耳環①「藍湛、お前は遠くの高校に行くんだろ? だったらさ、ここに今から開けるピアスはお前がして」
藍湛は、目の前の少年からピアスの穴を開けてほしいという未知の依頼を受けた。
目の前の少年は魏嬰という。一年のときに同じクラスになってからというもの藍湛は彼によく振り回されていたが、もう学年末にもなるとそれも嫌ではなくなり、いつの間にかいつも二人でいることが多くなっていた。しかし、卒業すれば藍湛は私立の名門校に進学し、魏嬰は地元の進学校に進むことが決まっている。
「なぜ、私に頼むんだ?」
藍湛は疑問を呈した。
「なぜって、そこにお前がいるからじゃないか。一人でやって大惨事になるより、お前は器用だからこういうのも得意だろ?」
「本当に、私が開けてもいいのか?」
「俺がいいって決めたらいいんだよ。高校はいい成績取っていればうるさく言わないだろうし、今は透明のピアスだってある。……お前が開けてくれたら、忘れなくて済みそうだしさ」
彼は、何を忘れなくて済みそうだと思ったのだろうか。藍湛は少し疑問を持ったが、目の前にいる魏嬰にピアッサーを渡されると、もう何も言えなくなった。彼は小さな座卓の上に転がっていたペンを取って、魏嬰の耳に開ける穴の位置を決めた。藍湛はそれからピアッサーの箱の裏に書いてある説明書きをじっくり読む。
「早くしてくれ。押せば勝手にファーストピアスが刺さるようになってるから大丈夫だよ」
「…………」
魏嬰に急かされた藍湛は、一応残りの注意書きをざっと流し読みし、ピアッサーを開封した。彼は予定の位置にそれを当てると、勢いよく押した。ガシャ、と音がして、魏嬰が小さく呻いた。
「痛むのか?」
「ハハハ、これっぽっちどうってことないよ。確かに思ったより沁みるけど」
「穴ができるまでは清潔にするようにと書いてあった。消毒を」
「ああ、頼む。それから、反対側も開けてよ」
藍湛は魏嬰の耳に専用の消毒液を塗りながら、赤く光る小さな石を見つめた。すると、藍湛は今までに感じたことのない感覚で心が揺さぶられた。
「私の……」
藍湛は、無意識に小さく呟いたところではっとした。
「ん、どうした?」
「何でもない」
藍忘機は今度は魏嬰の反対側の耳に穴を開けて、丁寧にファーストピアスの間から耳を消毒した。
「これでよし。――もう大丈夫だ。ありがとう!」
藍湛は、その「ありがとう」に小さな痛みを覚えたが、何も言うことができなかった。
魏無羨は、列車を乗り継いで何とか大学に辿り着き、学生寮の入寮手続きを済ませた。この国では多くの学生が大学進学によって親元を離れるが、彼も色々あって一人でここから人生を始めようと思っている。たいていの場合、この年頃の若者は何でもできると思って旅に出るが、一日二日しないうちに自分ではどうにもならない無力感に苛まれるものである。魏無羨も例外なく最初の問題に直面していた。二人部屋の寮の部屋には比較的よさそうな学習机と椅子が二人分並べられており、その反対側に二段ベッドが置いてある。しかし、ベッドの目隠し用のカーテンは無く、勿論夏場は欠かせない蚊帳も無ければ、なんと布団もない。聞けば有料のレンタル品があるようだが、割高のわりにあまり評判はよくなさそうだった。
魏無羨はまさか生活全般の準備までしなければならないとは気づかず、頭を抱えつつもとりあえず有り金を数えて最善の手を考えようとした。レンタルをすれば布団代だけでこのなけなしのお金が消えてしまう。さっき布団の値段を見に行くついでに決めてきたアルバイトの最初の給料日は、良くて来週だろう。大学が都会にあるお蔭でバイトの給料はかなり良いが、残念ながらそれに比例して物価も彼の地元と比べると随分高く感じられた。
「仕方ない。暫くは板の上に服を敷いて寝るか……。友達ができれば、案外すぐ譲ってもらえるかもしれないし」
魏無羨は冬までまだ時間があることに感謝しつつ、残り少ない有り金を大事にしまった。幸い、服だけはリュックサックに入れられる分だけ入れてきたのでどうにかなりそうだ。
魏無羨が自身の目論見の甘さにため息をついていると、部屋のドアがノックされる音がした。魏無羨はルームメイトが自分と同じくらいの貧乏人か、もしくは貧乏人に優しい金持ちであることを祈って扉を開けた。
「らん、じゃん…………?」
「……魏嬰?」
魏無羨は自身の素寒貧を忘れそうになるほど嬉しさが込み上げてきた。なんと寮のルームメイトは、中学時代の友人、藍忘機だったのだ。
「藍湛! 久しぶりだな。ハハハハッ…………! お前、あれからもっと背が伸びたのか? 随分美人ちゃんになっちゃって…………まさかここに進学してくるとは思わなかったよ」
「…………」
魏無羨は大喜びだったが、何を喋っても藍忘機は部屋の中に一歩踏み入れたまま固まっている。魏無羨は次第にこのルームシェアの雲行きが怪しくなってきたことを感じ取ると、一気に不安を感じた。藍忘機が動かない。
「ど、どうしたんだ?」
「き、君…………、その耳は…………?」
カチコチに固まっていた藍忘機は、辛うじて喋ることができたようだ。彼の感情は恐らく驚愕で、その原因は魏無羨の耳に大量に開けられたピアスの穴にあったらしい。
「ああ、あれから色々あって、気がついたらたくさん開いてたんだよ。あれ? お前、怒ってる…………?」
魏無羨はなぜ藍忘機が怒っているのか全く理解できなかったが、無表情の藍忘機の両の耳に光るものを見つけた。
「――おい、待てよ! お前だってピアス開けたんじゃないか……。おいおい、お前はてっきり兄貴と同じ大学に行くと思ってたし、一体あの叔父貴をどう言いくるめて耳に穴を開けたんだ? 言わせてもらうけどな、こうなったら耳に開いた穴なんて二つも七つも変わらないだろ?」
藍忘機は呆気にとられて言葉を失った後、急に常の冷静さを取り戻したように荷解きを始めた。彼はどこからか借りてきた台車に段ボールを二つ積んでいて、そのほかにスーツケースとボストンバッグを持っている。段ボールの中には新品の布団一式やベッドの目隠し用のカーテン、冬用の服なんかが入っているようだった。藍忘機はベッドの上下を逡巡し、床に座って彼の荷解きを眺めていた魏無羨に上下を尋ねようとした。しかし魏無羨は藍忘機に尋ねられる前に、先手を取って白状した。
「ああ、ベッドはお前の好きな方にしていいよ。俺当分布団買えないからさ」
藍忘機ははじめ、魏無羨が布団を持っていないというのをいまいち理解できなかったらしいが、少し考えた後で極めて当たり前の返答を返した。
「君は……どうするつもりなんだ」
「ああ、明日から薬局でバイトをするから、給料が入ったら買うよ。ありがたいことに今はまだ暑いくらいだし」
「…………」
藍忘機は黙って二段ベッドの下段に丁寧かつ迅速に自分の城を築きはじめた。魏無羨は藍忘機が大学生活のために新調したと思しき質のいい布団と枕を見て、非常に羨ましい気分になって見つめてしまっていたらしい。藍忘機と目が合った魏無羨は、思わず「悪い」と目をそらしながら謝った。藍忘機はじっと魏無羨の方を見た後、手を止めないまま魏無羨に言った。
「君がここに寝なさい」
今度は魏無羨が固まる番だった。しかし魏無羨は幼少の頃からずっとおしゃべりなので、この時もただ固まるだけでなく、驚きを部屋いっぱいに叫んだ。
「ハア?!?! お前はどうするんだよ」
藍忘機はごく冷静に返答した。
「私は、大学からレンタル品を借りる」
「何言ってんだ。あんなの絶対こんなにいい布団じゃないし、誰が使ってたかも分からない布団だぞ!」
「では、君はどうするんだ」
「……俺は、どうせあんまり眠れないからいいよ。暫くは布団なしベッドで寝る」
「…………」
藍忘機は再び黙っていたかと思うと、床に座っていた魏無羨の腕を掴み、無理やり引っ張った。魏無羨の視界は良く分からないままぐるりと反転した。彼は何が起きたか分からなかったが、藍忘機が仰向けに寝転んだ上に自分を乗せたのだと分かった。
「お、お前、今自分が何してるのか分かってるのか?!」
「こうして寝たらいい」
魏無羨は何とか藍忘機の上から降りるべくじたばたしようとしたが、藍忘機の力は以上に強く、そのままじっとするしかなさそうだ。しかし、観念して彼の胸に頬を下ろしてみれば、なぜか不思議と落ち着いた。藍忘機の体温とほんのりと香る白檀のような匂いが魏無羨をいつの間にか落ち着かせ、彼は何も話せないまま恥ずかしさで藍忘機から顔を逸らしていたが、そのまま目を閉じると意識を手放してしまった。
それからどれだけの時が経ったのだろうか。魏無羨は随分久しぶりにぐっすり眠った気がした。しかし、それと同時に窓の外が暗いことに気づいた。
「ああっ! 藍湛、今何時?」
「……二十時過ぎだ」
「嘘だろ? 今日は新入生歓迎夕食会で、食費を浮かせようと思ってたのに……。ああ、でも、藍湛。お前の上ではよく眠れたよ。ありがとう」
「魏嬰。私と君の間に礼や謝罪はいらない」
魏無羨はまだどさくさに紛れて藍忘機の上に乗っているが、藍忘機は苦情一つすら言わずに魏無羨を軽く支えてくれている。魏無羨は藍忘機に借りを作りたくないという気持ちがあるのだが、何かを贈ったり奢ったりする金銭的余裕は暫くなさそうだ。暫く考えて、魏無羨は仕方なくため息をついた。
「――どうした」
「はぁ……。藍湛、色々考えたけど、俺がお前にしてやれることって全然ないんだな」
藍忘機は「何もしなくていい」と言おうとしたが、魏無羨はそのまま少し息継ぎをして言葉を続けた。
「――だからさ、お前の言うことを一つ何でも聞くよ」
「…………一つ」
「ああ。一つじゃ不満か?」
藍忘機はまた何かを少し考えて、そして魏無羨の左の耳にゆっくりと指先を伸ばした。
「ピアスのこの穴を塞いで」
「へ?」
「君は、何でもすると言った」
「ああ、うん。何でもするって言ったからな。――ここを、塞いだらいいのか?」
「うん」
魏無羨は一瞬戸惑うような、寂し気な表情を浮かべたが、藍忘機の言うとおりに左耳のアウターコンクのピアスを外すと、藍忘機の掌にそれを預けた。
「なあ藍湛、お前も腹が減らないか? こんな時間だから食堂は開いてないだろうけど、外のコンビニならまだ開いてる」
結局、魏無羨と藍忘機は二人でコンビニへ足を伸ばし、カップラーメンを一つずつ買って帰ってきた。藍忘機が家から持ってきた電気ポットで湯を沸かし、藍忘機が家から持ってきた小さな座卓を囲んだ。
「ハハハハッ……結局何から何までお前に助けてもらってるな。このカップ麺も結局お前の奢りだし…………。とにかく、ルームメイトがお前で良かったよ。藍湛、久しぶりにお前に会ったけど、ひょっとして運命だったりするのかな?」
藍忘機は麺を啜り切って良く噛んで飲み込み、口をティッシュで拭いてから返事をした。
「偶然ではない」
藍忘機は魏無羨に少々的外れな返事をした後、先に食べ終えた魏無羨にシャワーを済ませるよう促した。
「え、俺が先に使っていいの?」
「うん」
それからしばらくして藍忘機もようやくカップ麺を食べ終えると、片づけを済ませて座卓を畳んだ。片付けながら藍忘機は魏無羨の学習机を覗き見た。椅子の上には彼が唯一持ってきたリュックサックがまだ置いてあり、机の本棚には必修科目の教科書が並んでいたが、いくらか使い古されたものばかりだった。その数冊を拝借してぱらぱら捲れば、書き込みがされていたり、中には版が古いものまである。
「…………」
藍忘機はその本をそのままそっと元に戻し、何事もなかったように自身の荷解きを進めた。少しして、魏無羨がシャワーから帰ってきたので、今度は交代で入ることにする。
「藍湛、シャワーはお湯になったり水になったりするけど、段々お湯だけになるよ」
「分かった。……髪を乾かして」
藍忘機はそれだけ言うと、あまり魏無羨の方を見ないでシャワールームの扉を開けた。
「……あいつ、時々素っ気ないな」
魏無羨は、独り言を言いいながらタオルで適当に髪を乾かすと、藍忘機のベッドに横になった。そのまま目を閉じると、先ほど少し寝たばかりだった魏無羨は眠ることができず、かといってそこから動く元気はもうなかったので、寝たふりをすることにした。そのままうつらうつらしていると、ドアの音がして藍忘機が戻ってきたらしいことが分かった。彼はそのまま寝たふりをしていると、暫くして部屋の電気が消えて、身体が持ち上げられたような気がした。
「魏嬰、おやすみ」
微睡の中、やさしい声が魏無羨の耳に届いた。
(耳環②へつづく)