ぼんやりとした意識の中でゆっくり目蓋を上げたバンジークスが最初に捉えたのはこの世で最も愛しい恋人の横顔だった。真剣な顔つきでどこかを見つめているかと思えば時折手に持ったままのスマートフォンを確認するように覗き込む。いまいち状況が掴めないまま眺めていると亜双義の耳にはめ込まれているイヤホンに目が留まる。なるほど音楽を聴いているのかという気づきと、そこまで真剣に聞きこむほどの曲とはどんなものなのか妙な興味が湧いた。
「おっと、起きたのか」
「どれくらい眠っていただろうか」
偶然だったのだろう。いつの間にか目を開けているバンジークスに気づいた亜双義はイヤホンを外してにっこりと微笑んだ。その笑みと、膝にかけられた手触りのいいブランケットが彼の気遣いによるものと分かると愛しさがこみ上げるが、どこか不安に似た違和感が拭えなかった。
「ぐっすりだな。年が明けた」
「何だと……ッ」
ソファの背もたれにのしかかっていた上半身が飛び跳ねるように起き上がるとおかしそうに亜双義はくすくすと笑う。バンジークスが最後に時計を確認したのは十時頃。夕食を済ませてソファでゆっくりと会話を楽しんでいると感じた心地良さは睡魔だったのかと、過ぎ去りし時を思って頭を抱えた。亜双義が初めて一人で法廷に立ったことと新年を祝うためにとっておきのワインを開けて更に語らいを弾ませようとしていた計画はあろうことか睡魔の前に敗北していただなんて。
神妙な顔つきで唸るバンジークスを他所に亜双義はイヤホンをスマートフォンと一緒にローテーブルにそっと置く。隣に置いてあるマグカップから微かに立ち昇る湯気を見るとひと思いにそれを飲み干す。不自然な点はない一連の行動のままテーブルに戻そうとした腕をバンジークスに掴まれるとは思わなかった。
「今のワインは?」
「以前貴方が粗悪品だと罵ったオレへのプレゼントだが?」
「ああ……あれか。キミに言い寄る者が絶えないのは仕方ないが贈り物のセンスについては疑わざるを得ない」
バンジークスが普段から愛飲しているものに比べれば粗悪と言えなくもないが十分値打ち物の一本だ。露骨に不機嫌な顔をしながらそのワインで揃いのグラスを穢すことは許さないと言い放った強烈な記憶は今尚鮮明だ。押し付けるように渡してきた憐れな送り主の顔を思い浮かべながら亜双義が苦笑いを浮かべるがそれもよくなかったらしい。明確に不機嫌ですと主張し始めたバンジークスの表情が硬くなる。
「珍しい飲み方をしていた」
「温めたワインにスパイスや砂糖を加えて……」
「私が教えた覚えはない」
バンジークスの機嫌が下降していくのと反対に、亜双義の機嫌はどんどん上昇していった。今すぐにでも抱きしめてやりたい衝動を抑えながら掴んできた手に手を重ねる。その上から更に重ねられた掌は逃がさないと言わんばかりにぎゅうと亜双義の手を握り込んだ。嫉妬するのも甘えるのも珍しいことではない。ただあまりに些細なことで発芽するそれらはいつやってくるか分からないため微塵も湧かない呆れの代わりに溢れんばかりの愛しいくすぐったさが毎回亜双義を襲うのだ。
「全く、仕方のない人だ。教えてくれたのは貴方の友人だぞ」
「……ベンジャミンか」
「彼からすればとばっちりだ」
想定していなかった人物に気が抜けたのかバンジークスの顔つきから険しさが少しだけ薄れた。亜双義の最もな言い分が身に染みたのか些か強すぎる手の力が緩んで、かと思えばそろりと指を這わせてくる謝罪と甘えに答えるために指を絡ませる。
「もう一つ聞いておきたいのだが」
「いつになく饒舌だな」
「何を聴いていたのだ?」
聴いてみますかと渡された片方のイヤホンを装着して数秒後、あまりにも滑らかな日本語が流れ込んできた。バンジークスは日本で生活するのに不自由ないほど日本語が達者だ。だがその彼を以てしても細部まで理解が及ばない、まるで呪文を聴いているかのような言葉の羅列に思わず亜双義を見ると彼は笑っていた。
「落語だ」
「……エンターテインメントの一つだったか。だが早口過ぎるのではないか?」
「丁度見せ場でいかに噛まずに一息で言えるかの場面だからな、流石に聞き取りにくいだろう」
言葉全てに意味があると言われても理解するまで程遠い芸能に、日本の文化をそれなりに知っている気になっていたバンジークスは唸るしかない。ワインの件は思考の隅へと追いやられ、外したイヤホンをテーブルに置くのと入れ替わるように亜双義はスマートフォンを手に取った。
「いつになく成歩堂が進めてきたからな。こうして解説を見ながら……あっはっは!」
「何だろうか」
「成歩堂にまで嫉妬しなくても良いだろう!」