瑞雲遠飛④(途中) 九嬰は秋の終わりに復活したため、初雪が降ってからは寒さのせいで凶水の源流の洞窟に引きこもっている。しかし、活動が活発だった僅かな時期に、源流の山の麓の村々は焼き払われるか洪水に見舞われ、生の気配を失っていた。魏無羨と藍忘機は、村々だったはずの雪原を何も言わずに見下ろした後、洞窟に入った。
洞窟は暗く、今までで一番強い邪の気配がした。藍忘機は魏無羨の手を取り、ゆっくりと奥へ進んだ。
「大丈夫か?」
「うん」
二人が細い道を抜けると、広く洞になっている場所に出た。奥の方が池のようになっていて、その奥に九嬰はいた。まだ妖獣は二人が来たことには気づいておらず、長い首を器用に折り曲げ、胴体に頭を下ろして休めている。蛇や蜥蜴のようにも見える生き物の皮膚は黒く、頑丈だということは一目で分かった。
二人は一度洞を離れ、どのように九嬰を討伐するか話した。
「俺が思うに、あそこには殆ど日が差していないから火を吹くことは無いと思う」
「私もそう思う。ただ、恐ろしいのは水だ」
「あの水は洞窟の中にあるから凍っていないんだ。でもかなり冷たいと思う。長い首で絞められて沈められれば助からない。あるいは流し出されるという危険もあるな」
「うん。奥にねぐらがあるようだった」
「こりゃあ逃げ込まれたら長期戦になりそうだ」
二人は、まず魏無羨が邪を操り九嬰の動きを封じ込め、隙を突いて藍忘機が弦殺術で仕留めるという作戦に出た。陳情で直接九嬰の動きを封じられればそれに越したことはないが、天地創造より永らえてきた妖魔を従わせることは至難である。
二人は一度麓の村があった場所まで下りた。魏無羨が陳情を吹く。村は、滅ぼされてすぐに雪に覆われたらしく、雪の中から何体もの死体が起き上がり、笛を鳴らす魏無羨についてきた。
「よし、お前たちを滅ぼした九嬰を討伐するからちょっと手伝ってくれよ」
「魏嬰」
「藍湛、お前はこんなの絶対受け入れられないと思うけど、今はこれしか方法がないんだよ」
「無理しないように」
「ハハ、なんだ俺の心配か。ありがとうな」
雪のお蔭で腐っていなかった死体たちは、魏無羨に従って洞窟まで戻ってきた。彼らは九嬰に殺されて凶屍になったものの、猛吹雪の中動けずに凍っていたらしい。藍忘機が術で温めてやると、ぎこちないながらも動くことができた。魏無羨はあまり邪気の影響を受けることなく山を登った。彼は、何日もこの山で過ごすうちに邪気に慣れてきていた。
「よし、それじゃあやるぞ。――『九嬰を押さえろ』」
洞窟の入り口で笛を吹くと、凶屍たちは洞窟の中になだれ込んでいった。魏無羨と藍忘機もその後に続き、九嬰のいる洞に走る。何度か赤子の鳴き声を十倍にしたような耳を塞ぎたくなる悲鳴が聞こえた。九嬰が鳴いているのだろう。
「藍湛」
「うん」
二人も洞の中に入った。おびただしい数の凶屍が九嬰を取り囲むが、凶屍たちは九嬰の九つの頭に次から次へと首をもがれていってしまう。九嬰の首は俊敏にあちこちを動くため、弦殺術の狙いを定めるのが難しい。
「――琴を出す」
「分かった。俺もやる」
藍忘機が琴を出し、魏無羨も再び笛に唇を付けて凶屍を援護しようとしたが、その時、耳をつんざくような声がして、首の一つが藍忘機目がけて突っ込んできた。慌てて避けたものの、九嬰がついに二人の存在に気付いてしまったのだ。そこら中に散乱した凶屍だったものより二人に興味を持った九嬰は、身体全体を大きく振り回し、水から上がった。
「魏嬰!」
水から上がった九嬰は、長い首を縦横無尽に伸ばして魏無羨と藍忘機を追いかけた。二人は物凄い速さで洞の中を動き回る九嬰の首に分断された。藍忘機が魏無羨を襲う首を剣と琴で斬るが、無魂無魄の妖獣は一つ首を斬るだけでは容易に再生してしまう。藍忘機は一度剣を取り戻すと、九つの首がまとまっている一瞬を目がけて琴の一閃を放った。しかし、それよりも九嬰の首の一つが早く動き、逃げる魏無羨に迫った。
「魏嬰!!」
「――っ!!」
魏無羨はその瞬間、何が起きたか全くわからなかった。蛇のような首の一つが、光の玉のように自身を目がけて飛んできて、避けたと思ったら違う首に体当たりをされたのだ。毬のように勢いよく飛ばされた魏無羨は、地面にたたきつけられると、ぐったり動かなくなった。
「魏嬰っ……!!」
藍忘機は心臓がつぶれるような気分になり、我を忘れて魏無羨に近付こうとした。しかし首は藍忘機に狙いを定めたらしく、次々と突っ込んでくる。走り、飛び、応戦して何とか避けるが、なかなか魏無羨に近づけない。気を失った彼がもしも九嬰に食べられてしまいでもすれば、そう思うと今にも取り乱してしまいそうだった。彼は咆哮を轟かせると、一瞬怯んだ隙に気を失った魏無羨を抱えて、洞から出るべく駆け抜けた。
「魏嬰、しっかりしなさい……!」
九嬰が通り抜けられない道の奥まで来ると、藍忘機は必死に魏無羨に呼びかけた。
どのくらい時が経ったのか分からなかった。けれども何度も鼓動の音を聴き、気が遠くなるくらいの霊力を彼に与え続けた。
「う……」
「魏嬰!」
「ん、……んん…………っ! は! おい、ここは?」
腕の中で数回唸った後、魏無羨が目を覚ました。しかしそれは、魏無羨ではなかった。
「……夷陵老祖」
「あ! 龍神の末裔! おいお前!! こんな弱っちい狐ちゃんが、俺の代わりなんてできるわけないだろ!」
夷陵老祖は藍忘機の腕から抜け出すと、さっき重傷を負ったはずなのにも関わらず藍忘機に説教を始めた。以前清河で彼が出現ときには体中から邪気を放っていたが、今は全く雰囲気が違う。藍忘機はあっけにとられたまま、ちょうど初めて魏無羨に会ったときのように髪を緩く纏め直した夷陵老祖を見た。
「君は……」
「清河の時は悪かった。――話すと長くなるが、お前もそんなんじゃ弦殺術の威力も出せないだろう。休戦撤退するぞ。全く狐ちゃんってば、無理しやがって……」
夷陵老祖はぶつぶつ喋りながら、藍忘機と猟師小屋に戻った。夷陵老祖は一向に喋るのを止めなかったが、ついにどっかりと猟師小屋の毛皮の上に座ると、藍忘機を呼んだ。
「龍神の末裔。――これは俺の三百年ぶり三十三回目の妖獣封じだ。お前が陰虎符を封じたことに免じて手伝ってやる」
「君は……夷陵老祖。なぜ君は、奪舎しては贄になることを繰り返している?」
夷陵老祖は、よくぞ聞いてくれましたと言いたげに手の中の笛を器用に回した。魏無羨はそんな動作をしなかったので、藍忘機は今話している相手が魏無羨でないことを嫌でも受け入れざるを得なかった。
「昔の天罰だ。ええと、清河では悪かったな。俺も三百年ぶりの陰虎符はもう制御できなかった。人間に復讐しようとしたこともあったから、その時の怨念が暴れたんだろうな」
夷陵老祖は、そのまま清河で魏無羨が暴走したときの真相を話し始めた。
「――あの黒狐ちゃんは、どうして俺が奪舎に失敗したのか分からないくらい死にかけていたんだ。でも、俺の姿で目覚めちゃったもんだから、使命感で陰虎符を探して封印しようとした。――陰虎符の力をあいつが手にしてみろ、魂魄は砕け散って粉々になってたぞ」
聶家の祭刀堂で魏無羨の手に陰虎符の欠片が飛んで来ようとしたとき、夷陵老祖は身体の自由をどうにか魏無羨から奪うことで、彼の魂が陰虎符に取り込まれることを阻止したのだった。
「でも三百年分の怨念が追加された陰虎符は、俺でも扱いきれなかった。お前が危険を顧みずに封印してくれてよかったよ。――角のこと、悪かった」
「魏嬰を守ってくれたのなら、私が礼を言うべきだ。それに、事情があったとはいえあの時は乱暴なことをした。すまない」
「いや、俺も暴走しかけていたからいいんだ。よし、この話は終わり。――それより、黒狐ちゃんのことだけど、あいつはさっき言ったように生きているのが奇跡なくらい魂魄が弱い。よっぽど苦労してきたんだろうな。お前がいなきゃ、とっくに死んでた」
藍忘機もそのことに気付いていないわけではなかった。彼は雲深不知処にいる間、魏無羨に安魂礼をするが如く自分のものよりも格の高い加護のついた装束を着せ、彼の眠る牀榻には悪夢を寄せ付けない札を貼っていた。藍忘機はそれを夷陵老祖には告げず、一言だけ返事をした。
「――私が彼に救われた」
夷陵老祖はそれを聞いて、全てを悟ったかのようににやりと笑った。
「ハハ、そうかよ。大した惚気だな」
藍忘機は耳を半分ほど赤くしたが、気を取り直して夷陵老祖に尋ねた。
「……君の話を、聞かせてほしい」
藍忘機の言葉に、三十二の妖魔奇怪を自ら贄となり封印した九尾の魔狐・夷陵老祖は、「もうあんまり覚えてないけど」と前置きした。
「俺は太古の昔、飛翔して神獣になる寸前だったんだけど、色々あって仙術が使えなくなったんだ。で、人助けをするのに邪術を使った。そしたら、俺を真似をする人が増えて、ちょっと世の中がおかしくなっちゃったんだよ。――で、天帝に呼び出された俺は、人々を混乱に陥れたとして神罰を受けた」
「その罰が、三十三度贄になることだったのか?」
「ご明察。俺は今回復活した時三百年も寝ていたからすっかり忘れてたけど、清河でお前にぶっ飛ばされて思い出したよ」
藍忘機は、書物で読んだことが全く当てにならないことを痛感した。正確な情報と言えば、夷陵老祖が過去三十二回贄になっていることくらいで、それさえも背景にある彼の事情を慮ることがなければ、全く意味のない文字の羅列である。
「……つまり君は、たったひとりで、ずっとその罪を背負ってきたのか?」
「ハハ、笑えるだろ? これで最後だから、もう赦されるとかは正直どうでもいい。さっさと封印されて、ゆっくり休みたいよ」
夷陵老祖は呆れるような口調で笑い、自分の宿命の話を締めくくった。
数刻後、藍忘機と夷陵老祖はある程度回復したため、改めて九嬰の洞窟に向かった。九嬰は一度巣穴に戻っていたようだが、再び洞の池の中に足をつけて、胴体の半分から頭までを水面の上に出している。
「殺すのはお前の弦殺術が一番いい。頼んだぞ。動きを抑えるのは俺の仕事だ」
藍忘機は黙って頷いた。夷陵老祖はそれに口元だけで笑って返事をすると、笛に息を吹き込んだ。夷陵老祖の笛の音色は、魏無羨もまずまずの腕ではあったが、それとは比べ物にならないほどのものだった。彼がもし楽師であれば、絶世の笛吹きと称賛され伝説になっただろう。鳳凰の鳴き声のような力強い笛の音は、強い邪の力をまとめ上げて瞬く間に黒い怨念の塊を作った。そしてそのまま九嬰の首を包囲する。
「ハッ、ぽっと出の妖獣ごときが、この夷陵老祖様の前で好き勝手出来ると思うなよ!」
黒い霧のような怨念の塊は、小さな叫び声やすすり泣き、怒声を上げており、それに襲われている九嬰の九つの頭はそれぞれに違う高さの声で喚いた。それはかなりの五月蝿さで、藍忘機は非常に苦痛を感じたが、すぐに自分の耳に術をかけて事なきを得た。
「龍神の末裔、これなら狙えるよな?」
「うん」
藍忘機は七弦琴の弦をひと繋ぎにしたものを袖から出して片側の端を持つと、九嬰の首に何重にも括り付けた。それが九嬰の首の皮膚を切り裂き、食いこんでゆく。
「よし、思いきり引っ張れ!」
魏無羨が言った瞬間、宙を舞った藍忘機は弦に霊力を一層込めて、九嬰の首を一挙に刎ね飛ばした。断末魔が洞窟に響き渡り、どす黒い邪気が立ち込める。
ついに、やったのだ。
藍忘機も夷陵老祖もそう確信した。しかし次の瞬間、凄まじい地響きが二人を襲った。首を刎ねたその時、最後の悪足掻きとばかりに九嬰が地を踏み鳴らし、洞穴を壊しにかかっていたのだ。
「――崩れる! さっさとここから出て封印しろ! 俺とこいつは仲良く地獄行きなんだよ!」
藍忘機は自身を突き飛ばした夷陵老祖の焦った声にはっとした。彼を、魏無羨を連れて帰らなければ。
「魏嬰!」
藍忘機は叫びながら、洞の奥の九嬰の方へと進む夷陵老祖を追おうとした。その時、夷陵老祖が振り返り、思いきり剣幕な表情で怒鳴った。
「あー、ああ! 早く離れろって! 分かった。お前の大切な黒狐ちゃんは、何年かかかるけど絶対返してやる! こんな魂魄とボロ雑巾みたいな身体じゃ今お前に返したところで三秒で葬式だよ! ――クソ、こんなこと引き受けないでゆっくり安らかに眠るつもりだったのに。ああ! お前、絶対死ぬなよ! 分かったな? それから、――こいつのこと、諦めるなよ?!」
「魏嬰……、夷陵老祖……!」
「馬鹿、早く逃げろっつってるのに! まだ喋るのか? あんなに俺の話ばっかりずっと聞いてだんまりだったじゃないか」
「……これを持って!」
藍忘機は袖から何かを出すと、夷陵老祖に投げた。反射的にそれを受け取った夷陵老祖は、受け取った乾坤袋の中を取り出した。
「…………っ、これは、角? もしかして、お前の…………?!」
「それは私の一部だ! 君は、君は……ひとりじゃない!」
轟音が響き渡る中、藍忘機が叫んだ。
「アハハ、一人じゃない、か」
九尾の魔狐は、莞爾と笑った。
「――藍湛、ありがとうな」
それを言ったのは、魏無羨か夷陵老祖か藍忘機には分からなかった。ひょっとしたら、二人で言ったのかもしれない。
藍忘機が自身の角の入った巾着袋を渡した瞬間、外に積もっていた雪と共に岩がごろごろと音を立てて落ちてきて、彼の目の前で洞穴は崩れた。藍忘機は咆哮を上げると、残りの霊力で封印の術を施した。
山野の地鳴りが収まるまで、暫くかかった。
藍忘機は、上古凶獣を九尾の魔狐を贄として封印した。しかし彼は同時に、最愛の九尾の黒狐を失ってしまった。本来であれば喜びと達成感で満たされる彼の目元を、一筋の涙が伝った。
ふと、藍忘機が雪に覆われた地面を見ると、そこには一本の笛が残されていた。しかしそれはもう、かつての主と力の源である邪気を全て失った、ただの美しい漆黒の笛にすぎなかった。藍忘機はそれを手に取ると、静かになった雪山を後にした。