髪を染めるのをやめたのは、もう随分と昔のことだ。トレーナーとして一人のウマ娘を担当するということは予想以上に多忙な毎日で、気づけば根元から何センチも真っ黒なんてこともザラで、結局面倒になってやめてしまった。たぶん、まだブライアンがクラシックを走ってたくらいのころ。
幼いころ、長くて綺麗な髪の人に憧れていた。そういう大人の人は、何でも持っているような気がしていたからだ。今の大人の私はその美しさがどれほどの努力で維持されているか知っている。だからあの頃の自分をそっと諭してやりたい、人生何事も思ったようにはいかないのよ、と。
「おい、電気消すぞ」
その声にハッと現実に引き戻される。目の前のスマホの画面には見覚えのない何かの漫画のページ。ああ、寝ぼけて変なところ触ちゃったなと、目を擦りながら数回戻るのボタンをタップしてさっきの観光サイトのページを探し当てる。ブライアンがベッドの端っこに無造作に置かれた照明のリモコンに手を伸ばしたのが見えたから、私は慌ててスマホを離し、リモコンを両手で掴んでギュッと握った。
「やだよぉ、まだ寝ないよ」
「今ほとんど落ちてただろ」
「今日はブライアンと旅行に行く計画立てるんだから…」
「さっき忙しくて旅行に行く暇なんかないとぼやいてたのは誰だよ…」
そう、今の私がブライアンと旅行に出かけるなんていうことは不可能に等しい。私が今担当するのはあの頃のブライアンと同じ、クラシック三冠路線に挑む新進気鋭のウマ娘だ。だからこそ妄想くらい好きにさせてほしい。妄想ならどこにだって行ける。妄想は自由だ。
「あ」
くだらないとでも言わんばかりのため息がふってきて、ブライアンは私の手からするっとリモコンを奪った。ピッという可愛い機械音とともに部屋は暗くなり、常夜灯の灯りだけが私たちを包み込んだ。
ブライアンが隣に寝転がったので、私も反射的にブライアンの方に寝返りを打つ。私の少し傷んだ黒髪が、常夜灯の下でブライアンの黒鹿毛と混じり合う。どこからがブライアンでどこまでが私なのかわからなくなって、私たちは境目を失くしてしまう。
「ブライアンはどこに行きたい?」
「まだ言うか。明日も早いんだろ」
「そうだよ、朝練するの。ブライアンともしたよね、朝練」
「どうだか。おい、本当に知らないぞ。私は起こさんからな」
「いじわるー…」
部屋が暗くなるのと同時に瞼も一緒に落ちてくる。でもまだもう少しだけ、こうしていたいなぁ。気を抜いたら出てくるあくびをなんとか噛み殺して、私はどうにか次の話題を考える。
「私、遠くに行きたいなぁ。飛行機に乗って、時差ボケするくらい遠くに行って、それでブライアンと」
知らない街を歩いてみたいと続くはずだった言葉は、ブライアンからのキスに呑み込まれていった。キスというよりは、口封じというほうが正しいかもしれない。ベッドの上で私の言葉を遮るときのキスの意味は、うるさい早く寝ろ、だからだ。
仕方がないと、私は大人しく瞼を下ろした。暗がりで伸ばした手がブライアンのどこかに触れて、そのまま手のひらを滑らせたらブライアンが私の手をぎゅっと握ってくれた。
そういえば、昔好きだった絵本のお姫様たちはみんな王子様からのキスで目覚めるのがセオリーだったけれど、今の私とはまるであべこべだ。キスで眠るお姫様なんて聞いたことないし、私にキスをくれるのは王子様じゃなくてウマ娘の女の子なのだから。やっぱり人生というのは思ったとおりにはいかないものらしい。
そんなことを考えながら、今夜の私たちは眠るのです。おやすみと心の中で呟いたら、夢の淵に落ちる瞬間、おやすみという優しい声が聞こえたような気がした。