本の話。「へえ、マジなんだな」
聞きなれた、けれど不快な蔑みを含んだ声にジャミルは眉をひそめた。視線だけ向ければ、想像した通りの怠惰な某国の王子が書架にもたれかかってこちらを向いている。
「なんのことですか」
「そのあたりにはないぜ」
頭上の明かりがうまい具合に逆光のようになって相手の表情はあまり見えない。ぎらりと光る眸に不快感を覚えた。無視して移動したかったがあいにくいちばん奥の書架だったので無理だった。
「流石に二度目の三年生となると図書館の蔵書にもお詳しいですね」
いったん言葉を切って、あざ笑うように口角を吊り上げる。
「来年はよろしくお願いします」
けれど相手は逆に煽るように嘯く。
「ここより、ご主人様の書庫のほうがあるだろ」
ジャミルの言葉などまるで聞いていない。話題をそらしたいのに相手はまったくその気がないようだ。少々、面倒くさい。どうにか最小限の対応で切り抜けられないものか。
「呪いの類いは熱砂の国得意分野、だったよな」
投げかけられた言葉に思わず眉をひそめた。どこまで知っているのか、判断に迷う。現時点ではまだ何も分かっていないようにも思えるし慎重に進めないといけない。
「なんのことでしょう?」
迷ったあげくにわざとらしく返事をした。挑発にのってしまって口を滑らせるのがいちばん怖い。だったら感情を見せるより相手の思惑にはまるほうが得策だ。
「否定しないんだな」
意外そうな声音はジャミルの予想した通りだった。ここで無駄に喧嘩を買う必要はない。
どうせ憶測先行のカマかけだ。下手に隠そうとすれば相手の思い通りになる。人間、焦ったときの方が視野が狭くなって考え方も極端になるというのは嫌というほど見てきた。
「なんのことです?」
「呪いというか足かせ、か? 解いてやろうか、それ」
「いったい何の話をされているんです? 俺が誰かに呪われてる、とでも?」
「呪われてるだろ」
にたり、と笑う姿は少し気味が悪い。いったいどこまで掴んでいるんだろうか。あまり話を長引かせたくなかった。視線だけであたりを探る。書架の高さは身の丈以上。助走する幅もないし、乗り越えるのは難しい、か?
それなら、と相手を見据える。けだるげに書架へともたれかかるレオナは一見隙だらけに見えた。けれど手にはしっかりマジカルペンを持っているし、詠唱の滑らかさには定評がある。魔法技術だけなら間違いなくNRC内でもトップクラスだというのに、出席日数なんてしょうもない理由で留年しているのはただの怠惰なのか何なのか。ずっと学生でいたがってるという噂は本当なのかもしれない。
これでイデア先輩みたいに運動は、みたいなタイプなら強行突破できるようなものを、あいにく身体能力も高いと来た。隙間をすり抜けようとしてもあっという間に止められてしまうだろう。認めたくないが瞬発力は確実に相手の方が上だ。たぶん腕力や脚力も。
「ひどいですね、これでも人に恨みを買うような生き方はしていないつもりですよ。……まあ、一国の王子となれば本人の人格に関係なく呪いをもらい受けるのかもしれませんが。立派な跡継ぎであっても、……怠惰な王子であっても」
「それを言ったらお前んとこのが受けるんじゃねえか。適当に言ったつもりだったが、まじらしいな。いつもより饒舌じゃねえか」
ちっと舌打ちをする。ほんとうにやりづらい。相変わらず顔は影になっていてしっかりと目が合っているか確認できなくてやきもきした。さっさと終わらせてこの場から逃げ出したい。
どうやって抜け出すか算段を立て始めたしゅんかん、光が目に入って、それが相手の持っているマジカルペンだと理解したときには詠唱を始めていた。いちばん早くて簡易な魔法障壁を張る。とりあえずだいたいの魔法はこれで一時的にしのげる。衝撃に備えて重心を低くして相手を見据えたところで、マジカルペンを手の中でくるくると回しているレオナと目が合った。わざとらしく吊り上がった口の端から白い歯がはみ出していて、はめられた、と気づく。
「……成績があんまりだ、って聞いていたが、なかなかの速さだな。ラギーに教えてやってほしいぐらいだ。お前、普段さぼってんだろ」
「……さぼってません」
さぼってるのはそっちだろ、とは声にしない。それよりも結局相手の思うように動かされたことに腹が立つ。
「まあ、いいか。おもしれーもん見れたし」
レオナがだるそうにくわっと大きくあくびをして一冊の本を投げてきた。慌てて受け取ると、表紙には禁書、という大きなラベルが貼られている。
「これは」
「呪いの類だとそれがいちばん分かりやすいぞ」
「こんなのどこから」
「どこからって書架の中からに決まってるだろ。学年が上がると奥の立ち入り禁止のとこのも読めるようになんだよ」
はたして本当だろうか、と首を傾げたくなったが、持ってきたのはレオナだし自分が罪を犯したわけではないので素直に受け取ることにする。本はあとでサバナクローに届ければいいだろう。借りたのはレオナであるわけだし。
「……ありがとう、ございます」
ぱらぱらと本をめくってみる。禁書、と書かれているだけあって、ほかの書籍には書いていないようなアングラな内容から始まっているのにどきどきした。これなら本当に望む情報が載っているのかもしれない。
──呪いというか足かせ、か? 解いてやろうか、それ。
レオナの言葉を反芻する。あれはジャミルにかけられた言葉。呪われていない、と言った返事に嘘はない。けれど。
解けるなら解いてほしい。
へらへらと能天気に笑う幼馴染のことを思い出した。呪い、足かせ。あいつはどれくらい自覚してるんだろう。
生まれながらにかけられたそれらはジャミルにはどうしようもなかった。けれど、せめて後からかけられる呪いからは退けてやりたかった。
でも、解けるっていったな、あの人。
ぐっと本を持つ手に力が入った。半ばあきらめていた。
解いてやろうじゃん。
相手のことだから適当なことを言っただけかもしれない。でも、できるって言うならできる可能性は、ある。たぶん。
胸にさしたマジカルペンを覗き見る。あの日の残骸の、薄く濁ったブロッドがまだ消え切らずに浮かんでいたのは、見なかったことにした。