「エーリッヒ、聞いてくれ」
シュミットがキラキラした目をして、僕のところにやってきた。
「はい、どうしたんですかシュミット?」
僕はシュミットに笑いかける。
シュミットは頬を上気させて、嬉しそうにふふっと笑った。
「ブレットをランチに誘ったんだ。たまたま、今日はそばに誰もくっついてなくて、ブレットだけを誘えた!」
はー、緊張したぁ、とシュミットは思い出したように息を吐く。
可愛らしい様子は、恋をめいっぱい楽しんでいるのがよく分かる。
どうして片想いがそんなに楽しいのだろう?
僕はこんなにも辛いのに。
だけど、そんなこととてもシュミットには言えないから、僕は笑顔の仮面を被り「良かったですね」と思ってもいないことを言うしかなかった。
「それで、ランチはいつですか?明日?」
「日曜日だ。ふたりで出かけるんだ」
シュミットは甘く瞳を蕩けさせてそう答えた。
「それは………」
てっきり、学校のカフェテリアで食事をするだけだと思い込んでいた──いや、思いたかった僕は、言葉を続けられなかった。
休日に、ランチに出掛けるなんて。デートじゃないか。
いや、僕だって何度もシュミットとふたりで出掛けたことくらいある。ランチやショッピング、映画、お茶。
だけど、決定的に僕のそれとは違うように思えて、僕はシュミットに気づかれないように奥歯を噛み締めた。
と言ってもシュミットは浮かれていて、僕の様子が少々変でも気づきはしないだろう。
「……何を食べに行くんです?」
努めて明るく、柔らかく、シュミットに訊ねると、シュミットは眉を下げて、僕の顔を見た。
「何がいいと思う?ブレットは何が好きだろうか?」
「………さあ。分からないですね」
知りたいと思ったこともないことを訊かれて、つい素っ気ない返事になってしまう。
シュミットは、うーんと真剣に悩む様子を見せる。
僕と一緒の時は、いつもさっさと店を決めるくせに。
「……やっぱりブレットに、何が食べたいか訊くのがいちばんかな」
そう自己完結をして、シュミットは僕にくるりと背を向けた。
「ブレットの所に行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
シュミットの小さくなる背中をいつまでも見つめながら、僕は考えていた。
デートを中止にさせるには、僕はあまりにも無力だ、と。
***
日曜日はすぐに来た。
シュミットは朝早く起きて、あれでもないこれでもないとクローゼットの中からたくさんの服を引っ張り出してはその辺に放り投げている。
同室の僕は、シュミットが投げ捨てた服をひとつひとつ拾い上げて、こっそりと溜息を吐いた。
「これでどうだ?変じゃないか?」
ようやく着る服を決めたらしきシュミットが、僕に問いかける。
この前、僕とショッピングに行った時に買ったばかりの服だ。
「良く似合っていますよ」
僕は苦々しく思いながらも微笑んでみせた。
そわそわと何度も時計を確認するシュミットを横目に見ながら、僕は今日、どうしようか、と考える。
本当はデートについて行って邪魔をしたいが、あんなに楽しみにしているシュミットを見てしまうと、そんなことしてはいけないと良心が責めてくる。
ゆっくり読書でもして、現実逃避をしようか…。
しかし集中できる気はしなかった。
そうこうしているうちに時間は過ぎて、ブレットとシュミットが約束をした時間になる。
コンコン、と部屋のドアがノックされた。
「ブレットだ」
シュミットは嬉しそうにドアに駆け寄る。
「やあ、ブレット。おはよう」
「おはようシュミット。今日は楽しみだな」
「ああ」
こちらに背を向けているシュミットの顔は見えない。
だが、弾んだ声からして、きっと眩いばかりの笑顔なのだろう。
「じゃあ、エーリッヒ。行ってくる」
「行ってらっしゃい。お気をつけて」
僕はシュミットに手を振る。
「シュミットを借りて行くぞ」
「…どうぞ?」
ブレットはわざわざ嫌味のように僕にそう断ってきた。(勿論、嫌味なはずは無い)
シュミットがどうしているか気になって、僕は昼食が喉を通らなかった。
昼食を共にしたミハエルにも、「心ここに在らず、って感じだねぇ」と呆れられた。
ああシュミット、あなたがそばにいないと、僕はこんなにも──。
なんて嘆いても仕方がない。
シュミットは今頃、ランチを終えてブレットと楽しく街を歩いている頃だ。
普段、地元ではお抱え運転手付きの車でドアtoドアのシュミットは、人混みを歩くのが下手だ。はぐれたりしないようにと、ブレットと手を繋いでいるかもしれない。
きっと、花も恥じらうような、愛らしいはにかみ顔を見せているのだろう。
僕に見せたことの無い顔を、ブレットには見せるのか……と痛む胸を抑えて頭を振ると、無理矢理読みかけの本に視線を落とす。
読書はちっとも進まない。
文字の羅列が、頭をすり抜けていく。
何度目かも分からない溜息を吐いて、冷えたコーヒーを淹れ直そうと、本を置いて立ち上がった。
部屋に備え付けのケトルの隣にコトンとマグカップを置く。
いつもの癖でつい、シュミットの分も…と彼のマグカップに手を伸ばしそうになり、僕は舌打ちをした。
マグカップの持ち主は、別の男と楽しくデート中。
お揃いのマグカップを持っていたって、僕とシュミットは恋人なんかじゃない。ただの、幼なじみだ。
マグカップを叩き割りたい衝動に駆られ、僕はコーヒーを諦めた。
ついでに読書も諦め、あてもなく部屋を出る。
寄宿舎から出ると、空は僕の気持ち同様、どんよりと重苦しくのしかかってきた。
出掛けるのはやめようか、と僕は躊躇した。
「どこ行くの?雨が降りそうだね」
と、不意に話しかけられて、はっと我に返って傍らを見る。
ミハエルが、にこっと笑いかけていた。
「いつの間に……」
「さっきから居たよ。エーリッヒ、って呼んだのに返事もしてくれないんだもん」
「すみません。考え事をしていました」
「ふぅん。……シュミットのことでしょ」
「!」
ミハエルはふふふと笑ったが、僕はきっとすごく情けない顔をしていたと思う。
「あなたには、なんでもお見通しなんですね」
「まぁね」
ミハエルは肩を竦めて「君たちは、分かりやすいからね」と言った。
「ここで、シュミットが帰ってくるのを待つつもり?」
「いえ……部屋に、帰ります。じゃあ」
と苦笑した僕に、ミハエルは「待って」と言ってきた。
「君と話がしたいんだ」
「話……?構いませんが。ここで?」
「どこでもいいよ。君の部屋、行ってもいい?」
「はい」
何を考えているのか、話とは何なのか、分からない。
部屋に招き入れると、ミハエルはさっさとソファに座り、僕にも座るよう命じた。
「話、とは?」
「君たちのこと。…あのね、エーリッヒ」
ミハエルは真剣な声音で、僕の顔を見る。
「好きなら好きって言わないと、シュミットには伝わらないよ」
「……何かと思えば」
僕は視線を床に落とし、首を横に振った。
「伝わらなくていいんですよ。伝えたって、シュミットを困らせるだけです」
「そうかな?」
「そうですよ。シュミットは僕のこと、ただの幼なじみとか、親友とか、そんな風にしか思っていないんですから」
もし想いを伝えて、シュミットに避けられたりしたら。幼なじみの親友ですらいられなくなったら。それが怖い。
なんて意気地無しなんだ、僕は。
自嘲で口元が歪む。
ミハエルは少し沈黙して、それから腕を伸ばすと、そっと僕の頭を撫でてきた。
「君が本当にそれでいいなら、僕は何も言えないけれど。……後悔はしないようにね」
「ご心配、ありがとうございます」
僕がそう答えた時、ガチャリとドアが開く音がした。
僕は弾かれたように顔を上げそちらを見る。
「楽しかったよ、ありがとう」
帰ってきたシュミットが、ブレットに今日のお礼を言っていた。
「こちらこそ。またふたりで行こうな」
「!…ああ。楽しみにしてる」
ブレットがシュミットを次のデートに誘うのを、目の前で見せつけられて僕は絶望的な気持ちになる。
別れのキスをしないのが不自然なくらいの雰囲気で、しかしブレットは片手を上げて去っていった。
「ただいま、エーリッヒ!ああ、ミハエルも来ていたんですね」
うきうきと、浮かれた様子でシュミットが部屋に入ってくる。
「お帰りシュミット。楽しかったみたいだね」
「ふふ。最高でしたよ!」
シュミットはミハエルと短い会話をすると、手にした小さな紙袋を僕に見せるように掲げた。
「見てくれ、これ!」
「…何か買ったんですか?」
「ふふふ。ブレットが、買ってくれたんだ」
嬉しそうにシュミットが紙袋の中から取り出した箱。それは、マグカップの箱だった。
「ご機嫌だねぇ、シュミット」
ミハエルが言うのが遠くで聞こえた気がした。
こうして僕は、ひとつずつお揃いを奪われていき、最後にはシュミットも失うのだ。
それも、きっとそう遠くない未来に。