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    karrruko

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    2022年7月オズフィガオンリー新刊予定の冒頭20ページ分です。本はR18ですが展示は全年齢。

    My love and I.◆ご注意ください。

    長らく両片思いだったけど、歪なりに両思いになるオズフィガがテーマです。

    サンプル部にはそういう描写は少ないですが、フィガロの魔力が弱まりつつあることにオズは薄らと気付いていて、でもホワイトの死とアーサーとの別れがトラウマになっているため、見なきゃいけないことに見て見ぬ振りをしがちです。

    フィガロは「賢者の魔法使いに選ばれたって事は、厄災が来るまで石にはならないんだろうけどその後の保証はないな」と思っていて、あと一年で自分に何が出来るか考えた結果『オズの世界征服をなかったことにしよう』という結論に達します。

    その過程でフィガロが過去の己の呪いにつかまって人間同然になったあげくに積極的に解除方法を探そうとしなかったりオズが痺れを切らしてフィガロの過去に潜ったりします。オズとフィガロが死について考える描写がありますが、作中ではどちらも死にません。

    以下、そういう本の冒頭20ページサンプルです。





     虫の羽音が部屋いっぱいに鳴り響き、オズは呪文を呑み込んだ。早朝の修行場に潜む魔力は己とアーサーの二つきりで、音は明らかに少年の上着を居所にしていた。
     アーサーが慌てふためいて、隠しに手を入れた。
    「申し訳ありません!」
     音がぴたりと止まる。てっきり、巨大なコオロギか何かが飛び出してくるのだとばかり思っていたが、決まり悪そうに差し出された少年の掌には純銀の懐中時計が乗っている。
    「虫ではなかったのか」
    「虫……ですか?」
    「昔のおまえはよく、捕まえたものを私に見せてくれていただろう」
    「はい! あの頃はとにかく、私の好きなものをオズ様にも好きになって頂きたくて……」
     ふっと口をつぐみ、アーサーは頬を赤らめた。
    「私は、手が掛かる子供でしたよね」
    「……ああ」
     教壇を下りたオズは時計を受け取った。人間が用いる機械になど興味を持てないが、この類いだけは別だった。その上、精緻な花模様が刻まれた懐中時計は、造形として美しかった。綿毛のようだった子供は今やこれ程の装身具が似合う姿形に成長しているのだと、噛み締めたオズは心のままに言った。
    「しかし、おまえはもう子供ではない。フィガロがよくそう言っている」
    「はい……」
    「だから、おまえへの贈り物には木の実ではなく武器や衣服や本を選べとあいつはうるさく言う。……そんな年頃のおまえが、昔のように虫を隠し持つ筈もなかったな」
    「いえ! 私は、虫を眺めることだって大好きです。今度、シノやミチルと昆虫採取に行くつもりでもいます」
     昔からの一本気さが垣間見える言葉に、オズは唇を綻ばせた。
    「この時計は、おまえによく似合っている」
    「ありがとうございます。近づきのしるしにとヒースクリフから贈られたもので、彼もきっと喜びます」
     一転して顔を引き締めたアーサーは立ち上がると、改まった様子で片膝を突いた。
    「無礼をお詫びいたします、オズ様」
    「……何を言っている」
    「先程の音は〈アラーム〉という仕掛けです。あらかじめ設けておいた時刻に至ると音を出すのですが、普段の起床時刻に合わせたまま解除を忘れておりました。私の我が儘でオズ様のお時間をいただいておりますのに、水を差すような真似をして本当に申し訳ありません」
     どうしても詫びを入れたいらしい少年を前に、言葉を探しきれないオズは黙り込んだ。
     アーサーは昨夜遅く魔法舎に戻ってきた。
     長くは居られず、朝食前に帰城しなければいけないと彼は言った。無理をするなと諭すと少年はかしこまり『私が魔法の修練をおろそかにしたために、みんなに危険が迫ってはいけないから』と、修行場が空いている早朝での授業を申し出てきた。
     アラームとやらには驚かされたが、ただそれだけで実害はない。フィガロならこのような時には立て板に水ですらすらと慰めを口にするのだろうが、オズは感情をつなぎ合わせることが苦手だった。
    「気にすることなど何もない」
     やっとそれだけ口にする。苦し紛れに掌を傾けると、時計の蓋が開いた。白蝶貝が盤面に敷き詰められているのか、細長い針の下でじわりと光が滲んでいる。
    「時計の音は、私も好きだ」
     規則正しい振り子の音が頭に響き、ひとつの声が重なる。
    『これは俺たち魔法使いにとっても、役に立つ道具なんだから』
     アーサーと共に暮らすようになって間もない頃。
     フィガロはオズの城に振り子時計なるものを強引に持ち込んで、勝手に広間に据え付けてしまった。
     現代の人間は時を計るのに月の満ち欠けではなく、このような機械仕掛けの道具を重宝し、正確な暦に従って日々を成り立たせているのだと彼は言った。
    『精霊の動きや天体の位置を意識しなくても時の巡りが一目でわかる。俺はおまえに久方ぶりの贈り物が出来て嬉しいんだから、きっと大事にしてくれるよな?』
     何に端を発しているのかわからない皮肉な笑顔が癪に障り、力尽くで剥がして突き返そうとするとフィガロは彼らしくもない頑固さで抵抗した。 
    『人間によく躾けられた王子様を飼うのなら、この手の道具を持っておいた方がいい。二千年近く生きているおまえと、たった四年しか生きていない命がともに暮らすなら、目に見える基準はどうしたって必要なんだ』
     長い付き合いである兄弟子の本意はともかく、振り子時計は無事にアーサーのお気に入りとなった。ゼンマイを巻くのは幼子の仕事となり、オズは他者と〈時刻〉を共有することを覚えて――アーサーが城を去った瞬間に針が止まっても尚、機械をそのまま据えている。
     オズは口を僅かに開けて、また閉じた。
     時計を返し、杖を握り直して、今この瞬間に少年に伝えなければいけない言葉を唇と舌を使って押し出した。
    「立ちなさい、アーサー。おまえが思い煩うことなど一つもない。アラームが鳴らなければ時刻に気を配れなかったのだから、非は私にある」
     アーサーは勢いよく顔をふり上げた。
    「違います! 私が、厚顔無恥な振る舞いをしただけです。オズ様はいつだって正しい行いをなさるのですから、そんなことを仰らないでください」
     青い目は素直な情で燃えていた。窓いっぱいに差し込んでくる夏の朝日も跳ね返すような眼差しを前に、オズは暗澹たる思いに落ち込んだ。
     かつて己が世界を蹂躙していたことを――心が求めるままに魔法使いと人間の区別も無く数多の命を奪い、幾つもの都市と文化を灰燼に帰してきたことを子供は知らない。
     人間が魔法使いに向ける恐怖と憎しみは元はといえば己の暴虐によって散じ深まったものであり、己一人にのみ帰すべき事実を知らない。
     だから子供は、魔法使いと人間との友愛を唱える一方で、己に向ける篤信をもはばからずに歌い上げることが出来るのだ。
    オズは虚空に杖を仕舞った。
     膝を突き、アーサーの眼差しに己が両眼を結びつける。
    「オズ様! 何を……」
     少年の声は不安に揺れていた。彼に触れてやりたいが、出来なかった。
     アーサーを真の王にするために。このいたいけな魔法使いをも罪過に染めないために。己は彼に、過去の所業を正しく打ち明けなければいけない。彼の母を追い詰めてその心から愛を奪い、我が子を雪原に捨てさせたのは、畢竟己の往事がゆえだと真実を曝け出して、裁きを委ねなければいけない。
    『見て、知れ』
     無垢な子供を愛し、彼の幸福を祈るなら。
     今こそその時だと、オズは喉をこじ開けた。
    「アーサー……」
     覚悟を決めた瞬間、うなじにぞおっと悪寒が走った。
     扉の向こう側に、いやというほど知り抜いている冷厳な気配が突っ立っている。
     そいつは、無遠慮に扉を開けた。
    「あ」
     やって来たフィガロは小声を上げて足を止めた。迎え撃つ光に眩んだとでも言うように両眼を瞬かせた彼の顔に、一つの笑みが貼り付く。
     アーサーは屈んだまま、優美な礼をした。
    「おはようございます、フィガロ様」
    「おはよう、アーサー。ノックもなしにごめんね。こんな時間にひとがいるだなんて思わなくてさ」
     ところで、とフィガロは微笑を消さずに首を傾げた。
    「朝早くから勉強熱心なのは良いけど、二人して跪いてどうしたんだい。釦でもなくした?」
    「いいえ。オズ様に非礼を働いてしまい、そのお詫びをしておりました」
    「おまえは悪くない。私の非だ」
    「そんな! 私こそ……」
    「はい、そこまで」
     芝居がかった仕草でフィガロが手を叩く。途端、彼の背後で扉が閉まった。
    「互いにかばい合う愛情は美しいけれど、これじゃ堂々巡りで始末に負えない。二人の諍いは俺のせいってことにして、この話はおしまいにしよう」
     無茶を言いながらも笑顔のフィガロは、アーサーの肩を気安く抱き込んで身を起こさせた。
    「ほら、アーサー。たとえきみの師匠が相手だとしてもだよ。これから一国を担う存在が簡単に屈従なんかしちゃ駄目だ。オズも立って。弟子に許しを請うなんて、世界最強の肩書きが台無しだ」
     矛盾を乱暴に押しつけてフィガロは教壇に向かう。
     オズは急ぎ、立ち上がった。
     フィガロの唇は微笑の真似事をしているだけであり、いかにも驚いたような言い草も偽りだ。彼ほどの魔法使いが、こちらの気配を掴み損ねるわけが無い。己とアーサーとが中に居るのをわかっていて――おそらくは会話を聞いた上で、乗り込んできたのは明白だった。
    「何をしに来た」
     肩越しに振り返ったフィガロはにやっと笑って見せた。
    「ちょっとした捜し物ってとこかな」 
     仮面のように貼り付いた笑顔で彼は応じた。警戒しても無駄だと言いたいのか、芝居がかった仕草で右目が軽く瞑られる。フィガロの瞼はくっきりした幅広の二重だが、彫りの深さの割りに肉付きが薄い。その瞼から、蛇の眼球に似た緑の奇怪な瞳孔が透けて見えている気がして、オズは再び杖を取り出した。
    「こんな朝早くにか」
    「そう。俺にしては珍しくもね」
     先程、時計の針は午前六時四十分を指していた。こんな時間にここでおまえに会うなんてありえない、と喉まで出掛かった反論をオズは苦い記憶と共に呑み込んだ。教壇の後ろに回り込んだフィガロは屈んでしまい、姿が見えなくなる。居住まいを正したアーサーが遠慮がちに声を掛けた。
    「フィガロ様、よろしければお手伝いさせてください」
    「ありがとう、アーサー。気持ちだけ貰うよ。すぐに見つかると思うから……」
     そうして、抽(ひき)斗(だし)を引っ張り出す音がした。
     オズは一呼吸を置いて、フィガロに雷鳴をくだす代わりに外を見やった。怒りに呼応した空が曇って遠雷が響く。開いた窓から身を乗り出してアーサーが空を見上げる。
     オズは即座に声を掛けた。
    「問題ない。城へは私が魔法で送る」
    「……ありがとうございます」 
     振り返った彼はまだ何か言いたげだったが、己の感情で少年を惑わせたことを羞じたオズは、償いとして召喚の魔法を働かせた。離れた隅に――教壇に背を向ける壁際の席にバスケットがしずしずと着地する。
    「昨夜、おまえのためにネロが朝食を詰めてくれていた。食べてから城に戻りなさい」
     彼の善意を無駄にするなと念押しすると、やっとアーサーは動き出した。手を浄めて大人しく席に着いた少年が呪文を唱える。温められたパンやスープの良い匂いが修行場に広がった。
     ごそごそと音だけを立てて、姿を見せないフィガロが言った。
    「いいねえ、ピクニックみたいだ」
    「フィガロ様もお茶を召し上がりませんか」
    「もう少ししたらいただこうかな。最近、ますます朝に弱くなっちゃって。起きてから、体が万全になるまで結構な時間がかかるんだよね」
     年かなあと彼はぼやく。オズはすばやく術を編んでフィガロの背後に飛び、意外な丸みを帯びた後頭部に杖を突き付けた。空気が白々と凍り付いていき、氷粒が擦れ合って微かな火花を散らす。それでもフィガロが気にする様子は無かった。
    「何のつもりだ」
     問いかけても返答はない。屈み込んだフィガロの肩が僅かに強張る。その動きだけで、埒外に置いていた精霊が彼の命(めい)に掌握された。大気が蠢き、オズは障壁に鎖された。呼吸が薄まり鼓動が早くなる。だが、こんなもので追求を緩める気にはなれなかった。
    「《ヴォクスノク》」
     杖は防壁を突き破り、雷火を帯びた氷晶が獲物の体に纏わり付いた。
    「フィガロ」
     名を呼んで、オズは待った。
     それでもフィガロに応じる気配はない。頭から爪先までもが薄紫色をした雷糸のベールに覆われているのに、彼は怖じることも、応戦することもしなかった。
     痺れを切らして百雷を彼の内に雪崩れ込ませようとした刹那、オズの心臓は破裂せんばかりの痛苦に貫かれた。
    〈駄目だ〉
     心が止まって術が半ばでかき消える。肺がぐうっと強張って、目の前が暗くなる。堪らず杖を支えとした瞬間、全ては元の通りになった。苦痛は嘘のように消滅していたが、掌にはべとべとした嫌な汗が残っている。恐る恐る息を吸って吐いてみるが、脈に乱れは生じなかった。
     目にしみる汗を拭って考える。嵐のように過ぎ去った変調は、ひとつの恐怖から来ていた。
    〈私はフィガロをこの手で石にするところだった〉
     突如湧き出た思い、どこにも根を持たない狂想だった。 
     こんなことでフィガロが死ぬわけがない。
     長い付き合いのためか、オズはどれほどフィガロに怒りを覚えても、彼を死に至らしめる寸前――彼がその魔力で防ぎうる限界までしか攻め掛かれないでいる。長きに亘るこの奇怪な振る舞いは癖というよりも最早、オズの心を形成する一辺となっていた。今の攻撃にしたって普段の抑制の内であるのに、フィガロを殺す寸前だったという印象が心の中心に穿たれて消せなかった。
    「フィガロ……」
     混乱のままもう一度名を呼ぶ。
     やっと振り向いた彼は、こちらの不調も知らぬげに涼しい顔でうそぶいた。
    「危ないじゃないか。アーサーの目の前で、こんな物騒な真似をして。あの子にとっておまえは〈優しいオズ様〉なんだから、もうちょっと言動に気をつけないと」
     オズは瞬きも忘れて凝視した。その顔にも声にも異状は見受けられない。となれば、大気の精を操った際に彼は幻惑の術をも仕込んでいたのだろう。そう得心すると正体のわからない温かい波が心を走った。
     気を持ち直したオズは、尋問を再開した。
    「脅しは効かない。何を企んでいる」
    「酷いな。可愛いアーサーとせっかく二人きりなのに邪魔をするな! って焦れる気持ちはわかるけど……やりようってものがあるだろう」
     まるで見当違いの指摘に、オズはすっかり面食らった。
    「何を言っている」
    「ん?」
    「おまえが早朝に動くなど余程のことだろう。私は、それを訊いている」
    「あー……そっち?」
     気の抜けた声と共に壁が解けた。オズの強いる負荷がフィガロの魔法により中和されて、精霊たちが無害な存在に戻される。オズは追撃しなかった。アーサーが淹れた紅茶の香りが漂ってくる。痛いほどの殺気を感じていただろうに少年は言われたとおりに背を向けたまま、こちらに踏み込んでこようとはしない。フィガロがふいに立ち上がり、呼びかけた。
    「ごめんね、アーサー。食事の邪魔にならなかったかい」
    「大丈夫です、フィガロ様。私の耳には、何も聞こえませんでしたから」
     フィガロの体から力みが抜ける。横に回ったオズは濃青色が錆びたような風合いの、見慣れたフィガロの髪に違和を覚えた。毛先に近付くにつれて銀色がかった部分がある。先程喰らった幻惑のためか、人間の老いが連想されてぞっとしたが、色が抜けるなら髪の根本からだろうとすぐに思い直した。今様に装うのが好きな彼のことだから、これはきっとクロエが言うお洒落というものだろう。
    〈そういえばこいつは昔から、様々な髪型を試していた〉
     オズは雑念を振り払った。髪の形や服を時代に寄り添わせ続けていても、生まれ持った顔と肉体は作り変えないのがフィガロの流儀で、ならば体質も不変の筈だった。
     彼が自分で言うように、遠い昔からフィガロは朝に弱かった。目が覚めてしばらくは頭が重く、床を抜け出すまで半刻か、下手をしたら一刻ほど時間が掛かるといつかの日に彼は言った。
     怠惰の言い訳だと思ったオズが『私が幼い頃は、おまえが毎朝起こしに来ていた』と反論すると、彼は『あれは兄弟子の威厳をかけて、おまえの起床時間に万全でいられるよう頑張って早起きして備えていただけだ』と打ち明けた。
     それでも偽言を疑っていたが、彼の寝起きの悪さは申告通りに生来のもので、前夜の酒量も淫事の深さも関係ないのだと身をもって知っては責めるわけにもいかなくなった。
     喰らいあうような共寝の朝、奇妙なことに目覚め自体はいつもフィガロの方が早かった。
    『温もりだけ残されるのはいやなんだ。抜け殻に抱かれたみたいで寂しくなるから』
     そんな芝居めいた戯れ言に付き合わされて、彼が起立できるようになるまで隣で無為に体を横たえていた感触までもが肌の上に蘇る。
     オズは、杖を構える手に力を込めた。
     フィガロと過ごした朝の思い出にはどうしても、その前段である夜の記憶もついて回る。体の中に滲み広がろうとするそれを、今のオズは理で踏み消すしかなかった。
     アーサーと初めて邂逅した瞬間、フィガロは彼自身のことを幼い子供に『俺はオズの兄弟子で、親友なんだ』と、陰りのない語句で言い表した。
     そうしてそれきり、彼はその装いを続けている。
     アーサーを中央の城に戻した後も。
     アーサーに下された死の予言を我が身に引き受けようと〈賢者の魔法使い〉の宣明を乗っ取った己が、中央の魔法使いを名乗るようになってからも。
     フィガロ自身が南の魔法使いとして召喚されてからも、ずっと。
     癖のある前髪が揺れて、眼差しがふいにこちらを向いた。
    「オズ」
     現在の声と言葉で、フィガロが名を呼ぶ。
    「俺のからだのことを、覚えていてくれたのは嬉しいんだけどね……」
     我に返ったオズの鼻先にオーブが浮かび上がった。魔道具を顕現させておきながら、フィガロは再び身を屈めると両手を使って教壇の両袖に設えられた抽斗をすべて引っ張り出した。どうやら、捜し物はそこにあるらしい。不審にオズは眉を顰めた。五つの国が持ち回りで使用するため、この場所には私物を残さない決まりになっている。双子の発案による掟はフィガロにとっても絶対の筈だった。何をしているのかと訝しんだ矢先、微かな魔法の気配がオズの鼻腔を擽った。
    「《ポッシデオ》」
     フィガロの呪文が三筋の光となって、抽斗が外された空間へ躍り込む。空白を浸蝕する合間に、フィガロはぶつぶつと呟いた。
    「さらっと片付けたかったっていうか……おまえに話すと厄介なことになりそうで嫌だったんだ」
     オズは身を乗り出した。
    「なんだ、これは」
     板で囲まれた四方にはフィガロの魔力が満ちている。正確には、二人の魔法使いが刻んだ占有の徴を、彼が打ち砕いて乗っ取ったと表現する方が正しい。教壇は、いつの間にか金庫に作り変えられていた。〈抽斗を外す〉動作を鍵として空間が歪曲する仕掛けだ。この偽装に気付けなかったのは癪だが、あまりにも作りが単純がゆえにこれを魔法だと捉えきれていなかったらしい。
     フィガロが肩を大袈裟にそびやかせた。
    「知らなかったの?」
    「今知った。ブラッドリーとオーエンの仕業か」
    「そうそう。あの二人が結託して、ミスラに見つかりたくないものをここに隠していたみたい。やつは滅多にここには寄りつかないから」
     フィガロは暗闇に手を突っ込むと、様々なものを引っ張り出した。繊細な絵付けの菓子器に、針が隙間なく突き刺された蝋の小像――とりとめもない古物の集まりに見えるが、いずれも大きな力を宿した呪具であると気配で知れる。
     フィガロはそれらを宙に浮かせて乱雑にひとまとめにすると、小さな結晶に閉じこめて白衣の隠しに仕舞いこんだ。
     それほど物騒なものを平気な顔をして持ち歩く南の魔法使いなどいる筈がない。弱者を装いたがるくせに節々の始末がどうにも雑で、そんなフィガロの真意がオズにはわからなくなる。睨み付けるが、彼は澄まし顔で更に奥へ手を入れた。
    「まだあるのか」
    「うー……ぅん……」
     是非の中間のような曖昧な返事を寄越して、フィガロはくどくどと説教を始めた。
    「というかだ、オズ。先生役を引き受けたんなら常日頃から危険を察知する努力をしろよ。おまえは力任せでやり過ごせるからいいだろうが、若い魔法使いはそうはいかない。お師匠様たちじゃ成り行き任せが面白そうだからって理由で放置してただけだし、俺やシャイロックやファウストは自ら火の粉を被りに行くのはごめんだからって、授業中は結界を張ってやり過ごしてたんだぞ」
    「……」
     オズは返事をしなかった。指摘はもっともだが、オズはフィガロの最近の癖を知っていた。彼が最もらしいいたわりを口にする時は、その影にこそ真意が潜んでいる。引き抜かれようとする骨ばった手首をオズは杖で抑え込んだ。
    「それがおまえの捜し物か」
    「そう。昨日の夜、ちょっとした緊急事態に見舞われてね。そういえば良い隠し場所があったなって利用させて貰ったんだ。今日は西の国がここを使う。シャイロックは俺には妙に手厳しいから、ラスティカやムルにこの酒を見つけさせるかも知れない。そうなったら……わかるだろう?」
     悪びれもせずそう言って、フィガロは大気の精を使役した。一本の瓶が宙にしずしずと運び出される。角張った丈の低い硝子瓶は琥珀色の液体で満たされており、仰々しい魔法が仕込まれた種子が中で浮き沈みしている。この液体が何なのかは聞くまでもなかった。
    「おまえ……」
    「オズ様、フィガロ様」
     声が重なる。目をやれば、いつの間にか寄りついていたアーサーが、湯気を上げるカップ二つをトレイに乗せて立っていた。ここまでの茶器はバスケットに入っていなかったはずで、わざわざ魔法で用意したらしい。
    「あ……」
     オズがねぎらいを口にする前にフィガロが割って入った。
    「アーサー。もう食事は終わったのかい」
    「はい。お話が一段落付いたようでしたので、お茶をお持ちしました」
    「い……」
    「いいね。流石の気の利かせ方だ。ありがとう、頂くよ」
    『いいから、こいつに構うな』と告げようとしたのを見越してか、フィガロは図々しくも茶器を手にした。仕方が無く、オズも紅茶に口をつける。教壇に置かれた酒瓶をアーサーが興味深そうにのぞき込んだ。
    「変わったお酒ですね」
    「わかる? きみも目利きになったなあ」
     フィガロは得意気に胸を張った。
    「後学のために見ておくと良いよ。これはオズのコレクションにもない、とっても希少な酒だ。さて問題だ、アーサー。これは普通の酒とどこが違っていて、どこに価値があるんだと思う?」
     オズは苦虫を噛み潰した。城の地下蔵には好きな酒だけを置いてある。それをどうこう言われる筋合いはないと思ったが、アーサーは素直に謎解きに乗り出した。
    「……このお酒からは、フィガロ様の匂いがします」
    「そう? 今、握ったから付いたものじゃなくて?」
     アーサーは首を横に振った。
    「いいえ。匂いはこの中……お酒そのものに染み込んでいます。ずいぶんな古酒なのに、仕込まれた中の種子もまだ生きている。酒と種とに、フィガロ様がそれぞれ別の理を働かせていらっしゃるのではないですか」
    「正解! この酒は俺が作ったものだ。仕込んだのはどれぐらい昔か、わかるかい」
    「……手にとってもいいですか?」
    「どうぞ」
     アーサーは優しい手つきで、酒瓶を朝日にかざした。
    「模様を刻むカット技術が宝剣カレトヴルッフの外装に用いられているものと同じです。このお酒は、四百年ほど前に作られたものだと思います」
     フィガロは破顔して手を打ち鳴らした。
    「大当たり! すごいな、アーサー!」
     オズの全身はぞおっと総毛立った。己が世界を放り出して、フィガロが南にくだった当時のことは、現在のどちらにとっても触れたくない傷の筈だった。アーサーの前でわざわざ記憶を引きよせるなど一体何がしたいのかと睨み付けるが、フィガロは見て見ぬ振りで、のうのうと哄笑した。
    「これは当時の南の政府が国策として売り出そうとした魔法酒だよ。あの当時、南の名花といえばマグノリアだった。ブランデーに魔法を掛けた種子を封じ込めて熟成させる。酒が芳醇になるにつれて木も育ち、花も咲く。眺めるだけで楽しいし、香りが酒に移って良い感じになるかなって。俺が発案者だから、まずは俺が生産を手がけたんだ」
     アーサーが顔をほころばせた。
    「フィガロ様は色々なことに携わっていらっしゃったのですね。当時は、このようなお酒が流行っていたのですか」
    「ううん、ただの思いつきだよ。百本ほど試作したところで販売計画自体が頓挫しちゃったんだけどね」
     はあ、とフィガロは長々しい溜息を吐いた。
    「あの時期は少し調子を崩しててさ。量産化に向けてもたついているうちに西と中央とで建築技術が向上して、温室が流行りだしたんだ。南の固有種は高値で売れるからって、マグノリアの種子も世界中のあちこちに行き渡り、わざわざ手間暇掛けて魔法酒に咲かせるようなものじゃなくなった。要するに、これは時流を読めなかった失敗作なんだけど、作った分は廃棄されずに細々出回っていたらしくて、〈あのフィガロが手がけた幻の酒〉って事で、城館ひとつが買えるほどの高値が付けられている。シャイロックが仲介してくれたおかげで俺も久々に手にしたよ」
     目を輝かせるアーサーの横から手を出し、オズは瓶を奪取した。
     あ、とフィガロが恨みがましい声を上げた。
    「オズ。言いたくないけど、それは現存する最後の一本なんだ。いくらおまえでもあげられないんだからな」
    「おまえの話が真実だとして、それほど価値があるものをこんな場所に隠す必要がどこにある」
    「えー……? それ、訊いちゃう?」
     由来はどうあれ、フィガロにとっては自室こそが最も安全な場所の筈だった。横目で睨み付けるとフィガロは子供のようにそっぽを向いた。わざとらしく設えられた隙に、健気にもアーサーが反応した。
    「南の魔法使いたちとの間に、何かあったのですか」
    「実はそうなんだ! アーサー、聞いてくれる?」
     フィガロは大袈裟な身振りで、空涙を拭いながら語った。
    「昨日、最後の授業をここでやったんだけど、ミチルが〈これからフィガロ先生のお部屋にお酒が隠されていないか、みんなで抜き打ち検査をします!〉なんて張り切っちゃってね。咄嗟に魔法で隠しちゃった」
     だから返せとフィガロが掌を向けてくる。
     オズは要求を無視した。
    「答えになっていない。隠れて飲酒するおまえの嗜癖は周知の事実だ。なぜ今更、彼らの目から隠す必要がある?」
    「なに? 今朝は妙にしつこいな」
    「ミチル本人は気付かなくても、お酒が好きなルチルは古酒の真価に気付くかも知れません。だからですか」
     救いの手を差し伸べたアーサーの肩に、フィガロは馴れ馴れしげに腕を回した。
    「わかってくれて嬉しいよ。掌理のゴブレットに選ばれちゃったから、厄災が来るまで俺はここで〈南の魔法使い〉を続けていなくちゃいけない。でも、遺産相続させてくれる金持ちの親戚も居ない三十二才の田舎の医者が、こんな逸品を持っているなんて話の辻褄が合わない。となると、どこかに隠すしかない」
     お礼にこれは片付けてあげるねとフィガロが恩着せがましく魔法を使い、盆と茶器がいずこかへ消えた。
     公然とフィガロを非難できないアーサーが困ったように目尻を下げて微笑している。酒瓶を宙に浮かせたオズは、いたいけな弟子の肩からフィガロの腕を杖で強引に払い、矛盾を突いた。
    「道理が通らない。予告すれば奇襲は奇襲でなくなる。おまえは、ミチルの計略に掛かったのではないか」
    「何だそれ。ミチルが俺を試してるって言いたいの?」
     首を傾げるフィガロに、アーサーが得心して言った。
    「確かに……お酒を秘蔵している証を掴んだ上で抜き打ち検査を行うと宣言しておけば、フィガロ様が酒瓶を隠そうが隠すまいが、その後の糾弾がたやすくなりますね」
    「……なるほど。ミチルの本当の狙いは今日ってことか。昨日は部屋になかったお酒が今日見つかれば、俺はあの子を裏切ったことになるものね」
     フィガロは大袈裟に嘆いて見せた。
    「俺を信じ切ってるあの子が、そんな酷いことをするわけない……と思いたいけど、双子先生やブラッドリーあたりから、よからぬ影響を受けてる可能性もあるか」
     はい、とフィガロは酒瓶を掴んで差し出した。
     オズは唸り声を上げた。
    「なんだ」
    「一段落付くまでおまえの部屋に置かせて。かわいい弟子に見限られる経験は一度きりで充分だし、この酒はこの酒で大事にしたいんだ」
    「私に、おまえの企みに加担しろと言うのか」
    「困ったときはお互い様だろ」
     彼の笑顔はいよいよ仮面じみていき、唇の端が対称に釣り上がった。その笑いからオズは悟った。一連のやりとりは茶番に過ぎない。アーサーが指摘したことなどフィガロはとうに承知していて、その上で己が清水に浸かったままで一番の利を得られるように立ち回っている。
     アーサーが前に進み出た。
    「フィガロ様。お酒は私がお預かりします」
    「アーサー、下がっていなさい」
     叱責するが、少年は意を決したように目を瞠った。
    「オズ様、私は同じ賢者の魔法使いとしてこのやり口には異を唱えます。フィガロ様のお体を気遣うミチルの心は美しいものです。しかし、師を試すような言動はいただけません。私はこれから城に戻らなければなりませんが、後日ミチルと膝をつき合わせて真意をただすつもりです」
     癖のある前髪の下で、フィガロの片眉が意味ありげに跳ね上がった。
    「……アーサー、ありがとう。きみの気持ちは嬉しいよ。でも正直、そこまで大仰にする話じゃ無いっていうかさ」
     オズは酒瓶を掴み取り、己の部屋に飛ばした。
    「ふうん。結局、いいんだ?」
     行く先を察したのかフィガロが唇を弛ませる。勘違いするな、とオズは釘を刺した。
    「酒は私が貰っておく。おまえが道化た真似をやめないからアーサーやミチルが巻き込まれて気を揉む羽目になる。この騒ぎの始末がどう付こうが興味もないが、おまえが性根を改めるまでは返さないからそのつもりでいろ」
    「性根ってなんだよ。俺は優しい南のお医者さんだよ? それを言うならおまえの方こそ……」
     ふっと、吹き出す声がした。
     フィガロはくるりと少年に向き直った。
    「ごめんごめん。二千年近く生きてる割りに大人げないよね、俺たち」
     弾んだ声でアーサーは言った。
    「申し訳ありません。でも、懐かしくて嬉しかったんです。オズ様のお城で、お二人はよくこのような言い合いをされていたでしょう。傍で聞いていて、私もお二人のように長い年月でも変わらずにずっと心を通じ合わせ続けて、気軽に何でも言い合えるような友だちが欲しいと憧れていたんです」
     実情を知るよしもない無垢な剣に真っ向から切りつけられてオズの息は詰まったが、フィガロの感性は鈍麻しているらしかった。
     朗らかな笑いが、横広の唇から迸った。
    「へえ。じゃあ今はその夢が叶ったってわけだ。賢者の魔法使いとしてここに居れば、大勢の友だちに囲まれて過ごせるものね」
    「それは……」
     アーサーの答えをオズは聞いていなかった。
     怒りが天に満ちて雷が間近に落ちる。混沌とした大気が雨雲を急激に発達させて、豪雨がどおっと地を打った。アーサーが窓を閉めて回る姿をフィガロはぬくみのない目つきで眺めていたが、やがて彼は、つうっとこちらを向いた。
     オズは差し向けられる無言の非難を無視して、心の内で声を荒げた。
    〈馬鹿なことを〉
     賢者の魔法使いとしての戦いの末にアーサーは命を落とすと、スノウとホワイトは予言した。そうさせないために一度は己が宣明を乗っ取り仰せたのに、十人の魔法使いの死と新しい賢者の到来と共に、結局アーサーは月に選ばれてしまった。
     己と同等に双子に近しい存在であり、大魔女チレッタの遺児たちを予言ごと引き受けている身の上であるから、フィガロだってアーサーを待ち受ける未来を知っている筈なのだ。
     魔法舎での暮らしがどれほど少年にとって実り多きものであろうとも、大いなる厄災に端を発する以上は純粋に良きものであるはずがない。
     己と違って〈厄災の傷〉を持たないゆえなのか。フィガロの鈍さをオズは初めて憎いと思った。心が伝わったのか、対峙する瞼がふうっと細まって顔の筋が歪んだ。
    〈みっともないぞ、魔王様〉
     声なき嘲笑が響いた瞬間、窓辺から離れたアーサーが別れの礼をした。
    「オズ様、フィガロ様。私はこれで失礼します」
     瞬き一つで、フィガロは調子を切り替えた。
    「そうだ、さっきから気になってたんだよね。中央の魔法使いたちは今日は休暇の筈だろう。やけにぱりっとした格好をしているけど、今から城に戻るのかい」
    「はい。魔法舎でみなと過ごしたいのは山々ですが、公務が待っておりますので帰城します。……オズ様」
     重ねて補講の礼を言う少年に対し、フィガロへの反発を引き摺るオズは鷹揚な挨拶しか出来なかった。フィガロは身を屈めると、医者然とした様子でアーサーの首筋に手を添えた。
    「脈拍は正常。顔色もそんなに悪くはない。きみぐらいの年だと寝付きの心配はしなくてよさそうだけど、昨日はちゃんと眠れた?」
    「はい。灯りを消すと、フィガロ様からいただいた天球儀が星の光のようにぼんやり明滅するんです。それを眺めているとすぐに寝入ってしまいますし、目覚めたときも気分がさっぱりしています」
     それならよかったとフィガロは身を起こし、左目を瞑ってみせた。
    「ほら、オズ。雷雲がいよいよ近付いて来ているよ。危ないから、おまえの魔法で送ってあげたらどう?」
     言われずともそのつもりだったオズは杖を構えた。
    「オズ様、お待ちください!」
     遮ったアーサーが、右手に箒を、左手に空にしたバスケットを握り取った。
    「お気持ちはありがたいのですが、バスケットを返したら城へは空を飛んで参ります。オズ様はどうか、お休みをお楽しみください」
     ええ、とフィガロが仰天した。
    「遠慮なんかするものじゃないよ。こんな荒天じゃ、全身がぐしょ濡れになっちゃうだろ。ここは、オズ先生に甘えちゃえばいい。こう見えてオズは心配性だからそっちの方が喜ぶよ。なあ、オズ?」
     アーサーの決意をたぶらかすようなことを言い、フィガロが肩にしなだれかかってくる。オズはその重みを無視して、毅然とした顔つきの少年に向き合った。
    「おまえには、そうしたい理由があるのだな」
    「はい。箒での帰城は、この目で復興状況を確かめるのに最適です。それに……」
     と、耳まで赤くしてアーサーは打ち明けた。
    「箒で空を飛ぶ私の姿が目に入ると、見守られているようで安心するという村々の声をカインとリケが届けてくれました。私の行動で民が安らげるのならば、どんなささやかなことでも続けていきたいのです」
    「そうか……」
     目眩く思いに囚われたオズは、やっとそれだけを口にした。ますます深々と体を預け、フィガロが〈えらいねえ〉とうそぶいた。
    「他者への思いやりを動機にするなんて、アーサーはもうすっかり立派な統治者だ。俺が十七の頃は自分のことばかりに必死で、そんな気持ちなんか一欠片も持てなかったよ」
     自虐に戸惑うアーサーを余所にフィガロは窓を指さした。
    「天気の神様は今日はことさらに気まぐれだね。ほら、すっかり空が晴れ渡ってる」
     これも厄災の影響ではないと良いのですが、と不安げなアーサーの手からオズはバスケットを奪取した。
    「これは私からネロに返しておく。おまえはもう、行きなさい」
    「そうだね。アーサー、見送るのは構わないんだろう?」
     さも当然のように付き添うフィガロと外に出る。雨上がりの緑滴る中庭で、箒に跨がったアーサーは宙にまっすぐ浮かび上がった。
    「それでは、オズ様。いってまいります」
    「……ああ」
    「いってらっしゃい。気をつけて」
    「ありがとうございます、フィガロ様」
     風を上手く捉えたアーサーは塔の天辺まで一気に上昇し、途端、隼のように急旋回して戻ってこようとした。さすがにぎょっとしたらしく、フィガロは手を振って訊いた。
    「アーサー、止まって! 忘れ物なら取ってきてあげる。どうしたんだい」
     普段と同じ声量でも、大気に満ちる精霊たちが言葉を届ける。アーサーは空中で姿勢よく停止し、返事を寄越した。
    「昨夜、食堂のカーテンに解れを見つけたんです。食事の後に縫い繕おうと思っていて、今まで忘れていました」
    「えぇ? どの辺り?」
     アーサーは器用にも箒の軌道で宙に平面図を描き、説明して見せた。
    「……オズにやらせるよ! この前、クロエに手縫いの基礎を教わっていたからね。良い練習になるだろう」
     フィガロの勝手な言い分にオズは目を剥いたが、誰が対処してもよい問題ならば自分が行っても良いはずだと思い直した。
    「心配は無用だ。任せておけ」
    「……はい!」
     嬉しげに頷いたアーサーは今度は滑らかに旋回すると、春の鳥のような勢いのある飛行で遠ざかっていった。
     少年の姿がすっかり見えなくなると、フィガロはじゃあ行こうかと促してきた。
    「俺が見ててやるから、ちゃんとやるんだよ」
    「いらん。邪魔だ」
     早足になると、その分フィガロとの距離が開く。やはり朝のフィガロは万全ではないのだ。無理をして出て来るほどあの酒が大事だったのだろうかとぼんやり思いながら、オズは立ち止まって彼を待った。
     この時間の食堂は普段ならまだ閑散としているのに、一角には人間二人と若い魔法使い二人が寄り集まっていた。
    「おはよう、クックロビンにカナリア。おはよう、カインとルチル」
    「フィガロ? あんたがこの時間に居るなんて珍しいな」
     若き騎士の右手に、フィガロに続いてオズは触れた。あれ、とカインが驚きの声を出す。
    「どうしたんですか?」
    「いや。今まで気付かなかったが、オズとフィガロって雰囲気が似てるんだなと思ってさ」
     嘘でしょ、とフィガロが相好を崩した。
    「お世辞でも俺は嬉しいけどさ。世界最強の魔法使い相手にそんなの恐れ多いよ」
     道化仕草が馬鹿馬鹿しくなったオズはアーサーが見つけたほつれを探しにかかった。その間に、フィガロはごく自然な振る舞いで四人のうちに割り込んでしまう。彼が話題を探るのを、オズは背中で聞くともなしに聞いた。
    「クックロビン。それ、新しい依頼?」
    「はい、そうです! 〈南の海域で海底から火柱が吹き上がった〉という急使が私たちの宿舎に二時間前に到着しまして……」
     夫の後を、カナリアが引き取った。
    「そうしてつい先程〈火柱はおさまったが、緑の目をした恐ろしい怪物が海を荒らしている〉って続報が魔法舎に入ったんです。キッチンでお湯を沸かしていると、すごい勢いで着地する魔法使いさんが窓越しに見えて何事かと思いました」
     紙を広げる音とルチルの声が重なった。
    「フィガロ先生、これ、私が授業で使っていた海図です。火柱が上がった地域と〈怪物〉が出現した地域は重なるみたいです」
    「ルチルから聞いたんだが、南の国には海底火山ってやつがあるそうだな。今度も、それなのか?」
    「うーん……この辺りはそういうのとは縁遠いはずだけど……大いなる厄災の影響だとすれば、遠い昔に休眠した火山が再活動を始めた可能性もあるね」
     ところで、とフィガロはさりげないように話題を継いだ。
    「気になるのは緑の目の怪物の方だ。知らせを持ってきた魔法使いはどこにいる?」
    「話をしてすぐに帰って行きました。兼業で漁師をなさっていて、戻らないと船が守れないそうです」
    「……どういう怪物か、話はしていた? そいつが目撃者なんだろう?」
    「はい! 任せてください。朝のスケッチ帰りで道具を持っていたので、ばっちり絵に起こしてあります」
     おお、とカインが息を呑んだ。
    「ルチルの絵、いつもとタッチが違って写実的だな。海だって一目でわかるし、波の化け物感が怖いぐらいに出てる」
    「本当は、絵は心のままに描かないとつまらないんですが……遠いところを危険を冒して知らせに来てくださったんだから、あの方が見たものをそのまま描き起こさないと失礼ですからね」
    「……これは……」
     ふいにフィガロが黙り込む。気になり、オズは背後からフィガロの持つ絵をのぞき込んだ。硬筆でスケッチされた画帳には、飛沫を上げた大波がうねっている。変幻自在の波の中に、オズがよく知る奇怪な緑の瞳孔がぽっかりと浮かんでいた。白黒で構成された彩度のない絵だが、その〈緑〉はオズの目に鮮やかに映り――この世でただひとりの持ち主であるフィガロの目には、よりはっきりと見えている筈だった。


    →2022年7月発行の同人誌に続きます。
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    karrruko

    PAST2022年2月発行のオズフィガ本〈おまえの名と力にかけて〉より、フィガロが見ていた夢としてのパラロイ部、オズフィガがいちゃついている部分の再録です。

    ・二人は「北の国」の孤児院で育った幼馴染みで、色々あって義兄弟になり、シティに引きとられた設定です。

    ・オズにとってフィガロの夢を叶えることが第一義で、そのためにまずはハッカーとして金を稼ぎ、それを元手にして武器商人になろうとしています。
    「おまえの名と力にかけて」より一部再録 日曜日の早朝、午前五時十五分。
     オズは滲む涙と共に目を開けた。
     視界には夢がなまなまと鮮やかで、我知らず手を差し伸べる。救いたいのは砕けた欠片、ひとりの男の残骸だ。
     ありし日そのままの微細なきらめき。きめ細やかな乳白色とくすんだ青、血の色の赤、冬の海の灰色と大地の緑。正気ではうまく知覚できない奥底に、それら破片たちは荒れすさびぶつかりあって、大きな渦を巻いている。互いに身を砕き、磨り潰しあって、少しでも早くこの世から消滅しきってしまおうとしている。
     だが、そんな凄絶さと裏腹に、あたりには何の響きも聞こえてこない。一切の介入は静寂により拒絶されている。
     無音の内に滅していくのは、望みか意地か絶望か。
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    karrruko

    DONE①7/24無配をベースに、11000文字追加したものです。
    ②フィガロがモブの男娼を買い、彼に抱かれて満足している描写があります。
    ③フィガロがオズの前で酒の印象を伝えようとし、遠回しな性行為の隠喩を行う描写があります。
    ④スノホワ様のキスシーンがあります。
    ふいうち

     燃えるような朝焼けに目を細め、フィガロは森を飛翔した。こんな時間に野外をうろつくなど人間に傅かれて暮らしていた幼い頃以来だったが、ある意味で状況は当時より悪化していた。何せ師匠二人から〈オズの成人祝いを渡す〉という無茶な仕事を命じられているのだ。一度は石にするべきだとも思った弟弟子が、今どこでどうやって暮らしているのか、己は全く知らないと言うのに。

     この厄介な話は、昨晩唐突に降ってわいたものだった。

     高弟としての自覚というか二人から躾られた義理というかで、スノウとホワイトの館から出でて暮らして五年が過ぎても、フィガロは月に一度は彼らの前に顔を出すようにしている。昨晩もその習慣に従ったのだが、食堂に足を踏み入れた途端に嫌な予感に襲われた。テーブルには極上のマナ石と黒みがかったケーキが給仕されている。石はともかく、素朴な見た目のケーキが大いに問題だった。
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