無題涼拓 甘やかしてあげる
──高橋涼介、23歳。
赤城山を本拠地とする走り屋集団「Red Suns」 のリーダーであり、峠のカリスマであり、赤城の白い彗星の異名を持つ男。
その容姿は芸能人かと見間違うほど端麗。隙のない芸術的なまでのドラテクを持ち、おまけに頭脳明晰とくれば、女性のみならず男性からも憧れと尊敬の眼差しを一心に集める存在であるのも納得できよう。
まさに老若男女の理想を具現化したような人物なのだ。
しかし。
医大生、走り屋、プロジェクトDのリーダーと3足の草鞋を履いて生きるこの青年の精神構造やプライベートは未だヴェールに包まれたまま。長年行動を共にしてきた仲間ですら、時として涼介の言動の真意が理解できず、当惑する場面もしばしばあった。
さて、高橋涼介とは一体どのような人間なのか?
「──それじゃあいつも通り80%の力で5本だ」
行ってこい、と涼介の指示を受け啓介と拓海は頷いた。
殺人的な暑さがようやく和らぎ、峠はかなり秋らしくなってきたと肌で感じられるようになった今日この頃。涼介率いるプロジェクトDは次の週末に迫ったとあるチームとのバトルに備え、コースの下見と攻略法の模索のためにある県の峠を訪れていた。
紅葉の盛りには少々早いが、山全体を包む空気は少しひんやりして心地よい。ケンタ達が撮影したビデオでコース自体どんなものか把握しているが、実際に自分で走るのは今日が初めてだ。一体どんな性格の峠なのかわくわくする。
さっさと歩き始めた啓介に続いて愛車へ向かおうとした拓海だったが、ふと足を止めた。
「あの、涼介さん」
「藤原?どうした」
「いや、えっと……そのー」
その氷のような端正な顔がやや翳りを帯びているような気がした。自分が覚えた違和感の正体はこれか。
涼介が首を傾げる。自分から呼び止めておいて情けないがやや吊り目がちな切れ長の瞳に見下ろされ、途端に心臓が落ち着かなくなる。このプロジェクトDというチームの誘いに応じてから決して少なくはない時間を共に過ごしてきたが、未だに自分から涼介に話しかける際は少し緊張してしまう。
涼介を前にすると考えていた筈の言葉が頭の中でとっ散らかって全く出てこない。
(嗚呼、俺はなにを言いたかったんだっけ。ただでさえ涼介さんは忙しいのに)
まごまごする拓海の心を読んだのか涼介は優しく「ゆっくりで良いぞ」と促す。
「あの、」
「うん」
「涼介さん。休みの日とか、何してるんですか」
「……休みの日」
予想の斜め上の問いが飛んできて涼介は言葉の意味を理解するのにしばし固まった。
「あっ」
普段あまり表情の変わらない彼の少し面食らったような表情から拓海は自身の投げかけた言葉が適切でないことを悟った。
「えーと、プロジェクトDの活動がない時、ちゃんと休めてンのかなと思って……」
ほら、最近遠征増えましたし大学生もやりながらって負担も大きいと思うし、だから……と慌てて言い募るが逆に何を伝えたいのか分からなくなってしまう。と、フリーズから解き放たれた涼介が「くっ」と堪えきれない様子で口元を覆った。
(……あ、笑った)
ポーカーフェイスが常の彼が肩を小刻みに震わせている。レアな光景だ。拓海がぼけっと見惚れている間に一頻り笑って落ち着いたのか、呼吸を整えた涼介は普段通りのクールな表情に戻り、コホンと咳払いをひとつした。
「……悪い。藤原が面白いからつい」
「あ、いや、こちらこそなんか……スミマセン」
「それでなんの話だったか、ああ、俺がきちんと休息をとれているかどうかだったな。勿論……と言いたいところだけど、最近ははっきり『イエス』とは言えないかな」
特に今週は研究室に篭りっぱなしだったんだ、と苦笑した彼の長い睫毛に縁取られた下瞼には、うっすらと隈が出来ていた。改めて見ると元々白いかんばせも今日は一段と白いと感じる。茹だるような暑さは鳴りを潜めたとはいえあまり長時間太陽の下で過ごすのは控えた方が良いのではないだろうか。拓海の心にじわりと不安が滲む。
「あの、俺達がプラクティスやってる間だけでも休んでください」
「藤原……」
「コースの攻略法の考案や情報収集は大事なことなのは充分承知してます。でも、それ以前に涼介さんが万全の状態でいてくれないと。あと、この間職場の先輩から言われたんですけど、『休むのも仕事のうち』です」
拓海が社会人ぶってみせると、涼介は瞠目したのちにひょいと肩を竦めた。
「うちのエースからこう言われちゃ敵わないな。……プラクティスが終わるまで少し仮眠を摂るよ。」
「そうしてください。俺、プラクティス終わったら顔出します」
分かった、と頷いた涼介がハイエースの後部座席のドアに手をかけたのを見届けてから、拓海は今度こそ愛車のもとへ向かった。
ヘッドレストに頭を預けた涼介はふと目の奥に怠さを覚えて目頭を揉んだ。長時間に及ぶ液晶画面との睨めっこで酷使した瞳に愛用の目薬を挿してやると、ハードさが売りの清涼感が瞬時に眼球の隅々にまで行き渡り、少々ぼんやりしかかっていた意識が僅かに明瞭になる。……前は三徹目で判断力への影響を懸念して休息をとった。さて今で何徹目だったか。
他のメンバーの前では完璧に隠していたが、学生の本分たる学業とライフワークであるプロジェクトDの運営を同時にこなしている涼介は、今回運悪く過密スケジュールとなってしまい、まともな睡眠時間を確保出来ずに遠征に臨まざるを得なかった。移動中も絶えずラップトップのキーボードを叩き、目的地到着後は実際の路面状況や天候、外気温なども細かくチェックしデータとして落とし込んで収集した対戦相手の情報とあわせて2人のドライバーへのアドバイスを考える。到底息をつく暇などない。
常に頭を働かせていないと落ち着かない──それが自分の悪い癖であることに自覚はあった。だがリーダーとして涼介が果たすべき事は山のようにある。時間はいくらあっても足りない。1日が48時間あればと何度夢想したことか。
「『休むのも仕事のうち』、か」
先ほど掛けられた言葉を反芻し思わず苦笑が漏れた。少し眠たげな大きい瞳が印象的な今年高校を卒業したばかりの群馬最速のダウンヒラーは、あどけない顔立ちとふわふわした雰囲気とは対照的に、実際はこうと決めたら梃子でも動かないほどの頑固者だ。そしてぼんやりしているようで実はよく周りを見ている。拓海だけが不調を見抜いたのには驚いたが、涼介は知らない。彼を憧れの存在としている拓海は涼介と目を合わせて話すのは苦手だが、無意識のうちに目の保養としてその姿を追っているということを。
もしあの時拓海の言葉を受けてもなお首を縦に振らなかったら、彼は涼介を強引にハイエースに押し込んでいただろう。
ひとまず仮眠だ。しかし徹夜でハイになっているのか眠気は一向に訪れてくれそうにない。移動中に珈琲ばかり飲んでいたのも良くなかったのかもしれない。
疲労感ごと吐き出すように大きく嘆息した涼介は、ふとあるものの存在を思い出してズボンの尻ポケットに手を突っ込んだ。取り出されたそれはパウチに包まれた白い錠剤。涼介は手の中の小さな薬をじっと眺める。
研究室仲間が寄越した……たしか睡眠導入剤の類いだったか。試作品だとかなんとか言っていた気もする。なんとなくここまで持ってきてしまったが活躍してくれそうだ。
そう、思い返せばこの時の涼介の思考はまともに機能していなかったのだ。普段の涼介ならばそのような怪しげな錠剤に手を出すこともしなかっただろう。だが現在、彼は疲弊していた。それこそ何徹目に突入したか思い出せないくらいに。
「プラクティスが終わるまで少しでも眠れればいいが」
パウチから白い粒を押し出し、ペットボトルのミネラルウォーターと共に煽る。ゴクリ、喉仏が大きく動いた。
即効性があるのか、はたまた疲れがピークに達していたからか早くも両の瞼が重くなってくる。涼介はシートを倒して体勢を整え、しばしの間眠りにつくために軽く腕を組んだ。
意識がじわじわと闇の中へ沈んでいくのを感じる。抗えない。まるで魔法のようだ。
5分経過する頃には、涼介は深い寝息をたてて夢の世界に旅立っていた。
数時間後。
「お疲れさん、ここからは2時間、休憩時間とする。皆ゆっくり休んでくれ」
「麓のコンビニで色々調達してきたんで好きなもん持っててください」
プラクティスを終え、車から降りた拓海達を史浩とケンタが出迎える。
史浩からペットボトルを受け取り、喉の渇きを癒す。ナビシートに乗り自分の運転を間近で見ていた松本とハチロクのセッティングについて意見を交わし、休憩後のプラクティスのために足回りを少し調整することに決定したところで、拓海は涼介の様子を見にいくことにした。
「史浩さん。俺、ちょっと涼介さんのところ行ってきます」
「ああ、さっきは藤原が休むように言ってくれて助かったよ。大人しくハイエースに乗り込んだところまでは俺も見たから多分まだ寝てるんじゃないかな」
「涼介さんお腹空いてるかな……これとこれ、貰っていきますね」
「うん、好きなだけ持っていってくれ」
袋におにぎりとペットボトルのお茶を突っ込んで涼介が休んでいるハイエースへ向かう。フルスモークに加工された窓の向こう側は真っ暗で何も確認できない。控えめに窓をノックしてみた。無言が返ってくる。まだ寝ているのだろうか。ちょっと心配になって再度ノックする。返事はない。
(開けてみるか?)
拓海はスライドドアに手をかけた。
「──涼介さん、起きてます、」
か、と続く筈だった言葉が尻すぼみになる。
シートに体を預けてスヤスヤと眠る小さな人影。数時間前、確かにシートに座らせた筈の彼の人の姿はなく、代わりにいたのはあどけない顔つきの幼い少年だった。
「え………?」
思考回路が完全に停止する。
(なんだこの子供。どこから来たんだ?涼介さんは……?)
自分は間違えて他人の車のドアを開けてしまったのか。いやそんな筈はない。ハイエースの側面には大きく「Project.D」のロゴがペイントされている。そんなに疲れるほど走り込みしたっけ、と一度目を擦ってみる。しかし健やかな寝息をたてる子供は消えないままだ。
ではこの子供は何者なのか。涼介は一体どこに消えてしまったのか?
拓海が混乱していると、人の気配を感じとったのか、少年がもぞもぞと動き始めた。眠たげに目を擦りながら小さく欠伸をひとつ漏らすと、自分を見下ろす拓海に気づいてギョッとする。幼い顔に怯えと驚きの色が広がるのを目の当たりにして、拓海は反射的にハンズアップした。
俺はなにもしてないから叫ぶのは勘弁してくれ。
「え、と……」
なるべく威圧感を与えないように。史浩のように穏やかに。小さい子には優しく。パニックになりそうな自身に繰り返し言い聞かせながら拓海は言葉を探す。
「えーと、」
「…………」
「ごめん、驚かせる気はなくて。えーと、ボク?は、なんでこの車に入ったのかな」
父ちゃんや母ちゃんは?と聞くと、子供は途方に暮れた表情で首を横に振った。
「分からない……です」
目が覚めたらここにいた、と見た目に反してしっかりとした受け応えをされてひそかに面食らう。おそらく小学校一年生ぐらい。なのにきちんと敬語が使えるのか。育ちの良さそうな印象の子だ。
(俺がそんくらいの歳の頃なんて敬語なんか知らなかったなー……使う機会もなかったし)
幼い頃の自分は……と思い返してみて内心ちょっぴりへこみつつ、自身を見上げる少年を見つめ返して、拓海は「……あれ」と呟きを漏らした。
謎の少年が身につけている衣服に見覚えがあったのだ。子供が着るにはサイズが大き過ぎるため、袖も裾も余ってしまっている。それは、涼介が消える直前まで身を包んでいたものと全く同じものだった。
そして少年の容姿。サラサラの黒髪と白くすべすべした頬。小作りの顔にはキリリとした特徴的な眉とやや切れ長気味の瞳がバランス良く収まっていて、突如煙のように消えてしまった彼の幼少期を余計に彷彿とさせた。
ぶかぶかの服に埋もれている、涼介に非常によく似た見知らぬ子供。ここから導き出されるひとつの可能性。悪い夢を見ているような感覚に陥り、拓海は額を押さえた。
(ちょ、ちょっと待ってくれ)
「……そうだ、名前。キミ、名前は?」
念のため。念のために確認しよう。もしかしたら自分の考えすぎかもしれない。一縷の望みを抱いておそるおそる尋ねると、少年は聡明な眼差しで「たかはしりょうすけです」とハキハキと名乗った。お兄さんは?と問いかけられ、拓海は引き攣った顔のまま「藤原拓海デス……」と答えるしかなかった。
「──で、その子が涼介なのか……」
「おそらく……」
史浩は拓海の隣にちょこんと佇む少年──涼介に目をやる。普段は頼りがいのあるプロジェクトD渉外担当も今回の事件に関しては拓海の説明を受けても上手く状況を把握しきれていない様子で、弱ったように腕を組んだ。集まった他のメンバーも困ったように顔を見合わせている。
「俺が様子を見に行った時にはこの子が眠ってて。着てるものも今日の涼介さんの服ですし……」
「ウン、こうやってよくよく見ると、確かにどことなく涼介の面影があるな……」
「でしょう?だから俺、涼介さんなんじゃないかと……」
史浩に覗きこまれて驚いたのか、子供──推定涼介は拓海の服をひしと掴んだ。出会ったばかりだというのにこの子供は何故か妙に自分に懐いてくれる。表情は相変わらず涼しげなままだが、身体が僅かに強張っていた。
見知らぬ大人がいきなり近づいてきて怖かったのかも、と拓海は緊張を和らげてやりたくてその小さな手をそっと撫でた。
「あ、あにき…………」
メンバーの中で誰よりも動揺を露わにしていたのは彼の弟、啓介である。
家族がいきなりこんなことになってしまった彼の混乱と不安は察して余りある。追いつくべき、そしていずれは超えてゆくべき偉大な兄が、説明のつかない不可思議な事象によって大人の庇護を必要とする幼い姿になってしまったのだ。
今の涼介は頭の切れるプロジェクトDのリーダーではなく、ただの可愛らしい少年だ。
「このガキが……アニキ?一体何がどうなってんのかさっぱり分からねぇよ……さっきまで普通に喋ってたしそこにちゃんと"いた"じゃねぇか」
「啓介さん、でも……そうじゃないと説明つかないんですよ」
「本当にアニキだってんなら、俺のことは分かるよな?ほら、可愛い弟の啓介だ。な、覚えてるだろ?」
「っ、」
「おい、黙ってないでなんとか言えよ」
「おい啓介……そんな風にいきなり詰め寄るな。可哀想に、涼介が固まっちまってるだろう」
「啓介さぁん……冷静になってくださいよぅ……」
史浩とケンタに宥められ、啓介は拓海の服を掴んで離そうとしない子供の手が僅かに震えていることに気づき、込み上げる言葉をぐっと飲み下し、行き場のない気持ちのままに舌を打った。
変化したのは容姿だけではない。おそらく精神も見た目と同様に年相応のそれに若返ってしまっている。涼介の反応を見た松本や宮口も言葉を詰まらせ、押し黙ってしまう。
涼介は啓介の剣幕に萎縮してしまったのか、瞳を伏せて口を噤んだまま拓海の服から手を離そうとしない。
重苦しい沈黙がその場を支配した。
「……とにかく。今日はもうこれ以上続けることは無理だな。中止にするしかないだろう。先方には申し訳ないけど、バトルの日程を調節させてもらうしかないな」
「そうですね。なにより涼介さんが心配ですし、リーダーがこんな状態ではドライバー2人の士気に関わる。二重の意味で不安です」
「でもこういう時って……やっぱり病院に連れて行くのが正解なんですかね?」
史浩の言葉に松本が頷き、賢太が首を捻る。一同は改めて人形のように整った小さな顔に目を落とした。
……さてこれは一体何科に相談すべきなんだろうか。小児科?
とその時、無機質な着信音が鳴り響いた。ぶかぶかの服の中から救出後、拓海がとりあえず尻ポケットに突っ込んでいた涼介の携帯からだ。
慌ててシルバーのそれを開くと、ディスプレイに表示された名前を目にした啓介が「貸せ」と拓海に掌を突き出す。どうやら相手に心当たりがあるらしい。
「もしもし。ご無沙汰してます、啓介です。……はい。それで──」
拓海から携帯を受け取った啓介は、眉間に皺を寄せ、電話の向こうの相手と話し始めた。啓介の態度からしてこれは長電話になりそうだ、と拓海は思った。
「とりあえず、俺は先方に連絡をとってみるよ」
「史浩さん……」
「そんな顔するなよ、藤原。俺はバトル相手との交渉担当だ。そのためにここにいるんだから任せておけ」
なに、バトル延期の理由については適当に何か話をでっちあげるさ、と彼は安心させるように拓海と涼介に笑いかけた。その笑顔に少しホッとして拓海も口元を緩める。つられて不安げな顔をしていた涼介の頬にも少しだけ血色が戻った。良かった。それを見て拓海は思わず安堵の息を漏らした。
同時に片手にぶら下げていた袋の存在を思い出す。
「あ、そうだ涼介さん、お腹空いてませんか。さっき色々持ってきたんです」
「お腹……」
涼介は瞳を瞬かせて、自身の腹をさすさすと撫で、やがて「空きました」と頷いた。やや幼い仕草にそれを見ていた全員の父性──もしくは母性──は大いに刺激された。拓海は「パンとおにぎり、どっちが食べたいですか」といそいそと取り出し、松本と宮口は「飲み物もありますからね」にこにこと紙コップと茶を準備し始め、賢太は「俺レジャーシート取ってきます!!」と駆け出した。
史浩はというと、「昔から涼介がモテるのは知ってたけど、この歳で既に周りを惑わしていたとは…恐ろしい男だなぁ」などと感心半分そら恐ろしさ半分で右往左往する面々を眺めていた。
「──史浩と藤原、ちょっといいか」
「? はい」
「どうしたんだ啓介、顔色良くないぞ」
電話を切った啓介が戻ってくる。彼に似つかわしくない憂いを帯びた表情が気になった。
「実は……アニキがガキに戻っちまった原因が分かったんだ」
「えっ」
拓海と史浩はまじまじと啓介の顔を見つめた。
「今の電話はアニキと同じ研究室からで、まぁ俺も面識のある人なんだけどさ……」
その人物によると、数日前に研究室で涼介と言葉を交わした時、涼介に僅かだが疲れの色が見えていたのが気になったそうだ。
当時は論文制作や研究成果の取りまとめなどで研究室内もかなり立て込んでいたため、まともな睡眠時間すら摂れない日々。なんでもスマートにこなしてしまう涼介でも珍しく疲労が蓄積していたんだろう、とその友人は語った。そこでふと、彼は最近開発が進んでいた睡眠導入剤──疲労回復に効果的な成分を配合した新薬の試作品の存在を思い出した。
ツテで手に入れたそれを実際に彼自身が使用して治験済だったこともあり、友人の為の純粋な好意のあらわれとして「もし良かったら」とその錠剤は涼介の手に渡った。
ところがそれを涼介が受け取ってから数日後──つまり今日。極めて低い確率ではあるが、この睡眠導入剤を服用すると副作用が生じることが判明した。それで慌てて涼介の携帯を鳴らしたのだという。
「で、その副作用ってのが」
「"ああなってしまう"こと……という訳だな」
「マジですか……」
肉体と精神が若返ってしまうというまるでファンタジーじみた副作用──。少し離れたところで松本達に囲まれている小さな背中に視線を投げた史浩は、頭痛を堪えるように額に手を当てた。あまりに荒唐無稽すぎる話に拓海も言葉が出ない。
だが実際に縮んでしまった姿を目の当たりにすると、涼介はそれを服用したと理解せざるを得ないのだ。
「啓介。涼介はその……いつ元の姿に戻れるのかな」
「ああ、話によると薬の効果が抜ければ自然と戻る……らしい」
「効果が抜ければ……」
睡眠導入剤の効き目などたかが知れている。半日か、長くてもせいぜい1日くらいだろう。
それまで誰かが涼介の世話をする必要がある。
束の間の休息。口下手で説明下手な拓海ではなく史浩が上手くぼやかしたり脚色を加えたりしつつ説明してくれたおかげで、涼介は自身がどんな状況におかれているか彼なりに理解したらしい。
おにぎりを頬張る手を止めて「分かりました」と首肯した。
動じないというか物分かりが良すぎて逆にこちらがたじろいでしまう。
(なんでこんなに冷静でいられるんだよ?)
あるいは一種の諦観、とでも表現すべきなのだろうか。
「あ、ああ。そういうわけでここで昼を摂ったら今日は解散するんだけど、涼介は啓介のFD……ほら、あの黄色いボディが見えるだろう?あのクルマに乗ってくれないかな」
「啓介……」
涼介は史浩の傍らに佇む啓介を見上げた。幼い兄からの視線を受けた啓介は、先ほど詰め寄った件もあってか少し決まり悪そうにしながらもその眼差しを受け止めている。
「ぼくの弟と同じお名前なんですね」
目の前の金髪の青年が成長した自分の弟だとは認識出来ていないような口ぶりだった。
無理もない。涼介の記憶の中に存在する啓介は、自身の後ろを一生懸命追いかけてくるヤンチャな可愛らしい幼児なのだ。間違っても鋭い目つきをしたツンツン頭の21歳成人男性ではない。イコールで結びつけるのは誰であっても正直難しいだろう。
「……藤原ァ。お前今、絶対失礼なこと考えただろ」
「いや、なにも」
「俺の目ェ見て言えよ」
「イタッ!!ちょっと、暴力反対ですよォ」
啓介の長い足から繰り出される軽めの蹴りが拓海の膝裏にヒットする。思いのほか痛い。
涙目でじんじんする膝裏を押さえた拓海を無視して、啓介は小さな兄に手を差し出す。
「ほら、アニキ……じゃなかった、涼介。帰ろうぜ」
「…………」
「……アニキ?」
差し出された手を掴もうとしない涼介に啓介は首を傾げる。不思議に思って見ているとふいに涼介の瞳が動いて拓海を捉えた。
(涼介さん……?)
視線が交わる前に逸らされた。
その意味を考える暇もなく、涼介が啓介の手をとろうとしているのが見えて
「涼介さん、俺ん家に行きましょう」
思わず、そう口走っていた。
「……はぁ?」
「いきなりどうしたんだ藤原」
眉をしかめた啓介とぽかんと口を開ける史浩より、この場にいる誰よりも驚いていたのは拓海自身だ。
(俺……何言ってんだ?)
「だから俺が今日一日、涼介さんの面倒見るって言ってるんです。だって啓介さん、このくらいの子供と一緒に過ごしたことなさそうですもん。怖がられそうだし」
「藤原ァ、ナマ言ってんじゃねぇぞ」
「だって実際そう見えるし」
だが一度口を突いて出た言葉は止まらない。啓介が額に青筋を立てようと史浩や他のメンバーが「お前……よく言えたな……」という表情を浮かべていようと関係ない。
あの時涼介が見せた眼差しに妙に心が囚われるのだ。何か伝えようとして、でも諦めてしまったようなあの色。
ここで気がつかないフリをしたらダメだともう一人の拓海が囁いていた。
「涼介さん、一晩だけ。一晩だけ俺の家に来ませんか」
啓介さん家みたいな豪邸ではないけれど。手を差し出せば、涼介はおずおずとその小さな手で握り返してくれた。
「ただいまー」
「なんだ、今日は随分早いな」
涼介をハチロクに乗せて帰宅すると、店先では文太が煙草を咥えていた。
「親父、仮にも営業中なんだろ。煙草吸ってると印象悪いぜ」
「ばーか、今更過ぎて誰も何とも思わねぇよ。それに今は休憩中だ」
「ちぇー、屁理屈」
フーッと煙を吐き出した文太はふと息子の後ろに隠れている小さな影に目を留めた。
「拓海、後ろに連れてるのは?」
「あ、今日一晩、知り合いの子預かることになった。そういうわけだからよろしく」
「高橋涼介です。お世話になります」
「ああ、ご丁寧にどうも……」
ぺこり、と深々と頭を下げた可愛らしい子供……涼介につられてなんとなく会釈した文太だったが、内心首を捻る。
「えっと……知り合いの子だから。変な勘繰りすんなよ」
「まだ何も言ってねぇだろうが……まぁいい、ゆっくりしてってくれ。拓海、俺は今夜寄り合いでいないからな」
「はいはい分かった。じゃ、涼介さんあがって。テキトーに座っててください、今、お茶を用意しますから」
「あ……うん」
手早く緑茶を淹れて涼介の元へ戻ると、彼は物珍しそうに辺りをキョロキョロと見渡していた。
年季の入ったちゃぶ台の前にちょこんと正座した上品さの漂う容姿の少年と藤原家の生活感のある居間の取り合わせは、まるで合成写真のように見える。
涼介の前に茶を置くと「いただきます」と小さな両手で湯呑みを持ち、こくりと一口飲んだ。
⭐️
きゅるるる……と小さな音が聞こえた。音の出所を辿れば、涼介が少し恥ずかしそうに腹を押さえている。
「あ、……もうこんな時間か」
ふと視線を移すと窓の向こうはすっかり茜色に染まっていた。
(冷蔵庫ん中、何があったかなァ)
つい先日買い出しを済ませたが、さて食材は何が残っていたか。自身も軽く空腹を感じながら拓海はドカドカ足音を立てて台所へ行き、冷蔵庫の中を覗き込む。
「うーん……」
「拓海さん?」
腕を組んだ拓海に涼介が首を傾げる。
「いや……何を作ろうかなと思って。何か食べたいものとか、食べられないものとかありますか?」
「特には。なんでも食べられるよ、好き嫌いはしないようにしてるし」
「そうですか……」
(どうしようかな……)
ニコリと笑んだ涼介に拓海は眉を下げた。
せっかくだからリクエストがあれば自分に作れるものならなんでも振る舞ってあげようと考えていたのだが。
さて、何を作ろうか。自分が幼かった頃の好物を思い浮かべる。当時の己がよく文太のエプロンを引っ張って強請ったメニューは一体何だったか。
「……あ」
「拓海さん?」
決めた。アレにしよう。幸い必要な食材はひと通り揃っている。
メインディッシュが決まれば自ずと副菜も浮かぶ。拓海はウンとひとつ頷くと、頭の中で献立を復唱しながら冷蔵庫に手を突っ込んだ。
台所の作業スペースに所狭しと並べられた挽き肉、卵、牛蒡、玉ねぎ、舞茸やしめじなどのキノコ類と、そして数日前に「売り物にならないから拓海ちゃん良かったらもらって」と近所の八百屋のおばちゃんからいただいた少し不恰好な人参と育ち過ぎた大きなナス。
涼介は大きなナスが物珍しいのか手に取ってしげしげと眺めている。
「じゃあ俺メシ作るんで、涼介さんはあっちでテレビでも観て待っててください。出来たら声かけるから」
涼介はぱちぱちと瞬きしてから「ぼくも手伝う」と柔らかいアルトボイスで答えた。
「一晩拓海さんのお家でお世話になるんだからお願い、手伝わせてよ」
客人なので居間で寛いでいてもらうつもりでいたが、そう言われて拓海に断る理由はない。簡単な作業を手伝ってもらうことにした。
「手も洗ったし……よし。始めるか」
「拓海さん、ぼくはなにをしたらいい?」
「そうですね、それなら……」
野菜でも洗ってもらうか、と人参とナスを渡して自分は冷蔵庫を開ける。涼介が水を使う音を背に聞きながら売れ残りの木綿豆腐を一丁取り出し、軽く水を切って予め広げておいたキッチンペーパーに包む。
耐熱皿に乗せたそれをそのまま電子レンジに入れてつまみを「2分」にセット。レンジで温めると重しを乗せて水切りするより早く水分を飛ばすことが出来るのだ。温めが終わるのを待つ間に涼介が洗ったナスをまな板に乗せ、ヘタとがくを切り落とす。ナスは縦半分に切り、皮部分に隠し包丁を入れていく。
与えられた仕事をてきぱきと終えた涼介が傍から興味深そうに拓海の手際を見学する。
「拓海さん」
「はい」
「なんでナスに切れ目を入れるの?」
「こうやって切れ目入れてやると味がよく浸み込むって昔家庭科の授業で習ったんですよ。あとはまぁ……見栄えかな。あ、悪いんですけどそこのコップに水、少しだけ汲んでくれますか」
「わかった」
視線が少しくすぐったくて思わず次の仕事を与えてしまう。タイミングよく電子レンジが軽快なメロディを奏でた。湯気に包まれた豆腐を救出して作業スペースの隅に避難させた拓海は戸棚を探り、今度は常備菜用の大きいタッパーを取り出す。
「はい、水。これくらいでいい?」
「充分です」
その容器に醤油と酒を同じ量だけ注ぎ、みりんをさらりとひとまわしして、それらに涼介が用意したコップから水を少しだけ足した。よくよく混ぜ合わせればタレの出来上がり。あとは切ったナスを揚げ物専用鍋で表面にきつね色を纏うまで揚げ、熱々のうちにタレの中へ放り込んでいくだけで良い。冷めていくのと同時に油を吸ったとろとろのナスに少し濃いめのタレがほど良く染み込み、白飯が進む味になっていく。簡単で美味しい藤原家の"常備菜"兼"文太の晩酌のお供"──ナスの揚げ浸しの完成だ。
あっという間に一品完成させた拓海は次に土のついた牛蒡を手にとった。
「次はなに?」
「きんぴらごぼうですよ」
水を当てながらタワシで土を綺麗にこそげ落として、ある程度太さを残しながら千切りにしていく。涼介が洗ってくれた人参も皮を剥いて同じように千切りにしたら、フライパンにごま油を熱してそこに投入する。立ち昇るごま油の良い香りが鼻腔を刺激した。油と絡めるように根菜をよく炒め、火が通ったところで醤油とみりんをさっと回しかけさらに炒める。充分に味が馴染んだところで火を止め仕上げに白胡麻をパラリと振り、常備菜用のタッパーに移す。2品目はきんぴらごぼうだ。
拓海はふと思い立って、出来上がったきんぴらごぼうを菜箸で一口分だけ掴み、ふーっと息を吹きかけてから涼介の口元に寄せた。
「拓海さん?」
「あ、いや。涼介さん味見したいかな、と思って」
「……そんな顔してたかな、ぼく」
「まぁ……なんとなく?」
本当は作業中に涼介から感じる雰囲気からそれとなく感じとっていた。幼い頃の拓海も台所に立つ文太に呼ばれてよく『味見係』を務めたものだった。食卓に並ぶ前のあの一口が子供の頃は妙に特別に感じられたものだ。
きょとんとしてからじわじわと恥ずかしそうに目元を赤らめた少年はおずおずと口を開いた。そこに出来たばかりのきんぴらごぼうをそっと押し込んでやると彼はもぐもぐと数度口を動かして瞳を輝かせた。
「おいしい……!!」
「良かった」
(一般の庶民の味付けでも大丈夫そうだ)
どうやらお口に合ったらしい。日頃良い食材を使った良い料理を口にし、たとえ子供であっても舌が肥えているであろう涼介に自身の一般的な家庭料理を振る舞うことにやや不安を抱いていたのだが、それが解消されてホッとする。
「……出来立てってこんなに美味しいんだ」
ぽつりと落ちた涼介の呟きは、次の作業に取り掛かろうとしている拓海の耳には届かない。
使ったフライパンを洗って簡単に水気を拭き取り、今度はまな板に乗せた玉ねぎの上下を落とす。切ったところからべろっと皮を剥く。一気につるりと剥ける感覚が気持ち良くて意外に快感なのだ。さっと水で軽く洗ってからみじん切りにしていく。慣れた手つきでザクザクと細かくしていく拓海を見て「早い、あっという間に小さくなってくね」と涼介が感嘆を漏らすのが面白かった。
「そりゃー、俺はほぼ毎日料理してるんで」
「拓海さんがご飯作ってるの?」
「うん。親父と分担して、だけど。うち、俺と親父だけで住んでるから」
「2人だけ?」
「うん、2人だけ」
包丁を動かす手を止めずに続けると、涼介は「そっか」と呟いて口を噤んだ。しまった。物心ついた時から父子2人暮らしが当たり前の拓海は何も考えずに喋ってしまったが、涼介は藤原家が父子家庭との情報を手に入れてしまいデリケートな話題に触れてしまったと思っているのだ。
伝え方を間違えたな、と反省して少ししんみりした空気を変えようと拓海は涼介に尋ねてみた。
「涼介さんちは?何人家族なんですか?」
「ぼくと啓介と、お父さ……父と母、4人家族」
それからお手伝いさんの田中さんと……と続いた言葉に思わず苦笑が漏れる。
「お手伝いさんもいるんだ。すごいですね」
「うん、毎日交代で来てくれるんだ。ハケンされてうちの世話をしてくれてるんだって父が言ってた。山崎さんは掃除の達人で、田中さんは料理がものすごく上手で」
「そうなんだ」
「田中さんが来てくれる日は、お母さ……母は冷蔵庫にたくさん食材を入れて仕事に行くんだ。昼間の間に田中さんが冷蔵庫の中のものでいっぱい料理を作って置いておいてくれるんだよ。3日かかっても食べきれないくらいの量でさ。それにぼくと啓介の分のおやつも作ってくれるんだ、毎回欠かさずだよ」
この前食べたパウンドケーキはぼくも啓介もおかわりしたんだ、とその時の味を思い出したのか涼介は頬を緩めた。
「そんなに美味しいのかぁー。いいですね、俺も食べてみたいです」
「うん。今度作ってもらえたら拓海さんにも分けてあげる」
楽しみにしてます、とみじん切りにした玉ねぎ達をフライパンで炒めていく。油を纏った玉ねぎ達が飴色になったところで火を止める。
「涼介さん、このボウルに挽き肉入れてもらえますか」
「うん」
涼介に挽き肉を任せている間に放置していた豆腐のキッチンペーパーを外す。既に粗熱はとれており、こちらにはじんわりした温かさだけが伝わってくる。これならば涼介が触っても大丈夫だろう。
「お肉、入れたよ」
「ありがとうございます。じゃあ今度はこの豆腐もお願いします」
出来るだけ小さく崩しながら入れてください、とお願いすると涼介は「分かった」と頷いた。真剣な眼差しで手にした豆腐の塊を丁寧に細かくしている様は、PCと向き合い作業する普段の涼介と重なって見えた。その間に味噌汁の準備に取り掛かる。今日の具はワカメと油揚げだ。
涼介が豆腐を崩し終えたので塩胡椒を振り、卵を割り入れる。パン粉と牛乳少しを加えたところで涼介は、拓海が何を作ろうとしているのか気づいたようで「ハンバーグ?」と声をあげた。
「正解。でも普通のハンバーグじゃないですよ、豆腐入りハンバーグです」
「豆腐のハンバーグ……食べたことないな」
「うちは豆腐屋なんでハンバーグといえばこれなんですよねー」
「ふぅん、楽しみだな」
(親父にハンバーグをリクエストすると毎回これが出てくるからイツキん家で本物食べるまではこれが本当のハンバーグだと思ってたんだよなぁ……)
真実を知ったその時は文太にひどく反発したものだが、それも今となっては良い思い出である。
「あとはこれを捏ねて丸くして焼くんですけど、涼介さんお願いしてもいいですか?」
「うん。任せて」
腕を捲った涼介が小さな手をボウルの中に沈める。肉と豆腐と卵の混じったぐにゅっとした感触は初めての体験だったのか、少し眉を顰めつつもタネがよく混ざり合うように一生懸命手を動かす。
ある程度粘り気が出てきたところで拓海も参加して楕円形になるように成形し、タネをぺちんぺちんと両手間でリズミカルに受け渡して空気を抜いていく。涼介も見様見真似で自身の掌サイズの小さなハンバーグを作り、ぽてんぽてんと両手でキャッチボールをする。その真剣ながらぎこちない手つきが微笑ましくて拓海はバレないようにこっそり笑った。
「……こんな感じかな」
「そうですね、上手いですよ」
タネがなくなるまでひたすらその工程を繰り返し、やがてフライパンには大小の小判が並んだ。少し歪な形のものもあるがそこはご愛嬌。中火にして片面を焼き始める。涼介が率先して使用した調理器具を洗ってくれるので片付けは任せて、拓海はきのこ達をほぐす。舞茸は手で食べやすい大きさに、しめじは石づきを切り落として同じく大まかに割いていく。今日はきのこの和風煮込みハンバーグ(豆腐入り)にするつもりだ。普通のソースも良いが、煮込みにするときのこのだしが溶けた醤油ベースの煮汁が肉にしっかり沁み込んで深みのある味に仕上がるのだ。
ハンバーグが焦げていないか試しにひとつひっくり返してみると、良い塩梅に茶色を纏った表面が現れ、ジューッと肉の焼ける音と胃袋を刺激する香りが台所中に広がった。
ハンバーグ達を少し寄せて出来たスペースに醤油とみりん、そしてだし汁を加える。ほぐしたきのこも入れ、煮汁が軽くぐつぐつ音をたて始めたらそのまま10分ほどハンバーグを煮る。
「美味しそう……」
「もう少しで完成ですよ」
ハンバーグの完成を待つ間に拓海は先ほど作った副菜を盛りつけ、涼介がそれをちゃぶ台に持っていく。温め直した味噌汁と保温状態の炊飯器からよそった白飯を運び終わる頃には、なんとも食欲をそそる茶色に染まったハンバーグが出来上がっていた。
「お待ちどおさま」
仕上げに水溶き片栗粉でとろみをつけて。器に盛ったハンバーグにきのこあんかけをたっぷりとかけて。行儀良く正座する涼介の前にそっと置いてやると、「わっ……」と小さな歓声があがった。
すりおろした生姜と小ねぎをあしらった茄子の揚げ浸し。白胡麻を散らしたきんぴらごぼう。
作り置きしてあったほうれん草の胡麻和えに温かい白いご飯と湯気を立てる味噌汁。
メインは熱々のきのこの和風餡をまとった豆腐ハンバーグ。
彩りは少しばかり茶色が多めでやや地味だが、味にはまあまあ自信がある。
いただきます、2人は手を合わせて箸をとる。涼介が最初に手を伸ばしたのはハンバーグだった。
「っ、美味しい……!!ふわふわだ」
「口に合って良かったです」
拓海もあんをしっかり絡めてから口に運ぶ。涼介が一生懸命小さくしてくれた豆腐の優しい口当たりと肉の旨みが混ざり合い、きのこの出汁と醤油の風味が口いっぱいに広がる。すかさずほかほかの白飯を頬張った。きのこのコリコリとした食感がふわふわのハンバーグとのコントラストを生み出す。
「うん、美味い」
「ナスの揚げたのも美味しい、噛んだらトロトロでタレがじゅわっと溢れてきて……ぼくこんなの初めて食べた」
「ああ、ナスは揚げると油をたくさん吸うからトロトロに仕上がるんですよ」
「へえ……そうなんだ。ナスがこんなに美味しいものだったなんて知らなかったよ」
揚げ浸しを食べた涼介は切れ長の目をキラキラさせている。相当お気に召したらしい。揚げ浸しはナスを揚げる作業が少し面倒だが、しっかり油を吸わせてしっかりタレに漬けてやると最高に良い出来になる。よほど気に入ったのかその後も白飯と交互にパクパクと口に運ぶ涼介の姿を見て、手間を惜しまなくて良かったと拓海は微笑んだ。
箸休めにきんぴらごぼうをつまむ。適度な歯応えの残るそれは少し冷めたおかげか味がしっかり馴染んでおり、甘辛い味つけに米を運ぶ箸が止まらない。
味噌汁の椀をちゃぶ台に置いた涼介がほおっと息をついた。
一緒に食器の片付けをして一緒に風呂に入って。涼介の艶のある黒髪は、藤原家のシャンプーで洗ってやると少しきしきしとした手触りになってしまった。さすが薬局で購入した洗浄力と安さに定評のあるシャンプーである。申し訳程度にリンスをつけてみたが、あまり期待は出来なさそうだ。
「流した感じがいつもと違うね」
「なんかすいません……」
すっかりサラサラ感を失ってしまった涼介の髪に申し訳なく思う拓海と対照的に、涼介は人に洗ってもらうことが嬉しいようで、気にするそぶりもなく機嫌が良い。
出会った当初はおとなしい物静かな印象の涼介だったが、藤原家で過ごすうちに徐々に年相応の子供らしさが滲み出てきた。風呂上がりの血色の良くなった丸い頬も相まってなんとなくホッとする。
拓海はほとんど使った形跡も記憶もないドライヤーの存在を思い出し、棚から引っ張り出した。濡れた髪をそのままにして風邪をひかせては大変だ。
「涼介さん、髪乾かすからここに立って」
「うん」
久しぶりに握った持ち手のスイッチを押すと、温風が子供の黒い髪を撫でる。安価ゆえ風力はいまひとつだが、拓海は手櫛で整えてやりながら乾かしていく。そういえば自分が小さい頃も文太にこうして乾かしてもらっていたような気がする。
(……だいたい乾いたかな)
やはり髪のパサつきはどうにもならなかったが水分はある程度飛ばせたようだ。「おしまいですよ」と声をかけると涼介は「ぼくも拓海さんの髪乾かしたい」とドライヤーに手を伸ばした。
「え、俺はいいよ。ほっとけば乾くし」
「やりたい。だめ?」
「うっ……」
そんな顔で見ないで欲しい。嫌とは言えないではないか。結局拓海は涼介にドライヤーを預けることになった。
(楽しそうだなぁ……)
ちゃぶ台の前で胡座を組んだ拓海は頭皮に温い風を感じながら背後の子供に意識を向ける。涼介はパジャマ代わりに着せた拓海のTシャツから覗く細い腕で危なげなくドライヤーを持ち、拓海が熱さを感じないように気をつけながら風を当てている。鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気だ。元々啓介という弟がいるのだから幼い頃から他人の世話を焼くのは嫌いではないのかもしれない。
「こんなふうに弟の……啓介の髪を乾かしてあげることがあるんだ」
啓介はお風呂から上がるとそのまま着替えもしないで遊ぼうとするからその前に捕まえて、と涼介は笑う。道理で慣れているわけだ。お兄ちゃんは大変である。
「偉いですねぇ涼介さん」
「そうかな。当たり前のことをしてるだけだよ」
「兄が弟の面倒見なきゃならないって常識でも法律でもないじゃないですか。でも涼介さんは啓介さんが風邪ひかないように気をつけてあげてるんですよね。それってやっぱり大事だからやってあげてるんじゃないですか。俺は一人っ子だから兄弟がいる感覚は分からないけど……もし自分に兄がいたらって考えると、ちょっと羨ましいかも」
「拓海さん……」
柔らかな手で髪をかき混ぜられる感覚が思いのほか心地良くて、拓海がうつらうつらし始めたところで涼介がスイッチを切った。乾かし終わったらしい。
「はい、終わったよ」
「ありがとうございます」
髪を触ってみると普段より指通りが良い気がする
テレビ
涼介が小さな欠伸を漏らした。眠たそうに瞬きを繰り返している。時計を見ると良い子はもうとっくに夢の中にいる時間だ。
「涼介さん、もう寝ましょうか」
「うん」
自分もなんだか眠たくなってきた。Dの活動で疲れているのもあるが、今日はたった1日で色々なことが起こりすぎた。
自室に用意した来客用の布団は、帰宅後すぐに押し入れから出して布団乾燥機をかけたおかげでふかふかの状態に仕上がっている。
涼介がもそもそと布団の中に入った。
「電気、消しますよ」
「うん……」
「おやすみなさい」
「おやすみ、拓海さん」
闇に包まれた静寂に2人分の呼吸が響く。自分の部屋に自分以外の存在がいるのは少し不思議な気分だったが、瞼を閉じると気にならなくなった。身体を包む布団の温もりともう一人の気配を感じながら拓海は眠りの世界へ旅立った。
「たくみさん」
不意に耳元で囁く声で目が覚めた。
寝ぼけ眼を擦って声の主を探すと、真っ暗な中で涼介がベッド横に佇んでいる。
「ン……どうしたんですか……」
「あの、……一緒に寝ても良いかな」
彼は、ベッドの下の隙間が怖いから、と少し恥ずかしそうに教えてくれた。布団からだとちょうどベッド下の空間が目線と同じ位置になる。
拓海も幼い頃はベッドの下の隙間に何か恐ろしいモノが潜んでいるのではないかと想像してよく眠れなくなったものだ。
「ああ……良いですよ。ちょっと狭いかもしれないけど」
「お邪魔します」
スペースを空けてやると涼介がするりと潜り込んできてギシリ、とベッドがきしんだ。子供特有の高い体温を近くに感じる。
涼介の髪の毛が鎖骨のあたりに当たってちょっぴりくすぐったい。
「ぼくかえらない」
「涼介さん?」
「たくみさんのところの子になる」
「えっ」
涼介は「ぼく、たくみさんと離れたくない……」と声を絞り出す。その苦しそうな切実な響きに拓海は動けなくなる。
「だって明日家にかえったら、たくみさんともう会えない気がするんだ」
「…………」
その言葉に何も返すことが出来ない。おそらく太陽が昇る頃には幼い涼介は存在していないだろう。
「ぼく、生まれて初めてだったんだ。だれかと一緒に料理をするのも髪を乾かしてもらうのも。……啓介みたいにだれかに甘えるのも」
物心ついた時から涼介は「高橋クリニックの跡取り」で「高橋家の長男」で「啓介のお兄ちゃん」だった。勿論両親からたくさんの愛情を注がれて育てられてきたが、弟のように無邪気に自分の心のままに行動することは許されなかった。少年の幼な心をくすぐる遊びや玩具は「あなたには相応しくない」と遠ざけられ取り上げられ、正しく模範的な玩具で遊ぶように定められてきた。
本当は涼介だって木登りをしてみたいし、チャンバラごっこで周りの子供と戦いたいし、空腹の時は思いきりがっついて食べてみたいのだ。
100点のテストじゃなくても母親に褒められて撫でられたいし、父親の肩車で自分の身長よりずっとずっと高い景色を見てみたい。心の底から欲しいものは周囲の期待と高橋家の跡取り息子として完璧であれというプレッシャーではなく、自分の心のままに振る舞うことができる環境。
だが、それは認められないのだ。涼介が涼介であるためには。
それに不満や怒りを抱いたことはない。自身が成すべき事はきちんと理解している。
理解しているからこそ虚しいのだ。
繰り返し夢想しては啓介が泥んこになって遊ぶ姿を、クラスメイトが楽しそうに休日の予定を相談する様子を、ただ眺めることしかできない。
周りが求める「高橋涼介」には不必要なものばかりがキラキラ輝いていて、喉から手が出るほど欲しかった。
「本当はずっと友達を遊びに誘ってみたいと思ってるし……啓介みたいに甘えたい。でもぼくは高橋家の長男だから」
「……涼介さん、」
「母さんや父さんの言う通りにして習い事を頑張って良い成績でいれば皆が喜んでくれる。」
でも、明日拓海さんと別れたらそんなこと二度と出来なくなっちゃうんでしょ。