ベッドの縁に腰かけて腿の上に乗せた身体を引き寄せると伸ばされた両腕が首の後ろに回された。肩口に寄せた唇を鎖骨に沿わせて喉元までなぞれば体臭でも汗でもない彼自身の香しい匂いが漂ってくる。神の杯をも上回る芳醇な香りを放つ総身は肉体だけではなく心までも目の前に差し出され、緊張に身を強張らせながらその時を待っていた。
腰に回した手を引き寄せてもう片方の手で頬に触れると不安そうに揺れる瞳と目が合う。あまりの愛おしさに目眩に似た高揚感が増し、印のため首筋に口付けを一つ落とした。耳は熱を帯びた吐息を拾い、背中に回された手が引き千切らんばかりに強く服を掴むのを感じながらゆっくりと口を開く。牙が張りのある皮と肉を小さな音を立てて突き破る。じわりと滲み出る血液を舌で絡め取れば欲深な魔物がもっと欲しいとささやいて、声に従いもう一度牙を突き立てた。
「痛い!」
怒号。と、同時にかなりの力で引き剥がされる。心地良い眠りについていたのに熱々の香茶をかけられて飛び起きたような突然の衝撃に理解が及ばずバンジークスは瞬きした。元中央刑事裁判所の死神とは思えない間の抜けた表情だが、怒号の主である亜双義はそれどころではない。首筋に手をやると液体の感触がぬるりと指を滑らせるので慌ててチーフで傷口を覆う。
バロック・バンジークスは人間ではない。葡萄酒を飲むかの如く生き血を啜り人智が及ばない力を持つ正真正銘の怪物だ。そんな魔に魅入られて、魅了し返した亜双義は自ら彼に血を捧げる唯一の存在だった。
「また、駄目だったか」
「酷いものです」
「すまない……」
街を歩く倫敦市民より遥かに恵まれた体躯を持ち、顔色の悪さに目を瞑れば美丈夫だと称えられ、厚い唇から発せられるのはつややかな吐息を纏う声。一挙一動、指先まで完璧な所作は色気と優美さを兼ね備えている。加えて厳格さと穏やかさが共存する性格とくれば婦人は見惚れ、紳士から憧れを抱かれる存在だろう。だが人間社会で不自由なく過ごせる引き換えに魔として致命的な弱点があった。
血を吸うのが下手なのである。生き血を啜る怪物なのに。
遥か昔は一日でも血を飲まなければ果敢無く息絶えたとまで言われていた種だというのにバンジークスは壊滅的に吸血行為が下手だった。
「まるで成長が見られません」
「そこまで言うか」
「経験はありませんが野犬に噛まれればこのような痛みなのでしょう」
「野犬だとッ……!」
普段は分かりづらいくせにこういう時だけ目に見えて落ち込むバンジークスを他所に傷を確認すると出血は既に止まっている。深々と牙が食い込んだ傷口も見た目より深いものではない。
目的は血を吸うことだが方法は個体によって違う。一晩で全身の血を吸い上げて相手を絶命させる者もいれば、一人から何度も血を捧げるように仕立てる者もいる。バンジークスは後者だ。吸血の際に伴う痛みを取り払い極上の心地良さを味わう呪いをかけて、あの快を再び味わいたいと自ら血を差し出すための虜にするのだと亜双義は説明を受けた。
そのはずなのだが過去の行為では極上の心地良さとやらはどこへやら、回数を重ねても激痛は当たり前。最初に至っては激痛と失血のショックで昏倒してしまい、目が覚めた時には話が違うと亜双義は怒鳴りバンジークスは平謝り。手探りで行為を繰り返しても遅々として改善しない。
「注射器に頼り過ぎましたね」
「あれは便利な物だ」
「道具に負けないでください」
吸血下手くそ男がどうやって血を得ていたかというと注射器だ。ある意味合法的に血を抜き取る技術によって飢えと渇きの衝動が満たされて、真の魔物に身を堕とさずに済んでいた。そして頼り切りになったせいで亜双義と会うまで獲物から直接吸血するのに十年のブランクが出来上がる。
今日こそは上手くいくかと期待して、激痛によって裏切られるのを繰り返しても亜双義は吸血行為をやめろとは口にしない。種を超えた深い情で結ばれた者同士であり、行為を受けるのは自分しかいないという絶対的な自信があるからだ。
「アソーギ、私が言うのも烏滸がましいのだが傷はできた。だから……いいだろうか」
「……いいことを教えて差し上げましょうバンジークス卿。されるがまま舐めしゃぶられるのは大変な辱めですよ」
「そこまでしていない! はずだ」
「曖昧な記憶での証言はやめていただこう」
痛みを伴いながら作られた傷口から痛まないように血を吸いだすのはいつからか失敗した後の定番になった。それも吸血行為の一種なのだが亜双義はこちらの方が苦手である。皮膚を舐められ吸い上げられる感触とバンジークスの息遣いや香りのせいで否が応でも気分が高まってしまう。
問題なのは情を交わすことが出来るかどうかという点だ。亜双義からするとここまでその気にさせておいてと言うもので、バンジークスからすれば血を吸って更に体力気力を奪う行為はどうかと及び腰になる。最近は亜双義がそうした不満を今日はどうなるか博打を打つ気分に置き換えて楽しもうと密かな努力をしているとバンジークスは知らない。
逆に亜双義が知らないこともある。本来、呪いとは息をするほど容易い行為で失敗はあり得ない、では何故上手くいかないのか?その理由は呪いによって引き起こされる心地良さは情交によって生じるものに似ているからだ。手ずから与える快楽ではない喜悦によって亜双義が身悶えるのが我慢ならないバンジークスの矜持が呪いの効果を薄くしていた。
お互いにあと一つ噛み合わない思惑を知らないままシーツの上に亜双義の身体が横たわり、閉じ込めるようにバンジークスが覆い被さる。