続 電子の海のあなたより現実から目を背けてはならない。例え冥府の王であったとしてもだ。
「それで?溜め込んだ執務はいつ終わる?そろそろ本の塔どころか城が建ってしまうぞ」
わかっている。最早考えたくはないが数日分の仕事が滞っているのは事実だ。執務机の上の紙束で出来た山脈を見て、ハデスはうんざりした心持ちになった。身内可愛さ故とは言え、自業自得である。
「必ず片付ける…悪いが部屋を用意させるからそこで、」
「しょうがない。手伝ってやる」
ポセイドンが手にしていた本を閉じ、執務机に近寄って来た。
「気持ちは有難いが…」
「思うに尻に火が点いていないのではないか」
「……?何の」
ことだ。字の如く言葉を飲んだ。
ピアスの付近、耳輪部分を舐め上げられた。愚か者共の言を拾い続けてきた耳に、今はただ愛弟が気紛れで立てる水音だけを流し込まれている。
「ポセ…っ」
片耳を抑えるハデスには目もくれず、ポセイドンは書棚へ向かうと、何かを手に持って戻ってきた。それをそっと執務机に置いた。…砂時計?
「これは…10分計のようだな。砂が落ち切る頃にまた〝妨害“しに戻る…せいぜい励むと良い」
その間にも上部のガラスからどんどん砂は溢れていく。ハデスの困惑と僅かな羞恥を置き去りに、ポセイドンは執務室のドアへ向かう。
「そう言えば…ワインセラーがあったな…?」
振り返ってこちらを見た愛弟は、掛け値無しに蠱惑的で、とても美しかった。その口から放たれた内容はとても看過出来るものでは無かったが。
「待て、今そこにあるワインは使う予定があるんだ…代わりの物なら、」
「そうか…では仕事が片付いた際にはそれを祝杯にでもしようか。…待っている間にうっかり2、3本消失させるかも知れんが」
一見すると楽しそうに鼻歌まで歌い出す始末。だが付き合いが長いこそ知っている。こういうときの鼻歌は、100%純粋な悦楽に因るものでは無いのだと。
ドアの向こうに姿を消す直前、呆気にとられる兄の目をじっと見詰めて、恨み節を残す。
「罰だと言った筈だ…偽物に現を抜かす兄様が悪い。反省しろ」
執務室に一柱残されたハデスは深い溜息を吐きながら、椅子に深く腰掛ける。置いていかれた砂時計を見遣ると、既に半分ほど下部に落ち切っているようだ。これから何度〝妨害“を受けることになるだろうか。そして仕事が完全に片付くまで、自分あるいは弟が〝保つ“のだろうか。疲労の溜まった脳では答えを出せそうに無い。
「やっぱり拗ねてるんじゃないか…」
意図的に機嫌を損ねさせた訳では無い。しかし、想像より遥かに、たかが電子データに嫉妬してくれたようだ。そのいじらしさが愉快で堪らない。
端末の中のデータは思い通りに動くのに、本物は全く気紛れで、我儘だ。
あんな弟に誰がした。
余だな、間違いなく。
冥府と天に分たれても、どれだけ時が過ぎようとも、我が弟は変わらず愛らしい。
次の10分はどんな手で来るかを楽しみに、兄は紙束の一つを崩しに掛かった。