参った。最悪なスタートダッシュになった。知らない街に来て大雨に降られるなんて本当にツイてない。大体駅前の仲介業者も適当すぎる。鍵を渡してスマホで住所を調べて部屋を探して勝手に内見して来いとは、田舎らしいというのか適当すぎるというのか。該当の住所に来てはみたけどアパートらしいものなどない。
「え、住所だとここだけど……」
どこからどう見てもカフェにしか見えない建物が立っている。白い壁に蔦が絡まる、緑が多いちょっと小洒落たカフェとオレが探しているアパートのイメージは離れていた。でも住所は間違いなくここのようで、それらしい入り口を探すが見つからない。
駅から徒歩10分と言われても知らない道の上、この雨の中を歩いてきたので随分長い時間を歩いていた。周囲をうろうろしているうちに雨はまたさらにひどくなってくる。横殴りの風が強く、立っているのもしんどい。周囲を探すにしても強い風に傘が吹き飛ばれそうになる。仕方ない。
「すみません……。緑陰荘ってどこにあるかご存じないですか?」
カフェの中に飛び込みで入ってみた。室内は明るく、オレンジ色の照明が目に優しい。カフェの中はあちこちに植物が置かれ、白い壁に緑が映える。
「いらっしゃい。……ずぶ濡れだなあんた」
髪から足まで水を被っていた。店主と思われる男がこちらを見つめている。客商売の邪魔になっただろうか。
「すみません、外で降られちゃって」
「まずこれで髪拭きな。風邪ひいちまう」
カウンターから店主が姿を見せた。デカい。第一印象がまずこれだ。俺も背は高いほうだがそれより更に五センチ以上はある。目も鋭く、声も低い。黒いエプロン姿のカフェの店主よりも正直、客商売向きの雰囲気ではない。ただ者ではない雰囲気に蹴落とされ、一瞬たじろぐ。
「あ、ありがとうございます……」
しかし外見の怖さに反して差し出されたタオルは柔らかく、日向の匂いがする。受け取った俺に目を小さく細めると、さっきの印象が一遍に変わった。一見怖そうな雰囲気が立ち消えて空気も穏やかになる。
素直に受け取ったタオルで髪や体を拭くと自分がどれだけ冷えていたのかを知った。駅前の不動産屋を出た時はここまででもなかったのに、急に雨脚が強くなった。まるでこのカフェに引き寄せられるように。
「あ、ありがとうございました。あの、すみません。とりあえずコーヒーを」
借りたタオルの礼ではないが、ここはカフェだ。コーヒーくらい飲まなくては、と思いとりあえずカウンター前の椅子に腰を掛け注文をする。
「悪いがうちは紅茶屋だ」
「え?紅茶?」
「コーヒーはねえ」
ぶっきらぼうな店主の言葉と共にメニューが出てくる。カフェ・ディンプル。開いたメニューは紅茶の名前とおぼしきものがカタカナと横文字で並んでいるが、正直見覚えがあったのは。
「え、えっと、ダ、ダージ、リン?」
「ダージリンは今の時期オータムナルで渋みが強いからあまりおススメ出来ねえな。ミルクティーにするならいいんだが今ならウバかケニアかニルギリか」
「え?」
「まあいい。好みあるか?」
「こ、紅茶ってティーバックくらいしか。レモンティーとか」
「ティーバックも最近は美味いが、じゃスッキリしたやつを出すか」
店主が言っているのは紅茶の銘柄なのだろうが、正直全く分からない。ケニアはアフリカの国?くらいの知識だ。ただただ呆気に取られてカウンターでぼーっと紅茶を待つだけの間抜けな自分がいた。
カフェはカウンターとテーブルが三つの小さな店で、店先に持ち帰り用の焼き菓子などが置いてある。人が座るスペースより緑が多い。壁の蔦と言い緑と白が特徴的な店だ。花屋と言っても通じるかもしれない。
カフェ・ディンプル。ディンプルって……確かエクボ。それ一体何だ?と思っていると目の前に湯気が上がったカップが差し出された。
「うちのオリジナルブレンドだ。ストレートじゃなくて少しキビ砂糖を入れて甘くしてる。身体冷えてる時は甘いものを少し取って身体を温めた方がいい」
カフェの程よい暖房のせいか髪は乾き始めていたが、そんなところまで気を遣わせていたのも申し訳なく感じる。無愛想なんだか気を遣っているのかよく分からない店主の目は鋭く、切れ長の目をしている。
正直に言おう。この顔メチャクチャ好みだ。俺は女にあまり興味がなく、いわゆるゲイになるようだ。ようだ、というのは付き合った事が一人しかいないので実際本当にそうなのか確証が持てない。
でもこの店主の顔は、見た瞬間胸がざわついた。低く落ち着いた美声と長身、俺より体格がいい男など滅多にいないが黒いエプロンにシャツをまくった腕は鍛えているのが分かる程よい筋肉質だ。血管の青い筋が手の甲にくっきりと浮かんでいるのもいい。
顔も美形というよりはどちらかと言うとちょっと言葉は悪いが、まずカフェの店主には見えない。スーツを着て裏稼業に就いている、と言われても信じるだろう。
極めつけは何故か左の耳が欠けている。鋭角的に斬られたような痕だから先天的なものには見えない。切れた耳に鋭い細い目。危ない匂いがしてもおかしくないのにさっき見た顔は笑顔だった。笑うと印象が随分変わる。
俺が店主について思いを巡らせている間に紅茶が程よい暖かさになってくれた。俺は猫舌で熱いお茶が苦手だ。でもここは素直に飲んでみる事にする。
「……う、うま、」
ティーバックで適当に入れた味ではない事はすぐわかった。あれだって美味いんだろうが、これは飲んでみるとほんのりとした優しい甘さが咥内に広がってゆく。紅茶に薫りがついているのか、鼻先にいい匂いがした。紅茶ってこんなに美味しいものなのか。
「ありがとな。うちのオリジナルでな。美味いって言ってもらえると嬉しい」
ああ、その笑顔。まずい。また心が奪われそうになる。見ていると十代の娘さんのようにヤバいヤバいと語彙力ゼロで心情を訴えそうになった。
「あの、実はこの住所のアパートを探してるんですけど」
「緑陰荘ならうちだ」
「え、ここカフェ……」
「カフェの裏手に入り口がある。駅前の不動産屋からの紹介か?」
「はい、鍵だけ渡されて」
「本当あいつは適当な仕事をするな。すまん、俺からも言っておく。内見か?」
うち、という事はこの男はアパートの大家という事だろうか。
「はい。駅まで15分くらいでって言って紹介されて」
条件面としてはごく普通だ。会社のある駅前まで徒歩圏内。ただし急な転勤願いを出して転属した関係上、俺の給料は都心に居た頃に比べてかなり下がってしまった。
その辺りを考慮した金額で、となった時紹介されたのがここになった。本当はオートロックにしたかったが、やっても無駄になる事は前回の家で証明済みだ。
「じゃ部屋借りたいってのはあんたか。わざわざこんな日に来てご苦労だったな」
「出来れば週末には引っ越したくて」
一刻も早くあの部屋からは出たい。嫌な事を思い出して振り切るように紅茶を飲む。
「今日はこの雨なんでもうカフェは店じまいするところだった。良かったら内見付き合うか」
大家自ら物件を案内するというのは滅多にある事ではない。渡りに船とはこの事だ。しかもやっぱり間近で見ても顔がいい。声は更にいい。
「ありがとうございます。ぜひお願いします」
「あんたが決まればうちとしてもしばらく空き部屋だったのが埋まって丁度いいんだ。って言っても一部屋しかないアパートなんでな」
「一部屋しかない?」
「隣が俺の家だ。空いた部屋を貸してるだけでアパートって言える程でもない」
思わぬ事態に内心驚く。部屋が気に入って住む事になればこの男が隣にいるという事になる。カフェに来ても会う事は出来るが、部屋も隣同士になるというのは何という偶然なのだろう。
とは言っても、それだけだ。確かに顔は俺の超好みではあるけれど、それが何だという。指輪はしていないから結婚は多分していないんだろうけど、こんないい男がモテないわけはないし彼女の一人くらいいて当たり前だ。期待も何も一ミリも持てない。
「紅茶ご馳走様でした。部屋、内見させてもらっていいですか。帰ったらお会計を」
「紅茶はサービスだ。俺は大家の吉岡エクボだ」
「え、それ」
「本名だ。だからカフェの名前もディンプル」
「エクボ……」
顔に似合わず、と言っていいのだろうか。名前が可愛い。何と言うかこの男、全身全霊で俺の好みのド真ん中を貫いてくる。
「あの、俺は霊幻、霊幻新隆です」
「その名前……」
「本名、です」
お互い本名が特徴的なんていう共通項まで作らなくてもいいでしょう、神様。どうせ俺の恋なんてかないっこないんですから。いつだって恋愛は上手くいかない。