その日俺は、面白くもない大人たちの社交の場に出ていた。
父が主催する夜会なので、跡継ぎの俺が不在というのは都合が良くないだろうとその顔を立て、父の傍らでただ愛想を振りまき、顔と名前を覚えてもらう。
こう言ったパーティーは初めてではなかったが、何度参加しても気疲れするものだ。
「シューマッハ殿、今夜も大盛況ですなぁ」
そう言ってひとりの男が父に近づいて来た。父は顔を明るくし、それから深々と礼をした。
「ヴァイツゼッカー様!よくぞお越しくださいました」
父のこの態度を見れば、目の前のこの男性が、シューマッハより位の高い家の人間だとこどもの俺にだってすぐに分かる。だから俺も、父に倣ってゆっくりと頭を下げた。
「息子です」
「シュミット・ ファンデルハウゼン・フォン・シューマッハです。よろしくお見知り置きください」
名乗り、顔を上げて営業スマイル。
自慢だが俺の顔は、ヴィーナスの加護を受けし、だとか、アフロディテの嫉妬を受けるべき、とまで言われている。言っている六割はシューマッハの使用人たちではあるが、ただの身内贔屓でないことも夜会に出るようになり知った。その美貌にあぐらをかくことなく、愛想も良くするのが俺の義務だ。だって、人間関係なんて、円滑な方がいいに決まってるじゃないか。
狙い通りにヴァイツゼッカー様は、俺を見て、ほぅと小さく声を漏らされる。
「いやぁ、美しいとは聞いておりましたが……それだけではなく聡明そうなご子息で!」
そう言ったヴァイツゼッカー様は、屈んで俺と目線を合わせ、
「うちにも息子がいてね。病弱だったが、最近はだいぶ強くなっているんだ。だが、こんな盛大なパーティーでお披露目なんて、あの子にはまだ早いだろう。……よければきみが、息子の友人として、先輩として、親しくしてやってくれないか」
と優しく仰った。
「ええ、もちろん。喜んで」
にこり、笑えばヴァイツゼッカー様も目を細められた。
「では早速だが、よければうちに遊びに来てはくれないか?次の休みにでも…」
「ヴァイツゼッカー様のお宅へ?」
随分気に入られたものだ、と俺は父を見上げる。父は頷いた。
「では、ご迷惑でなければお伺いさせていただきます」
「ありがとう!うちは少し遠いかもしれないね。迎えを寄越すから心配しないでくれ」
とても嬉しそうなご様子のヴァイツゼッカー様。きっと、ご子息のことをとても大切に思っておられるに違いなかった。
「うちのはね、名前をミハエルと言って、年齢は……多分、君より下だと思うのだが」
「ミハエル様。おいくつでいらっしゃるので?」
「今年、十になったよ」
「ああ、ふたつ下ですね」
妹しかいない俺は、柄にもなく少しドキドキしていた。弟のように可愛がれる、歳下の友人ができるかもしれないことに。
「初めまして。シュミット・ファンデルハウゼン・フォン・シューマッハです。どうぞシュミット、と」
俺は微笑み、目の前の少年に頭を下げる。
蜂蜜色の髪を揺らし、ペリドットのような瞳をきらきらとさせ、桃色に頬を染めている彼が、俺の来訪を喜んでくれていることが分かって少しほっとする。
少年は弾んだ声で
「ミハエル・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーです。会えて嬉しいです、シュミットさん」
と手を差し出してきた。
その手を取り、顔を上げて
「よろしくお願いします、ミハエル様」
と俺は笑みを深くする。必殺のキラキラスマイルだ。
ミハエル様は桃色の頬をさらに濃く染めながらも、
「様なんて。やめてください、ミハエル、でいいですよ。お友達になってくださるんでしょう?」
と唇を尖らせる。可愛らしい仕草だ、まだあどけなさが見て取れる。
「分かりました、では、ミハエル?あなたも、私に敬語は不要ですよ」
「えぇ?でも、あなたの方が僕よりお兄様なのに」
「そういう問題じゃないんです。ヴァイツゼッカーがシューマッハに遜る必要はありませんから」
ふふ、と俺は笑った。心からの笑い。
目の前の愛くるしい少年は、家の権力を笠に着て俺を屈服させようなどと思う輩ではなかった。それが嬉しい。
だが、それとこれとは別の話で、俺は彼を敬わなければならない。そうすることが、俺の義務なのだから。
「じゃあ、シュミット……って呼んでもいいのかな?」
「ええ。もちろん」
答えると、それまでどこか遠慮がちにおずおずとしていたミハエルは、ほっとしたように息を吐いた。
「ありがとう。……シュミットみたいな綺麗な人が、いきなり僕と友達になりに家まで来てくれるなんて、嘘みたいだよ。僕、緊張しちゃう」
「はは。緊張だなんて。私の方こそ緊張していますよ。天使のように無垢なあなたにお目にかかって」
「ふぅん。君には僕がそう見えるの」
ミハエルは面白そうにくすくすと笑い、そして満面の笑みで
「僕の部屋でゆっくりお話ししよう」
と俺の手を取り、ぐいぐい引っ張って城の深奥部に向かって行った。
辿り着いたミハエルの部屋は、当たり前なのだが大層広く天井が高く、そして本棚にぎっしりと、美しい装丁の本が並んでいた。
ミハエルは、部屋の中央の天蓋付きの大きなベッドにぼふっとダイブし、そこにあったたくさんのぬいぐるみのうちのひとつを抱き寄せて、大きく息を吐く。
「はぁ………」
「大丈夫ですか?お身体が強くはないとお聞きしております」
ベッドサイドに立ち、俺はミハエルの顔を覗き込む。
ミハエルは恥ずかしそうにぬいぐるみで顔を半分隠しながら
「うん、そうなんだ。すぐに疲れちゃうし、すぐに熱が出ちゃう。情けないよ」
と言った。
「私がお側にいると、あなたの負担になりますか?」
気を利かせたつもりで俺は訊いた。するとミハエルは目をまん丸にして
「そんな訳ないじゃない。側にいてくれたらすごく嬉しいよ」
と寝転んだまま俺に向かって手を伸ばす。
俺は腰を折り、ミハエルの手を取って自分の頬に当てた。
「私のこと、お気に召してくださいました?」
「うん。すごく。今まで会った誰よりも、君がいちばん美しいよ」
「光栄です」
そんなの知ってる。言われ慣れすぎて、飽きてすらいる。だが、ミハエルにそう褒められるのは悪くない。心が温かくなった。
「でも、君の価値はその美しい顔だけじゃないよ。君はすごく賢そうだし、それに優しいし。僕、君と友達になれて嬉しいんだ。シュミット、君は何でも持っているね!」
「身に余るお言葉ありがとうございます」
次々に褒め言葉を重ねるミハエルに、さすがに擽ったくて、俺は吐息で笑った。
「そんなに興奮して大丈夫ですか?辛くないですか?」
「はは。そうだね。ごめんね、少し休んだら回復するから。そしたら僕と遊んでね」
ミハエルは申し訳なさそうに言いながら俺の頬を撫でる。
「ええもちろん。なにをしましょうね。あなたはなにをして遊ぶのがお好きなのですか?」
「僕はね、動物と遊ぶのが好きなんだ。いぬやねこやうさぎやことりや……とにかくたくさんの動物がうちにはいるんだよ」
「なるほど」
それで彼はずっと俺の頬を撫でているのかと、合点がいった。つまりは動物を愛でるのと同じで、撫でることが相手への親愛の情の表れであるのだろう。
「君は、普段はなにをして遊んでいるの」
逆に訊ねられ、俺はうーんと考えた。
「そうですね、乗馬が好きですが……あなたは乗馬に向かないかもしれませんね。あれは結構ハードですので」
「乗馬ねぇ。一応嗜みとしてできなくはないけど……」
「いや、やめておきましょう。落馬でもしたら大変です」
「そんな、うちの馬たちは皆いい子だよ、僕を振り落としたりしない」
「そうだとしても、今日はお疲れなのでは?初対面の人間とこうして話すのも、気を張りますから」
「それは……」
しゅんとミハエルは項垂れる。
「他には………ああ、アレはどうかな…」
俺は、幼なじみのエーリッヒとミニ四駆のチーム〝アイゼンヴォルフ〟に所属してチームのリーダーを務めているのだが、ミハエルもミニ四駆に興味を持つだろうかとその話題を持ちかけることにした。
「ミニ四駆、て知ってます?」
「知ってるよ。車のおもちゃだよね」
「そうです。私は幼なじみと一緒にチームに所属してレースをしています。大掛かりなコースでなければ、走らず見ているだけでも楽しめるので、あなたも一緒に走らせてみませんか?」
俺の言葉にミハエルは目を輝かせた。
「やってみたい!」
元気な返事に俺はにっこり微笑み、いつも持っている愛機・ベルクマッセをミハエルに見せる。
「大きなレースでは、マシンを追いかけて走るのですが……この部屋の中を走らせるくらいなら、動き回る必要はないでしょう」
カチッ。スイッチを入れると共に俺の意識はマシンに集中した。ミハエルがどういう表情をしているのかもう分からないが、息を飲んで俺と、俺のマシンの走りに注目している……と言ったところか?
「…3…2…1…ゴー!」
俺が手を離すと、俺のベルクマッセはミハエルの部屋の端まで一気に駆けて行った。
「うわぁ!速いっ!」
「でしょう?コースがあって、競う相手がいればもっと面白いですよ」
壁にぶつかって進路を変えたベルクマッセを視線で追い、笑う俺に、ミハエルが
「分かった、ちょっと待って!」
とストップをかけた。
「?」
ベルクマッセを捕まえ、スイッチを切って、ミハエルに向かい首を傾げる。
ミハエルは目をキラキラさせたまま、ぱたぱたとスリッパを鳴らして部屋を出た。部屋の外に待機していた使用人になにか話しかけて、すぐにミハエルは戻ってきた。
「僕もミニ四駆を買ってもらうことにした!コースも用意してもらうよ。今から買いに行かせるから、しばらくお茶でもしながら待っていよう」
「あはは!そんなにミニ四駆がお気に召しましたか!」
「うん、とっても!」
にこにこ、ミハエルは屈託のない笑顔で俺を見上げてきた。
それから俺はミハエルとしばしのティータイムを過ごす。
ミハエルは嬉しそうに色々と話をしてくれた。可愛らしくて、弟がもし居れば、こんな感じだったのかなと、身分差も弁えず考えてしまう。
程なく、使用人がお待ちかねの品が届いたことを告げに来て、ミハエルは弾む足取りで俺の手を引っ張りながら、さっきの私室とは別の部屋に俺を案内した。
そこには、市販のコースを既に組み立て始めている使用人がそこかしこにいて……そしてたくさんの種類のミニ四駆の箱と、ありとあらゆるパーツが整然と、大きなテーブルに置かれていた。
「坊っちゃま、これでよろしいですか?」
「うん、上出来だよありがとう!」
ミハエルは喜び、ミニ四駆を物色し始める。たっぷり30分程悩み、ようやく選んだものの箱を開けたミハエルは、少し考え込むように黙った後、俺を見て
「これ、自分で組み立てるものなの?」
と情けなく眉を下げて言った。
「そうですよ。お手伝いしますから、組み立ててみましょう」
「うん。完成したら、君のマシンとレースをしようね」
無邪気な申し出に、しかし俺は首を振る。
「ベルクマッセはグランプリマシンと言って、ここにあるものとは別物なのです。勝負になりません」
「ええー?そうなの……?」
ミハエルはしゅんとし、それからまた顔を上げて
「じゃあ君も、ここにあるものをひとつ組み立ててよ!そして僕とレースしてよ!」
と代替案を出して、ダメ押しに俺の腕に両手で掴まり目をうるうるさせる。
断る理由もないから、俺は頷き、それから適当にマシンを選んだ。ミハエルに教えながら組み立てていくのは楽しくて、そして懐かしかった。自分もエーリッヒも、初心者の頃はこうして四苦八苦しながらマシンを組み立て、走らせていたなぁと思うと、隣にいるのがエーリッヒではなくミハエルであることが不思議に思えてくる。
「これって電池で動くんだね!モーターもたくさんあってどれがいいのか…ギヤとの相性もあるの?」
パーツ選びを始めたミハエルは、首を傾げて俺を見る。ひとつひとつ指さし、手に取りながら、俺はパーツの特性を説明する。ミハエルは真剣に聞いていた。
いよいよ二台のマシンが完成する頃には、玩具屋で買えるものにしてはかなり大きなコースも組み立て終わっていた。
「よーし、勝負だよシュミット!手加減なんてしないでよね!」
瞳をキラキラと煌めかせ、ミハエルは手に入れたばかりの愛機のスイッチを入れる。俺もそれに倣い、スタート位置についた。
ミハエルの使用人がフラッグを持ち、それを振るのをスタートの合図とする。
「いきますよ。レディ………ゴー!」
二台のマシンが、弾丸のように手元から飛び出した。
「やったー!!」
ぴょんぴょん飛び跳ねるミハエル。
手加減をしたつもりは無いが、グランプリマシンではないミニ四駆が久しぶりだったせいなのか、俺は惜敗してしまった。
「どうです?楽しいでしょう、ミニ四駆は」
笑いかけるとミハエルは大きく頷き、
「すっごく楽しい!ねぇ、もう一回勝負しよう!」
と俺の腕に絡みついてねだる。
「はは、良いですよ。でも、次は負けませんから」
軽く笑って言ったが、これでも結構火がついている。初めてミニ四駆を組み立てたばかりの少年に、仮にもアイゼンヴォルフのリーダーたる俺が、いくらグランプリレースとは勝手が違うとは言え、負けたのだ。これで悔しくなければ、そんなやつリーダーには、いや、レーサーにすら向いていないと言っていいだろう。
俺はミハエルに背を向け、いくつかのパーツを変更する。意地悪をして見せないのではない。ミハエルが、「どんなセッティングをしたかは内緒だからね!」と言って部屋の隅でこちらに背を向けてカチャカチャやっているからだ。だったら俺もミハエルの手元を見るわけにはいかないし、見せることもできないだろう?
「……よし、できた!」
ミハエルが言う。
「こちらもいつでも走れます」
「じゃあ二戦目といこうか」
無邪気に楽しんでいるミハエルには悪いが、次こそは俺が勝利を飾ってやろう!
────と思っていたのだが。
何戦しても、俺ともあろうものがミハエルには勝てなかった。
「やったー!また僕の勝ち!」
「すごい!ミハエル様、さすがですね」
使用人に囲まれてヒーローになっているミハエルを、俺は呆然と見ていた。
「シュミット様、遊んでくださっているだけでなく、わざと負けてくださるなんて。なんとお優しい」
ひそりと囁かれ、俺は力なく首を振った。
「いいえ、わざとなどではありません。手加減もしていない。彼の実力は本物だ」
そう答えると、使用人は驚いた顔をした。
「ミハエル。…あなたを我がチームのメンバーにスカウトしたい」
俺は胸に手を当て、ミハエルに申し出る。ミハエルはきょとんとし、
「チームの?メンバーに?」
と俺の言葉を繰り返した。
「そうです。あなたには才能がある。だから、我がアイゼンヴォルフのメンバーやスタッフに、あなたを紹介したいんだ」
ミハエルは信じられないと言うように、瞳がこぼれ落ちるのではないかと思うほどに目を見開いて、
「僕、もっとたくさんの人とレースができる?」
と問いかけてきた。
「ええ、もちろん。チームのメンバーになれば、メンバーとだけでなく、ドイツ中、……いやヨーロッパ中の速いレーサーと戦えるようになります」
「そんな嬉しいことって…!僕、やりたい!」
「良いお返事ですね。まずは練習生からのスタートかとは思いますが、あなたならすぐに一軍に上り詰めるでしょう」
「そしたらまた君と走れる?」
「走れますよ。今度は競争相手ではなく、仲間として」
「うわぁ…!」
ミハエルは興奮して薔薇色に染まった頬を押さえ、顔中に笑みを浮かべた。
ヴァイツゼッカーの城でミハエルをスカウトして数日。その日はアイゼンヴォルフの練習とミーティングがあった。
「機嫌がいいみたいですね」
顔を合わせるなり、エーリッヒはそう見抜いてきた。
「分かるか?逸材を見つけたんだ。我がチームに相応しい、新しい才能を」
ふふっと笑って俺はエーリッヒの肩にじゃれつく。エーリッヒは優しく微笑み、
「へぇ、それで、その人、うちに来るんですか?入団試験はいつです?」
と訊いてくる。
「シュミットがそこまで言うような人なら、僕も興味がありますよ」
エーリッヒは我がチームのナンバー2だ。穏やかな笑顔の裏に、熱い闘志を秘めている。まだ見ぬミハエルに、早速ライバル心を抱いているのかもしれない。
「日取りはいまからスタッフと相談して決める。お前も見学していいぞ」
「ありがとうございます」
話しながら、コースへ向かうと。大勢のスタッフが……それも、普段は現場には来ないような上層部の人間までもが、コースの脇のベンチの周りにたくさん集まっていた。何事かと俺とエーリッヒは顔を見合わせる。
「あの、どうかしたんですか」
練習場の入口で立ち止まり、エーリッヒが俺を背に庇うように一歩前に出て訊ねた。こんな場に似つかわしくない高級なスーツに身を固めた役員が、「それが……」と言いながら慌てた顔をしてこちらを向き、そこにいるのがエーリッヒと俺だと分かると、途端にほっとした顔をする。
「シュミット君!良かった!君が来てくれて!」
「私ですか?」
自分を指さし首を傾げると、大人たちの向こうから聞き覚えのある声が、
「え、シュミット?」
と俺の名を呼ぶ。
左右に避けた人垣の、その先にいたのはやはりミハエルだった。
「シュミットー!会いたかったよ!」
ミハエルは座っていたベンチから勢いよく立ち上がると、俺を目掛けて走ってきて、ぶつかる勢いで抱きついてきた。
「ミハエル……どうして……」
目を丸くする俺と、訳が分からず困惑するエーリッヒとを見て、ミハエルは
「君たちの仲間になりに来たんだ。スカウトしてくれたでしょう?」
と笑った。
「加入させたい子がいるとは聞いていたが……まさかヴァイツゼッカー家の方だなんて聞いていないよ!」
「お連れもなく、おひとりで君を訪ねて来られて………危ないじゃないか、何かあったら責任が取れない!!」
口々に俺を責め立てる役員達を無視してミハエルは、
「ねぇ、レースをしようよ!君も一緒に!」
と俺と、ついでのようにエーリッヒの手を掴んでぶんぶん振る。
「ええと……このひとが……?」
「ああ、さっき話した、逸材だ」
エーリッヒに苦笑を向けて、それから俺はミハエルに向き直った。
「ミハエル、いくらあなたがヴァイツゼッカーの血筋でも、ここでは一軍でありリーダーである私の方が上です。うちは実力主義なのでね」
そう言い聞かせるとミハエルは「うん」と素直に頷く。
俺は頷き返し、背筋を伸ばし声を張る。
「誰か彼にマシンを用意してやってくれ。急ではあるが、これから入団試験をしようと思う」
俺の命令で、慌ただしくスタッフたちはテストレースの準備のため散っていった。
残されたお偉方は、ミハエルに媚びるのに必死だ。
「準備が整うまで、あちらの暖かい部屋で待っていましょう。飲み物と軽食を用意させます」
「いらない。僕、シュミットと走りたい!」
「え、えぇ、もちろんお望み通りに…な、シュミット君!」
言われて俺は目を見開く。俺が連れてきたとはいえ、これから入団試験を受けるような人間が、一軍と、しかもリーダーの俺と走るなんて、掟破りだ。
「待ってください、ミハエルはグランプリマシンを使ったことはありません。それどころか、ミニ四駆に触れたのだって、数日前が初めてで……」
「シュミット、僕がアイゼンヴォルフに入れば、一緒にレースしてくれるって言ったじゃない。うそだったの?」
俺の言葉にミハエルがしょぼんとする。エーリッヒが慰めるようにミハエルの肩に手を置いた。
「シュミットには、アイゼンヴォルフのトップとしての立場があるんです。いくらあなたとお友達でも、新人がいきなりトップとレースはできません。下の者たちに示しがつかないんです」
「そうなんだ……うん、分かった」
ミハエルは、悲しげに溜息をついた。
心がずきんとしたが、仕方がない。私はリーダーで、ミハエルは練習生にすらまだなっていないのだ。
しかしミハエルの秘めたる実力は、凄まじかった。
初めて手にしたグランプリマシンだというのに、一緒に走らせた三軍のやつらをいとも容易く置き去りの周回遅れにし、俺の持っていたコースレコードすら塗り替え、周りを唖然とさせた。
「ちゃんと下調べしてきたよ、グランプリレースやグランプリマシンのこと。ね、僕の成績はどう?チームに入れる?」
首を傾げて上目遣いの仕草は幼くすら見えるくらい愛らしいのに、どこか威圧的に思えた。
「………このタイムですと、一軍でのスタートでもおかしくはない……いや、これで一軍でないのはむしろ……」
測定したデータを見て、スタッフが青ざめて言う。
俺はまたエーリッヒと顔を見合せた。
「まぐれだとか、計器の故障とか、そんなものではありません……よね?」
エーリッヒはスタッフでなく俺に訊ねる。
「……実は、グランプリマシンではない通常のミニ四駆で、ミハエルと何戦かレースをしたんだが。手加減なんて一切していないのに、一度も勝てなかったんだ」
俺は肩を竦めて白状する。
「そんな!!あなたが?」
「そう。この俺が、だ。………なあエーリッヒ。天才なんて言葉では片付けられない、神に愛された……いや、もしかしたら神そのものかもしれないくらい力のある人間って、いるんだな」
「………認められません。彼がそうだとしても、僕にとってはあなたが…!」
エーリッヒは日頃の冷静さはどこへやら、顔を顰めて言うと、ベルクマッセを手にコースへ向かった。
「ミハエル!僕と勝負してください」
「おいエーリッヒ!」
俺は慌ててエーリッヒの後を追う。
いくら相手が天才でも、一軍のナンバー2が昨日今日ミニ四駆を走らせ始めた人間に公の場で──スタッフや他のやつらが見ている前で負けるなんて、あってはならない。
だが俺は、本気でミハエルに噛み付こうとしているエーリッヒの顔を見て、ぞくりと興奮が背筋を駆け抜けるのを感じ、足を止めた。
チームのトップとしては、このレースは許可してはいけない。しかし俺はどうしても、エーリッヒとミハエルのレースが見たい!
「あなた、さっきシュミットの出したコースレコードを塗り替えましたね。………でも、シュミットだって僕だって、レコードを出したあの時より……昨日より今日の方が成長している。毎日僕たちは、どんどん速くなっているんです」
スタート位置に着きながら、エーリッヒは前を睨みつけ、自分に言い聞かせるように言った。
「負けません」
ビリビリとした空気が、漂ってくる。
俺は無言で、エーリッヒのベルクマッセの隣に自分のマシンを並べた。
「勝つなら、ふたりで勝とう」
「シュミット…!」
エーリッヒが俺を見て、感極まったように俺の名を口にする。
「ふぅん。仲良しなんだね、君たち」
ミハエルはエーリッヒからの敵意なんて気にも留めない様子で、軽やかな足取りでスタートラインまで来て手にしたばかりのマシンを位置につける。
「僕とシュミットは、ヨーロッパ最速コンビなんです。三軍の人たちみたいに簡単に勝てると思わないでくださいね」
「へぇ?それは楽しめそうだ」
そんな会話を耳にしながら、俺はゆっくりと深く息を吸った。
エーリッヒとなら、勝てるかもしれないと思った。エーリッヒの前で、負けたくはなかった。いつも一緒に走っているこのベルクマッセでなら。
しかし現実として、俺もエーリッヒもミハエルに及ばなかった。
「すごくドキドキしたよ!ありがとう」
ミハエルの台詞は遠くに聞こえた。
「………シュミット」
エーリッヒが荒い息を抑えて俺に話しかける。
「シュミット、……彼は、何者なんですか…」
問われても俺には分からない。肩を竦め、
「さぁな。神の使いか、神そのものなのか。いずれにせよ、ヨーロッパ最速の名は返上だな」
と苦しい息の中で答えるしかなかった。
「ねぇ、僕はテストに合格できた?」
弾んだ声で訊ねられ、俺は頷く。
「もちろん。あなたは、我がチームの誰よりも速い。不合格なはずがありません」
微笑み、それから俺は膝を着いて頭を垂れた。
「これからこの鉄の狼の群を率いるのはあなたです。私はあなたに従います」
圧倒的な力の前に屈するのは、屈辱ではなかった。むしろ、従うべき群れのリーダーを得て、高揚すらしていたかもしれない。
「顔を上げて」
尊大に言うミハエルを見上げる俺はどんな顔をしていただろうか。
「あなたがあんなに簡単にリーダーの座を譲ろうとするなんて」
シャワー室へと向かう俺の後を追ってきたエーリッヒが、不満と困惑を綯い交ぜにしてそんなことを言った。
「誇り高いあなたが。いくら彼がヴァイツゼッカーの御曹司だからって」
俺はぴたりと歩みを止めて、エーリッヒを睨んだ。
「お前は俺がそんなことでミハエルに膝を着いたと思っているのか?」
侮られた怒りをぶつけ、エーリッヒの胸をドン、と叩く。
「お前にだって分かるだろう、ミハエルは王の──いや、皇帝の器だ。狼の群のボスなんかに収まりはしない、真の天才だ」
「確かに彼の才能は認めますが……」
「が、なんだ?」
「リーダーとは、実力だけで務まるものではないのではありませんか。人望や、指導力や……」
眉を寄せて言うエーリッヒに、俺はいいやと首を振り、笑顔を向けた。
「違うな。必要なのはカリスマ性だ。下の者たちの指導なんて、俺たちがやればいい」
「………随分彼に心酔していますね」
「ああ」
答えるとエーリッヒはなぜだか暗い顔をして黙り込む。
なんだ?と思いながらも、エーリッヒのことは放っておいてシャワー室に向かおうと、俺は再び歩きだす──つもりだった。
突然、背中からエーリッヒに覆い被さるように抱きしめられ、俺は立ち止まらざるを得なくなった。
「なっ!?なんだ!?どうしたエーリッヒ!」
「あなたの隣に居たいんですっ!」
「はぁ?」
「あなたにとって、ミハエルがどんなに大切であっても、僕があなたを想うことは赦してください。あなたを見つめることを赦して」
「ちょっと待て、落ち着けエーリッヒ!」
俺はエーリッヒの腕から逃れようともがく。だがそうすると余計にエーリッヒの腕に力がこもり、為す術もなく抱きしめられているしかない。
「お前は、なぜミハエルがリーダーになったら俺の隣にいられないなんて思うんだ?」
冷静に問いかけたら、少し力が緩んでエーリッヒの抱擁から逃げ出せた。振り向くとエーリッヒは、狼だなんて呼べない、叱られた犬のように気落ちしていた。
「だって。ミハエルは天才です。あの実力ですし、なによりあなたが認めた方ですから」
「だからってなぜそんなに不機嫌……いや、不安そうにしている?お前が二軍落ちすることはないんだぞ?」
「あなたが………あなたの興味や関心を、彼に全て奪われてしまったから、だから僕は…………!」
酷く切ない顔をして、エーリッヒは両手で顔を覆った。
「僕にとってあなたはただの幼なじみなんかじゃない。ただのチームメイトなんかじゃない。ずっとあなたを、僕は───」
「エーリッヒ……?」
知らない男がそこに立っているように錯覚し、思わず俺はエーリッヒの名を呼んだ。
エーリッヒはおずおず顔を上げ、泣きそうに顔を歪めて俺を見た。
「………あなたは…僕のことをどう思っていますか」
「どうって………?なんでそんな……」
「僕より速い人が現れたんです。僕のことはもういらなくなったでしょう?」
「いらない?なぜそうなるんだ。俺の隣にお前がいないなんてこと、あるか。ミハエルが居ようと居まいと、俺はお前とずっと幼なじみで親友でコンビで……」
「違うんだシュミット、僕は、もうそれでは嫌なんだ!」
エーリッヒが声を荒らげた。その咎めるような声音に俺はびくっとしてしまった。
「僕は………あなたのことが好きです。あなたに恋をしている。あなたを独り占めにしたい。あなたの瞳に映るのは僕だけでいい。だから、あなたがミハエルのことを気に入ってしまったことを受け入れられない!」
「…エ、エーリッヒ…………」
突然の、エーリッヒの苦しげな告白に俺は驚き、そして戸惑った。
エーリッヒが、俺に恋をしているなんて、知らなかった。そんな想いを隠していたなんて、気づかなかった。
だが、嫌な気持ちはまったくない。むしろ、ふわふわとどこか夢見心地で……有り体に言えば、驚きの中に嬉しさがあった。
「エーリッヒ………嫉妬しているのか?ミハエルに?………俺をミハエルに取られると思って…?」
そっと一歩距離を詰めてエーリッヒの腕に触れると、エーリッヒはこくりと力なく頷き肯定した。
「みっともないですよね」
「みっともなくなんて。……エーリッヒ、お前がそんなにも俺のことを想ってくれているなんて、知らなかったぞ」
「……あなたは鈍いから。皆から愛されるのが当たり前で、だから僕の好意は他の人たちからの好意に紛れてしまったんでしょう?」
自嘲めいた言い方に、俺はムッと眉を寄せた。
「そんなことはない。お前がもっと分かりやすく好きだと表現しないのが悪い」
エーリッヒは溜息をついた。なにもかも終わった、と言うような痛々しい溜息だった。
「好きだなんて、言ったってあなたを困らせるだけじゃないですか。だから、一生言うつもりなんてなかったのに……」
「それは違うぞ、エーリッヒ!」
俺はエーリッヒの苦しげな独白を遮って否定した。
「驚きはしたが、困ってなどいない。お前が俺を好きでいてくれて、嬉しい」
言ってしまってから、少し恥ずかしくなったが、本心なので仕方がない。
「だが、それとこれとは別だ。俺はミハエルの才能に惚れてしまった。あの才能を活かさない手はない」
「分かっています。あなたが僕の気持ちを否定せずに受け止めてくれて嬉しいです。……応えてもらえなくても。けれど、こんなに早く、あなたを奪われるなんて…」
「だから…違うと言っている!ミハエルに恋愛感情なんてない!」
話の通じなさに苛立った俺の言葉を聞き咎め、エーリッヒはぴくりと片眉を上げた。
「本当に?」
「本当だ。だって、まだミハエルと会うのは今日で二回目だ」
「僕は初めてあなたに会った日からあなたのことを好きでしたよ」
「そ、そうなのか…?」
今日のエーリッヒはいつもと違う。気持ちがバレたから、もう遠慮なんてしない、とでも思っているのだろうか。俺は熱い頬を自覚する。自覚はしても、治められない。
「シュミット。僕は、あなたを、好きでいてもいいんですか?」
問われて、頷く以外に術はなかった。だってそんなのエーリッヒの自由なのだから。それに………嫌じゃないと思ってしまっている。
「必ずお前の気持ちに応えてやれるわけじゃない。でも………………」
「でも?」
「………できれば、応え…たい、と………思って、」
言い終わらぬうちに、エーリッヒにガッと抱き締められた。ただでさえ早かった鼓動は、もはやうるさいくらいにドドドッと鳴って胸が破られそうだ。エーリッヒの心臓もガンガン存在を主張している。
「それでもいいです。……あなたが僕の全てだ。愛してる、シュミット」
俺はそっとエーリッヒの背に手を回して抱き返す。なんと言っていいのか分からなくて、言葉が出ない。自分が汗臭くないか気になって仕方がなかった。
「……取り乱してすみませんでした。シャワー、行きましょう」
少しの間の後、エーリッヒがいつものように柔らかく言って俺を解放する。俺もエーリッヒの背に触れていた手を離す。
「これからは、好きだってたくさんアピールしますから。ミハエルではなく僕を見てもらえるように。だから………いつか…」
恥ずかしそうに、けれどはっきりと言うエーリッヒに、俺は小さく笑った。
「ああ。いつか、な。きっと叶うよ」
「ふふ。未来に希望が持ててしまいますね」
言いながらエーリッヒは、するりと俺の手を取り、引っ張って歩き出した。
「シャワー室、空いてるといいですねぇ」
「そうだな」
エーリッヒの手は大きかった。手を繋ぐのなんて随分久しぶりだった。昔はよくそうしていたことを思い出し、あの愛らしいこどもがこの目の前の美丈夫に育ったことに感嘆した。
「いつまでもこどもではいられないなぁ」
俺は極々小さく呟く。エーリッヒには聞こえないくらいの、完全な独白。
リーダーの座をミハエルに譲ったことで、俺のこれからの日々も変わってゆく。
ミハエルは、皇帝への道を歩み始めたばかり。俺がしっかり支え、導かねばならない。
エーリッヒとふたりで走って楽しかった、それだけで良かった時代はもう終わりなのだ。
少しの感傷と、これからの新たな日々への高揚。
ぎゅ、とエーリッヒの手を強く握り返す。
「シュミット?」
エーリッヒが少し驚き、だが嬉しそうに目尻を下げて俺を見る。
「新生アイゼンヴォルフなら、世界一も夢じゃないよな」
「ええ。そうですね」
俺の言葉に少し息を飲み、それから優しく微笑むエーリッヒの、心の奥のざわめきをもう俺は感じ取ることができる。ミハエルへの嫉妬も勿論まだあるのだろうが、世界一への野心が、エーリッヒに芽生えないはずがない。
俺の胸も、輝かしい未来を夢見てぎらついていた。
ミハエルも、エーリッヒも、手放したりはしない。全て取り零さず、俺は世界一のチームの参謀になるんだ。
…………もちろん、エーリッヒの恋心を利用して、良いように使うつもりなんかない。
きっと、そう遠くないうちに、俺の方からエーリッヒに愛を乞う日が来る。
だがそれは世界一の栄誉を手にした後でいい。
これからやるべき事を頭に思い浮かべながら俺はシャワーを浴びて、すっかり汗を流し、最後に自分の頬をぱんっ!と叩いて気合を入れた。
「よし………獲るぞ、世界」
とんでもない才能を目覚めさせた責任が、俺にはあるのだから。