磯の鮑の片思い零が髪の毛を切り髭を剃ってきた。こざっぱりとしたその風貌にゴクリと喉がなる。普段見えない所を見る事が出来るというのはどうしてこうも興奮してしまうのだろうか。
「え〜何どしたん零失恋でもしたん?なになにこんなツルツル……いやちょっと髭生えてきてチクチクしとんな」
いとも簡単に体に触れはしゃぐ簓が心底羨ましい。
俺の気持ちも知らず——零の気持ちも知らずにはしゃぐ簓が少し、妬ましい。
零はきっと俺が触れる事も許してくれる。でも許してくれるだけで特に何も思ってくれないだろう。
「ま、そんなもんだな」
「え、ガチなん?」
いつもの様に笑いを含まない声色に顎を撫でる簓の手が止まる。
「ガチだよガチ。どっかの誰かが週刊誌にすっぱ抜かれたりするもんだからな」
そう言って零は簓の額を爪先で押す。簓は押されるがまま後ろに倒れ「ぐわー!」と大袈裟に叫んだ。
そう、簓は二つ前の週刊誌で熱愛報道が出た。今流行りのアイドルでも美人と皆が口を揃えていう女優でもなくただの一般人と。だから皆信じた。写真に写る簓の顔はどれもテレビで見せる顔ではなく穏やかで慈愛に満ちた顔をしていたから、だから信じた。
すぐに事実無根と事務所から発表されたが未だ世間は『白膠木簓は一般女性と交際している』『結婚秒読み』と騒いでいる。
「で、実際どうなん?」
「いやそりゃちょっとええ雰囲気にはなった事もあるけど……今はほんまになんとも無いただの友達やで?ええ雰囲気になった事あるからこそ素でいられるっちゅーか……とにかくほんまになんも無いねんって!」
「どーだか」
そう言って零はビールのプルタブに手をかける。カシュッ、とした音と共に溢れ出た液体が指先を濡らした。一瞬拭くものを探すように零は辺りを見渡す。結局見つからなかったのか指先から垂れ落ちかけていた雫を真っ赤な舌で舐めとった。
ゴクリ、とまた喉がなった。
「んで結局なんで切ったん?」
よっこいせという掛け声と共に起き上がった簓はまた零の顎を触り、チクチクとした手触りが面白かったのかクスクスと小さく笑う。それを嫌がる事もなく零はビールの缶を机に置き簓の好きにさせていた。
羨ましい、なんて感情を抱くのにも慣れ始めていた。
「いつも通り切ってもらおうと思ってたのに気付いたらこんなに短く切られちまってよぉ。髭は手が滑った」
「なんや失恋じゃないんか」
「生憎な」
どこまで本当でどこまでが嘘なのか。答え合わせをしたいようなしたくないような。
もし本当に髪を切った理由が——髭を剃った理由が——簓だったのなら、俺は零の事を諦められるのだろうか。
「似合ってるで」
俺の口から出るのは紛れもない本心。
「本当かぁ?」
「ほんまやって。簓もそう思うやろ?」
そう簓に問いかけて、少し後悔した。
「おん!めっちゃ似合っとるで。なんか年近なったみたいでええなぁ。逆に俺ら髭伸ばしてみる?」
簓に似合ってる、と言われた時の顔が
「似合わん似合わん。笑い物にされて終わりや」
あまりにも嬉しそうだったから
「ハハッ、違いねぇ」
俺は、
「髭なんか生やしたら彼女も嫌がるやろなぁ」
なんて意地の悪い事を言ってしまって。
「もー!やからなんもないんやって!でもまぁ生やしたらモテへんよなぁ……彼女欲しいしやめよやめよ」
簓のその言葉に少し悲しそうな顔をした零を見て
「はよできると良いなぁ彼女」
また意地の悪い事を言って、
「できひんと思ってるやろ!見とけよすぐ作ったるからな!」
少し引き攣った顔で笑う零を見て
「簓に彼女できたらお祝いせなあかんな」
気が晴れてしまった事に気がついた時に
「……あぁ、そうだな」
俺はもうこの先零に想いを告げることは許されないのだと思った。
◇◇◇◇◇
喉の渇きで目が覚めた。
全員途中で潰れてしまったのか電気は付けっぱなしだ。机の上に置きっぱなしだった水を口に含み、生温いそれが体内を滑り落ちていく感覚に眉を顰めた。時刻は六時四十六分。もう一眠りするには目が冴えすぎた。
机の上では缶やツマミの袋が散らかっている。2人が起きる前に片付けて起きたら茶漬けでも出してやろう。
酒が残り怠い体を動かしゴミを集め食器を片付け。炊いた米は昨日食べ切ってしまったから今から炊こうかとキッチンに移動し米びつを開けばもう一合も残っていなかった。2人が頻繁に来るから食材の減りがやけに早い。今日はパックのご飯で我慢してもらおう。
もうする事がなくなってしまった。時刻は七時二十四分。冷えた麦茶をコップに注ぎリビングに戻ると「……ぅぁ、」と零が低い唸り声をあげていた。それに共鳴するように簓がモスキート音のような音を出ながら体を伸ばした。簓はそのまま再び眠りについたが零は「みず……」と呟いて起き上がる。
「おはよう。麦茶飲むか?」
まだ口を付けていないから良いだろうとコップを差し出すと大人しく受け取り一気に飲み干した。
コップを俺に返すとよっぽど眠かったのか「悪い……も、少し、寝る……」と言いながら元いた場所に寝転がりあっという間に穏やかな寝息を立て始めた。
無防備な姿を見せてくれる喜び半分、何も意識されていない悲しみ半分。まぁ簓が零の気持ちに気付いていないように零も俺の気持ちに気付いていないのだから当たり前か。
「ほんまに……2人とも鈍すぎるわ」
穏やかな寝息を立てる2人に近付き顔を覗き込む。
零の顎にはもう濃い髭が生えかけている。完全に剃られた姿を見るのはもう叶わないのだろうか。恐る恐る触れてみると硬い髭が指先に僅かに刺さった。
少し痛む指先。普段ならすぐに忘れる程度の痛みが今日は全身に広がっていく。
じくじくと広がって、広がって、出口が見当たらず身体の中に溜まっていく。
痛いなんて、辛いなんて、好きだなんて、愛してるなんて。
簓を想う零の気持ちが——それが簓に届かないでくれと願う俺の汚い気持ちが——どうか、どうか誰にも見つかりませんように。
なんて願ってしまう俺は零を想う事すら許されないのだと分かっているのに。