青夜ほの甘い畳の匂いを嗅ぎながら、鯉登はまんじりともせず布団の上へ横たわっていた。
灯りを落としてからは、もうどれくらい経っただろうか。少なくとも、寝付いた時には未だときおり聞こえていた表通りで歌う酒飲みたちの遠い声音が、しんと静まりかえっているように感じられるほどには――夜も、更けてきているに違いない。
久しぶりにとった市中の宿は、飯も、風呂も申し分なく、ついでだと一緒に取ってやった杉元や谷垣には――とりわけ、宿の良し悪しなどわからないであろう杉元には――勿体のないほど、上等なものであった。畳張りの部屋に清潔な布団。ここに辿り着くまで数回の野営までをも経験した身としては、有難い限りであるはずだというのに、鯉登はどうにも寝付けずにいる。そうして、目をうとりと閉じては結局寝入ることがかなわず、ごろん、と、子供のような寝返りを繰り返していた。
寝返りのたびに、隣の布団のふくらみが目に入る。
規則正しい寝息と布団の上下を思うに、そこへ横たわる男は――、月島は、もうすっかりと眠っているようだった。
まっすぐに天井を向いて眠る寝姿は、かの男の生真面目なありかたを思わせる。坊主頭の丸い縁取りを視線でたどりながら、鯉登はこの樺太の地を踏んで数日、初めての野営に気乗りせずにいた晩に、男がかけてきた言葉を思い出していた。
木々の間で地べたへ座り込むのすらどうにも躊躇して立ったままでいた鯉登に、月島はひとこと「戦地に布団はないですよ」と言ったのだ。それは確かに理解のつかない言葉ではない。軍人たるもの、布団を選んで眠るのもおかしな話だと、その一言でずいぶんと覚悟を決めたものだけれど――灯りの消えた鯉登の手元に、黙って一枚多くの毛布を手渡してきた月島のことを、鯉登はどうしても厳めしいだけの男には思えなかった。
暗闇の中で口元をくすりと笑ませて、静かな息をふっと吐く。そうして戯れに、「月島」と、ほんの微かに名前を呼んだ。声音にしてみればほんの微かで、それこそ表通りの喧騒が少しでも残っていれば、かき消されているほどの小さな声であっただろう。聞こえなくてもいい、と、そう思っていたのに――男は、目覚めているときと何も変わらないほどの空白をおいて、「はい」と低い声を上げた。
「…起きていたのか」
驚いて声を上げると、月島は天井をまっすぐに見据えたまま、「眠っていましたよ」とこともなげに口にする。けれど、どういうことかと問いかける前に、月島は鯉登の眠る布団のほうへと体の向きを変えた。
「眠れませんか。念願の布団ですが」
真っ暗な部屋の中に、月島の表情は窺えない。ただ淡々とした声音だけが、鯉登へと向けられている。
それが単純な質問でないことは、お互いの間だけで確かだった。
――眠れない、と。この男に縋った夜が、いくつもある。
鶴見中尉の命を受け、二人で、或いは部下を幾人か従えて北海道の地を幾度も巡るうち、彼と密やかに布団を共にしたのは一晩限りのことではない。布団を共にする、とは、即ち、この男のものを、憤る彼自身を、体の中に迎え入れているということだった。
もうしばらく前から、鯉登は月島に抱かれている。それも、何度も、頼む、と、鯉登のほうから強請っている。
男のささくれた指先に喉元をなぞられるときの言い知れぬ胸の疼きに、そして、かの男の不愛想な面立ちからは考えられぬほど静かな口づけに、そして、ほんの時おりに見せる劣情にあてられ――今夜も、と強請ってしまう鯉登の手を、月島が拒むことは殆どない。こうして布団のある宿にありつけば月島は鯉登が望む限り、無下に断りはしない。明日は早いですよ、と口にする夜ですら、「頼む」の一言を袖にすることは少なかった。
だからこそ鯉登は男の指先を求めることを止められず、忍んだ口付けから始まる情交をやめられない。
それは、こうして何の因果か杉元や谷垣と連れ立ち、樺太へ訪れてからも変わらなかった。
「――眠れん。月島軍曹…」
我ながらじっと熱の篭った声でそう言うと、恐らくは暗がりの中でこちらを見ているであろう男は一拍、二拍、と呼吸の合間を置き――、布団の端を広げる。それは鯉登がそこに入り込んでもいい、という言葉のない許可であった。
勢いよく布団から飛び出すのも気恥ずかしく思えて、ゆっくりと這い出るように布団を抜け出す。室内とはいえ夜の寒さが肌を寒気立て、胸元を掻き合わせながら男の胸元へと転がり込む。畳をすべる寝間着の衣擦れが耳につき、とりわけいけないことをしているような心地だった。布団の中は男の体温に温められて暖かく、風呂で使った石鹸の匂いがほのかに香る。久しぶりの熱源にひくっと体を跳ねさせて一瞬ばかり固まった鯉登の背中を、月島は躊躇なく引き寄せてきた。
「っあ、」
「眠れんなら、もう少し早く仰ってください」
肉の詰まった胸に顔をうずめながら囁かれると、否応なしに頬がかあっと熱くなる。厚い手のひらの感触を腰のあたりに感じて、鯉登は言葉を失し「うん」と返すのが精いっぱいだった。
「…それで」
次いだ月島の言葉が途切れ、鯉登はそっと視線を上げる。暗闇に慣れた目にかの補佐官の顎先に伸びた髭のかたちを見つけて、鯉登は男に気取られぬようにとほんの僅かに体をせり上がらせ、眦にその固い体毛を触れさせた。若くすべらかな肌に感じるざらりとした感触に、はく、と、小さな息を呑む。
「それで。――今夜は、どうされるので」
「…ああ、…うん、…」
はっきりと問われると、曖昧な答えが口を零れる。月島は手のひらで鯉登の背中を支えているほか、微動だにもしなかった。だから鯉登は今夜この男に望むことがあるのなら、いつものように乞わねばならない。それが久方ぶりの触れ合いにはどうにも気が重たくて、口を噤んだまま瞬きをする。はばたいた睫毛が触れ合わせていた男の顎先へ触れたとき、彼は、ふ、と、ごく僅かに熱を帯びた鼻息を吐いた。
それが興奮を所以とするものであると、流石の鯉登にも解らないはずはない。もしかすればかの堅物も男である以上、男所帯の旅で性欲という三大欲求に苦心するところがあったのかもしれなかった。
女を買いに行く暇があるわけでもなし、手近で済ませられれば良いと――有り体に言えば、鯉登でもいいと。そう思っているのかも。
そうであればいい、と、半ば自虐のように思わなくはない。鯉登ばかりが月島に抱かれることを望んでいるのであれば、それはあまりに、彼にとって利がないように感じていたからだ。確かに体を重ねれば月島も射精に至っているようだけれども、男なのだから感情が伴わずとも擦れば射精に至るのである。ゆえに、どんな理由や衝動があるにしろ、月島もまた鯉登を抱くことを望んでいるのだとすれば、それは少なからず安堵を齎す感覚であった。
「…頼む…」
男の逞しい首に腕をかけ、口付けを強請るように額を合わせてこつりと擦る。遠慮がちに男の足を膝で割ると、太腿へうっすら兆した男根の膨らみを感じた。興奮している。それだけで、こんなにも嬉しい。
情交に慣れた体がぞっと物欲しく疼き、鯉登は性急に男の唇を探って軽く吸う。月島の低い鼻がつんと尖った鼻の頭に触れたとき、胸がいっそうにどくっと脈打つ。
月島の冷えた指先が頬を撫で、それは幾度も繰り返された口付けのやり方だった。薄く唇を開くと、無言のまま舌先が入り込んでくる。口の中を蠢く他人の舌を、初めは気味が悪いと思っていたはずなのに、今はただちゅうちゅうと甘えて吸い付くことを覚えてしまった。
「つきしま…」
口付けの間に名前を呼ぶと、頭の奥が、発熱したときのようにぼうっと蕩けていく。
指先が滑って後頭部を包み、髪を撫でられると心臓が沁みるように痛んだ。
好き、と、幼稚な言葉で思うけれど、口にしたことは多くない。名前のない欲望だけの関係であるほうが、きっと、月島を困らせないだろう。もしも鯉登が肉欲だけでなく、甘えた恋慕をもって月島に触れて、触れられているのだと知ったら。男はもう、鯉登に触れるのを止めてしまうかもしれない。月島にとって鯉登は、鶴見中尉から預けられた上官であることが第一なのだから。
そう思えばなおさらのこと、鯉登は月島へ好意を伝える気にはならなかった。
秘めれば秘めるほど募る感情に蓋をしながら、肌を滑る男のつめたい指先に胸を高鳴らせる。男の太ましいものを打ち込まれる瞬間の、言いようのない快感と恐ろしいほどの多幸感の理由を、知っているのに。
鯉登にとって月島は、鶴見中尉から預けられた補佐官でありながら、はじめて唇を合わせた相手であり、はじめて体を許した相手だった。
そして。
――はじめて、恋をした相手だった。