季節は二度と巡らない盧笙が死んだ。
階段から足を滑らせた妊婦を助けようとして一緒に落ちたらしい。それで妊婦と子供が助かれば救いがあったというのに誰も救われなかったのだからとことん救いがない。
盧笙が死んだということを受け入れる事もできず通夜は終わり、葬式も終わり、いつの間にか納骨も終わっていた。
「大丈夫か」
納骨式が終わり骨が納められた墓を前に呆然と立ち尽くす簓に声をかける。
「……大丈夫ちゃうなぁ」
そう言いながら簓は力なく垂れ下がっていた腕を伸ばし墓石に触れた。炎天下に晒され続けていた墓石は一瞬触れる事すら難しいほど熱を持っていたのか簓は驚いたように素早く手を引き墓石に触れた指先をさすった。
もう二度と触れ合う事はできないのだと、そう伝えられたのだと思った。
嗚呼、嗚呼、こんな事になるなら知りたくなかった。
春、繋いだ手の温もり。夏、汗で湿った肌。秋、乾燥した唇。冬、指先の冷たさ。触れると徐々に上がる体温。何もかも知りたくなかった。
「零もやろ、全然大丈夫に見えへんで」
汗が背中を伝い落ちていく。スーツで隠されたシャツは汗で悲惨なことになってしまっているだろう。
「……そうだな」
まだ呆然と墓石を見つめる簓の腕を掴み来た道を戻る。
——途中で木陰に集まり会話をしていた盧笙の親族たちに軽く会釈をした。もう二度と会う事は無いだろう。
——途中で住職に声をかけられた。何かありがたいお言葉を言っていた様な気がするが何も頭に入ってこなかった。
駐車場に戻り車の中に入る。炎天下に晒され続けた車の中は外よりも暑い気がした。エンジンをつけエアコンをつける。黴臭い空気が排出され酷く鼻の奥が痛んだ。
フロントガラスを突き抜け肌を焼く鋭い日差しに嫌気がさし早く家に帰ろうとサイドブレーキを解除しようと伸ばした手に簓の手が重ねられた。
「ささ、ッ……?」
重ねられたのは手だけではなかった。
網膜が映し出すのは青白い肌と緑色の髪、琥珀色の瞳、それだけ。
「なぁ零、」
まだ触れたままの唇が小さく動く。
「盧笙と付き合っとったやろ」
簓のその言葉に、不思議と驚きは感じなかった。あぁ、やはり知っていたのか、という少しの安堵だけだった。
——俺は何故安堵したのだろうか。分からない。
「……写真撮られるぞ」
「どうでもええわそんなん」
「良くねぇよ」
離れようとしない簓の肩を押すと存外簡単に引き下がり大人しく助手席に座った。
助手席のシートベルトを引きバックルに差し込み自分のシートベルトも締める。そのままアクセルペダルを踏み車を発進させても簓は一言も発しなかった。
車内には沈黙が広がっていた。本当に横に簓が座っているのか疑ってしまうほどの沈黙。
「一昨年の夏だ」
その沈黙に耐えきれなくなったわけでは無い。気が付けば口が動いていた。
「一昨年の夏、そうだな、ちょうど今と同じくらいの時期だった」
そう、今日と同じ様な日だった。日差しが鋭く汗を拭う行為に意味があるのかと疑ってしまうほど暑い日だった。俺と盧笙は二人で歩いていた。酒とつまみを買いにスーパーにでも行ったその帰りだっただろうか。
「零あのさ、俺と付き合ってくれへん?」
なんの前触れもなくそう伝えられた。
あまりの暑さにおかしくなってしまったのかと疑った。
絶え間なく汗が伝う盧笙の顔は真っ赤に染まっていた。
それが暑さのせいか、それ以外のせいか。どちらなのか判別がつかなかった。
「正気か?」
——告白に返す言葉にしてはあまりにも酷い言葉だった。
「正気やないかもしれんなぁ」
そう言った盧笙の顔はさっきよりも更に赤くなっていて、慌てた俺は盧笙の手を引き家に帰った。
そうして辿り着いた盧笙の家。エアコンを付けたままだった室内は寒いくらいだった。
「零、返事聞かせて」
玄関、靴も脱いでいないというのに。
腕は俺が掴んでいたはずなのに。
「零お願い。答え聞かせて」
日光に晒され続けている玄関に押し付けられた背中は熱かった。掴まれた腕はもっと熱かった。
それが不思議と嫌ではなかった。
「二度と正気に戻るなよ」
——告白の返事にしてはあまりにも酷い言葉だった。
それでも、盧笙は笑っていた。俺も笑っていた。
嗚呼、嗚呼、こんな事になるなら、こんな思いをするのなら、あの時、俺は。
「……思ったより長かったなぁ」
簓がようやく口を開いた。いつの間にか車は見慣れた道を走っていた。
「いつ言ってくれるんやろって待っとったのに」
そう言った簓の声は震えていた。
「一年経ったら言うつもりだったんだよ。付き合ってすぐ話してすぐ別れたら気まずいだろ」
——もう少しだったのに。そろそろ簓に話すか、なんて二人で話していた所だったのに。
「俺らやったらそれもそんな事もあったなって笑い話にできたやろ」
簓の言葉には嗚咽が混ざっていた。
「……そうかもしれねぇな」
——そう思えないほど、俺も、盧笙も、臆病だった。
——笑い話になどできるはずもなかった。
——あれはまさしく〝恋〟だった。
——俺は、年甲斐もなく、盧笙に————いや、盧笙と〝恋〟をしていたのだ。
「ついたぞ」
簓のマンションの地下駐車場に車を止める。
網膜が映し出すのは無機質なコンクリートと、自慢する様に並べられた車。
「なぁ零」
サイドブレーキに触れていた手にまた簓の手が重ねられた。
「今日泊まりぃや」
重ねられたのは手だけではなかった。
「一人でいるの寂しいねん」
その誘いが子供の様な可愛らしいものではなく、酷く歪な熱を持ったものだと理解していながら、俺は、茹だるような暑さで頭がおかしくなってしまったのだと、そう自分に言い聞かせマンションに足を踏み入れた。
————その後のことはあまりよく覚えていないが、触れられれば簡単に熱を持つ体に、随分と薄情なものだと思わず笑いが出たことだけは覚えている。