに、俺を使うのか? 勘弁しろよ。妖魔奇怪を封印するなら、邪術を人の道に使う俺を殺してもいいとでも思っているのか?」
藍忘機はすぐさま目の前の者が魏無羨ではなく、夷陵老祖であることを悟った。よく知っている愛嬌のある狐の顔貌をしているにもかかわらず、九尾の魔狐はおぞましいほど美しく、どことなく不安を覚える色香を纏っており、藍忘機は寒気を感じた。
「魏嬰をどうした」
「ああ、黒狐ちゃんなら寝てもらっているよ。折角復活したんだから、俺は今まで封印を名目に俺をいたぶってきた奴らに復讐する。これを使えば復活した妖魔も操れるかもしれないしな。――龍神の末裔、そこを退くなら見逃してもいい。だが、見逃さないなら俺の肩慣らしに相手しろ」
藍忘機はすぐに琴と刀を構え、夷陵老祖が笛を鳴らして呼び出した凶屍に立ち向かった。
「魏嬰!」
藍忘機は、絶え間なく琴を鳴らして凶屍を跳ね除け、夷陵老祖を追った。既に体力も霊力も消耗しているところに襲い掛かる凶屍目がけ、琴から一閃を放つが、既に指からは血が流れている。
「中々腕が立つじゃないか!」
夷陵老祖はついに追いついてきた藍忘機の剣を笛で受けた。光と闇の力の静かだが重厚な衝撃が双方を襲う。その刹那、夷陵老祖は突然顔を顰めた。
「魏嬰!」
「――っ、黙れ! 失せろ!」
突然錯乱し始めた夷陵老祖の急所に、藍忘機は躊躇せず剣の柄を当てた。思いきり跳ね飛ばされた夷陵老祖の手から離れた陰虎符の欠片を、彼は持っている中で最も力の強い乾坤袋に残りの霊力を振り絞って封印した。
辺りは、再び静けさを取り戻した。
「魏嬰、魏嬰……っ!」
気を失った九尾の魔狐からは、既に夷陵老祖の禍々しい気配がなくなっていた。安心したのもつかの間、藍忘機は勢いよく咳込むと、血を吐いた。先ほど暴走した魏無羨……夷陵老祖が放った陳情の闇の力の衝撃は少なからず藍忘機の霊脈に傷を与えていたらしい。
「含光君! 今すぐ九尾の魔狐から離れてください!」
藍忘機は聞き覚えのある声に、背後を見た。よく見知った姑蘇藍氏の弟子たちと、藍啓仁、そして藍曦臣がいる。
「忘機。今すぐその狐から離れろ。――奴がどれほど危険か分かっただろう」
藍啓仁がそう言うと、藍忘機は首を振った。
「しかし、もう陰虎符はここにあります。彼は……陰虎符を手にした際に、少し暴走しただけです」
藍忘機は陰虎符の入った乾坤袋を藍啓仁に預けた。しかし、藍啓仁の怒りは収まらず、藍忘機に怒鳴った。
「忘機。お前は口答えするのか! お前はこの狐に殺されかけたんだぞ! 今すぐこの狐を連れ、動けないようにして……九嬰の封印の贄にせねばなるまい!」
「叔父上、今何と申しましたか?」
藍忘機が聞き直すと、藍啓仁は顔を顰めて言った。
「北方で九嬰が復活した。三百年の陰虎符の封印が破られ、九尾の魔狐も復活した。全ては――九嬰が引き起こした厄災だったのだ」
九嬰とは、北方の凶水と呼ばれる川に住んでいた妖獣である。九つの頭を持ち、それぞれの頭から炎を吹いては火事を、水を吐いては洪水を引き起こし、赤ん坊のような声で鳴くのでそういう名がつけられた。上古凶獣とも呼ばれている。太古の昔に封印された妖獣が、なぜ今になって復活したのかは分からない。しかし、これでなぜ九尾の魔狐が復活したのかは明らかになった。
しかし、九嬰が復活したことを聞いても、藍忘機は彼の叔父と兄、そしてたくさんの弟子の予想に反して魏無羨から離れようとしなかった。藍忘機は考えていた。目の前で気を失っている魏無羨は、果たして笛を吹き妖魔奇怪を操る、あの危険極まりない九尾の魔狐なのだろうか。そして、藍忘機はさっき対峙した夷陵老祖が言っていたことにも気にかかることがあった。
「叔父上、一つ聞きたいことがあります」
「何だ」
「彼は、本当に悪さをしたのですか? ――邪を操るだけで罪を負わされ、何代も贄になってきたと言っていました」
「邪を操るだけ? ――お前は今まで何を学んできたんだ? 正道の道から外れる者を助けるのであれば、お前であっても罰は免れん!」
藍家の弟子たちは、狼狽えた表情をしたままではあったが、一斉に剣を抜いた。
「お前がこの狐を信じるというのであれば、我々は力づくでもお前を連れて帰る」
「分かりました。申し開きはありません。……魏嬰を傷つけようというのであれば、私は容赦しません」
弟子たちは一斉に藍忘機に向かったが、藍忘機が一声咆哮を轟かせると、その全員が吹き飛ばされた。藍啓仁と藍曦臣も暫く立てないまま、魏無羨を抱える藍忘機を見ていることしかできなかった。
「彼を休ませるために姑蘇に戻ります。――罰は戻ってからお与えください」
(つづく)