神様のわがまま(現在編)1
「フィガロ、珍しいもの持ってるね!」
先日良い酒を教えて貰ったお礼代わりにと秘蔵の石をシャイロックに見せた途端、ソファに転がっていたムルがわあっとバーカウンターに寄ってきた。
「やっぱり! ボルダのエメラルドだ。思い出が溜まれば溜まるほど、オパールみたいにきらきらぴかぴか光を放つ綺麗な石」
「そう。だけど、今のこれは抜け殻だ。きみやシャイロックみたいな通人以外には、ただのガラス片にしか見えない。価値あるものが一夜にして無に帰すなんて、恋の終わりみたいでロマンチックだろ?」
「少しお借りしてもよろしいですか、フィガロ様」
「いいよ。どうぞ」
シャイロックは真っ白な手巾を掌に敷いて、くすんだ緑の石を丁重に載せた。
「……あなたがこれを身につけて私の店に初めてお越しになった際には多くの光が遊び、泳いでいましたが……何もなくなってしまったがらんどうの寂しさもいいものですね」
「さすがシャイロック。前にオズにも見せたことがあるんだけどね。〈死を持ち歩くなど趣味が悪い〉って、眉を顰められたよ。あいつには寂寥感ってものがわからないみたいだった」
「……オズ様がそんな形容をなさるなんて意外です」
「そう? お師匠様方の片割れが幽霊になって以来色々あって、あいつは感傷的になった。じゃないと、ここでの共同生活なんかとてもじゃないけど受け入れないよ」
「そうですか」
過去を持ちだして脅す気は別になかったのだが、シャイロックの体が健気に強張った。だが惨劇のきっかけとなった当人はいまだ石に夢中で、空中でくるくる宙返りをしながら無邪気な提案をした。
「また石をきらきらにすればいい! 魔法舎に居ればいっぱい思い出が溜まっていくよ。そうして、次の大いなる厄災で壊れて辺り一面に噴き出しちゃう!」
あれ、と素っ頓狂な声を上げたムルは水を浴びせられた猫のように体を縮めて、すとんと座面に下りてきた。
「フィガロ、思い出はどうやって逃げていったの? この石は太古の精霊が中で結晶化してて、持ち主と一緒に過ごした時間をエネルギーとして吸着し輝く……その理屈だと、石が割れない限り光は放出されない! でもこれには割れた痕がない! 不思議!」
「ムル、忘れてやいませんか。この方は偉大な古代の魔法使いフィガロ様ですよ。精霊の唇などいとも簡単にこじ開けておしまいになる魔力をお持ちなんです。我々と違ってね」
たしなめたシャイロックが、見え見えの世辞と共に石を返してくる。フィガロは苦笑して種明かしをした。
「まあね。実は飲み過ぎの酷い後遺症って言うか……この中にはろくでもない思い出ばかり集まってるんだなって、ある朝嫌気が差して〈消えちゃえ〉って願ったら、こうなってたんだ」
えぇ、とムルは唇を曲げた。
「思い出はつまり、自分の意思で選び取った時間の堆積だよ。フィガロは自分で自分が嫌になったんだ? 自分以外に自分は律せないし、石を空っぽにしたって起きたことは事実として不変なのに、随分変てこなことするんだね!」
「俺はとっても繊細なんだよ。過日鏡なんてものを作りだす感性の持ち主にはわからないだろうけどね」
フィガロは、シャイロックとは平和な関係が築けるが、ムルとはどうも上手くいかない。よほど馬が合わないのか、あるいは別の世で天敵だったのか、魂が砕ける前も今もどうしても彼との会話は殺伐としてきてしまう。
取りなす気はないのか、シャイロックは自分用のカクテルを作り始める。フィガロは石を隠しに収めた。部屋に帰ろうと腰を上げたとき、ぱたぱたと軽快な足音が近づいてきた。
「シャイロック! ムル! 悪いが急ぎの依頼じゃ」
スノウとホワイトの絵を掲げ持ったクロエが、こんばんはとフィガロに頭を下げる。何のつもりか、絵の中の双子は真っ白なサッシュを左肩から掛けている。フィガロは妙な気分になった。いい加減見慣れても良さそうなものだが、絶対的な存在である筈の師匠二人が絵に封ぜられて自由を奪われている姿は、それこそ悪夢のような気がする。
「どうしたんですか、お二人とも。南のみんなにも招集を掛けましょうか」
「気持ちは嬉しいが、今回は我ら北の魔法使いと西の魔法使いとで行ってくる。賢者代行の我らがそう決めたのじゃ!」
「そう! 今の我らは、東の魔法使いと任務に行った賢者ちゃんの代理なのじゃ!」
なんだそれはと思ったが、フィガロは疑問を無視した。
「依頼って、どんなものです」
「北西湾に季節外れの大渦が出来たそうでの。あのあたりは古代、巨大生物の住処じゃった。もしも厄災の影響で化け物が生まれていたら、まずは土地の精霊と通じ合う西の魔法使いに説得を試みて貰い……」
「それでも駄目だったら、我ら北の魔法使いがぶちのめして帰ってくるという寸法じゃ」
遅れてやって来たラスティカが、大渦に音楽で話しかけるのはどうでしょうかと提案し、古楽器で編成される楽団の構想があっという間にまとまった。
「それじゃ、ミスラちゃんのアルシムで行ってこよ~!」
「フィガロや。留守の間、賢者代行を任せたぞ」
スノウの体からサッシュが消える。同時にぬうっと影が伸びて、ホワイトが絵から浮かび上がった。フィガロは大人しくなすがままになり、彼からサッシュを引き継いだ。額縁に隠れて見えなかったが、白地には大きな文字でご丁寧に〈賢者代行〉と刺繍してあった。
「これを着けておけと?」
「そう! 前の賢者ちゃんが言っておったのじゃ。なんでも、主要な人物を目立たせる〈タスキスタイル〉というものらしい」
「王冠や杖みたいなものじゃな。力のありかがわかりやすい便利な仕組みじゃ」
「荷が重いな。南の魔法使いは、権力なんかとは縁遠いんですよ」
双子たちはしらけた目をしたが、クロエは〈留守を守るのも大変だろうけど、よろしくね〉と真摯な目で励ましてくれた。カウンターがシャイロックの呪文で綺麗に片付けられ、灯りが徐々に弱まって閉店を知らせた。
一行を見送ったフィガロは、サッシュを無人の書記官執務室に送り込むと、一人部屋に戻った。寝酒を飲んでも寝付けず、起き上がって暇つぶしに抜け殻のエメラルドを掌に転がす。光を失った鉱石は凡庸なゴミそっくりだ。
〈棄てちゃおうかな〉
真っ暗闇に沈んだ外を眺めたとき、控えめなノックの音がした。
「フィガロ先生。夜分遅くにすみません」
「レノ? ……どうぞ」
羊飼いの青年は、腰を屈めて部屋に入った。その手には、逞しく育ったハーブの束が握られている。葉は瑞々しく摘まれて間もないようだが、こんな夜更けにどこでそんなものを調達したのかがわからない。
「それ、チコリーだよね。庭に植えられてたっけ?」
「いえ、半刻ほど前に、すれ違い様にムルから預かりました。〈部屋で試しに咲かせてみたけど、フィガロに必要だろうからあげる〉と、それだけ言って任務に出てしまったんです。根っこに泥が付いていたので、ざっと洗って持ってきたんですが……どうしましょう」
チコリーの花は朝早くに咲いて、昼にはしぼむ。青紫の花弁は敏感な性質から〈繊細な愛〉の象徴とされ、苦みのある葉や根は精神の安定薬として古来より用いられてきた植物だ。親切なのか、喧嘩を売られているのかわからないなと内心苦笑いでフィガロは受け取ったそれを壁に吊して、レノックスの労をねぎらった。
「お使いありがとう。一杯どう?」
「いえ。明日は朝が早いので止めておきます」
「そんなの、いつもでしょ」
「リケとミチルに体術を教えて欲しいと頼まれているんです。怪我をしないよう準備運動を念入りにさせるつもりなので……すみません」
「あ、そう。……こっちは?」
ずかずかと近寄って、顔を傾け、硬質な頬に唇で触れる。距離をとろうとはしなかったくせに、レノックスは〈いやです〉と微動だにせず言った。
「寝酒代わりになってよ。だめ?」
「眠れないのなら、魔法舎の周りを散歩するのはどうですか。それならお付き合いします」
「わからずやだなあ。今夜の俺は人肌が恋しいんだ。きみの部屋に行くのはどう? まわりはみんな留守だし、ここよりは気楽でしょ」
「お断りします」
「なんで」
「あなたを抱いたあと、間を置かずに子供たちの前に何食わぬ顔をして出て行くのが嫌だからです」
あははと、思わず笑いが飛び出した。
「すごいな。一回やってさっさと寝るんじゃなくて、しつこくねちっこく、時間を掛けて何度もやってくれるのが前提なんだね」
「……作業じみたやり方は嫌いです」
「おまえ、本当に真面目だね。お腹がぺこぺこで、だけどものすごく忙しいときに立ち食いでパンをちょっと囓るみたいに、俺の中にさっと出してくれればいいだけなのに」
「そういう、ご自身を貶めるような言い方をされるのも嫌いです」
「じゃあ、何なら好きなんだよ」
てこでも動かない頑固さを前に苛立たしくなって、乱暴なものの言い方をしてしまう。レノックスは〈失礼します〉と背後から両肩を押してきて、フィガロをベッドに寝かせてしまった。彼は椅子を傍らに置くと、深々と座り込んだ。
「……で?」
「あなたが眠るまで、こうして手を繋いでいます。それでいかがですか」
レノックスの太腿の上に導かれたフィガロの右手は、彼の両掌に上下から力強く挟まれてしまった。大きくて熱の高い掌は、彼の誠実さとゆるぎない芯を表しているかのようだった。よく真面目に付き合ってくれようとするなと感心すると同時に、己が情けなくなってフィガロは笑って手を振りもぎった。
「冗談だよ。子供じゃあるまいし、ひとりで眠れる。おやすみ、レノ」
「……おやすみなさい、フィガロ様」
眉一つ動かさずレノックスは立ち上がる。それでも長くなった付き合いから彼の奥底には、安堵が広がっているのがフィガロには見て取れた。
「あ、レノ。待って」
今度は困らせないから、と前置きをして、扉の前に立つ彼に、抜け殻になったエメラルドを見せてみる。
「これ、どう思う?」
「綺麗なガラスですね。ムルが喜びそうです」
「……なんでムルの名前が出てくるの」
「ハーブのお礼をするのかなと思いました。違うんですか」
「それはまた別で用意する。この石を棄てるかどうか、迷ってたんだ。こういうとき、きみならどうする?」
「何か、嫌な思い出でもあるものなんですか」
核心を突く彼に、さあねとフィガロは笑って誤魔化した。
「ずっと側に置いてたから厭きたというか……嫌気が差したというか。そんな感じ」
「……愛着があるのなら、手放すのではなく一度形を変えてみたらどうでしょう。俺には似合わないでしょうが首飾りなんかに加工したら美しいものが出来そうです。クロエが帰ったら相談してみますか」
「うーん……もうちょっと考えてみるよ。きみがこれを綺麗だって感じてくれたことは嬉しかった。ありがとう」
何か言いたげなレノックスの前で〈おやすみ〉と告げて、フィガロはドアを閉じた。ふらふらベッドの傍まで戻って、勢いよく突っ伏す。感じた彼の体の温みは、あっという間に消えてしまった。代わりに掌に包んだ思い出の残骸を――かつては幼い頃のレノックスの首を飾っていたこともある石を、フィガロは灯りに掲げて透かし見た。
「俺の魔法は忌々しいぐらい完璧だな……」
今になって後悔と甘い絶望とが押し寄せてくる。
しばらく煩悶した後、フィガロはチコリーの葉を摘んで、口に入れた。幾ら口をすすいでも歯を磨いても、苦い余韻は消えなかった。
2
翌日――魔法舎の朝は珍しく静謐に包まれていた。漂う一抹の寂しさを吹き飛ばすように、カナリアはじゃあねと夫に向かって大きく手を振り、持ち場へ向かった。
「帰ってきたみなさんに美味しいご飯をふるまえるように頑張らなきゃ! あなたも楽しみにしててね」
妻の背を見送ったクックロビンは執務室に入った。机の上に〈賢者代行〉と縫い取られたサッシュが置いてある。
「これ、昨日ホワイト様が着けてたやつだよな?」
首を傾げるが、すぐに合点がいった。
〈俺が、このお役目を託されたんだ!〉
意気揚々と身を飾っていると、夜勤をつとめた衛兵がやって来て、異常なしの報告をした。
崩しても崩しても日々積み重なっていく依頼書に、クックロビンは勇敢に踏み入った。
「これは人間の調査隊でも事足りそうだ……これは優先順位低くていい……これは……!」
対処に一刻を争うと勢いよく立ち上がったものの、相談先を考えて途方にくれた。
〈我が国の民からの依頼だけど、アーサー様とカインは城に詰めていて西の貿易使節団が帰国する明後日まで魔法舎には戻ってこられない。……となると……〉
頼れる先は一つしかない。けれど相手が少々厄介で、四度の深呼吸の後にドアを開ける。
〈今の時間、南の魔法使いたちはきっと授業中だ。みんなと一緒ならフィガロも……〉
そう思ったのに、修行場のある棟へ渡る回廊の向こうから、フィガロはひとりきりで姿を現した。昨夜はあまり眠れなかったのか両目の下には薄黒い隈が滲んでいたが、反対に唇は楽しそうに緩んでいた。
「おはよう、良い朝だね」
「お、おはようございます!」
まだ心の準備が出来ていなかったからか――彼に見せるために持ち出した依頼書のファイルを、クックロビンは咄嗟に後ろ手に隠してしまった。
〈しまった!〉
民の危機よりも己の安寧を優先するなど、書記官としてあるまじき失態である。さあっと青ざめるが、フィガロは何か気になることでもあるのか庭へ顔を向けていた。つられてそちらをみやるが、別に怪しい影もなく、黄葉した木々が秋の陽射しに洗われているだけである。
「……」
どうしましたか、とか、ちょっとお話があるんですが、とか切り出しようはいくらでもあるのに、緊張のあまり声がかすれて出てこない。
彼には何の落ち度もなく、本当に失礼で申し訳ないことだが、クックロビンはフィガロが苦手だった。嫌なことを言われたわけでも困らせられたわけでもないのに、彼の不思議な瞳の底には北の魔法使いやオズとも違う恐ろしいものが――クックロビンが大切にしている〈何か〉への絶対的な拒絶が潜んでいる気がして、一緒に居るとどうにも緊張してしまい、背筋がぞわぞわとしてくるのだ。
〈初対面の印象を引き摺りすぎなんだよ……本当、こんなのは良くない。良くないぞ、俺!〉
「あの!」
「そういえばさ」
声が重なる。クックロビンは後ろめたさから、フィガロに話を譲った。
「はい……なんでしょうか?」
彼はにっこり笑って呪文を唱え、シュガーがいっぱい詰まった瀟洒な瓶を差し出してきた。
「これ、きみの奥さんに渡してくれる? 俺からだって言えばわかるから」
「……はい? 先生から、ですか?」
「そう。フィガロからカナリアへって」
受け取るとも言っていないのに、瓶は優雅に宙を泳いでポケットに身を滑り入らせてくる。
フィガロは小さく笑って、子供が内緒話をするように顔を近づけてきた。
「それからね……〈すごくよかったから、また頼むよ〉って、言っておいて。次の機会も、俺はとっても楽しみにしてるからって」
艶のある声で思わせぶりな言葉を吐かれ、クックロビンの呼吸は縺れた。
〈え……? えぇ――ッ?〉
困惑と驚きと嫌悪と憤りが取っ組み合って言葉にならない。呆然と眺めていると、緑の瞳孔が毒を孕んでぎらっと光った。
「いやだな。仲間はずれにされて怒ってるの? 俺はきみが居ても気にしないし……というか今度は是非きみも一緒に貪りあいたいと思ってるんだ。絶対、誘わせてよね?」
ふふ、と甘い笑い声が耳朶をくすぐる。絶叫がクックロビンの喉を突き破った。
「ありえません! 幾ら賢者の魔法使いだからって、言って良いことと悪いことがありますよ!」
ファイルを憤然と脇に挟んで、フィガロが肩に引っかけている白衣のポケットに瓶を強引にねじ入れる。踵を返すと、呑気な声が追いかけてきた。
「どこに行くの?」
「カナリアのところです! あなたが何を仰っても、俺は彼女を信じてますから!」
「あ、そう。それは好きにすれば良いけど、きみさあ……」
「待て!」
どこに隠れていたのか、レノックスが回廊に立ち塞がる。長身の男二人に前後を挟まれる形になったクックロビンはうろたえて左右を見回した。利口な牧羊犬のように絶妙な距離を保ったまま、レノックスが話しかけてきた。
「クックロビン、落ちついてくれ。今のはフィガロ先生なりの冗談だ。ああ見えて、先生に悪気はないんだ」
「……え?」
あまりのことにクックロビンは後にも引けず、その場で固まってしまう。小さく頷いたレノックスは、クックロビンを背に庇うようにしてフィガロに向き合った。
逞しい背中の向こうで、賑やかな笑い声が立った。
「なんだ、レノ。立ち聞きかい」
「さっき、こちらを向いて思いっきり目配せなさいましたよね。最初から俺にフォローをさせるつもりで彼をからかったのでしょう?」
「申し訳ありません……状況の説明をお願いしても良いでしょうか」
惚れ惚れするような広い背に守って貰いつつ、クックロビンは怖々と顔を出した。フィガロはあっけらかんと、今のはクッキーのお礼だと言った。
「クッキー?」
「忘れちゃったの? きみ、この間〈妻が焼きすぎてしまったので、よければみなさんも召し上がってください〉って、魔法舎中に配って回ってただろ。あのクッキー、とっても美味しくてさ。賢者様にあげたら喜んでもらえたから、そのお礼だよ」
「……ああ……なるほど……」
あのときも勇気を出してフィガロに話しかけたのをクックロビンは思い出す。
〈何だ……それならもっと普通に話してくれればよかったのに〉
自分のことは棚に上げ、クックロビンは人騒がせな彼を恨めしく思った。安堵のあまり全身から力が抜ける。途端、ばさっと派手な音がして、大きさも形式も様々な書簡が舞い散った。
「わあ! すみません」
落としてしまった依頼書の束を慌ててかき集める。手分けして拾い集めてくれるうち、フィガロが拾い上げた一片を手に立ち上がった。
「ふうん。俺に、この話をしたかったのか」
その一瞬で雰囲気ががらりと変わり、別人のような威厳のが彼の全身を覆った。
「受領番号一〇三――これについては南の魔法使いで対処するよ。いいよね? 賢者代行くん」
「あ、えっと……はい!」
クックロビンは、紙挟みの表紙に貼り付けていた一覧を急いで辿った。まさに南の魔法使いに依頼しようとしていた一件が、フィガロの手に渡っている。どうしてわかったのかは不思議だが、それも魔法の力なんだろう。
割り切ったクックロビンは、書き写していた依頼概要を読み上げた。
「改めて――賢者様の代行としてお願いします。南との国境近くに位置するシサラフ村からの依頼です。村が管理している鍾乳洞が夜になると海水を吐き出し、夜ごとあたり一面を水中に呑み込んでしまう。日の出と共に水は引くが、激しい塩害にやられた森林や畑はぼろぼろなままなので、至急魔法使いの派遣を願いたいそうです」
「先生、オズ様とリケにも応援を頼みませんか。今回はスピード勝負ですよね」
「……いや、俺たちだけで行こう」
心配そうなレノックスに、フィガロは首を横に振った。
「ここを通る前、リケがオズを引っ張って図書館に入るのを見たよ。勉強の邪魔はしたくない。洞窟が海に繋がるのは地場の理が揺らいでるからだろうし、そっちはすぐに片が付く。言い方が悪いけど、南だとこの手の被害はよくあることだ。夏の嵐のせいで沿岸地域は毎年塩害に悩まされてるから、弱った土地の回復方をルチルとミチルが学ぶ良い機会になる」
レノックスは小さく頷いた。
「わかりました。二人は修行場で待っています。行きましょう」
「うん。出来れば一時間以内に発ちたいね」
横に並んだ途端、フィガロが気の抜けた声を上げた
「そう言えば、レノ。今は授業の時間なのに、どうしてこんなところにいるんだい。まさか、さぼる気だった?」
「……あなたを探しに来たんですよ、フィガロ様」
軽口を叩き合う二人の姿を見送って、クックロビンは踵を返した。
「あれ?」
違和感を覚えてジャケットのポケットを探れば、騒動のはじまりとなった小瓶が出てくる。不躾な言葉とともに突き返したそれを、フィガロはいつの間にか魔法でしのばせていてくれたらしい。
クックロビンは瓶を日に透かして見た。医者という生業上か、フィガロのシュガーは形と色がきっちり揃っていて、幾何学模様のように美しかった。その中に、明らかに異質なものがある。よく見ると瓶の底には緑色の石がーー光の加減で輝く四角形のガラスが潜んでいた。加工してネックレスにしたらカナリアにも似合いそうな色だった。
〈なるほど……あのひとはこういうお返しの仕方をするのか〉
おしゃれだなあと感心して、クックロビンはキッチンへ向かった。仕込みが一段落付いたのか、カナリアはテーブルでお茶を飲んでいた。
「なんなの、そのサッシュ?」
「賢者様の代行だよ。格好良いだろ?」
胸を張ったクックロビンはフィガロからの礼だと経緯を話してシュガー瓶を渡した。彼女は目を輝かせて喜んだ。
「子供の頃、ビー玉で栓をしたガス入りのジュースが好きだったんだ。なんかそれっぽくて懐かしい……!」
さらさらと瓶を傾けて、カナリアは中のガラス石を取り出した。歓声を上げて陽に透かし見る。照り返す光のさざなみがきらきらと走った。クックロビンは得意になって提案した。
「綺麗なガラスだよね。仕舞っておくだけだと勿体ないし、宝飾屋に加工に出すのはどうかな」
ふと見ると、カナリアは興奮で目を潤ませていた。
「大変! これ、本物のエメラルドだ!」
妻は本気で言っているのだと、ぶるぶる震える手で見て取れた。幼い頃からお屋敷に奉公に出ていたカナリアの審美眼に、クックロビンは一目置いている。思わず二人はかしこまり、テーブルクロスの上に置いた石を囲って声を潜めた。
「フィガロ先生、まさか本気でおまえに惚れてるんじゃ……」
「そんなわけないでしょ。失礼だけど、あの方は遊蕩家なんだと思う。気まぐれに色んな相手と浮名を流してふわふわするのが楽しいんじゃない?」
「それってやっぱりまずいじゃないか!」
「馬鹿ね。あたしはお眼鏡に適わないよ。それにここで火遊びすれば、アーサー様と賢者様の不興を買うでしょ」
あっさり言って、彼女は話を切り替えた。
「クッキーのお礼にしちゃ大袈裟すぎるし、きっと、他の誰かにあげるものと取り違えたんだよ。先生はいつお帰りになるの?」
「わからない。解決次第だから……長くて十日後とかかな」
「それまで大事に保管しておかなきゃ。うちに金庫なんかないし、持ち歩くと仕事に集中できないし……。ねえ、執務室の金庫に入れちゃだめ?」
「だめだな。ドラモンド様も鍵をお持ちだし、公私混同になる気もする」
良案が出ずに唸っていると、遠慮がちな声がかかった。
「カナリアさん、お手を煩わせて済みません。ネロが、僕に朝のおやつを作っていってくれたんです。オズと食べたいので、お仕事のお邪魔でなければ奥の戸棚を開けても良いですか?」
はっとしてみれば、戸口にはリケが不安げな顔で佇んでおり、その後ろには世界最強と名高い魔法使いが幾分疲れたような顔をして立っていた。
口を半開きにしたクックロビンとあべこべに、カナリアはきびきびと立ち上がった。
「ええ、もちろん! オズ様もこちらへどうぞ!」
声は妙に浮かれている。そっと仰ぎ見ると、いいアイディアが浮かんだときの癖で、妻の目は爛々と輝いていた。
3
南の魔法使いたちは出立から二日後の昼過ぎに、魔法舎に帰還した。秋の日は陰るのが早い。まだ陽がある内にと、リケはミチルを食堂でのお茶に誘った。レノックスは部屋に戻る前に片付けねばならない用事があるらしく、彼から託されたという羊入りの鞄を下げる友人の顔は暗かった。ネロがとっておきのおやつを作ってくれたのだと説明しても、ミチルはどうにも食が進まないようだった。
〈どうしたんだろう。ルチルに怪我はないようだったし、レノックスもいつも通りに見えた。それなら……〉
リケは決死の覚悟で、カスタードプディングから匙を離し、居住まいを正した。
「ミチル。悩みがあるなら僕に話してください。依頼先でなにかがあったのでしょう? フィガロが任務中にお酒を沢山飲んだとか?」
ミチルは慌て顔で否定した。
「違いますよ! 今回のフィガロ先生は、なんだかきびきびしていて、とっても格好よかったんです。土地を鎮めて回復させる魔法もいっぱい教えてくれましたし」
熱弁したミチルがプディングを口に運び、今初めてその美味しさに気付いたかのように目を輝かせた。安心して、リケも再び匙を手に取った。
「よかった。ネロのおやつが美味しく感じられないなんて、よほどのことがあったのかと思いました」
「ごめんなさい。大袈裟かも知れないんですが、気になることがあって」
と、ミチルはやっと切り出した。
「騒ぎの元となった鍾乳洞を出るときに、レノさんとフィガロ先生の間で口喧嘩みたいなものがあったんです。仲直りはしたんですけど、そのあとずっと雰囲気がぎこちなくて」
「ミチル」
リケは友達の言葉を遮り、窓の向こうを目で指し示した。昨日、オズに読み方を習った〈噂をすれば影が差す〉という成句ぴったりだった。レノックスの後をフィガロがついて歩いている。二人の姿はすぐに見えなくなった。
「ちゃんと元通りみたいですよ」
そうだといいなあとミチルは首を捻った。
「喧嘩の原因は何だったんですか」
「それがはっきりとはわからないんです。ボクと兄様が離れてるときに言い合いが始まっていて、昔二人で一緒にここに来たことがあるかないか、意見が食い違ってたみたいなんです。でも、ああ見えて意外と根に持つフィガロ先生はともかく、レノさんがそんなことであそこまで怒るかなあって不思議なんですよね」
「……ミチル。ミチルは間違っています。それは喧嘩になっても仕方がない、重大な過ちです」
「リケ?」
ミチルが眉を顰める。リケはナプキンで口元を拭い、きっとにらみ据えた。
「だって、片方がもうひとりとの思い出を胸の奥に大切に抱き続けていた時間、もうひとりはまるっきり、かけらも思い浮かべなかったと言うことでしょう? そんなのって酷すぎます。僕だったら……ショックに耐えきれなくて、ミチルに〈絶交です〉って言っちゃうかも知れません」
「たとえ話でそんな怖い顔しないでください! 第一、ボクはリケとの思い出を忘れたりなんかしません」
「なら、許します」
リケはすまして微笑した。その自信満々な姿が妙に愛しくてミチルもつられて笑った。離れている間の報告を互いにしあっていると、リケが〈あっ!〉と目を丸くした。
「そうでした。フィガロが帰ってきたって、オズに伝えなければいけません!」
「オズ様に? ご用があるなら、先生を探してきましょうか」
「カナリアとクックロビンからの預かり物がオズの部屋にあるんです。オズはのんびりしているところがあるから、このままだと話すのを忘れちゃうかも」
ミチルはその〈のんびり〉という印象には賛成できかねたが、この場合はフィガロがオズを訊ねていくべきだと思ったので、まずは二人を探しに行くことをリケに提案した。
同時刻――魔法舎と隣り合った森の奥。
レノックスは精一杯こらえていた怒りをフィガロにぶつけた。
大樹の幹を背にして彼をきつく抱きしめる。訓練着のシャツは大きく開かれたままで、首筋に頬を埋めると、とくとくと確かな脈の音がした。そのまま一方的な抱擁を続ける。だらんと体の横に下がったままのフィガロの両腕が、少し震える気配があった。
「……レノ。おまえ、ずるくない……?」
「あなたこそ」
「俺のどこがずるいの。肉体的な力比べだと勝てっこないんだから、今だっておまえのなすがままじゃない」
「逃げようと思えばいつでも逃げられるでしょう」
ああ、とフィガロは溜息を吐いた。
「おまえ、訳がわからないところで怒るよね。俺が……小さい頃のおまえの記憶を奪って、それで今日まで何か不都合があった? 別に何も変わりはしないじゃないか」
「いいえ。変わっていました。きっと、全てが」
レノックスは思い出した。あの鍾乳洞で自分は幼い頃、腕の中にいるこのひとに会っていた。出発の前の晩に見せられた石も、かつては己の祖父の宝であり――あのときは自分の胸の上で揺れていたものなのだ。
なのにフィガロは周辺の出来事も含めて根こそぎ、その記憶を奪った。四百年とそれ以上、記憶は彼ひとりの心の中にしまいこまれていた。それまでに種子として眠り、あのときに初めて形となった感覚も、感情も、思考も全部――いわばレノックスの人生の一部は早々に食いちぎられ、欠けさせられたに等しいのに、フィガロはいかにも些事なように見せかけてくる。
もしも幼い日のあのまま。あのまままっすぐ、今ここまで道が続いていれば、きっと自分は心の真芯に、このひとを据えていただろう。
言っても仕方がないことだけれど。
真実を知ったとしても、過去も現在も未来も変えようがないけれど。
消されてしまった泡沫は、今更思い知るには重すぎた。
「嘘。全部、今のままだよ。たとえ覚えていたって、おまえはあの子を全身全霊で愛するし俺もあの子に夢中になるし、アーサーはオズと運命的な出会いを果たして、そうしてみんな、月に選ばれて魔法舎に揃うんだ」
「違います。だって、あなたは俺の初恋だった」
「……へえ……?」
子供じみたことを口にしたと後悔する間もなく、フィガロの両手がコートの下に入り込み、太ももから鼠径部を意味ありげに撫で擦ってきた。
「じゃあ、おまえに抱かれる感慨だけは違ったかもな。おまえは征服欲を感じられるし、俺は濃い背徳感に溺れちゃう。まずいことしてるなーって、もっとわくわくしたかもね」
そのまま、フィガロはレノックスの腰に両手を巻き付けた。遊び慣れたきわどく派手な仕草は、こちらが彼の肩や背にのみ触れるやり方に、抵抗しているようだった。彼は顔を胸に押しつけ、表情を見せずに言った。
「レノ。おまえ、俺を悦ばせるのが好きだろう? やれよ、ここで」
「……あなたは俺を傷付けるのが好きですよね」
「おっ、いいね。その真っ向勝負な感じ。いかにも中央気質だな」
ずるりと体を起こし、レノックスは正面から彼に向き合った。フィガロの尊大な言動の影にはいつだって一滴の孤独が潜んでいる。挑発に乗るふりをして、レノックスはフィガロの右の手袋を剥いだ。自分よりずっと細い手首を手荒に捉えて掴み上げると、コートの袖が少しずり落ちた。フィガロの肌は薄く出来ている。平時は怖いぐらいに血管が青く透けている皮膚は、その分高ぶりが実にわかりやすく、気持ちがよくなると、彼の全身は子供の泣き顔みたいに真っ赤に染まる。
レノックスはそれを見るのが好きだった。日々触れるフィガロの表情や言葉や思考には、彼の吐く〈嘘〉がたっぷりと塗されている。嘘、というのが適切でなければ孤独と諦念と言い換えてもいい。フィガロの一番深い部分で醸成されるものは、それらによってきっちりと覆い包まれてからしか、表に出てこない。
レノックスはそれが哀しい。だから嘘で覆う暇もなく、フィガロが感じるそのままを露呈させてくる唯一の手段、セックスが好きだった。やらないほうがいい、やるべきではない理由も沢山浮かぶけれど、こうすることでしか触れられない、彼の生のままの一瞬がそれらすべてを凌駕していた。
でも、それに逃げこむだけでは駄目なのだ。
ぎゅっと瞑った眼の奥に、出発前夜の声が蘇った。
〈この石を棄てるかどうか、迷ってたんだ〉
〈きみがこれを綺麗だって感じてくれたことは嬉しかった〉
そうか、とレノックスは思う。
自分には記憶の欠落が、彼には強奪の事実が残った。
長命の魔法使いは、過去の過ちから解放されることがない。罪の意識を一時でも持てば、その重みを終生抱えて生きることになる。
〈ファウスト様をお救いできなかった俺が、もう一度あの方の笑顔に会いたくて探していた時間と同じだけ。いやそれよりももっと長く、気の遠くなるほどの時間――〉
〈フィガロ様もご自分の過ちを――自分自身への絶望を、抱えて生きてこられたのだろうか。この方にも、誰かに許されたいと願うことがあるのだろうか。唯一絶対、心に平穏を与えてくれるひとが現れるのだろうか?〉
目を開けたレノックスはフィガロの冷たい手の甲に口付けをした。少し開いた唇で骨と肉の形を存分に確かめて、窪んだ肘の内側まで侵入していく。
フィガロは身をよじり、苛々と言った。
「なんだよ……間怠っこしいな」
「あなたのことを知りたくなりました。フィガロ様」
「……なにそれ。今更?」
「あなたにも、俺のことを知って欲しいです。どんな気持ちで、俺があなたを抱いてるのか。俺があなたに何を求めているのか、知って欲しい」
フィガロは手を振り払った。濃青色の髪の影で、横広の目が瞠られていた。冬の海、灰色の波が岸に口付けをしては去って行く繰り返しにも似た、永遠の寂しさが彼の瞳の奥に渺茫と広がっている。
一方でその凝視は、安全な筈の巣から落ち、怯えて動けなくなった雛のそれでもあった。
風が流れて、獣が鳴いた。遠ざけた手をフィガロはもう一度差し伸べてきた。レノックスの頬に触れ、彼は言った。
「どうせ、おまえが最後にとる手は違うのに」
「どうせ、あなたは誰の手もとらないでしょうけど」
レノックスは言葉の終わりに、フィガロと唇を重ねた。
これまでに数え切れないほどの口付けを交わしているが、それのどれとも違うキスにしたかった。唇肉を触れ合わせるだけの一番単純で、原始的なキス。舌が絡みあわず、体をまさぐりあうこともしないキスにフィガロは少し驚いたようだったが、興が乗ったのか同じリズムで唇を返してきた。
だが、それも短い間で、彼の体は焦れったそうにもじもじと動き出した。
「駄目です」
レノックスは先手を打ってフィガロの両の手首を掴み、己の腰に回させた。体はぴたりとくっついて、互いに身動きができなくなる。そのうえで、また触れて離れるだけのキスを延々と続ける。彼の瞳に潜む海、アミュレットの止まない潮騒。果てのない孤独な繰り返しを、自分という存在で塗り潰してやる。
「レノ……」
乾いて硬かったフィガロの唇は、ほぐれて柔らかく、潤っていた。
「レノ!」
色づき、切迫した声に心が揺さぶられて、レノックスは新たな刺激を許すことにした。ひたすらの接触に加え、ぴたっと重なる唇肉を横に軽く擦り、ついばむ。これまでなら吐息やおしゃべりと共にやり過ごすような微細な愛撫――愛撫と呼べないような触れ合いでも、昂ぶった体には強烈に響いたようで、フィガロは四つ足の獣めいて、ぐんと腰を跳ねさせた。
◆
「あっちを向いていて」
というのが、フィガロからの命令だった。初めて目にした彼の羞じらいを噛み締めつつ、レノックスは大人しく背を向けた。少し距離をとったらしいフィガロが独り言をぶつぶつ繰りながら、魔法で衣服と体を浄める気配がした。
「最悪……いや、最高……やっぱり最悪……」
これはきっと、絡んで欲しいんだろうなと察したレノックスは遠慮なく訊ねた。
「どっちなんです?」
「両方。きみの意思に従わされる感覚は新鮮で良かったけど、これしきで陥落した自分が嫌だっていうか……自分で自分が信じられなくなってきた……」
「そうですか。それは良かった」
「へえ? 早々に勝利宣言か」
枯葉を踏む足音が近付き、すっかり平常を取り戻したフィガロがじろっと睨んでくる。
「勝ち負けの問題でしたっけ」
「俺のこと知りたいんでしょ。俺も知らなかった俺のこと、早速わかって良かったじゃない」
「いや……まだ……」
言いかけた途中で、レノックスの唇は塞がれた。まだたのしみが続いているみたいに、フィガロの唇は熟れて柔らかいままだった。
風のようなキスが通り過ぎた後、少年たちの声が二人の名を呼んだ。
「レノックス! いたら返事してください」
「フィガロ先生ー! 聞こえますか」
ぎょっとしたレノックスには構わず、フィガロはまるでこのタイミングを見透かしていたように、いつもの声音で応じた。
「はいはーい! リケ、ミチル! 先生はここだよ。ついでにレノも一緒だよ~!」
木立を騒がせ、リケとミチルがやって来る。長い間歩き回っていたようで、二人の頬は紅色に染まっていた。
「どうしたの? 魔法舎で何かあった?」
何かに戸惑っているのか、二人がフィガロに答えるまで少しの空白があった。リケが一歩踏み出し、言った。
「フィガロ。僕とオズは、カナリアさんから預かり物をしています。あなたが彼女に贈ったシュガーの中に、宝石が混じっていたんです。大きなエメラルドだと言えばわかりますか?」
「え、エメラルド?」
ぎょっとしたようにミチルがのけぞる。レノックスも別の意味で耳を疑ったが、フィガロは何も言わずに曖昧な笑顔を浮かべていた。
リケは真面目そのものの顔で、はい、と友人に頷いてみせた。
「受け取った最初は、子供が玩具にするような綺麗なガラス石だと思ったそうです。きっとこれは何かの間違いだろうと、カナリアさんとクックロビンさんは頭を悩ませていました。あなたが帰ってくるまで大切に保管しておかなければということで、オズの部屋に置いておくことにしたんです」
「ああ、あれか!」
やっとフィガロが相づちを打った。
「参ったな。フィガロ先生、あの夜は良い気分でさ。つい飲み過ぎて、シュガーの中に入れる飾り付けを間違えちゃったみたい」
「まったく……二人が善人だからよかったものの、悪人の手に渡っていれば、今頃素知らぬ顔で奪われていましたよ。僕がオズに、フィガロが戻るまではちゃんと預かってくださいと言っておきましたから、早く取りに行ってくださいね」
「はーい。じゃあ、まずカナリアとクックロビンのところに顔を出して、それからオズの部屋に行くよ。二人ともわざわざすまなかったね」
「いえ……」
リケはきょろきょろと周囲を見回した。
「ところで二人とも、ずっとここに居たのですか? 僕とミチルはこの辺りも通ったはずですが、全く気付きませんでした」
「そうなんだ。面倒掛けてごめんね。二人でぶらっと散歩してたんだけど、きみたちの声は聞こえなかったよ。すれ違っちゃったのかなあ」
レノックスは内心でほぞをかんだ。
〈フィガロ様……また何も知らない子供を騙して……〉
だが強く言えなかった。近付いてくる若い魔法使い二人をキスの間遠ざけておくために、フィガロは結界を張っていたに違いない。一瞬だけでも、彼のすべてを掌握したと思っていたけれど、それはまったくの幻だった。声が聞こえるまで気付かなかった自分と違って、彼は天をゆく鳥の目でものごとを見ていたのだ。
じゃあ行ってくるねとフィガロが歩き出す。レノックスもその後に続いた。
「レノさん」
小声でミチルが袖を引き、預けていた鞄を差し出してきた。だが、まだ彼には気になることがあるようだ。
「どうした、ミチル」
「……エメラルドなんてすごいもの、フィガロ先生は本当に持っていたんですか?」
隣に居るリケも興味津々という顔で、指で形を作った。
「僕、見ましたよ。これぐらいの大きさでした」
「そんな大きい宝石、どこかの王様しか持てないでしょう? 先生の悪い冗談で、やっぱりただのガラス石なんじゃ……」
「いや、あれは本物だ」
レノックスはきっぱりと言い切った。彼らが口にしているのは、あの夜に見せられたエメラルド――フィガロの傍に、ずっと在ったものに違いなかった。
「フィガロ先生は名医でいらっしゃる。命を救われた貴族がお礼として献上したとか……もしかしたら、人間からの〈捧げ物〉かも知れないな」
「そうですよね。先生は南の良い魔法使いとして、開拓者の皆さんの生活を支えてきたんですし、ボクらに話してくれないだけで、これまでにも立派な行いをされてきたんですよね」
真実を語れないことに胸が痛んだが、ミチルは納得したようでフィガロの後を追いかけた。リケもその後に続くかと思ったが、彼は大きな瞳でじっと見上げて言った。
「レノックス。ミチルが、あなたとフィガロが任務中に喧嘩をしていたと言っていました。今はもう和解したのですよね?」
「ああ」
「わかりました、信じます。だけどこれからは僕の友達を困らせるような真似をしないでください。ミチルはフィガロを好いていますし、あなたがたは大人の魔法使いです。僕にはよくわからないたとえだけれど……南の国は、大きな家族みたいなものなのでしょう? それなら、ミチルとルチルのきょうだいを不安にさせてはいけません」
「わかった。すまない」
「理解していただければ結構です」
頷いたリケの額に賢者の紋章がきらめく。傾きつつある陽に濡れたそれはレノックスには何か新しい力のような――高貴な印に見えた。
〈時の巡りは、きっと悪いばかりじゃない〉
鞄の中の羊たちをあやしながら、レノックスはゆっくりした足取りで魔法舎に向かった。
石は棄てられ、また彼の元へ戻った。魔法舎で出来た新たな繋がりと古くからのよすがが、手放した過去をフィガロの元へ再び導いたのだ。
過去は変わらない。重みも減ることはない。けれど、それらを終生抱えたその先で、振り返ってみた景色にはまた違う色が付いているのかも知れないと、沈む夕日の中でレノックスは思った。
◆
クックロビン(彼は例のサッシュを着けていた)とカナリアに詫びをしたフィガロは魔法で跳躍し、弟弟子の部屋に向かった。
「オズ、いる?」
「……ノックをしてから入れ」
「だって逃げられると困るもの。おまえ、俺の石を持っててくれてるんだって?」
ああ、と頷いたオズは途切れがちな口ぶりで巻き込まれた経緯を話し、杖をふるって宝石を取り出した。
「悪かった。今度、シャイロックに頼んで良いワインを紹介して貰うから。それで埋め合わせさせて」
掌を差し出したフィガロは、おやと眉を上げた。オズは何かを思い出そうとするかのように、摘まんだ石をじっと見つめている。
「ボルダのエメラルドか」
「おっ、よく覚えてたね」
「おまえの手を見て思い出した。昔、石に輝きが詰まっていた頃、おまえはこれを様々な形に変えて身につけていただろう。〈命乞いの貢ぎ物にしてはいいものだ〉と、何度も私に話してきた」
「そう。空っぽなものを持ってても仕方がないから棄てちゃうつもりだったんだけどね。不思議なよすがで戻ってきたんだ。どこかにいる神様が〈命が終わって石になるときまで、おまえはこれをちゃんと持っていなさい〉って俺を叱ってるのかもしれない」
「……世迷い言を」
あきれ顔のオズは、それでもそっと柔らかに石を手渡してくれた。
「ありがとう。助かった」
ふいにその気になって、フィガロは魔法を使わず両の足をつかって階段を下りた。夜のとばりが下りる前、残光が窓から雪崩れ込み、フィガロの全身を血の赤に染めた。
魔法使いも人間もひとしく持つ、命を紡ぎ命が消える際の色。消してしまった記憶に最も近しいその色に濡れて、胸がぎゅうっと痛むが、それは次第に甘い陶酔に変わった。
〈ああ……〉
掌の中でエメラルドに輝きが点り、ゆらゆらと緑の淡い光が揺れている。輝きは以前のように激しくも強烈でもなかったけれど、森の中で受けた口付けのように、とても優しく強かった。
現在編・終