おきざりの碧/おきざりの青 思い出はいつも色ばかり鮮明だ。
舞い落ちる桜の薄紅、
見上げた空に浮かぶ美しいつきしろ。
思えば国広が最後に目にしたあの刀も、同じ色に染まっていたように思う。
三日月宗近
月の名を持つあの刀に、あの色は相応しかったのかもしれない。
引越しの片付けに入った三日月宗近の部屋は驚くほど何もなくて、一振り、別れの予感を確信していた事が伺えた。
国広はそれでも微かに残る荷物をまとめながら、思う。
一体どんな気持ちで三日月はこの本丸に居続けたのだろう――と。
明確な別れの時を知りながら、何故、あの刀は笑って過ごすことが出来たのか……。
「なんだ?」
文机の端、あおい巾着にはいったそれに国広は手を伸ばした。
それは少し重たくて、持つとかちゃかちゃと音がする。
巾着の紐を緩めて開けてみると
「……なんで、あのじじい……こんなガラクタを」
巾着の中にはぎっしりとビー玉が入っていた。
そういえば夏にこの玉が瓶に入った飲み物を飲んだ。三日月が中にあるこの玉を欲しがって、燭台切が瓶を割ってとってやってて、
「硝子の破片が飛び散って危ないと、俺が怒って……」
でも三日月は国広の話なんて聞いちゃいなくて、いつもの調子で笑みを浮かべて言ったのだ。
『見てみろ山姥切! お主の瞳のようだ!』
ビー玉を光にかざして、何がそんなに嬉しいのかと問いかけたくなる程、にこにことして、
三日月は一体、どんな気持ちでそんな事を言ったのだろう?
国広にならと期待を掛けていたのはあの時の台詞から分かった。
きっと国広は数えきれない程、三日月のその期待を裏切っているに違いない。
それでも何故、三日月は毎回毎回、自分を選んでくれるのか、
「あんた、大事な事はいつも言わない」
ポタポタとビー玉に水滴が落ちて、まるで置いていかれたビー玉が泣いているようだと思った。
泣いているのは国広なのに、
こんなに悲しいのに、目に映る景色は変わらない。
色ばかり鮮やかなあの刀との思い出も変わらない。
三日月から見た自分はこんな風に綺麗だったのだろうか?
三日月の思い出の中の自分はずっと綺麗であり続けるのだろうか?
国広にとっての三日月がそうであるように、三日月にとっての自分もそうであるなら、
(いや、違う)
綺麗でなんて無くて良かった。
泥塗れ、埃まみれで構わなかった。
このビー玉のように美しく無くていい。
自分の記憶の中の三日月も、こんなに綺麗じゃなくていい。
つきしろの三日月なんて記憶から消せるなら消してしまいたい。
美しくなんて無くていいから、
日日を、ただ過ごしていたかった。
時に汚れ、傷ついても、共にいたい刀だった。
「そう口に出していたなら、何か変わっていたのだろうか?」
ビー玉を摘みあげて光にかざす。
涙で乱反射した視界はキラキラと輝いて、世界は綺麗なもののように思えた。
夏のある日、らむねという飲み物を燭台切が畑当番の休憩にと持ってきた。
一体それが『何周目』だったかは覚えていない。ただ、軍議の茶菓子や日々の食事は些細な事でも変化し、その未来を変えるようで、何回回っても変化するそれは三日月の中で少ない楽しみの一つになっていた。
蝉が忙しなくなく鳴く夏の畑当番、相手には山姥切国広。
山姥切は燭台切からその飲み物を受け取ると、微かに瞳を輝かせる。
(ほぅ、好物なのか)
この刀は好きな物を前にすると瞳をきらきらと輝かせるのだ。
翡翠の瞳が喜びに輝くその様は可愛くもあり、美しくもある。
(おそらく本人は気がついて無いのだろうなぁ)
ひっそりと小さく笑うと、山姥切に気づかれてしまい途端にその唇はへの字を描き、むっとした表情に変わってしまう。
「冷たいうちにいただこう」
誤魔化すようにそう促せば、その刀は三日月を睨み付けた後に唸り声と共に息を一つ吐き出した。
それはこの刀の癖だ。
おそらく照れ隠しなのだろうけど。
(癖の一つや二つ覚えしまうなぁ)
それだけこの刀を見てきたから。
例えばほら、噯が出そうな時、この山姥切国広は胸の辺りを手で軽く叩いてそれを堪える。そんなもの気にしなさそうに見えるのに――初めて見た時は何しをしているのかと驚いたものだ。
硝子瓶を傾けて、尖った顎が上を向く。
白い喉が上下に動いて、
コクリ、コクリと液体を飲み込む音が蝉の鳴き声と混じる。
それから、
カラン――。
瓶の中で硝子玉が高い鳴き声をあげた。
薄緑色の瓶の中に閉じ込められたその硝子が、三日月はこの時、何故かとても気になって
「こやつは、出してはやれんのか?」
思わずそう隣に尋ねる。
「無理……なのではないか? 飲み口のが穴が小さいし、この飲み口も外れそうもない」
カラカラと、硝子玉を鳴らして山姥切が言う。
「あんた、こんなものが欲しいのか?」
瓶を振るその刀の、呆れたような顔、その瞳と、
(同じだ)
硝子玉は同じ色をしているように見えた。
そう思うと、なんだか無性に欲しくなってしまって、
燭台切光忠に頼んで瓶を割って、三日月はそれを手に入れた。
陽の光にかざすと、それは本当に山姥切国広の瞳のようにきらきらと美しく輝いていて
三日月は日頃から、身の回りの整理をしていた。
最低限、物を手元には置かないように、要らないものはすぐに捨てる。いずれ自分はこの本丸を去らねばならないから、後でこの部屋を片付ける刀の事を考えての事だ。
自分の事など忘れて欲しい。
どうか気にせず強く生きていって欲しい。
三日月は忘れる事はないから、皆にはせめて忘れて欲しい。
だから、そのきっかけになるものはなるべく残さないようにと思っていたのに、
文机の上、巾着の中に入れた硝子玉を三日月は未だに捨てる事ができないでいた。
残される物の事を思えば、残していってはいけないのに。
「心とは、まこと、複雑怪奇だな」
忘れて欲しいと確かに思っている癖に
(忘れられたくない……などと)
自分を失った後に、この硝子玉を見て、あの子は何を思うだろう?
泣いて欲しくはない。
(泣いて欲しい)
こんな物に心を乱される事なく、不要なものだと捨てて欲しい。
(俺を思って泣いて欲しい)
忘れて欲しい。
(深く傷ついて、折れるまで俺のことだけを思っていればいい)
傷付けたいわけではいのに。
(傷ついたあの刀は、あまりに毎回美しから)
傷つき、
泣いて、
叫んで、
三日月を呼ぶあの刀の、
(本当は、ただ、花が咲いて実がなり、腐っていく様を見守るように、お主の全てを見ていたかったなぁ)
硝子玉を一つ手に取ってみる。それは触れるとヒヤリと冷たくて、しかし直ぐに三日月の熱が伝わり、同じ温度になった。
光に透かすとキラキラと光を乱反射させて輝く硝子玉。
(連れ去ってしまえたなら)
おそらく自分はあの刀を道連れにするのだろう。
しかし自分が居なくなった本丸にはあの刀が必要だから、
(置いて行かねばなん)
いや、
「置いて行かれるのは俺だったな」
硝子玉に、三日月はそう問いかけて笑った。