暗くなって、夜が明けるまで 明け方に目が覚めたんで、湯を沸かしてインスタントコーヒーを淹れた。湯気の立つマグを引っ掛けたまま、開け放った窓辺に肘をついてマグを傾ける。熱々で、ピリッと苦いブラックコーヒーを飲み込むと、頭がしゃんとした気がして良い。
両手で包み込んだマグから立ち昇る湯気が風に靡いて散ってくのを、なんとはなしに目で追った。ここは地面の高いところにあるアパルタメントなんで、今いる三階の部屋からでも、まだ薄暗い街並みが一望できる。見渡す限り静かな青色に染め上げられて、近所のベーカリーの仕込みの匂いでもしなけりゃあ、まるで時間が止まってるみたいだ。
「………さみ、」
下着姿で明け方の窓辺に寄りかかっているには、ちょっとばかり辛い寒さだ。さすった剥き出しの腕は冷えて、コーヒーも熱いとは言えない温度に変わろうとしている。
(昨日はまだヘーキだったのになぁ…)
ここに来て二度目の秋の気配。一つ処でこんなに長く暮らすのは、初めてじゃあないが稀なことだった。
一旦奥に引っ込んで、ベッドからブランケットを取って戻ってきた。くるまって匂いを嗅ぐ。また、窓の外を見る。石造りの通りに、ちらちらと人の行き来するのが見える。どれも知らないシルエットだった。未練がましく口をつけるコーヒーは、冷えはじめていて味気なく、どうにもならない。砂糖もミルクもいいかげん買いに行かなきゃあと思ってはいたのだ。でも、昼間は眠たくて出かけるのが億劫で、つい先延ばしにしてるうちに切れてしまった。ただ、それだけのこと。
待つのは嫌いだ。
そもそも、俺という男はそんな健気なことが似合うタイプじゃあない。だけど、この狭い部屋も、古くてやたら軋むベッドも、いやに広く感じるようになって、誰かさんに慣らされきった体をひとりじゃどうにもできなくなって、奥に流し込んだローションの残骸が虚しさに拍車をかけて、だから…
両手のひらに顔を埋めると、長い長いため息が漏れた。自分で思っていたより、だいぶ重症かもしれない。
別に、“仕事”に手こずって最初の予定より押すなんてのは、ままあることだ(それでも一ヶ月はずいぶん長いが……)。ことに同居人はおそろしく優秀な男だから、依頼内容もそれに見合って難しい案件が多い。
ーーーーー難しいってことは、それだけ危険だってことで、
危険だってことは、生きて帰ってこられる可能性が、低いってことだーーーーー
ぶるっと震えがきて、ブランケットの合わせを深くした。服を着ればいいのだが、あまり窓辺を離れたくなくて、意地になっている。まあ、夜明けまでどうせそんなに時間もないしな、と冷え切ったマグから手を離してしまって、代わりに氷みたいな素足を何度もさすった。空には黄色い光が射しはじめてて、ちまちま並び立った家々の瓦が楽しげにキラキラさざめき出している。
(……今日もだめ、か……)
ヤツは基本的に、陽の出てる時間には帰ってこない。なぜかは知らない。夜陰に紛れて帰ってきている、つもりなのかもしれない。
夜明け頃はけっこう明るいんだぜと思いつつ、機嫌を損ねると怖いのでずっと言わないままでいるが。
体はすっかり冷えきって重かった。あったかいシャワーを浴びて、体の中もきれいにしてしまってから寝直そう。
今夜また、陽が落ちるまで。
踵を返そうとして、ふと、本当に何の気なく振り返った。窓の下の通りを。俺はハッとした。
ここいらじゃあ珍しい、浅黒い肌をした異国の男が杖をつきながら、朝の澄んだ光が照らす石造りの通りをゆったりとした歩幅で歩いている。およそ一ヶ月ぶりに見た男の顔は、無精髭も相俟っていっそう鋭く、丹念に研ぎ澄まされた鋼のようだった。守秘義務があるので詳しい内容こそ知る由もないが、あの彼をしてさえ大変に困難な仕事であったことは容易に窺い知れた。
同業の身だ。自分とて、命の危険にはいつも晒されている。来るべき時の覚悟は、常にある。自分自身へのものも、男へのものも。
だけれども、だからこそ。
「……ンドゥール……」
おかえり。
小さく小さく呟いた。
凝り固まっていた漠然とした不安と恐怖が朝陽に溶けてしまうと、今度は滲み出るような安堵に腰から崩れ落ちそうになった。
と、歩みを止めた男が突然、こちらを振り仰いだ。
「……!」
まるで見えているかのように、相手は真正面の的確な位置で俺の顔を捉えていた。
「ーーーーー…」
声をかけようとしたが、なんと言っていいか分からない。
気味悪がられるかもしれない。疲れて帰って来たところをこっそり待ち伏せされて、それもこんな朝早くに!
そう思うと、盛り上がった気持ちがしゅんと萎んでゆくのが分かった。
どうしよう。なかなか帰ってこないから、今回こそ駄目なのかもしれないと思いながら待ってたなんて、本人に知れたら消されるかもしれない。もちろん、ヤツの強さを疑ってるわけじゃあない。でも、ただ…巡り合わせってあるから…、俺は……。
「……え、あ、あれ?」
一人でぐるぐる考えていたら、いつの間にか通りからンドゥールの姿が消えていた。身を乗り出そうとするより早く、こちらへと次第に近づいてくるのは、階下のバタバタいう賑やか極まりない足音……
「ヒッ!?」
本人が現れるより早く、水でできた巨大な手に両腕ごと握りしめられた。ぎゅうっと力強いその手は普段の何倍も大きい。蓄えた力の大きさにゾッとする。このまま力を加えられたら簡単に千切れてしまうだろう。
「アレッシー!!!」
めったに聞かない大声に、びくうっと思わず跳ねた。水の手がザアッと開いて、飛び込んできたンドゥールと俺とを包む。そうして混乱状態の俺の口をキスで深く塞いだヤツは、離すと同時にこう言った。
「ーーーただいま」
頬を撫ぜる、乾いて硬い、あたたかい手のひら。
土煙と硝煙と血液、それから汗の混じる体臭。
隙間なく抱きしめてくる強い腕。白く濁った目。
心からの笑顔と、
初めて耳にした、泣きたくなるほどくすぐったい、その言葉。
「……体が冷たい。窓も開いているな。ずっと俺を待っていたのか?」
冷えた体をいつまでも抱いていてくれるものだから、気持ちが甘えてしまって、つい素直に頷いてしまう。
「いつの間にか寝てたから、窓のとこには二時間もいなかったけど……」
でも、この二週間は、暗い間はずっと待っていた。もう数日戻らなかったら諦めてただろうけど、それまでは待つつもりでいた。
「そうか」
それだけ言って、ンドゥールは俺の顔や首や、とにかくあちこちに触れるだけのキスを落とし続けた。その度に無精髭がくすぐったくて、俺はもういろんな感情をごまかしがてら身を捩って笑った。
ンドゥールのいる、この場所、この時間、この心の安息は、他の何にも代え難い。これをある日突然に失うかもしれないという不安と恐怖を抱えながら、俺はこれから先もこの男と生きてゆく。途方もない明日に描くものが希望でも杞憂でも予感でも、互いの命のある間はそばにいたい。
「一緒にシャワーを浴びよう。温まったら、仮眠して、食事をとって、そうしたら…」
クッと、低い笑い声が耳を掠めた。
「アレッシー、覚悟しておけよ…?」
「あ…っ、」
凶悪なその笑みの、なんて魅力的なことか。
ぞくんと走った情欲はとっくに見透かされているに違いなかった。
一人寝で燻り続けたままの熱は、恥知らずにも期待に赤々と燃え出して、取り除き損ねた残滓と混ざり溶けて、早くも疼きはじめている。
「ンドゥール、」
恥を捨てて、俺は呼びかけた。
「なんだ?」
そのすべてを分かっているような笑みを刷く唇に噛みつきながら。
「覚悟……もう、できてるんだけどっ……!」
本当なら、ンドゥールを休ませてやるべきなのかもしれないが、どうせどちらもこのままじゃあ眠れない。水でできたこの男の分身だって、ひんやりとしたその身をあちこちに絡みつかせて少しも離そうとしないのだから。
「………そのようだな」
勃ち上がったものを押しつけ合いながら、唇を貪り合った。伸びた髭が擦れて痛い。それでも離れてしまうのは、わずかであっても惜しかった。
自らを開放できる相手にすべてを委ね、また相手を受け止められることは、間違いなく幸福である。ただし、窓を閉め忘れた部屋で昼過ぎまで盛大に盛り上がってしまったなら、支払う代償はそれなりだ。
ふたりがそれを知るのは、すべてが済んだ後のことである。