Mellow 不覚を取った。
目の前のサブスタンスは突然発光すると、白い煙を勢いよく吐き出した。その煙を吸い込んだ俺の目から溢れ落ちたのは、大粒の涙だった。
「戦闘妨害型のサブスタンスだね。」
ノヴァ博士はあっけらかんと言い放った。今日の戦闘でサブスタンスを手順通りに回収したは良かったが、どうやら俺たちが日々回収していたものとは毛色が違ったらしい。煙を吸ってから、涙が止まらない。涙以外は体の異変を感じないし、ただの生理的な反応かとも思ったが、オスカーがあまりに心配するものだからノヴァ博士に診察を頼んだ。
「ほら、スパイスが入った護身用スプレーとかあるだろ?似たものだよ。相手の行動を阻害したいなら、目を狙うだけでも効果は抜群ってわけ。しばらく涙が出続けるだろうけど、致死性はないから大丈夫だよ。」
でも一応、明日もメディカルチェックに来てねとノヴァ博士は呑気に微笑んだ。
結局、今日のアポイントメントは全てキャンセルすることになった。涙だけなら誤魔化せるかとも思ったが、涙が出続けるせいで上手く呼吸ができず、声が震えてひどい時は嗚咽が漏れてしまう。こんな調子では会議にもイベントにも参加できない。代わりに書類仕事をしようにも、涙のせいで紙が滲んだり、液晶がぼやけて見えるせいで上手くいかなかった。おまけに俺の涙は思った以上に周りを混乱させるらしい。サウスセクターの部屋に戻れば、俺の顔を見るなりアキラは絶句するし、ウィルは心配するし、オスカーに関しては生命の危機と言わんばかりに狼狽えるから大変居心地が悪かった。俺は仕事ができなくとも、三人には予定通り任務をこなして貰わなければ困る。自分はここにいない方が良いと判断して、オスカーに休みを取ると伝えて退室した。
昼休みが終わった屋上は、人気もなくガランとしていた。サウスの部屋を離れたはよかったが、結局エリオスタワー内で時間を潰すにも人目を避けられるのは屋上くらいだった。そして、人目を避けたいのは俺だけではなかったらしい。見慣れた癖毛の男がタバコをふかしながらベンチに座っている。俺は今の状況も忘れてキースに近づいた。サボるのも良い加減にしろと声にしようとして、こちらに気付いたキースの表情が固まるのが見えた。しまった、そう思った時にはもう遅い。
「ブラッドお前…どうした?」
キースはこちらをまっすぐ見つめて、静かに問いかけてくる。サウスの三人と比べると、随分落ち着いた反応だった。いつもは不甲斐ないくせに、こういうところだけ妙に年相応な同期の男が憎らしい。
「ッ何でも、ない…。」
声がつっかえて上手く説明できない。ノヴァ博士に聞いた通り、サブスタンスの影響だと言いたいのに。声を出そうとすればするほど、涙が込み上げてきて苦しい。
「あー、苦しいなら無理に喋らなくて良いって。」
キースは頭を掻きながら、ぶっきらぼうに呟いた。貴様がどうしたんだと聞いたのだろう。そんな文句一つ、今の俺には伝えることができなかった。
嗚呼、面倒なことになった。
ぬるい涙が頬を伝う。悲しくもないのに。キースの目に今の俺はどう映っているのだろうか。これ以上無様な姿を見せたくなくて、声を振り絞る。
「ッ貴様は、しごとに、戻れ…。」
「んなこと言ってる場合かよ。」
言ってる場合だろう。ただ俺が意味もなく涙を流している。これがヒーローの仕事より重要な状況に見えるのか、貴様には。いつもは俺の顔を見るなりめんどくさそうに逃げる男は、こんな時に限って離れてくれなかった。キースは何を思ったのか、不意に俺の頬に手を伸ばし、親指で溢れる水滴を拭ってみせた。その角張った指からは、ほのかにシガレットの香りがする。この男の指は、念力で万物を捻じ伏せる武器だ。同時に、その指が決して冷たくはないことを、俺は知っている。キースの指から自分の頬に伝わるあたたかさに、心の奥がじんわりと温まるのを感じた。泣くという行為は、思った以上に人の体力を削ぎ落とすらしい。俺には既に喋る気力も、この男の不器用な手を振り払う気力もなくて、このまま微睡んで身を任せてしまいそうになる。
その微睡を覚ましたのは、キースの電話の着信音だった。この時間帯なら、きっとパトロール当番の呼び出しだろう。
「おー、オレだ。…あぁ、わかった。」
電話越しから、ハツラツとした男性の声が聞こえる。ディノだ。ちらり、とキースがこちらを見たのがわかった。俺とは違って、キースとディノの間に隠し事などないのだろう。そして、今の俺の状態は紛れもないイレギュラーだ。キースはディノに俺のこの有様を伝えるのだろうか。伝えないで欲しい、それが本音だった。ディノにこんなみっともない姿を見せたくない。ディノはきっと心配するだろう。やっと戻ってきた、あの太陽みたいに明るい笑顔をこんな馬鹿げたことで曇らせるのは、嫌だ。
「フェイスはそこにいるか?…あぁ、アイツの夜当番と変わる。」
キースは数年前から、夜のパトロールシフトを一等嫌がった。夜は飲み歩きたいというふざけた理由で、今くらいの昼過ぎのパトロールを好むことを俺は知っていた。シフト変更なんてしなくていい、そう伝えたくて、思わずキースの制服の袖を掴む。キースの視線はどこか遠くを見つめていて、電話をしたままこちらを見ることもせず、袖を掴んだ俺の手をあやすように握って見せた。
甘やかされている。
直感でそう感じた。俺が何度も、幼い弟にしてあげたことだった。アカデミーのホリデー中、俺が実家に帰るとフェイスは大層喜んで俺から離れなかった。課題をしようにも横から構って構ってと、俺の袖を掴んで駄々をこねるのだ。その度に俺は困ったような、嬉しいような気持ちになって、フェイスの手を握ってもう少し待っててくれとあやしたものだ。今のキースの行動は、あの時の俺のそれだった。羞恥で頬にかっと熱が集まるのがわかる。よりにもよって、このだらしなくて手のかかる同期の男に甘やかされているというのか、俺は?いてもたってもいられなくてキースの手を振り払う。酔っ払ったキースの涙や痴態なんて何度も見てきた。それなのに、自分の涙ひとつ見られるのが酷く恥ずかしい。これ以上は耐えられなくて、うつむくと自分の目元を手で覆う。キースは電話を切ったようで、もう声は聞こえなかった。
どれだけ時間がたっただろうか。キースはもう、行っただろうか。真っ暗になった視界でぼんやりと考える。肌寒い風が髪を撫ぜる。これでいい。俺とキースの間に友情と呼べるものはあるかもしれないが、こんな湿っぽい感情はない筈だ。それなのに、どうしてあの指の温度が恋しい。今日の俺はサブスタンスのせいでどうかしている。人間は悲しいから涙を流すのなら、涙を流すと悲しくなるものなのか。溢れ出る涙は止まらなかった。泣き腫らした目が痒くて、乱れた呼吸で心臓が痛くて、濡れた手のひらが不快だ。さむくて、さびしかった。
「キース、」
声にもならない声で、縋るように名を呼んだ。返事など期待していなかったのに、返ってきたのは男の体温と、嗅ぎ慣れたタバコの匂いだった。抱きしめられているのだと理解するのに時間は要らなかった。キースは俺の右肩に顔を埋めて、何も言わない。男の体から、腕から伝わる心地よい体温に、俺も何も言えなくなってしまった。もう貴様の体温はいらないのだと、強がりでも言えないくらいには心が満たされるのを感じてしまったから。溢れ出るこの涙は、きっとサブスタンスのせいだけではないのだろう。
「…オレはここにいる。」
そのキースの一言が、何よりあたたかくて安心するなんて。