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    karrruko

    @karrruko

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    karrruko

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    ①7/24無配をベースに、11000文字追加したものです。
    ②フィガロがモブの男娼を買い、彼に抱かれて満足している描写があります。
    ③フィガロがオズの前で酒の印象を伝えようとし、遠回しな性行為の隠喩を行う描写があります。
    ④スノホワ様のキスシーンがあります。

    ふいうち

     燃えるような朝焼けに目を細め、フィガロは森を飛翔した。こんな時間に野外をうろつくなど人間に傅かれて暮らしていた幼い頃以来だったが、ある意味で状況は当時より悪化していた。何せ師匠二人から〈オズの成人祝いを渡す〉という無茶な仕事を命じられているのだ。一度は石にするべきだとも思った弟弟子が、今どこでどうやって暮らしているのか、己は全く知らないと言うのに。

     この厄介な話は、昨晩唐突に降ってわいたものだった。

     高弟としての自覚というか二人から躾られた義理というかで、スノウとホワイトの館から出でて暮らして五年が過ぎても、フィガロは月に一度は彼らの前に顔を出すようにしている。昨晩もその習慣に従ったのだが、食堂に足を踏み入れた途端に嫌な予感に襲われた。テーブルには極上のマナ石と黒みがかったケーキが給仕されている。石はともかく、素朴な見た目のケーキが大いに問題だった。
     客として二人に先んじて席に着いたフィガロは、策を弄しても仕方がないと真っ正面から切り込んだ。
    「この菓子、どうしたんですか」
    「えっ!」
     と、ホワイトがいかにも感激した様子でスノウと手を取り合った。
    「今の聞いた?」
    「聞いた聞いた! 嬉しいのう!」
    「フィガロちゃんが食に興味を向けるなんて……! オズちゃんを拾ってからと言うもの、何を食べても砂を噛むような顔をするようになった、あのフィガロちゃんが……!」
    「昔はもっと可愛げがあったのに、我らがオズちゃんを拾ってからというもの、一層斜に構えてばかりになったフィガロちゃんが……感激じゃ!」
     恩義を忘れて八年前に出て行った獣のような子供の名をこれ見よがしに出されて頬が引き攣ったが、けむに巻かれて堪るかとフィガロは二人に立ち向かった。
    「成長の証だと言ってください。自分よりも遙かに強大な魔法使い三人に囲まれて油断ばかりもしていられませんよ。……それより」
     と、ケーキの皿を手振りで示す。
    「これに使われている糖蜜とジンジャースパイスは西と東の希少品で……何より私の気に入りになったばかりのものです。お二人とも早耳過ぎませんか?」
     ぴくっと、二人は耳をそばだてた。
    「そなたが派手に遊びすぎなのじゃ。よかれと思うてか、弟子の素行についてのご注進がこの頃多くてのう」
    「〈人間の振りをして中央の悪所によく出入りしている〉と……微に入り細を穿っての描写つきじゃ」
     どうやら覗き見が好きな間者が己には纏わり付いているらしい。寝台の上でのことも筒抜けであると遠回しに知らされて、内心で燃えた恥と自身への怒りをフィガロは微笑で押さえつけた。
    「下卑た話を御耳に入れたことはお詫びします。……それにしても、いやだなあ。私は耳目を集めるような存在になった覚えはないのに。お二人の門下に居ると嫌でも人目を引くってことを、遅まきながら肝に銘じます」
     よく言うわ、とホワイトがあきれ顔で言った。
    「媒介をむざむざ渡すような愚か者に育てた覚えはないから、そこは好きにするがいい。……で、食べぬのか?」
    「そなたが絶賛したという茶屋の料理人を拐かして作らせた正真正銘のいつものヤツじゃ。時間をおいた方が美味くなると、あやつは申しておった。今が食べ頃の筈じゃ。さ、食してみよ」
    「そいつを殺したんですか……?」
    「いや? 我ら、フィガロちゃんの為に美味しい物を用意したかっただけだから。普通に礼を弾んで国へ帰したぞ」
    「北の気候だと発酵が云々と難しい顔をしておったが、どうじゃ? あやつはそれで成功だと言っておったが、騙されてはおるまいな」
     はあ、と曖昧な相槌を打ち、フィガロは小さく切り分けたケーキを口に運んだ。口中にのし掛かるようなずっしりとした糖蜜の甘さにスパイスのぴりぴりとした刺激が被さって美味いが、猥雑な野郎宿で覚えた風味はどこを探しても見当たらない。
     じいっと見つめてくる二対の視線に、甘みを喉の奥に押しやってからフィガロは答えた。
    「……ええ。充分、美味しいです」
     陰りには気付かないふりか、双子は良かったと口々に言い合ってケーキに手を付けた。
    「あっ……これ、我らも好きなやつ!」
    「美味し~! フィガロちゃんと趣味あうの嬉し~!」
     きゃっきゃっとはしゃぐ二人はマナ石とケーキを交互に食べておしゃべりに花を咲かせた。
    「スパイスは買い付けるよりあるまいが、蜜は蜂蜜でも代用できそうじゃのう。揚げ菓子もいいが、これもやみつきになりそうじゃ」
    「うむ。じゃが……フィガロの言ではないが、これは色町の仕出しにあるまじき食材の使い方じゃな。いっそ領主や王族の館にこそ相応しい品じゃろうに」
    「こんな酔狂なことをするなど、茶屋の主はそれなりの魔法使いではないのか? どうなんじゃ」
    「さあ。知りませんね」
    「えぇ~。感じ悪ぅ……」
    「そんなばっさり切り捨てたら、隠し事してるって思われても仕方がないよ。フィガロちゃん」
     フィガロは沈黙を続けた。偶然手に入れた密やかな悦びを曝かれていい気はしなかったが、知らないのは嘘ではなかった。無作為に寄りついた野郎宿で買い上げた、黒と藍が混ざったような髪の色子は、この手の商いには珍しくも屈託がなく明るい人柄で何より淫技に長けていた。彼に一夜抱かれた後、濃密な奉仕への褒美のつもりで勧められるがままに茶屋から仕出しを取ったフィガロはその味に心底驚き、それからなかばは夜戯後の食事目当てで宿に通った。予想外という言葉も不意の出来事も嫌いだけれど、淫靡な夜が明けた朝に味わう茶屋の食――いわば食事を通して与えられる不意打ちは気に入っていたのだが――
    〈それももう終わりだな〉
     何処とも知れない場所から決意が湧き起こってくる。茶屋の主のことも、料理人のこともあえて知らないようにしていたのに、師匠たちによって神秘のベールは剥ぎ落とされてしまった。己があの宿に行くことも、この菓子を口にすることも、もう二度とないだろう。
     心の内で溜め息を吐く。なんだか知らないが、人間を拐かしてまで己の〈好物〉が用意されたということは、厄介事が待ち受けている証である。幾ら希少で美味なものであっても、所詮人間が作る菓子と極上のマナ石とが釣り合うはずもない。石を食べれば、それなりの対価を要求される。このうえ更なる面倒を引き受けたくないとフィガロは石から目を逸らせた。ケーキを食べ終えて手持ち無沙汰になっても、この館では酒は出てこない。仕方がないからひたすらに茶を飲んで、師匠二人の延々と続くおしゃべりに適当な相槌を打つが、夜中にさしかかろうとしても彼らは本題に入ろうとしなかった。
    「あの、いいですか」
     たまりかねてフィガロは口を挟んだ。
    「あなた方は私に何をさせるおつもりなのでしょう。そろそろお暇したいので、教えていただけませんか」
     銛で突かれたように二人は動きを止めた。
    「どうしていきなり喧嘩腰なのじゃ」
    「我らと楽しくおしゃべりしていたのではなかったのか。……フィガロちゃん、本当は帰りたくて苛々してたの?」
     空涙で潤んだ金色の目の底が、愉快そうに笑っている。移り気な厄災めいた二揃いの双眸に交互に目を配り、フィガロは言った。
    「いつもはあなた方の好きな物ばかり食卓に並んでいるのに、今日に限ってあんなものを用意するなんて……ご忠告の他に何か魂胆があるのでしょう。どうせ断れやしないんですから、早く言ってください」
    「あ、そう。それなら言うけど……」
    「フィガロや。我らの代理で、オズの成年祝いに行ってきておくれ」
    「はあ?」
     あまりに意外で、驚きがそのまま唇から飛び出してしまう。またも嫌いな不意打ちに呆然とするこちらを意に介さず、二人は話を続けた。
    「我らがオズちゃんを捕まえてから、今夜で丁度十四年が過ぎた。あやつは今年十八歳……成年を迎えて二年が経ったと言うに、我らは祝いも何もしておらぬ」
    「あやつが二年連続でやらかした季節終盤猛吹雪の後始末に追われて、うっかり放置しておったのじゃ」
    「気付いたからには、早速取りかからねばならぬ」
    「じゃが、こういうことは当人に一番年が近い身内がやるものじゃろう?」
     息ぴったりの動作で頷きあった二人はこちらをじいっと見つめた。
    「というわけじゃ。贈り物は我らが用意したから、そなたは直接オズの顔を見て〈おめでとう〉と言って渡すだけで良い」
    「兄弟子として腕の見せ所じゃぞ。今夜はここに泊まっていき、明日早朝にさっそく旅立つのじゃ!」
    「いや、待て……待ってください」
    「なあに?」
    「どうしたの? お顔が怖いよ、フィガロちゃん」
     致命傷を負うまでむざむざ居残った間抜けな己に腹が立ったが、それでも一矢報いようとフィガロは訊いた。
    「お二人は一体、何をもってあいつの年齢を計っていらっしゃるんですか? やっと言葉を覚えたかと思えばすぐ外に出て行っちゃったからいまだにあいつの詳しい素性は知れない。肝心の誕生日にしたって、あなた方が勝手に定めて押し付けただけではないですか」
     指摘すると二人は左右対称の動きで首を傾げた。
    「勝手じゃないもん。星を読んで決めたんだもんねー」
    「年齢も、ちゃんと見定めてるもんねー。ていうかあやつの生まれる前と後じゃ我ら魔法使いと精霊の関わり方がまるっきり変わってしまって間違えようがないのじゃ。そなただって、あの晩は妙な声が聞こえると言っておったが、その実はびくついていたじゃろう?」
     言った傍からホワイトが、あっと眉をしかめた。
    「ごめん! 我、心ないこと言っちゃった。こんな昔話、恥ずかしかったよね?」
    「この世にオズちゃんが生まれ落ちた瞬間に、あやつの存在を感じ取って怯えてしまったなんて、傲岸不遜な魔法使いとして売り出し中のフィガロちゃんには相応しくない逸話だもんね」
     双子の遠回しな脅しに、フィガロはうそぶいて微笑んだ。
    「さあ……なんのことでしょう」
    「……忘れたふりときたか」
    「さっきも言ったけどフィガロちゃん。そういうの感じ悪いよ~?」
     フィガロは重たい瞬きの内に心を閉じこめた。
    「わかりました。運搬は引き受けます。ですが、その他のことは勘弁してください」
    「細かく刻んでくるのう……。まあ、そこがそなたにとっては譲れぬ一線であるならば我ら無理強いはせぬぞ」
    「祝いまで請け負うと約束を破ることになりますって、顔に書いてあるもんね」
     物わかりの良い振りをして二人は頷く。
     惰弱だと嘲り笑われているような気がして、フィガロは心の底を裏返して見せた。
    「……あいつがこの世に生きていることの、何がそんなに良いんでしょうか。マナ石として立派に熟してきているということはわかりますが、あなた方でさえあいつの石は持て余してしまう。生きていようが死んでいようが、あなた方にとってあいつは無用の産物ではないのですか」
     ふっと暖炉の火が落ちて、部屋の灯りが消える。
     託宣のように声だけを残して二人は去った。
    「それを言うなら、我らにとってのそなたの価値とはなんじゃ? 我らはこの瞬間にでもそなたを石にできるのに」
    「そなたもそれをわかっていながらこうして月に一度は顔を出し、油断しきった心を我らに晒すのはなぜじゃ」
    「今夜一晩、よく考えてみい」
    「そなたの部屋は、今でもそのままにしてあるからのう」
    彼らがそう決めたのなら、己はもうここから出て行くことは敵わない。手燭を出したフィガロは大人しく階段を上った。五年ぶりとは言え間取りは変わっておらず、棟を繋ぐ渡り廊下を歩いて、かつて己に割り当てられていた部屋へ向かう。半ばでオズが使っていた一室を通り過ぎる。この館の扉はどれも最上級の樫材で作られているのに、この一枚だけが薄らと輝いて見えた。あんな形で出て行った子供の魔力がいまだに空間を守護している筈も無いのだが、フィガロは眺めるだけで触れることはしなかった。
    〈あいつは、この扉を使って出て行かなかった〉
     心の一隅がきつく絞られて熱くなる。
     八年前。己に先立つこと三年も早く、オズはこの館から出奔した。たった十歳の子供のくせに行く道を自分自身で選び取って、己では思いつくことさえ出来ない空間移動の魔法を編み出すと、ある日突然消えてしまった。双子はこうなることは最初から予見していたと笑ってお終いにしてしまったが、未熟な子供だろうが何だろうが許せるものではないと己は思い、未だにその感情を引き摺っている。
     重い足取りで五年ぶりに自室に戻る。出立の際、これまでの礼を込めて隅々まで清掃して去ったものの、時の流れが埃臭さを部屋に積もらせている。窓と鎧戸を開けて空気を入れ換え、精霊に場を浄めさせる。暖炉に火を入れても、四月の夜はいまだ冬の名残に支配されていて冷え冷えと身を凍らせる。館をぐるりと囲む森に狼たちの遠吠えが響き渡る。
    〈あの子供も、お二人に捕まる前はああして鳴いていたのだろうに〉
     四つ足で地に這いつくばる獣から、二本の足で立つひとに作り変えてやった恩も忘れた子供。名前も口にしたくなくなったあの子供。
     ――だが、今にして思えば〈そいつを石にしてしまいましょう〉と口走ったのはまずかった。
     師匠たちに指摘されたとおり、己はあの子供がこの世に生まれ落ちたときから恐怖を抱き続けていた。忘れもしない、春の夜。いまだにからだに染み着いている怖じ気。世界が叫喚しざわめく異様な感覚がひとりの魔法使いの産声だったなど、あまりにも神々しく壮大でやりきれなかった。思い出すと苦痛に顔が歪むほどなのに、それが、よりにもよって二人の手により捕縛され、いきものの形を取って突然己の目の前に現れ出たから堪らなかった。
     己は二重の意味で恐慌をきたしてしまった。
     自分よりも強い子供。
     自分よりも強い魔法使い。
     魔法使いが心血を注いで育てる弟子は、一人居れば十分ではなかったのか。
     己というものがありながら、なぜあの二人はあの子供を力尽くで従えてまで連れ帰ってきたのか。
     あの子供に対する純粋な恐怖と、臆面もなく
    『今日からこやつは、そなたの弟弟子じゃ』
     と言い放った双子への思いが渦を巻いて心を襲い、思わず口にしてしまった言葉だった。
    〈……嫉妬か?〉
     思い当たる節に苦笑する。
     あの子供の両親はいずれも人間だったのか、少しは物の道理が分かる魔法使いだったのか。それすらいまだに誰もわからない。わかるのは、あの子供が生まれて早々に、森に棄てられたこと。生来の魔力で己に襲いかかってくる獣どもを撥ね除けて生き延び続けてきたこと。四つ足の獣同然の身でスノウとホワイトに拾われ、〈オズ〉という名を与えられて、ようやくひととしての端緒につけたこと。
     己があの子供に言葉を教えたこと。
     ――なのに。
    〈与えられた居場所を、あの子供は捨て去ったのだ〉
     思うところは多々あれど奪われることは望んでいなかった己の故郷は雪崩によって押し潰され、あの子供は望んでも得がたい故郷を自分勝手に棄てた。泡を食って報告すると、双子はこうなることは予期していたと涼しい顔で言って笑った。
    『気にすることはない。我らは最初から、あれはそういう魔法使いじゃと思っておった』
    『ただ野放しにしておくのは恐ろしいから――あやつの心がまだ柔らかい今のうちに少し、ほんの少うしだけでも、我らといういきものの印象を刻み込み、縁を作っておきたかったのじゃ』
    『我らを棄てるのは、あやつの自由じゃ』
    『これ以上下手に縛り付けるとあやつは月よりも恐ろしい厄災になる。好きにさせよ』
    フィガロは引き下がった。師匠が許しているものを、己が罰することは出来ない。けれど黙っては居ても、気持ちはずっとわだかまっている。
    〈では、私はどうなるのです〉
    〈私の中に生じたこの空白はどうなるのです〉
    〈あいつという存在を何とか受け入れて、私の中に棲まわせてやり、それすらも顧みられず棄てられた私の心は、どうなるのでしょうか〉
     どうなる? と問い掛けたところでどうにもならない。
     あの子供がこちらのことを忘れ去っていようとも、世界のどこかで暴れて生き抜いていることは嫌でも気配で知れるから、遭わずにやり過ごそうが遭っているのと同じだった。あの子供には故郷よりも目指したい何かが他にあり、自分という存在は、それよりも劣っていた。
     それが答えだと日々突き付けられて、気持ちはどんどん荒んでいった。持て余す心から目を背けようと、からだの悦びに耽溺したって同じだった。
     ぶるっと寒気がして、フィガロは鎧戸と窓を閉めた。カーテンを引いて背を預ける。ひえびえとした背中と、暖炉に温められる胸の間で行き止まりの気持ちが溶けて心の奥に染みていく。
    「……寝よう」
     どのみち朝は来るのだし、双子の下す令から背くことは出来ない。さっさと用件を片付けて己のねぐらに帰ろう。そう決めると心が少し楽になる。さっと湯浴みして寝支度を整え、寝台に上がる。精霊の働きは抜群で、寝床はふかふかと温かかった。眼を閉じると双子の声が木霊する。
    『今夜一晩、よく考えてみるのじゃ』
     ――その答えは考えずとも出ていた。
     双子に巡り会った頃、まだ十三かそこらだった己は強大な力の持ち主二人に囲われるということの、真の意味が理解できていなかった。なにせ己以外の魔法使いに対峙するのが初めてで、彼我の力量の差が見えておらず、己が彼らに従順にならねばならない理屈が分からなかったのだ。だから散々抵抗して、そのたびに苛烈な仕置きを喰らった。そのうちに道理と、どうあがいても埋められない魔力の差がわかってきて、今すぐにでも石にされるかもしれない恐怖に開眼したけれど、その頃には恐怖と同じだけ彼らに愛着も抱いてしまっていたから離れるなんて出来なかった。
     それから二十年の間にからだが育ち、ついに魔力が熟し切った今となっても、その思いは変わらない。あいだにあの子供という異物を挟んでさえ、己は彼らの弟子として――あの子供の兄弟子として、この場に存在している。
    〈いやだなあ。これでは私ひとりが、スノウ様とホワイト様と……オズの三人とは、まるで違った景色を見ているみたいだ〉
     ふっと兆した影からフィガロは目を逸らせて、眠りのほうへ逃げ落ちた。眠りはしばしの間悩める心を遠くに連れ去り、日が昇る前にうつつへと押し戻した。



     双子が用意していたオズへの贈り物は、樽一杯の酒だった。身支度を終えてフィガロが中庭に出ると、二人はそこで待ち構えており、声を合わせて呪文を唱えた。
    「《ノスコムニア》」
     瑠璃色の夜の端が朝陽の萌しに炙られて溶けていく空に、古びた酒樽がぽんと浮かんで目の前にすいっと下りてくる。
    「フィガロちゃん。贈呈よろしくね」
    「我らが庇護してる人間が、それが一番の自信作だと言っておった。疑うわけじゃないけど、多分、間違いないヤツだと思うよ」
     占有権を譲渡されたフィガロは、足元に置いた酒樽をまじまじと見つめた。言われるまでもなく、上質な蒸留酒独特の強い香りに林檎の甘さがツンと立っている。二人は己と違って酒に弱い。けれど年の功というやつか、かなりの目利きであるらしい。
    「最近の若者の間では、形に残る記念品は邪魔だと疎まれるのじゃろう? その点、酒は呑めばなくなる! 時流に則ったいい選択だと思わぬか」
    「あやつと共にそなたも祝杯を挙げるといい。きっと親密になれることじゃろう」
     フィガロはきっぱりと断った。
    「引き受けたからには必ず渡します。ですが、言ったとおりにそれ以上はお約束しません」
    「そんなこと言わないで、フィガロちゃん! 洗練の極みであるそなたからお酒の作法を教われれば、オズちゃんの一生物の財産になるから……ね?」
    「多分、オズちゃんもお酒に口をつけるのはこれが初めての筈なのじゃ。あやつは口下手じゃし、何が欲しくて欲しくないのかもあやつ自身がわかっておらぬ。その性質は五年経っても変わらぬはずで、あやつが息苦しくならぬよう、こっちから〈大人〉の手ほどきをしてやらねばならん」
     褒められて悪い気はしなかったが、随所がどうも引っ掛かる。フィガロは何とかおしゃべりに口を挟んだ。
    「そもそもの話になりますが、あいつは飲める体質なんですか?」
    「知らぬ」
    「うん。知らぬな」
     えっ、と思わず漏らしたこちらの息を踏み潰すように双子は言った。
    「じゃが、小さな頃から酒に強くなる相は出ておった」
    「だから、まあ、いいんじゃない?」
    「適当すぎません?」
    「いいのいいの。あと、なんだかんだいって十八歳って、色んなことを味わいたいお年頃じゃろ?」
    「多分、オズちゃんの頭にも〈成年を過ぎてからじゃないと味わっちゃいけない楽しみ〉だってすり込まれてると思うよ。いつぞやの夜にそなたがひとりで酒を呑んでおる姿を、両眼を瞠ったオズちゃんが、そなたに穴を空けそうなほどの強さでじいっと見ていたのじゃ。よほど強い興味関心があるようじゃったが、さすがに……まだ早いと思うてな。我ら、オズちゃんを影に引っ張ってきて、物事には〈時機〉というものがあると滔滔と言い聞かせたのじゃ」
    「……そうなんですか?」
     フィガロにはまるで覚えがなかった。けれど、己独りで完結する飲酒という行為に、慰めを見いだしていた時期があるのも確かだった。
    「そう! 物事には勢いと思い切りも大事!」
    「後はよろしくね、フィガロちゃん! オズちゃんは……ええっと……?」
    「ここからじゃと内海を挟んだ北西寄りの……海沿いの森に居るようじゃ! 多分!」
     途方に暮れる己を残して双子は去った。
    「《ポッシデオ》」
     小さくした酒樽を懐に抱えてフィガロは空に舞い上がり、箒の穂先をぴんと張った。
     飛行の間にも白々と夜は明けて日が昇り、大地に落ちる己の影が長くなる。双子から大ざっぱな助言を受けてやって来た森は広大だったが、上空にさしかかった途端に気配が変わった。精霊たちが強大な魔法使いに従い、傅いているのが肌身で分かる。紛れもなくここがあの子供の居場所だった。どうにも癪に障るが、この場での自分は、彼の許しがないと存在できない些末な命だ。師匠たちの願いを叶えるべくフィガロは箒に乗ったまま、不承不承、魔力を走らせて呼び掛けた。
    「……オズ」
     五年ぶりにその名を口にする。喉と舌の動きを、ただ〈オズ〉という響きに沿わせただけなのに、かあっとからだが燃えた。己を捨て去った相手に我が方から近寄らなければいけない憤怒と、また再びこの名を呼べたことへの奇怪な思い――羞恥と嬉しさとが入り交じって、箒の柄を握る指がかたかたと震える。そんなこちらの思いを知らない森は沈黙に鎖されている。フィガロは仕方なしに元の大きさに戻した酒樽を宙に掲げて名乗りを上げた。
    「聞こえているのだろう? 私は、お師匠様方からの使いでおまえに会いに来た。これがその証だ。わかったら疾く迎え入れて貰おうか」
     言葉としての応答はまたもなかった。しばらく待っていると風の流れが変わる。元々が快晴だが、そのうえで微風を抑えつけるほんの少しの痕跡を辿って、フィガロは酒樽を従えて大地に降り立ち、鬱蒼とした木立を黙々と歩いた。やがて前方に奇怪な光の壁が見えてくる。突如現れた空き地は、乱暴に木を切り倒して作られたもので、そのまっただ中に、奇妙な小屋が建っていた。このしろものは、人間たちが炭焼きや猟の際に籠もる臨時の避難所を一回り拡張したほどの大きさである。家屋とは呼べない粗雑な作りは、建築の知識に乏しい者が一度目にした小屋の外見を元に見よう見まねでこね回して作った玩具と呼ぶ方が相応しいだろう。板切れや煉瓦は大胆に組み合わされているだけで建材としてはまるで役に立っておらず、不足している強度や歪みや隙間は魔力で強引に補強されている。
    〈あいつは、本当にここに居るのか?〉
     あれほどの魔力の持ち主が、こんなにも粗末で冗談のような小屋に住んでいるとは思えなかったが、この場には忘れようとしても忘れられないオズの気配が濃密に漂っている。近寄っても牙は突き立てられない。意を決したフィガロは、かろうじて立て付けられている体の扉を叩き、再び彼の名を呼んだ。
    「オズ。私だ。フィガロだ。わかったら、顔を見せよ」
     内側に籠もった力が、ぐうんと大きく膨らむ。圧されて思わず後退った途端、きい、と扉が軋んで外に開いた。
     現れた男の顔貌に、フィガロの鼓動は一瞬止まった。
    〈え……?〉
     ほんの少し、ほんの少しだけだが己より背が高い男の顔をみあげなければならない。陰りを帯びた紅い瞳に、苦しさを抑えるようにぎゅっと引き結ばれた唇が印象的で、長い髪から覗く肩周りはいまだほっそりしているが、首は太く精悍であり、きっと艶やかな声を出すのだろうと想像がついた。
     見知らぬ男が、口を開いた。
    「……何だ」
    「おまえは……オズか?」
     馬鹿なことを聞いたものだと思うがそれしか言葉が出てこない。今度は答えがなかった。そうだとは言われず、ただ眉間に深い皺が刻まれる。その癖は、己がよく知る子供の癖と何ら変わらなかった。早鐘のように鳴る心臓を兄弟子の誇りと威厳にかけて抑えつけフィガロは微笑した。
    「八年ぶりだ。随分大きくなったな」
     呼吸を落ち着かせるまでの時間稼ぎの戯れ言のつもりだったが、オズは困ったように眉尻を下げて言った。
    「おまえは小さくなった……」 
    「そんなわけがあるか。私の外見はもう変わらない。おまえの背丈がぐんと伸びただけだ」
     無礼だと怒る気もしなかった。急にまばゆい光を浴びせられたように、目の前がちかちかと眩んで、体の奥がぼうっと火照っている。黙り込むオズの前で空白が落ち着かず、フィガロは二人の間に酒樽を浮かせて、口を開いた。
    「これを渡しに来た。おまえが二年前に成年を迎えたことを祝して、スノウ様とホワイト様が選り抜いてくださった酒だ。お二人はおまえが起こした吹雪の後始末をいつも買って出てくださって、そのうえここまで心を砕いていらっしゃる。機会を見繕い、礼を述べに行くのだぞ」
    「……」
     オズは無言で体を引いた。占有権を差し出しているのに樽は宙に留まったままだ。受け取る気がないのかと焦るが、彼は何度か唇を開け閉めした。
    「……入れ」
     やっとそれだけ言って、オズは中に引っ込んだ。樽はまだ己の手元にあって、これを受け取らせない限りは使命は達成されない。酒樽を背後に従え、フィガロはなかば自棄で小屋に踏み込んだ。外と内は独立した事象のようで、見かけの乱雑さとはまるで似つかぬ空間は中には広がっていた。田舎領主の屋敷めいたホールに広間が繋がっていて、整理整頓が行き届き、驚くほどの清潔感さえあった。オズが通した広間を飾る調度品の趣味は、今朝方出立した館に置いてあったものそっくりで、この子供――いや、男の嗜好が明らかに双子の影響下にあることが分かる。よく見れば、身につけている衣服もそうだった。己のように実利一点張りではなく、こざっぱりとしているが、首筋で髪を結ぶ紐や袖口や帯には華麗な装飾が施されている。
     それがなんとなく、面白くなかった。
    〈……お二方の存在は、充分こいつに刻まれているな〉
     しらけた気分でテーブル横の床に酒樽を置く。魔法を解いてしまい、これで責務は果たしたと踵を返そうとして、フィガロの背筋は強張った。テーブルを挟んでぼうっと突っ立っているオズの右手に、魔道具の杖が握られた。
     はっとしてオーブを出そうとするがもう遅い。こちらの意志は封じられていて、手も足も出ない。オズはじいっと見つめて言った。
    「おまえ……」
     その先は幾ら待っても出てこなかった。
     言うまでもなくここはオズの支配地であり、己はそこに飛び込んできた弱者――彼がその気になればあっさりと狩られる獲物だ。わかっていても、フィガロはなぜかその事実を受け入れていた。圧倒的な力を前にした恐怖が崩落とともに変質して、じいんと体が痺れていく。頭の中で憎悪と嫉妬を捏ね回して散々にぶつけてきた小さな子供が八年という歳月を経て匂い立つような男に変貌していたことに一瞬で心を奪われ、魅惑された。己のいだいた絶望と憎しみはそんな軽薄なものだったのかと理性が歯ぎしりをするが、本能は抗えなかった。オズという男に魅了されきり、理性が心に屈するしかない辱め、己の脆弱さへの羞恥と汚辱さえ甘露だった。そうして、この危機的な瞬間でさえ、己は彼の姿を目にして楽しんでいる。あの艶やかな声を聞きたいと望んでいる。あの手で肌に触れてもらえるのなら、あの指で魂を砕かれるなら、後悔はないとさえ思っている。
     オズが、小声で呪文を唱えた。
     張りのある声で紡がれる呪文は心地よくて、気を取られたフィガロはオズの言葉の続きを聞き逃した。
    「…………」
    「……何だ?」
     明らかにこちらに向けられていたささやきは、まじないが現出させた杯がぶつかり合う軽やかな響きに紛れてしまった。テーブルには木製の杯が二つ、向き合って置かれている。オズはその片側に座った。彼は見つめる目で、空いたもう一つの杯を取れと訴えかけてくる。フィガロは呆気にとられて訊いた。
    「オズよ。おまえは私を招きたいのか?」
    「……おまえはこれが、酒だと言った」
     唸るような声で、オズはよくわからない答えを返した。俄にからだが軽くなり、フィガロの束縛は解かれた。座った彼が、立ったままのこちらをじいっと見上げてくる。その眼差しは幼い頃と何ら変わらない。深い赤色の瞳。言葉で表せない代わりに瞳に強い力を宿してこちらを縛り付けようとする、王者の目だった。
    「フィガロ」
     突然、名を呼ばれた。
     その単純な響きに砕けた腰を誤魔化すために、フィガロは椅子に座り込んだ。オズは宙に浮かせた酒樽をテーブルの真上に送り込んできた。間に影が落ちるのも落ち着かないが、たっぷりとした容量の液体が不安定なまま頭上に浮かんでいるのも落ち着かない。だがいまや、酒の占有権はオズが握っている。気を揉んだところで、フィガロにはどうしようもなかった。オズが仇のように杯を握りしめ、腕を一杯に伸ばして差し出してきた。
    「フィガロ」
    「なんだ」
    「おまえは昔、双子と私を前にして、ひとりで酒を飲んでいた」
    「ああ……そうだな」
    「私は、酒を飲んだことがない」
    「……で?」
    「この樽から飲むにはどうすればいいのか、教えろ」
     さすがに力任せに樽を壊す気はないらしかった。
    「簡単だ。道具を揃えれば良い。……魔法を使うが、構わないか?」
    「……ああ」
     オズがいぶかしげに眉を顰める。
    「オズ。おまえに封じられて、私は魔法が使えぬのだ」
     指摘してやっと、オズは己が獲物の力を奪っていたことに気付いたようだった。彼が、こくんと頷くと共にオーブが我が手に帰ってくる。これは己が余程見くびられているのか、こいつが余程考え無しなのだろうかと、巡り始めたいつもの邪念をフィガロは意思の力で蹴飛ばした。
    「《ポッシデオ》」
     樽からまずは二人分を瓶に移し、取り替えた銀製の杯に注ぐ。熟された酒ならではの強い香りと、繊細で華やかな林檎の良い香りが幅広の杯から匂い立ち、フィガロはうっとりと眼を閉じた。
    「お二人の見立てだけあって美しいだろう。これほどまでに透き通った琥珀色の酒など、滅多にお目にかかれるものではないぞ」
    「……陰になって、色がわからない」
    「わからずとも感じ取ることは出来よう。飲む際の作法だが、この手の強い酒はこうだ」
     と、フィガロは顔をやや仰向けて、舌上にまっすぐ流し込んだ。喉を通り過ぎた芳香が鼻腔に抜け、胃を焼く芳醇な刺激とない交ぜになって口と鼻の感官を一気に満たす。
     ほうっと満足の瞬きをする。
     教えろと言ったくせに、オズは後に続かず、両手に抱えた杯を不審そうに嗅ぎ回っていた。
    「こら。そのように温めると風味が消えてしまうぞ」
     そう叱ってもオズは動かなかった、久しぶりの美酒に酔い痴れたせいか、八年ぶりの再会が己にとって辛いばかりでもなかったせいか――この甘美な感触を何に例えようかと迷ったフィガロは官能の扉を無造作に開き――
    「経験がないゆえに恐ろしさを感じるのは最初だけだ。飲む際は……」
     慌てて、たとえで言い換えた。
    「逞しい槍で喉を突かれる表象と言えばわかりやすいか?」
     途端、オズはごくりと喉を鳴らして杯を呷った。
    「……!」
     かっと、瞠られた目が充血していく。フィガロは精霊を働かせて水差しに冷水を満たし、オズが用意した木製の杯になみなみと注いで押しやった。
    「無理はするな。まあ、とにかく口をつけたのだからおまえは立派に義理を果たしたよ。お二人にはそう報告しておくから安心するがいい……」
     起ち上がろうとした己の袖をオズが掴んでくる。
    「《ヴォクスノク》」
     彼は互いのからだに収まったのと同じだけの量を瓶に注いだ。
    「よかった。気に入ったのだな」
     他意はなく訊くと、オズは獣の目で睨み付けてきた。
    「槍で喉を突くというのは、どういう意味だ」
    「何……?」
    「槍で喉を突けば命は尽きて石になる。おまえは、そんなことを考えながら酒を飲んでいたのか?」
     しまったと思っても、もう遅かった。切なる目で、オズは次の杯を煽った。つまむものもないのにこの調子でいけば彼は早晩潰れてしまう。個人的にそれもいい経験だと思うが、酒をたしなまない双子からは〈そなたが付いていたのに何事か〉ときつく仕置きされるだろう。慌ててフィガロは森の周縁に住まう人間の屋敷から料理を拝借して卓上に並べ、己も杯を握り、オズをなだめようとした。
    「馬鹿な。たかがたとえを本気にするな」
    「たとえで、そんな状況になるものか」
    「……なり得るんだよ。まあ、おまえもそのうちわかると思うが」
    「わかりたくもない」
     言って、オズはまた杯を開けた。頑なな弟弟子に苛立たしさを覚えながら、フィガロは懸命にあやそうとした。
    「まあ、それは好き好きだ。とにかく、そうしてやたらに流し込んでばかりでは胃が爛れるし、舌も痺れて本来の味がわからなくなるぞ。ほら、おまえの好きな鹿のソテーだ。食べて、腹を満たしてから飲みなさい」
     取りなしは失敗に終わった。オズは料理には手を付けず、ひたすらに覚え立ての杯を重ねていく。フィガロは最初こそはオズの気を引こうとして、たいして美味でもない食物を口に運んでいたがやがて馬鹿らしくなり、己も無言で酒一本に切り替えた。オズが酔い伏しても助けられるよう見守っているつもりだったのに、いつの間にか己の動きの方が重たく泥のようになっていると気付いたときには遅かった。
    〈まずい……帰らないと……〉
     このままでは深酔いして無様に眠り込んでしまう。焦ったフィガロは起ち上がろうとしたが、力が入らずその場にへなへなと崩れ落ちた。舌打ちをして、オーブを呼び出そうとしても集中できず、あんなに唱え慣れた呪文も何が正解かわからなくなった。
    〈……帰れない……〉
     絶望に身を沈めたとき、ふいに優しい声が覆い被さり名を呼んだ。
    「フィガロ」
    「……だれだ……?」
    「もういい。眠れ」
    「……わかった……」
     その強くて逞しい腕は背を支えて、立たせようとしてくれる。一緒に歩こうとしてくれている。フィガロは素直にその腕に身を任せた。もう二度と行くことはない宿の男が己を抱く腕よりも強く、しなやかで美しい。こんなことは初めてなのに、不意打ちの恐ろしさは感じなかった。
     雪崩で故郷を失って、予期せぬ出来事はすべて忌むべきことと感じるようになっていたのに。誰とも知れない――これが誰の腕なのか、本当はわかっているけれど、見向きはしたくない腕の温かさは、己にとっての恐怖ではなくなっていた。腕の導きによって寝台らしき場所に仰向けに寝かされる。腕は未練もなく離れていく。
    「待て……待って……!」
     この熱の中にはどんな狂奔が埋まっているのだろうかと、フィガロは夢中で男の腕に縋り付き、硬く筋張った前腕に口付けをした。撥ね除けられなかったから嬉しくなって、手首まで唇をずらし、噛み付いて、そこで意識を失った。
    「…………」
     呆然としたオズがしばらくは傍らに立ち尽くしていたことも、遠く離れた館では双子が己の身の上をささやきあっていることもフィガロは知らなかった。





     今頃はきっと、教えたとおりに上手に〈時機〉を見計らった弟弟子が、兄弟子と仲を深めているのだろうと、館のスノウとホワイトは揃って胸を躍らせていた。
    「フィガロにはちょっとばかり悪いことをしたからのう。我らからの慰め、お詫びの贈り物じゃ」
    「十八になるまでちゃんと我慢できたオズちゃんにもご褒美じゃ」
    「やっぱり、こういうのはそれなりの年にならないとね~」
    「お互い同士でやりあってるならどうだっていいけど、他に同じ調子で手を出すと、いろいろと問題あるもんね~」
     スノウの指が、ホワイトのタイをほどく。相方の好きにさせながら、ホワイトはおしゃべりを続けた。
    「フィガロがあそこまで、オズに情を注いでいたとは気付かなんだぞ。てっきり、出て行ったやつのことなど知らんと平気な顔をするかと思えば、それからずうっと暗い顔じゃ」
    「でも、あの思い詰め方って、ちょっと重たくないかのう? 子供に手を出すのはまずいから大きくなるまで待つつもりでいて、あっさり出て行かれたからって、気持ちに蓋をして恨むっていうのも狭量っていうか……。オズちゃん的には、このまま悶々とし続けていてもフィガロちゃんを妙な風にしてしまいかねないからって、ある意味……何も知らない子供なのに本能で騎士道精神を発揮しちゃった? みたいな不思議な行動じゃったのに」
    「気持ちの整理を付けるのが、フィガロちゃんはとことん下手なんじゃ。例の雪崩のせいで、予期せぬ出来事に怯えて及び腰じゃし、只の気持ちのすれ違いですら恐ろしくなってすぐに逃げてしまう。そうこうしているうちに、我らやオズちゃんへの思いの主流が嫉妬なのか恐怖なのか愛なのか絶望なのかわからぬようになってしもうて……」
    「オズのほうは、あんなにはっきりしとるのにのう。悪酔いしたフィガロにほしいままキスをしようとしておるのを見たときは、肝が冷えたぞ」
    「あんなの、どこで覚えたのかのう……」
    「本当に不思議じゃ……」
     双子は顔を見交わしあい、どちらからともなく唇を重ねた。満足するまで互いを味わい合った後、二人はにっこりと笑い合い、夜空を見上げた。
    「まあ、でも、どちらも不器用で可愛い弟子たちよな」
    「我らに逆らわない限りはな!」

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    karrruko

    PAST2022年2月発行のオズフィガ本〈おまえの名と力にかけて〉より、フィガロが見ていた夢としてのパラロイ部、オズフィガがいちゃついている部分の再録です。

    ・二人は「北の国」の孤児院で育った幼馴染みで、色々あって義兄弟になり、シティに引きとられた設定です。

    ・オズにとってフィガロの夢を叶えることが第一義で、そのためにまずはハッカーとして金を稼ぎ、それを元手にして武器商人になろうとしています。
    「おまえの名と力にかけて」より一部再録 日曜日の早朝、午前五時十五分。
     オズは滲む涙と共に目を開けた。
     視界には夢がなまなまと鮮やかで、我知らず手を差し伸べる。救いたいのは砕けた欠片、ひとりの男の残骸だ。
     ありし日そのままの微細なきらめき。きめ細やかな乳白色とくすんだ青、血の色の赤、冬の海の灰色と大地の緑。正気ではうまく知覚できない奥底に、それら破片たちは荒れすさびぶつかりあって、大きな渦を巻いている。互いに身を砕き、磨り潰しあって、少しでも早くこの世から消滅しきってしまおうとしている。
     だが、そんな凄絶さと裏腹に、あたりには何の響きも聞こえてこない。一切の介入は静寂により拒絶されている。
     無音の内に滅していくのは、望みか意地か絶望か。
    14231

    karrruko

    DONE①7/24無配をベースに、11000文字追加したものです。
    ②フィガロがモブの男娼を買い、彼に抱かれて満足している描写があります。
    ③フィガロがオズの前で酒の印象を伝えようとし、遠回しな性行為の隠喩を行う描写があります。
    ④スノホワ様のキスシーンがあります。
    ふいうち

     燃えるような朝焼けに目を細め、フィガロは森を飛翔した。こんな時間に野外をうろつくなど人間に傅かれて暮らしていた幼い頃以来だったが、ある意味で状況は当時より悪化していた。何せ師匠二人から〈オズの成人祝いを渡す〉という無茶な仕事を命じられているのだ。一度は石にするべきだとも思った弟弟子が、今どこでどうやって暮らしているのか、己は全く知らないと言うのに。

     この厄介な話は、昨晩唐突に降ってわいたものだった。

     高弟としての自覚というか二人から躾られた義理というかで、スノウとホワイトの館から出でて暮らして五年が過ぎても、フィガロは月に一度は彼らの前に顔を出すようにしている。昨晩もその習慣に従ったのだが、食堂に足を踏み入れた途端に嫌な予感に襲われた。テーブルには極上のマナ石と黒みがかったケーキが給仕されている。石はともかく、素朴な見た目のケーキが大いに問題だった。
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