耳環②「忘機、起きたのか。具合はどうだい?」
「兄上……、もう、私は大丈夫です」
「どれどれ。――うん、熱は下がったみたいだね。さっき、魏無羨くんが来てくれて、明日の連絡とゼリーを買ってくれたよ。いい友を持ったね」
「なっ…………、彼は、友などでは…………」
「熱が下がって腹も減っただろう? 冷やしておいたから食べなさい。折角の見舞いの品だ」
「…………はい。あの、兄上」
藍湛が見回しても、魏嬰の姿はそこにはなかった。
「魏くんを引き留めたのだが、用事があるからと帰ってしまったんだ。お礼は、明日学校で言いなさい」
「…………はい」
魏無羨と藍忘機が大学に入学して暫くの日が経った。
二人はすぐに学部の学生はもちろん、教員の間でも有名人になった。藍忘機は次席で入学したが、品行方正、成績優秀で既に何人かの教員が自身の研究を手伝わせるべく大学院への進学を打診している。一方、首席で入学した魏無羨はというと、成績は極めて優秀でこの国の最高学府にも行けたのではないかと噂されているが、あまり授業に出席せず、学内の友人も多いわりに付き合いが悪くて有名であった。藍忘機は最初こそ寝ている魏無羨を授業に担いで連れて行こうとさえ思ったが、未だに布団も買えない彼の経済状況を思うとそれが正しいかどうかは分からなくなって放っておくことにした。魏無羨は夜遅くに帰ってきて、明け方まで藍忘機が取ってきた講義資料を読み、自分でノートを作って、補足が必要なことに関しては教科書だけでなく関連する論文まで確認しているようだ。たまに講義に出ているかと思えば、そんな日は大抵授業後に教員と議論を交わしている。しかし、そんな勉強熱心なのか不熱心なのか分からない魏無羨は、教員たちに気に入られているというよりは脅威になりつつあるようで、教員たちは彼がいない日の方がのびのび講義をしているようにも感じられた。
藍忘機は、今日も一日の授業を終えて寮の部屋に戻った。この時間はアルバイトに出掛けていることが多い魏無羨が、珍しく学習机に突っ伏して寝ている。どうやら、どこかから帰ってきて勉強していたが、寝不足が祟って居眠りをしてしまっているらしい。藍忘機はそう思っていたが、どういうわけか気になって部屋の奥にいる彼に近付いた。
魏無羨の机と窓辺の間の隙間の床には、酒瓶が無数に並べられていて少しその匂いがした。藍忘機は魏無羨を起こそうと身体に手を触れようとしたが、躊躇ってやめた。ふと机の上を見ると、そこに広げられた彼の手帳には、『四時バイト』と書いてある。しかし、魏無羨が起きそうな気配はない。藍忘機は意を決して彼を少しだけゆすった。
「…………!」
藍忘機は次に、躊躇なく魏無羨の額に手を当てた。
「……熱がある」
藍忘機は魏無羨を起こさないように抱き上げてベッドまで運ぶと、冷蔵庫の水を水筒に入れて枕元に置いた。それから書置きをした付箋をその水筒に貼って、魏無羨が起きた時に驚かないようにしてから身支度をして外に出る。
本当は魏無羨を起こしてアルバイト先に電話をさせるべきだったかもしれないが、魏無羨は起きたら無理を押して働きに出てしまうだろうと藍忘機は思った。彼は、魏無羨のアルバイト先がすぐ近くの薬局であると言っていたのを思い出し、魏無羨の薬を買うついでにアルバイトの欠勤を伝えようと思ったのであった。
「いらっしゃい……悪いけど、今日はもう店じまいなの。店番が来なくて」
藍忘機が尋ねた薬局は、本当に大学を出た道路の向かい、目と鼻の先にあった。店はやや年季が入っているが、意外にも店主は藍忘機や魏無羨より少しだけ年上と思しき女性であった。
「そのことだが、魏嬰が風邪を引いた」
藍忘機が伝えると、店主は驚き半分、もう半分はいつかはこうなることをある程度予想していたというような表情で藍忘機を見た。
「あら、あなたが魏無羨のルームメイト?」
「はい、そうです」
店主は温情という自身の名を名乗ると、藍忘機を店の中に案内した。
「あなた、ちょっと時間ある? 悪いんだけど、私これから近所のおばあちゃんの家に行かないといけないの。実は、これから薬を取りに来るかもしれない人が何人かいるんだけど、ここに置いてあるのを渡してお代を受け取ってくれない?」
「……私が店番を?」
「そうよ。いつもは魏無羨に任せているんだけど……、あ、もしかしたら他に薬が欲しい人も来るかもしれないわ。そこにあるリストに載った薬は、資格がなくても販売できるから……。もちろん、時給は払う。お願いしてもいいかしら?」
藍忘機が「はい」とも「いいえ」とも言う前に、温情は「じゃあ、頼んだわよ。七時くらいに弟が帰ってくるから」と言って店を出て行ってしまった。彼女からすると、藍忘機は「見ず知らずの他人」ではないのだろう。アルバイトをしたことがない藍忘機は、とりあえず名前が書いてある薬の袋がいくつか入っているカゴを確認した後、自分が販売できる薬のリストを確認した。リストは魏無羨が作ったものらしく、商品の画像の横に説明書きが印刷され、更に彼の筆跡で紙の余白に説明が追加されていた。
藍忘機がそのリストの三周半ほど読み終わろうとしたところで、薬局のドアが開いた。
「あれ、今日は魏くんじゃないわね」
店に入ってきた老婆は、藍忘機に薬を引き取りに来たと告げた。
「彼は風邪を引きました。私は臨時の店番です」
「あら、そうかい。あんたも中々いい男だねえ…………。でも、魏くんの方が明るいよ。病人相手なんだから辛気臭い顔をしなさんな」
老婆は低い声でケラケラ笑った。藍忘機はどうしたらいいか分からず、とりあえず頭を下げた。
「すみません」
「いいのさ。はい、お代」
「ありがとうございます」
「礼を言う前にちゃんと確認しなさい。アタシがちょろまかすようなことはしないけどね、もう棺桶に片足突っ込んでるから間違えることもあるんだよ」
藍忘機は老婆に言われると、渡された金額を確認した。
「大丈夫です」
「はいはい、じゃあ魏くんによろしく言っといてね」
「お大事になさってください」
「アタシャ持病だからお大事にしたって治んないよ! ハハハ!」
若干癖の強い老婆は、そう言ってどうにか挙げた手を藍忘機に振りながら店を出た。魏無羨が普段どのようなことをこの老婆と会話しているのかは全く分からなかったが、彼に対する薬局の客たちの評価が極めて高いことは、老婆の後にやってきた客の様子からも知ることができた。
「魏くんが風邪?!」
「魏無羨が休むなんて考えてもなかった!」
「あの子は頭痛に効く市販薬一つにしたって随分話を聞いて選んでくれたよ!」
そんなことを言われては、藍忘機は事情を一から説明し、加えて彼らの世間話にも付き合わなければならなかった。藍忘機はとうとう、客足が落ち着いているときに小さくため息をついた。出会ったことのないタイプの人々と、経験したことのないコミュニケーションに少し緊張していたようだ。一息ついたところで、またドアが開く。
「あれ、こんばんは。ええと……」
「魏嬰が風邪を引いて、店番を託されている」
「ああ! あなたが藍さんですね」
気の良さそうな青年は、慣れた様子でカウンターの中に入ってきた。
「僕は温寧。温情は僕の姉です」
「藍忘機だ。七時ごろに帰ってくると言っていた……」
「そう、そうです。僕も同じ大学の薬学部で勉強をしています。魏さんから藍さんのことを聞かない日はありませんよ」
藍忘機が時計を見れば、温寧は少し早めに帰ってきてくれたらしい。おそらく、温情が連絡を入れていたのだろう。藍忘機は温寧に来た客と来ていない客のことを引き継ぎ、販売した薬のことも伝えた。温寧は姉と比べると少し気弱なところがありそうに感じられたが、人当たりはよく、誠実そうだと藍忘機は思った。魏無羨はいくつかアルバイトを掛け持ちしているようだが、一番長く続いていてたまに話題に上るこのアルバイト先を気に入るのもなんとなくわかる気がする。
「――藍さんのことは、魏さんからよく聞いています。中学生の頃同じ学校に通っていたそうですね」
「家の事情で、私と兄が魏嬰の地元に赴任していた叔父に預けられていたことがある」
「そうだったんですか。藍家といえばこの近辺にずっと本拠を構えていらっしゃるので、魏さんがこっちに住んでいたのかと」
「私は高校からこの近くに住んでいるが、魏嬰は大学でこの街に来た」
店に来た客とは全く会話を続けられなかった藍忘機であったが、温寧は穏やかで人好きのする性格のようだ。彼はいつも、魏無羨ともおしゃべりしながら姉の帰りを待っているのだろうと藍忘機は思った。
「魏嬰が働くことになったきっかけを知っているのか?」
「はい。ここは見ての通りの立地でしょう。魏さんは『最初に見つけた求人募集だったから』という理由で店に来ました。最初こそ姉は心配そうでしたけど、すぐに店番を任せるくらい信頼するようになりましたよ。まあ顔を合わせれば姉さんは魏さんを叱ってばかりですけど…………」
「叱られるのか?」
藍忘機が言うと、温寧は苦笑した。
「はい。魏さんが来てからというもの、必要ないのに薬をもらいに来るお年寄りが増えてしまったものですから……」
どうやら、話好きな魏無羨のことを気に入った客が、用の無い時にも魏無羨を訪ねて店に来るようになってしまったらしい。
「魏嬰は、ここを気に入っていると思う」
「そうだと嬉しいです。でも、魏さんが私に話すことは藍さんのことばかりですよ」
「…………」
藍忘機は何かを言おうとしたが、そこへ温情がようやく戻ってきた。
「姉上、お帰りなさい」
「ただいま阿寧。藍さん、今日は急な頼み事でごめんなさいね。はい、これお給料。魏無羨には無理しないようによく言っておいてくれると助かるわ。ああ、それからこれ。風邪にはよく効くから」
「分かりました。ありがとうございます」
藍忘機は五時間分のアルバイト代と魏無羨の薬を確認すると、丁寧に挨拶をして店を出た。もう既に辺りは暗いが、辛うじて店の営業時間には間に合いそうだ。藍忘機は近くの商店に駆け込み、布団を一式購入した。
「こんな時間に布団を買うお客様は珍しいです。送りますか?」
「いえ、持って帰ります」
藍忘機は購入した敷布団と掛布団と枕を担ぎ、持っていたトートバッグにシーツ類をしまって店を出た。店主は、「あんな力持ちならうちの店で働いてくれないかな」と藍忘機の背中を見送りながらぼやいた。
藍忘機が寮に戻ると、魏無羨はベッドの縁に座っていた。
「あ、藍湛。…………待て、お前、その布団全部担いできたのか?」
「うん」
「ハハハ……力持ちなんだなお前。そりゃあそうか。机で寝ていたはずの俺が、ベッドにいるんだもんな」
「君は寝ていなさい。粥を作るから食べて。それから薬と、これは君のアルバイト代だ」
藍忘機は魏無羨にそれらが入った袋を手渡した。
「ハア?! っ、ゲホゴホ…………おいおい、どうしてこうなったのか教えてくれよ。ええと、俺は幽体離脱してバイト先に行ってたの?」
「私が代わりに働いた。それは私からの見舞金だ」
藍忘機はさすがに魏無羨の幽体離脱仮説を肯定できず、封筒の中の金の名称を修正した。
「ハハハハハッ……お前も言うようになったな。布団まで買ってきてくれちゃってさ……」
「治るまでそこを使いなさい。私は上で寝るから」
藍忘機は休む間もなく、何部屋かで共用しているキッチンへとお粥を作りに行ってしまった。魏無羨は、今日の午後に起きた諸々のお礼を藍忘機にしなければと思ったが、すぐに出来ることはアルバイトの給料を返すことぐらいである。けれども、藍忘機が「見舞金」に名称を変えてしまったため、返すのは憚られた。
「ハア……どうすりゃいいんだ。また藍湛にお望みを尋ねようか…………」
実は魏無羨は、藍忘機が出かけてから二時間ほどしてようやく目を覚ましていた。既に辺りが夜になっていることに絶望し、大慌てでスマートフォンを手に取ろうとして、藍忘機が枕元に置いてくれた水筒とそこに貼ってあるメモに気づいたのだ。藍忘機は魏無羨を起こすことも出来ただろうにと思ったが、結局メモを読んで安心したのか倦怠感が抜けきらず、魏無羨はそこからさらに藍忘機が帰ってくる少し前まで寝ることにしたのだった。
藍忘機が粥を持って戻ってくる頃には、魏無羨は心なしか気分が良くなっている気がした。
「食べられるか?」
「うん! 美味しいよ」
魏無羨が三分の一ほど食べた皿を置いたところで、藍忘機は自分の手を魏無羨の額に当てた。藍忘機の手はひんやりとしていた。
「まだ熱い。食欲は?」
「大丈夫だ。じきに熱も下がるよ。それより何かお前に今日のお礼をしないと」
「君と私の間に礼はいらない」
藍忘機は言ったが、魏無羨も引き下がるつもりはない。
「でも、お前は俺の世話係じゃないんだ。――あ、そうだ! もう一つピアスを塞ぐ。それでどう?」
少し掠れた声で魏無羨が言うと、藍忘機はため息をついた。
「……好きにしなさい」
魏無羨は、その場で右耳のピアスを三つ外した。藍忘機が付けた以外のところで、耳朶だけでなく軟骨のもあった。
「なぜ三つ?」
藍忘機が尋ねると、魏無羨は掠れた声ながらも淀みなく言った。
「一つは布団、もう一つはバイト、それからあとの一つは…………」
「……」
藍忘機はもう一つ何かしたか思い出そうとしたが、何も思い当たる節はない。
「最後の一つなんだけど、藍湛。あのさ、明日の必修、あと二回休んだら単位落としちゃうから、俺の分も出席カード書いて」
藍忘機はため息をつくしかできなかったが、この分だと明日の授業を魏無羨が休むべきなのは明白だ。藍忘機はしぶしぶ了承することにし、ピアスを受け取った。
「構わないが、一つ聞きたいことがある」
「何?」
「なぜ、たくさん穴を開けたんだ?」
魏無羨はあからさまに目を逸らし、誤魔化すような口調で言った。
「ハハハハッ……もし俺が、今まで付き合った奴の数だけ開けてるって言ったら?」
藍忘機は僅かに驚いた表情をして絶句し、あまりの恥知らずさにかえって聞いた藍忘機の方が恥ずかしくなったのか、部屋を出て行ってしまった。当然、今度は魏無羨の方が慌てる羽目になった。
「おばかさん! 冗談だよ!」
魏無羨はドアを開けて叫ぼうとしたが、喉がイガイガする中で思いきり息を吸い込んだため叫び声は発されず、猛烈な咳をしてしまった。しかも、その咳の音すらかき消されてしまった。藍忘機が、廊下の壁に大きな穴を開けていたのだ。素手で。すぐに周りの部屋の学生たちが自分たちの学生寮で何が起こったのか確かめようとドアを少し開けたが、ただならぬ雰囲気に関わろうとする者はいなかった。
「ら、藍湛…………、わ、悪かったよ。お前が俺の冗談が嫌いなのはよくわかった。……お、怒らないでよ…………」
魏無羨はさっきより酷くなったかすれ声で言うと、そのまま咳込んでしまった。ようやくその咳の音で我に返った藍忘機は、まだフラフラの魏無羨に近付き、迷うことなく抱えて寝かせた。
そして藍忘機は、魏無羨の枕元に先ほど預かったピアスを全部置くと、再び部屋を出て行ってしまった。
(耳環③につづく)