らびっつ・せれなーで「月にはうさぎがいるんだってさ」
空を見上げてカリムは言う。
まだ青の残る空は深い藍には程遠く、橙が混ざるにもまだ早い。
カリムの瞳が見つめる先には月などまだ浮かんですらいないのだ。
「なんだ突然?」
カリムはこちらを向いて楽しげにふふ、と笑い再び空を見上げる。
「監督生が言ってたんだ。監督生のいた国では月の模様がうさぎが餅をついてるように見えるんだって。だからうさぎがいるかもしれないって、そう考えるとさ、ワクワクしないか?」
「一ミリも思わないが?」
「え〜!でも実際に行ってみないと分からないじゃんか。月ってどうなってるんだろうな」
「カリム・アルアジームさんは月に行きたいの?」
突然背後から、中性的なまだ幼さの残した声に呼びかけられる。その声の主はふわりと飛んで俺たちの前に現れた。
少年は兄よりも短い青く燃ゆる髪を持ち、あどけない笑顔を浮かべる。
「その声は、オルトじゃないか!どうしたんだ?」
「カリム・アルアジームさん、ジャミル・バイパーさんこんにちは!僕ね、ちょうど兄さんのために月に行きたい人を探してたんだ!」
「兄さん……イデア先輩のためか?」
「そう、兄さんが僕のシステムを応用して月に行く装置を作ったんだけど、誰も実験に付き合ってくれる人が見つからなくて」
しょんもりとオルトは肩を落とす。
そりゃあイデア先輩が作ったとはいえ、高校生が作った宇宙船に乗りたいと思うだろうか?
そんなの誰も乗りたいだなんて思わないだろう。
「そっか、じゃあオレが協力するぞ!」
は?乗りたいとか言う物好きがここにいた。
いや、予想は出来たがお前考えなしすぎるだろ!!
「もしお前の身に何かあったらどうするんだ!?」
「だって友達のやりたいことは叶えてやりたいだろ?それにイデアが作ったんなら大丈夫だろ!な、オルト!」
「もちろんだよ!ありがとうカリム・アルアジームさん」
いつのまやら二人の間で勝手に話が纏まり始めている。
「おい、待て、勝手に話を進めるな!」
「うぅ、やっぱりダメか?」
カリムとオルトが二人で肩を落とし、懇願するような瞳でこちらを見つめてくる。
一人は少年だが、もう高校生なはずなのに幼い愛らしさの残る顔が懇願する姿はなぜだか罪悪感を感じさせる。
「はあ、分かったよ。ただし俺も乗っていく。それが条件だ」
退路を閉ざされた気分は仕方なく承諾させてしまった。
俺の答えに二人の瞳は輝いて、喜びを表すように手を取り合いその場でくるくると回り出す。
「ありがとうジャミル!ジャミルと行けるのすごく嬉しいぜ!」
カリムは花が綻ぶように笑みを溢し、それを見てなぜだか体温が上がり、ぐっと喉が鳴る。
まあ、仕方なくだからな。主人のやりたいことを叶えるのが従者の仕事だからな。
別にその笑顔が見たかったと言う訳ではない。
「とりあえず、だ、イデア先輩のところに行こう。話はそこからだ」
二人を促しイグニハイド寮に向かえば、タブレットでない生身のイデア先輩が現れ、なぜ陽キャカップルがここに!?ヒィィと叫びだす。別に俺たちはカップルではないが?
しかしち、違うぞ!と否定するカリムの頬が赤に染まっているのを見て悪くは無い気分になる。
オルトが話を変えるように兄さんのために連れてきたんだよ!ってキラキラとさせた笑顔を向ければイデア先輩の退路は塞がれた。
そして出発が一週間後に決まった。
***
一週間の間に調整をしていた宇宙服を着て、イグニハイド寮に聳え立つ大きな宇宙船に乗り込めば想像以上の速さで雲と青い空を越えて煌めく星々の世界へと連れ去られた。丸い窓から外を見れば濃紺の空とそれを飾るイルミネーションのように星々が煌めいた。
隣に座るカリムも興奮が抑えきれない様で窓を覗き込む背中から歓喜が溢れている。
流れていく景色と徐々に近づいていく月の大地。これは本当に宇宙に来ているのだと実感させられる。
宇宙船は着地をするために徐々にそのスピードを緩めていく。
宇宙船にがくん、と小さな衝撃が走った。ついにどうやら月に着地したらしい。
少し経てば外へ誘うように入り口がぱかりと開く。外には白い大地が広がっていた。
『さあ、ここが月だよ!』
オルトの声がヘルメット内に響く。
宇宙服に内蔵されている通信機から聞こえるようだ。
ゆっくりと月へ一歩踏み出せばさくりと音が鳴る。
これが月の土地の感触なのか。身体から脳に理解させるためにその場で数度足踏みをしていれば、宇宙船からカリムがピョンと大きくふわりと飛んでオレの立つ場所より先に着地する。
「すごい!ここが月なんだな!」
地へと足をつけたカリムがくるりと回って俺の方を向く。距離があるためにヘルメット内の表情は見えないが間違いなく俺に向けて満面の笑みを浮かべているだろう。
『じゃあとりあえず酸素は5時間くらい大丈夫なはずだから、あとは二人でごゆっくり』
『帰ってきたらどうだったか教えてね!』
と言い、二人の通信は切れる。
さて、まずはこの広大な月の大地のどこへ向かおうか。
右や左を見ても同じ景色に見えるが進んだ先に突然穴があり、あやうく落ちてしまうという危険性もある。慎重に歩まなければならない。
遠くでペタペタと足踏みしているカリムを呼び寄せて待っていればどこかから小さくおーいと声が聞こえた気がした。
「もしかしてお客人か?」
背後から声がする。振り返れば人はいない。
「おぉーい、こっち!下、下!」
足元を見れば膝下ほどの高さの生命体。
ぴょんぴょんと二足歩行でジャンプし、身体は真っ白なふわふわの毛に覆われ、小さな丸い尻尾に特徴的な縦に長い耳がぴくぴくと動く。
それは地球にも存在する動物。
「うさぎだ〜!!!ほんとに月にはいたんだな!!!」
近づいてきたカリムがしゃがみ込み、こんにちはと挨拶する。
うさぎも元気にこんにちは!と返す。……なぜかカリムに似ているな?
「お前たちは人間ってやつか?本で見たけどほんとに実在したんだな!オレの名前はかりむって言うんだ!よろしくな!」
「え、オレもカリムって言うんだ!同じ名前なんてびっくりだな。こっちはジャミルだぜ!」
「え、ジャミル?!本当か?」
「はぁ、なんで疑われるんだ?」
「だって、」
言葉を遮るように黒い影が目の前を横切る。
その影はかりむという名のうさぎと同じように長い耳を持ち、漆黒の艶やかな毛並みを纏い、俺たちの間に威嚇するように立ちはだかった。
「おい、かりむ。知らない奴に話しかけるんじゃない。こいつらが密猟者だったらどうするんだ」
「じゃみる!!二人ともオレたちと同じ名前なんだって!すごくないか?」
「何を言ってるんだ?とりあえず人間たちから離れろ」
黒いうさぎは守るように白いうさぎを抱きしめて振り返ればチャコールグレーがこちらを睨みつける。
まったくなんなんだと思っていれば、警戒を解く様にカリムが優しく話し始めた。
「驚かせちまってごめんなぁ。オレはカリム。そこにある宇宙船でここにやってきたばかりなんだ。で、こっちはジャミルだ!よろしくな」
ほら握手しようぜと言うようにカリムは手を差し出す。簡単に手を出して危害を加えられたらどうするんだと思い、手を引っ込めさせようとすれば黒い背を押し退けて白い小さな手がカリムの手にちょんと乗る。黒いうさぎもはあ?と声を上げる。
「大丈夫だって!よろしくなカリム。こいつはじゃみるだぜ!それにしてもお互い同じ名前なんてびっくりだな」
カリムとかりむはそのまま話に花を咲かせ始め、残された俺たちはなぜか睨み合っていた。
何故だかこいつ無性に腹が立つ。
きっと向こうもそう思っているのだろう。未だ続く戦いの中突然終わりはやってきた。
「じゃみるはオレの恋人なんだ!な、じゃみる」
そう言えばかりむは頬にキスをする。突然のことに黒く長い耳はピンと立ち上がる。
俺たちも同様に驚いていた。は?こいつら付き合っているのか?
カリムは恥ずかしげに両手で顔を隠している。
それに気づいたのか黒いうさぎはへえ、と言い白いうさぎの腰を支え、目の前でキスの雨を降らし始めた。
その光景に二人して呆然とする。カリムは未だ顔を隠してひゃあと言っている。
こいつ、まさか俺たちが付き合っていないと確信してマウントを取っているのか?
黒いうさぎは振り返り嘲笑う。
「ははっ、もしかしてお前たちまだキスもしてないのか?人間の俺は随分とヘタレなようだ。俺が代わりにキスも交尾の仕方も教えてやろうか?」
じゃみるはかりむの頬をちいさな手で包み込み二匹は再びキスを交わし、その後背後に回り、何やら背中のあたりを撫で始める。
ちょっ、じゃみ、だめだってとかりむは抗議する声を上げる。
徐々にかりむの尻が上がっていくのを見てまさかこれは、と理解すれば焦ったようにカリムが声を上げる。
「だ、大丈夫だ!その、オレたち二人みたいに付き合ってないし、ジャミルはオレのこと嫌いだからな」
「ふーん、そうなのか。じゃあ、人間のカリムに俺が直接教えてやろうか?ジャミルはカリムのことが嫌いなんだから良いよな?」
「ダメだって!浮気だじゃみる!!」
かりむがじゃみるの腕をキュッと抱きしめていやいやと言う。
「冗談だよ、まあいつか他の男に掻っ攫われたらここからお前の星に向かって嗤ってやるさ」
「は?他の男にそんなことさせる隙を与える訳が無いだろう?」
と答えればじゃみるはどうだかなと笑い、かりむは目を煌めかせ、隣にいるカリムは俯いて表情は見えないが、頬に当たる部分を両手で押さえている。
その反応で気づかされた。俺は今なんといったか?と。遠回しにこいつは俺のものだと言ったも同義じゃないか。
無言の空気が流れれば、突然プルルと通信機が鳴る。
『カリム・アルアジームさん、ジャミル・バイパーさん大変なんだ!今すぐ宇宙船に乗って帰ってきて!!』
「いったいどうしたんだ?オルト何があったんだ?」
カリムが落ち着かせるようにオルトに語りかける。
『それがね、宇宙船の帰る予定だった時間の航路に隕石が落ちるみたいなんだ。だから二人とも早く帰ってきて!このままじゃぶつかっちゃう!もう兄さんが準備しているだけだから乗り込めばすぐに帰れるよ!!』
通信機の先でオルトはそう叫ぶ。そうとなれば早く宇宙船に乗り込まなければ。
「カリム、さっさと乗り込もう」
「待ってくれ、別れの挨拶だけさせてくれ!ごめんな、もっと遊びたかったのにもう帰らなくちゃいけないんだ」
「そっか気をつけて帰ってくれよ!次は一緒に踊ろうぜ!オレダンスが好きなんだ!」
「お、オレもダンスが好きなんだ!約束だな!絶対また会いにくるぜ。じゃみるもまた会おうな」
「ああ。もしあいつに愛想尽きたらすぐにでも月に来い」
誰が愛想なんて尽かせるか!
カリム、そう声を掛けてしゃがんでいるカリムを立ち上がらせる。
久しぶりに立ち上がったためかよろける身体を抱き寄せて言う。
「カリム、目を閉じろ」
ヘルメットの頬に当たる部分に左手で触れて撫で、カリムが目を閉じるのを確認してからこつりとフェイスシールドを当てる。
数秒して閉じた瞼を開けばカリムは頬を真っ赤に染め上げていた。
続きは帰ってから、なと言ってうさぎたちに背を向ける。ああ、そうだ、
「せいぜいお前が愛想を尽かされないようにな」
それだけ吐いてカリムの手を引いて宇宙船へ帰る。カリムは最初は呆然としていたがまたな!と最後はぶんぶん手を振っていた。
***
宇宙船は特に危機も起きることなく無事に帰還することが出来た。
さっそくオルトにどうだった?と聞かれたカリムはほんとにうさぎが月にいたんだ!と先程のことは忘れたように興奮気味に話す。
次は月でも撮れるカメラを作った方がいいね、ね、兄さんと楽しげに話しかけるオルト。
もしかしたらまた月に訪れる日もそう遠くはないのかもしれない。
さあ寮に帰るか、とお世話になりましたとイデア先輩に言いイグニハイド寮を出てスカラビア寮に帰ってくる。
イグニハイド寮から帰ってくるまでなぜか珍しくカリムは無言だった。
寮長室にたどり着いてじゃあ俺は部屋に行くからと言えば、手首の袖をカリムがキュッと掴み、帰るのを阻害させる。
「なあ、ジャミル忘れちゃったのか?帰ってきたら続きしてくれるって言っただろ?」
カリムに羞恥なんて感情が少しでもあるなんて知らなかった。
潤ませた瞳はすぐに逸らされ、頬を真っ赤に染めて俺の行動を待つ。
頬に手を添えればゆっくりと長く白いまつ毛がガーネットを隠していった。
親指で柔らかな唇をなぞれば、んぅと艶のある声を上げたために思わず生唾を飲み込む。
ああ、こいつの全てを余すことなく俺のものにしたい。
ゆっくりと小さな唇に己の唇を合わせ一度感触を味わい、角度を変えて触れ残しの無いよう何度もキスをする。
触れるたびに震えるまつ毛が愛おしい。
過ぎたことを悔いるのは癪だが、あいつらに感化されるよりも前にしておけば良かったと思う。
鼻で呼吸すれば良いのにそれを出来ないカリムのために唇を離せば酸素を求め何度も息を吸う。
濡れた睫毛ととろけた瞳がこちらを真っ直ぐに見た。
「…んぅ、なはは。大好きなジャミルがオレにキスしてくれるなんて夢みたいだ」
「へぇ、これから先もっとすごいことをするのに夢みたいだと言うのか?」
え、と声を上げるカリムを抱き寄せて背を撫でれば月のうさぎたちがしようとしていたことを思い出したのだろう、ぷるりと体が震える。
そんなカリムを横に抱えベッドに転がせば、キュウっと背中を抱きしめる。
「へへ、オレ今すごく幸せだ。あいつらにも報告するために会いたいな。だから、また月に一緒に行ってくれるか?」
「は、次は逆に見せつけてやらないとな」
「ジャミル、張り合っちゃだめだぞ〜」
黙らせるために口を塞げばカリムはそれを簡単に受け入れる。
今頃あいつらも月で愛し合ってるのかもしれない。
夕闇は落ちて月は昇る。
月に見られぬようカーテンで覆い、うさぎのように白い髪と真っ赤な瞳にキスを落とす。
さあ、月がその姿を消すまで愛し合おうか。
唇を喰らうように深く口づけ、俺よりも小さな傷ひとつ無い手に指を絡ませた。