「記憶喪失、ねぇ」
華やかなパーティを抜け出してバルコニーに出たところで堅苦しい首元を少し緩める。煙草を吸う所作で離脱を示唆すれば特別咎められはしなかった。こういう時に喫煙というのは良い理由にもなる。
ジャケットの内側から煙草を取り出し火を付け息を深く吸い込み、細く息を吐いて夜風に流される紫煙を眺める。
記憶を失っていた間の事は覚えていないが、目が覚めたらすぐに式典の日が目の前にあった、という狂った日付感覚が記憶喪失だったという証拠なのだろう。
この1年の記憶を失った自分…つまり1年前の自分を振り返ってみれば、色々と最悪だった。いや今だって決して褒められたものではないが。
解決した今となれば、先程ルーキー共にからかわれた通り笑い話ではあるが、もしあのまま記憶が戻らなかったら、と思うとゾッとした。
この1年で色々あったが一番変化があったのはブラッドとの関係だろう。
ディノが帰ってきていた、という事から衝突は少なくなるとしても、ロストゼロからの様々な感情をお互いに消化することなく、今の関係を再構築出来るとは思えない。少なくとも、オレから歩み寄る事は出来ないだろうなと思う。
丁度今のこの薄暗いバルコニーと煌びやかな式典会場みたいにアイツはあっち側で、オレはこっち側でアイツを見ながら色んな感情を燻らせていくんだろう。
…ふと、いまアイツは煌びやかな光の中で何してるんだろう、と気になり外に向けていた体を反転させる。
「キース」
と同時に煌びやかな光を背負って想い人が視界に飛び込んできた。少し驚いたが、不思議となんとなくそんな気もしていた。
「…でも、きっとオマエはこっちまで来ちまうんだろうなぁ」
「なんの話だ?」
「んー…1年を振り返ってセンチメンタルになってた話」
「?」
短くなった煙草を携帯灰皿に押し付けて内ポケットに仕舞いながら口元を緩めると、ブラッドは全く理解出来ないと小首を傾げた。
「つーか、ブラッドはなんでバルコニーまで来てんだよ?スピーチは終わったのか?」
「そのスピーチをしながらお前の姿が無いことを確認したから、来たんだ」
「へー…よく分かったな」
「今までの行動パターンを考えれば簡単だ」
「今までの、ね…」
そこにこの1年は含まれているんだろうか。その答えはブラッドの両手に握られていた。
「シャンパン?」
「水だ。最近は控えているようだが上質な酒に浮かれて飲みすぎる可能性も…」
「はいはいジョークだって」
はぁ…と溜息をつきながらブラッドが水の入ったシャンパングラスの片方を差し出してきたので受け取ると、そのまま手を握られる。
「…例え記憶喪失になって過程が変化しようとも結果は変わらない自信がある」
「…ぇ?」
「何年、お前を見てきたと思っているんだ。見くびるな」
つまり。
お互い想いあっていたのはこの1年だけではない、と取っていいのだろうか。
少し力のこもった指先から視線をブラッドの顔に移すと真剣な眼差しで射抜かれた。ズルいだろ、こんなの。
「何度でも見つけるし何度でも迎えに行くから、記憶喪失になろうが不安になろうが大人しく待っていろ」
握らていた手から力が抜かれ、グラスを握る手を指でなぞりながら離れていく。
「…っ、オレのこと好きすぎんだろ」
「そうだ。無駄な抵抗はやめろ」
「暴君」
「なんとでも言え」
「…オレだって、お前のこと離してやれねぇぞ」
「想定内だ」
「オレも好き」
「知っている」
ふん、とグラスを持ちながら器用に腕を組むブラッドはいつも通りに見えて、心なしか顔が赤くなっているように見えた。逆光ではっきりとは分からないが。
「ブラッド、乾杯しようぜ」
「今か?」
「そ。今乾杯したくなったの」
「そうか」
お互いのグラスを目の高さまで持ち上げると式典会場の光とブラッドの瞳が映り込んで、ただの水がまるで高級なロゼのように思えた。
記憶が無事に戻ったこと、
この1年のこと、
1年よりももっと前のこと、
色々な物に感謝を込めて。
ブラッドとの思い出に感謝を込めて。
ブラッドへの愛を込めて。
「乾杯」